実は、好きなものはたいていひと目惚れだ。
例えばダイヤちゃん……サトノダイヤモンドと小さい頃に初めて会ったとき、幼いながらに“この娘とはずっと仲良くできる気がする”って、直感めいたものがあった。そしてその通りに、彼女はかけがえのない親友になった。
ひと目惚れとは違うけど、例えば先生……清島に声をかけられたとき、『面構えがいい』なんて言われてびっくりした。でも、この人なら自分を任せてもいいって、そう思えた。そして彼とともにあたしはGⅠを7勝した。
でもあの人……坂川健幸と会ったとき、実を言えば特に何も思わなかった。サトノダイヤモンドや清島に感じたような直感は訪れなかった。
彼と初めて会ったのはチームアルファーグに入ったときに行われたチーム全体の顔合わせだった。あたしは新しくチームに加わったジュニア級のウマ娘の一人として、彼はサブトレーナーの一人として自己紹介をした。他のサブトレーナーに比べて若い人だなって印象が残ったぐらいだった。
後から聞いた話になるけど、難関のトレーナー試験をあたしとそう変わらない歳で合格した人って聞いて、凄い人なんだな、頭がいい人なんだな、期待されてるんだなって思ったことを覚えていた。
彼があたしの担当になるまでは、そんな程度の印象しかなかった。
彼が担当になると紹介されたあの日も、彼がトレーナーだからと言うより、専属のトレーナーがつくことへの嬉しさの方が勝っていた。
こんな風に思っていたなんて、彼が知ったら幻滅するかな?
でももうそんなのどうだっていい。
幻滅される機会なんて、もう訪れないのだから。
彼とあたしはもう────
◇
「これって……」
清島から渡された紙袋を開けて中身を取り出すと、十数冊のノートが姿を現した。
あたしはこれが何か知っている。だって、あの人がその手に毎日持っていたものだから。
「トレーナーさんのノート……だよね」
その表紙には油性マジックで簡潔に“記録ノート”と書かれており、下の方には“坂川健幸”と持ち主の名前が記してあった。それぞれナンバーが振ってあった。
トレーニングの時以外でも、彼がこのノートに何かを書き込んでいる姿を度々見かけた。その中身を見せてもらったことがなかったので、何が書いてあるかまでは知らなかった。記録ノートというのだから、あたしのトレーニングについて書かれているのだろうけど……
「先生は……これを……」
これを清島が持っているということは坂川から渡されたということだろう。でもそれ自体は問題じゃないし不思議じゃない。
問題なのは、なぜ清島がこれを私に見せるのかということ。
「あたしが見るべきもの……」
そう清島は言っていた。この中に、あたしが見ておくべきものが記されているのだろうか? これからのトレーニングで必要なものが描かれているとか? 彼は必要ないなら処分すると言っていたから、一応あたしに話を通したとか?
……なんて、色々考えていても見ないことには答えは出ない。
“No.1”と記された一番上のノートを手に取った。これがたぶん、二十冊近くある中の最初の一冊。
「…………」
それを開こうとする手が止まった。理由は分からない。
でも気を取り直して開いた。
開いたそこには坂川が専属トレーナーだと告げられた日付が記されていた。
1ページ目からはあたしの身長や体重など基本的なプロフィールが載せてあり、そこから予定しているトレーニングメニューが書き記されていた。どうやらこのノートはあたしを担当してから作られたものらしい。
パラパラと捲っていくと、毎日のトレーニングの記録が記されていた。行われたトレーニングの効果と評価が記載されており、他には身体作りの計画や見通しも立てていたようだった。
清島から聞いたものと思われる助言もあちこちに書かれており、それで毎回のトレーニングに試行錯誤する様子が読み取れた。実際にあたしがやらなかったメニューも多く書かれていた。
「先生が見せたかったのって、これ……?」
確かにあたしが今までに経験のないメニューが載せられており、加えて根拠となった理論や論文のタイトルも一緒に記されていた。
これを見て勉強しろってことなのかな?
