11月8日、菊花賞当日。
京都レース場の地下バ道にて、セイウンスカイが私を待ち構えていた。
「やあキング」
「……スカイさん」
彼女はもたれていた壁から背を離してこちらを向いた。
「スぺちゃんは?」
「パドックを出たところでチームシリウスの皆さんに迎えられていたわ。……先週
「……そっか」
彼女は私と歩調を合わせて歩き始めた。
「今日で終わるんだね。私たちのクラシック」
「そうね」
「早いね~。あっという間だ」
4月の皐月賞から始まったクラシック三冠を争う戦いは今日ここで終結する。
色んなことがあった。でも気づけば一瞬で過ぎ去り、今に至っていた。
「スカイさん、最後の一冠は私がもらうわ。最も強いウマ娘はキングヘイローなんだから!」
「おお。いつものキングだ。……
彼女の纏う雰囲気が変わる。しかし、捉えどころのない雲のようなふわふわとした緩い空気は変わらず漂っていた。
「ねえ、見てキング」
「?」
セイウンスカイは前方を見据えてそう言った。私たちの前方にはレース場へと通じる出口が見えていた。
「ほんと、今日は良い天気だね。気持ちいいぐらいの青空だよ」
差し込む光に交じり、彼女の言うような青色も確かに見えていた。
「今日は、良い日になる気がするんだ」
それは宣戦布告か、勝利宣言か。
2人で歩みを進め地下バ道の出口へとたどり着くと、京都の澄み渡る青空が私たちを迎えた。
◇
『西日に向かって飛び出す、17人がスタートを切った!』
──これ以上ないと言えるほどの青天の中の菊花賞だった。
『さあ何が行くのか……セイウンスカイ、セイウンスカイが行った! おお、5番手にキングヘイローです。ちょっと掛かり気味』
──5番手あたりにつけた私は、必死に自分を落ちつけながら走っていた。
『さあ、このように縦長になってこれから第1コーナーへと向かいますが、セイウンスカイが先手を取った。京都大賞典を再現することができるかどうか』
──後続を離した先頭で靡いている芦毛と白い勝負服をずっと視界に入れながら走っていた。あっという間に向こう正面の直線が過ぎ、第3コーナーに入っていた。
『早くも第3コーナーの下り! スペシャルウィークは外を通って上がって来るが、この手ごたえはどうなんだ!?』
──後ろからやって来るスペシャルウィークの気配を感じながらも、最後の直線に向かって前へと詰めていく。芦毛の彼女を捕まえるために。
『最後の直線! セイウンスカイ逃げ切るのか!? ハククラマ以来逃げ切り成るのか!?』
──でも、先頭に立つ彼女の背中はあまりにも遠くて。
『セイウンスカイ先頭だ! 逃げた逃げた逃げた! セイウンスカイが逃げた! エモシオンが2番手! 外を通って、外を通ってようやくスペシャルウィークが上がってきた! 内からキングヘイロー! しかしっ──』
──他のウマ娘と一緒に、外には私を追ってくるスペシャルウィーク。気づけば、私の前にいるウマ娘たちはあのデビュー前の模擬レースに出ていたウマ娘たちだった。
──スペシャルウィークの勢いは私よりも遥かに
『──セイウンスカイの逃げ切り! 逃げ切った逃げ切ったセイウンスカイ!』
──3バ身半差の圧勝。その背中に届かなかった。スペシャルウィークも、私も。
──その背中が遠い。なんて、なんて、遠いのだろう。
──走っても、手を伸ばしても、何をしても届きそうになくて。縮まるような気さえしなくて。
『セイウンスカイ逃げ切った! まさに今日の京都レース場の上空と同じ──』
──5着に終わり見上げた空は澄み切った青空だった。
──私のクラシックが終わった。
◇
「待って。トレーナーは……ここにいて」
菊花賞後の控室には5着に負けて戻ってきたキングヘイローと俺がいた。彼女はスマホを取り出して、恨めしいとまではいかないがじいっと眉根を寄せてそれを見ていた。
その様子を見た俺たちは控室を出ていこうとしたのだが、俺だけは彼女に引き留められた。カレンモエとペティは空気を読んだのかそのまま控室を出ていった。
「……いいのか?」
「ええ。あなたには聞いていてほしい」
地下バ道で彼女を迎えたが、泣くわけでもなく、悔しがるわけでもなく感情を露わにしなかった。だが、呆然としているわけでもなく、絶望しているようでもなく、感情が読めなかった。
「…………ふぅ……」
キングヘイローは大きく息をついたあと、スマホを操作し始めた。
控え室の壁にもたれて腕を組んだ俺はそんな彼女をただ見ていた。
スマホの上で滑らせていた彼女の指が止まると、コール音が鳴り始めた。薄々分かっていたことだが、彼女は誰かに電話をかけているらしい。
……このタイミングで電話を掛ける相手といえば彼女しかいないだろう。
『……もしもし、キング?』
「ごきげんよう、お母さま」
お母さま……グッバイヘイローの声がスマホから聞こえてきた。
『あなたから電話をかけてくるなんて、どういう風の吹き回しかしら?』
「別にいいでしょう? 私からかけてはいけないなんて決まりはないんだもの」
『……それはそうね。で、何の用かしら?』
「菊花賞、どうせお母さまは見ていたんでしょう?」
『ええ。見ていたわよ。セイウンスカイさん、素晴らしい走りだったわ。計算しつくされたペースコントロールと、それを叶えるだけの頭脳と競走能力……二冠ウマ娘に相応しいわね』
前に聞いたとき……デビュー前のトレーナー室で電話がかかってきたときと同じように、グッバイヘイローは勝った相手のことを褒めていた。
『あなたは5着だったかしら?』
「……ええ、そうよ」
『そう。このタイミングで、あなたから電話をかけてくるってことは、ようやく決心がついたのかしら?』
グッバイヘイローはそのスタンスを崩さない。
『もういいでしょう、キング。トゥインクルシリーズは諦めて帰ってきなさい。今度こそ分かったでしょう……才能の差、というものを』
「…………」
押し黙るキングヘイロー。無言の時間が控室に流れていた。
『……今日も
「お母さま。今日は話したいことがあるの」
グッバイヘイローの声を遮って、キングヘイローはそう言い切った。
『何かしら、話したいことって』
「……私のことよ。あなたの娘の、キングヘイローってウマ娘のこと」
『…………何を』
「私がこのトゥインクルシリーズを走ってきて、思ってること、感じてきたこと。それを話すわ」
『それを私が聞いて一体何になると言うの? どうせ学園は辞めないと──』
「いいから聞いて」
『……』
キングヘイローの有無を言わせない口調に押されてかグッバイヘイローは黙った。
話してみろ聞いてやる、ということなのだろう。
「私は自分が一流のウマ娘だって証明するためにトレセン学園に入ったわ。そして……反対して、帰って来いって言うお母さまに私を認めてもらうために」
『! …………』
「そのために私は三冠ウマ娘を目指した。私はそれができると思ってたわ。お母さまは才能がないと言っていたけれど、私はそうは思わなかったの。走りの才能はあると思ってたし、そのためにできることは何でもすると決意して、その通りに妥協せず全力で努力してきた。私の才能に努力が加われば、絶対に成し遂げられるって。……スペシャルウィークさんにも、スカイさんにも勝てるって信じていたわ」
『…………』
語られ始めた娘の言葉を、母親は黙って聞いている。
「ホープフルは負けたけど、ジュニア級は順調だったわ。おかけでクラシック路線では三強の一人なんて言われて。でも、弥生賞で差を付けられて負けて……実を言うと、
『……』