でも、それならそう言えばいいだけじゃないだろうか。
「あんな回りくどい言い方しなくても……」
そう口にしながら流し読みしていく。一冊目を読み終え、二冊目でも同じように読んでいく。ここまで来るとノートを書くフォーマットも安定してきているようでかなり読みやすくなってきた。一応気になったメニューやあたしの身体や筋肉についての記載があればスマホにメモだけしていた。
ほとんど手を止めることなくノートを読み進めていく。トレーニング以外にも、清島や他のサブトレからのアドバイスと思われるものもメモ書きのように残されていた。
「……!」
あるページで手が止まった。その日付はジュニア級の夏合宿が明けた9月の某日。
……覚えている。メイクデビューの予定を先延ばしにすると伝えられたあの日だ。
前のページにあったあたしの身体の変化や運動器専門の施設の人と相談した内容を踏まえて、そこにはメイクデビューを先延ばしにする理由が詳細に書かれていた。あたしもはっきりと覚えてはいないけど、その時に言われたこととここに書いてあることは同じだったと思う。
でも一番目についたのはその箇所ではなかった。それは文章の最後の方に記されていて──
“キタサンを勝たせてやりたい。でも、目の前の勝利だけにとらわれすぎてはいけない。勇気や笑顔をあげられるって夢を──”
「──っ!」
と、そこまで読んで思わず目を逸らしてしまった。
……あまりにも鮮やかな光を放っていたから。
「……トレーナーさん…………」
“──叶えさせてあげたい”
「…………」
これは坂川の心の中……なのだろうか。
改めてその文に目を落とすと、あたしを勝たせてやりたいってことと、あたしの夢を叶えさせたいってことが書いてあった。
以前の彼はこういうことを稀に口にしてくれることがあった。そう言っていたことが彼の本心だと分かって嬉しくなった。
「……でも……」
あたしのことを想ってくれていた彼がどうしてドーピングなんて行為に繋がっていくんだろう?
……もし今みたいに彼の気持ちがこのノートに書かれているのなら、あの日へと至る彼の心の移り変わりを知ることができるのだろうか。
「…………怖いよ……」
彼の気持ちがどんな風に変わっていくのか。あたしに対してどう思うようになっていったのか。
それを知るのが怖かった。ひどいことが書いてあるんじゃないかって考えてしまった。
「……でも……」
知りたい気持ちに嘘はつけなかった。
あたしは再びノートを捲り始めた。
身体作りの日々を経て、年が明けてのメイクデビューについての記載にたどり着いた。レース自体の評価や分析に加えて、またもそこには添えるように彼の気持ちのようなものがノートの端に書かれていた。
“無事勝たせることができてほっとした。キタサンの笑顔を見るとこっちも嬉しくなる。正月に神社でお願いしたのが……いや、これはキタサンの頑張りの結果だ”
それを読んで自然と2人で行った初詣を思い出した。あれからまだ1年ぐらいしか経っていないのに遠い昔のように思えた。
その後も読み進めるノートのあちらこちらで“キタサンを勝たせてやりたい”とか“勝ったキタサンの笑顔が見たい”とか書かれているのを見ると少し照れくさくなった。
ほどなくして府中での1勝クラス、そしてスプリングステークスへとノートは続いていった。
「あ……これ……」
スプリングステークスの後にあたしが悩んでいる様子を彼が気にしていることが書かれていた。
確かにあたしはあのレースの後、思ったような盛り上がりにならなくて少し落ち込んでいた。でも彼に励ましてもらって元気を貰って前向きになれた。あたしの走りが好きだって言ってもらえて嬉しかったし、少し恥ずかしくてこそばゆかった。
そして締めには──
“皐月賞、絶対に勝利を目指す。キタサンの夢を叶えてあげるために”
──と書かれていた。
「…………」
皐月賞でキタサンブラックがどうなったのか、他でもない自分自身が一番よく知っている。
皐月賞敗戦後のノートに書き記された“ダービーこそは必ず勝たせる”という言葉に胸が痛んだ。結局はそれも叶わず、皐月賞に続いてダービーでも彼の期待を裏切ってしまうことになるのだから。
皐月賞以降も読み進めていく。気づけばスマホへメモはしなくなっていた。
これまでよりも1ページ1ページの密度が上がっていた。トレーニングの評価や考察などの文章の量が以前よりも多い。それに付属して参考にされた論文のタイトルがあちこちに書かれていた。あたしが知らない単語や意味に加え、英語のものも多くあって、全ては理解できていない。
でも彼がダービーのために更に頑張ってくれていることは痛いほど伝わってきた。