「そのことは分からないままだったけど、先輩の助けもあって一流のことは引きずらずに済んだの。そしてクラシック一冠目の皐月賞、私は負けた。三冠ウマ娘の夢は叶えられなくなった。……本当に悔しかったわ。でも同時に手ごたえもあった。スペシャルウィークさんの走りには驚かされたけど、彼女には勝ったし、弥生賞でつけられた差は縮んだように思えたから」
聞いていると自然と皐月賞の後、控室で泣いていた彼女が思い起こされた……あの時の俺の感情も一緒に。
「でもダービーはちぐはぐな走りで大敗。夏を越しての神戸新聞杯も普通に負けて、京都新聞杯は120%の力を出したのにスペシャルウィークさんに負けた。もう三強なんて呼ばれなくなって…………ああ……そうね、私はもう
キングヘイローが語る自身の歩みは今日へとたどり着いた。
俺はただ彼女の言葉を待った。
「5着に負けたわ。三冠ウマ娘を標榜して臨んで、一冠も取れずに私のクラシックは終わった。GⅠを取るどころか、あのジュニア級の東スポ杯以来、勝つことさえできなかった。ホープフルから数えて7連敗。……ねえ、お母さま」
『…………なにかしら』
「お母さまは
『……………………』
少しずつ詰まり始めたキングヘイローの問いかけに、グッバイヘイローは答えない。
「お母さま…………私は、ね……っ…………」
『……』
キングヘイローは堪えながら、言葉を絞り出してそれを口にした。
「──悔しいわ。どうしようなく、悔しいの……っ……」
彼女の頬には光るものが伝っていた。
『…………そう』
グッバイヘイローの声色は変わらない。涙声に濡れた娘の声を聞いてどんな感情が揺れ動いているのか、それとも揺れ動いていないのか、それは俺には分からない。
「分からないの。私が勝って一流のウマ娘だって証明したかった…………っ、でもっ、できなかった。満足に勝つことさえできない……こんなっ…………くっ…………こんな結果にたどり着いてしまった」
『…………』
「今日、
『………………っ』
……僅かだが、グッバイヘイローの息遣いが聞こえてきた気がする。
キングヘイローは涙を流しているものの、少し持ち直していた。
「走りでは劣ってるってことを……埋められない差があるってことを、何より私自身が実際のレースでそれを感じてた。……認めたく、なかったわ。ただの杞憂、気が弱くなってるだけだって思いたかった。だから勝てば……結果で示せば、菊花賞で勝てば全てひっくり返せると思っていた。でも、できなかった…………」
『…………』
「お母さまに言われた、一流のウマ娘の意味…………それも結局、分からないまま…………走って負けて、自分が目指す一流のウマ娘の正体も分からないままで…………私は──」
『……もういいのよ、キング』
キングヘイローはメンタルが強靭なわけじゃない。一方で何も感じないわけでもない。
負けて、普通に傷ついている。他のウマ娘と同じ……普通のウマ娘なんだ。
……口を挟んだグッバイヘイローの声色は少し柔らかくなったような気がした。
『十分やったでしょう。うちに帰ってきなさい。もうレースなんて走らなくていいの。あんな残酷な世界であなたは──』
「嫌よ。私は走るわ」
『──え』
キングヘイローは明瞭にきっぱりとそれを否定した。彼女の目はまだ潤んでいるものの、強い意志が光っていた。
逆に不意を突かれたような声はグッバイヘイロー。
「負けて悔しいって、一流が何か分からないって言ったけど、私は諦めるなんて一言も言ってないわ」
『……キング』
「自分の現状は分かっているの。私は……お母さまや──キタサンブラックのような、ウマ娘じゃないってこと」
キタサンブラックと口にしたときに、キングヘイローは俺に視線を寄こした。
「正直それは受け入れたくないし、認めたくないわよ。でも現時点で、スペシャルウィークさんやスカイさんに比べて私が劣ってるのは事実なの。だけれど、それが走ることをやめる理由にはならないでしょう? それに今は劣っているのだとしても、この先は分からない。…………もしかしたら、また次も負けるかもしれない、その次も負けるかもしれない。でもその次は? その次の次は? 第一、彼女たちに勝つことが全てか…………あ!」
彼女は何か思いついたように声を上げた。何かを発見したような、そんな様子だった。
「今、喋っていたら気づいたことがあったわ」
『…………』
「一流のウマ娘についてよ。彼女たちに勝つことが一流なのかしら? 負けたらもう一流だって証明できないのかしら? そもそも、勝つってどういうことなの? GⅠで勝つってこと? GⅡで……あの弥生賞や京都新聞杯で勝っていれば私はGⅠを勝てなくても一流だったのかしら?」
『話の脈絡がないわね。あなたは一体何を喋ってるの? ただ疑問を羅列しているだけじゃない』
「私だって分からないのだから仕方ないでしょう?」
『……減らない口』
「今お母さま相手に喋っていて、見えてきたことがあるわ。私の目的は彼女たちに勝つことじゃない。それはあくまで一流を証明するための手段として私が考えていたことだったのよ!」
彼女の頬を伝うものはもう何も無かった。その声には力強さが戻っていた。
「私が走る目的、理由、意味はキングヘイローが一流のウマ娘だって証明すること。そして何よりも大前提として、一流のウマ娘とは
『何を言うかと思えば……結局、何も分かってないってことじゃない』
「だから私も分からないって言ってるでしょう? ……そう、分からないのよ。だから……」
『……だから?』
「そうよ! それを探すために走るのよ! 私は走り続けることで一流のウマ娘が何かを探して、そして証明する。ただ見つかるのを待ってるんじゃない、走ることで見つけていくの。私が、私だけの一流のウマ娘を見つけていくのよ!」
『……はあ……』
グッバイヘイローがため息をつく理由も分かる。
確かにキングヘイローの言うことはまとまっていないし要領を得ていない。ただ彼女は頭の中で繋がりつつある自分の在り方について、頭の中に浮かんだことを未整理のまま口にしているだけだ。
しかし今この瞬間も彼女は必至に自分の在り方を探している。その糸口を探そうと必死になっている。
『もういいかしら? ……まったく、自分から電話をかけてきたと思ったら……』
「……お母さま」
『なに? 私も暇ではないの。あなたの支離滅裂な戯言に付き合うのは──』
「これで最後よ。私のレースを、私の走る姿を見てなさい。……それだけよ」
『……はあ。ほんとうに、バカな娘』
そうして電話は切れた。
「なによバカって! トレーナーといいお母さまといい! バカバカ言い過ぎなのよ!」
「俺もかよ。……おっと、ライブあるんだから準備しとけよ。バックダンサーでもライブはライブだ」
「えっ? あっ! もうこんな時間じゃない! トレーナー、ペティさんとモエさん呼んでくる権利をあげるわ。2人には私の準備を手伝う権利をあげるって言っておいて」
「呼んできてはやるが2人にはお前が言えバカ」
「バっ!? あなたねえ~! センターの3人を食ってやる一流のダンスを披露してあげるから、しっかりキングのこと見てなさい!」
「はいはい。言われなくてもちゃんと見ててやるよ」
俺は2人を呼ぶためにさっさと控室を出ていった。どうせライブ用の服に着替えるのに出ていかなけりゃならないし。
◇
──駆け抜けたクラシック。思い描いた未来予想図のようにはいかなかった。悔しい思い出ばかりが心に残っていて。
──一流のウマ娘が何なのかなんて分からなくて……つまるところ、私は分からないことばかりだ。
──でもこんなに悔しくて、悔しくて、悔しくて堪らないから、分からないことばかりだから、私はまた走り出せる。いや、走らなければならない。
──私はまだ走り出したばかりだ。