ダービーの直前まで読み進めても、彼は“キタサンの夢を──”とか“勝って笑ってくれたら──”とか、瑞々しいまでの彼の思いが書かれていた。
「ダービー……」
捲ったページのノートの日付は5月の下旬。つまりもうすぐあのダービー……あたしがみんなの期待を裏切って14着に敗れてしまったあのレースを迎えることになる。
あの日のことは今でも覚えている。ゴールラインを越えた瞬間、何が起こったのか分からなかった。絶対にダービーウマ娘になると誓って頑張ってきたのに、勝つどころか二桁着順に敗れた現実を受け入れられなかった。負けてから控え室に戻るまでボーっとしていて、気づけば坂川や清島、サトノダイヤモンドやチームのみんなが部屋の中にいて、泣くあたしを慰めてくれた。
ダービー後のノートには敗北した理由についての考察が書かれてた。その日だけにとどまらず、何日かに渡って彼はずっと敗因について考えていたようだ。そして出された彼の結論は“距離適性”だった。2400mはあたしにとって長すぎる可能性が高いと。
「この頃から、トレーナーさんは……」
あたしが距離適性のことについて伝えられたのはセントライト記念のあとだ。だからその4ヶ月ほど前から彼はそう考えていたことになる。
初めてそれを彼に伝えられたとき、はっきり言ってショックだった。何の迷いもなく菊花賞に行くのだと思っていて、立ち直らせてくれた友達との約束もあったから。最後の一冠こそはと思ってトレーニングしていたから。
でも天皇賞秋を選ぶ理由を一生懸命説明してくれている彼を見て、あたしは頷いてしまった。難しいこともあったので彼の言うことを全て理解できたとは思わないけど、だからって間違っているとも思えなかったから。
そして何よりも、ずっとあたしを支え続けてくれていた彼の言うことだったから。
ダービー後のノートは更に書き込みの量が増えていた。余白を嫌うかのようにページにびっちりと文字が並んでいた。距離適性については2400mは長すぎるという結論が出た後も、色々な論文や学会での資料を基に何度も何度も再考しているようだった。それだけ彼にとっても難しい……悩ましい判断だったんだと思う。
それでも最終的に行きついたのは、あたしの適性は2000m前後という答えだった。
ノートも夏を越えて秋になっていた。数ヶ月前の時のことを思い出すと、秋は特にトレーニングがハードになっていて、あたしたちの間の空気も良い意味で張り詰めていた。
読み進めると、このハードなトレーニングについて彼の思うところもあったことが分かった。
“最近のトレーニングの負荷はかなりのもので、キタサンもしんどそうだった。先生にも少し注意された。過負荷や怪我にはつながらないように絶対に注意しなければならない”
“こんなトレーニングばかりやってたらキタサンに嫌われるだろか。関係性が悪くなることだけは避けたいが……キタサンが勝てるなら、俺は別に嫌われたって……”
……彼も悩んでいたようだ。
あたしはそんなことで嫌ったりはしないのに。彼があたしのために頑張ってくれてたこと、ちゃんと分かってるのに──
「……え?」
そう思って妙な引っかかりを覚えた。
「……?」
少し考えてもその違和感は消えなかった。そんな胸のもやもやを紛らわすようにページを再び捲り始めた。
セントライト記念を終え、ノートには天皇賞秋の勝利を目指す日々が書かれていた。相変わらず物凄い書き込みの量だった。……彼が天皇賞秋にどれだけ懸けていたのかがひしひしと伝わってくる。
読み進めるとあの日が……ドーピングされたあの日が段々と近づいてきていた。
いつの間にか手に取ったノートは最後のものになっていた。そしてドーピングされた前日にたどり着いた。トレーニングであたしがタイムを出せない不調な日々が続いて、その原因として色々なことを考えていたようだった。
“高負荷のトレーニングによる疲労の蓄積。身体の変化”
“不適切なトレーニングメニュー”
“メンタルの問題。モチベーションの低下”
“成長の停滞。早熟の可能性”
“
いくつか挙げられたその項目に、ひとつひとつ彼の見解や考察が書かれてた。こういうことは今まで直接言われたことが無かったので、未知のものを見るような怖さがありながらも読むことを止められなかった。
3番目の項目……メンタルについての記載で、あたしが悩んでいることについて彼が気づいていることが分かった。気づかれないようにしていたつもりだったけど、やっぱり彼にはバレていたようだった。
彼の見立て通り、あたしはずっと菊花賞に出たかった。だからトレーニングのタイムが良化した……おそらくそれはドーピングのおかげだったんだろうけど、あの日に彼に菊花賞に出たいと伝えた。タイムを出してあたしの力が成長してるってアピールできれば、彼も認めてくれるって思ったからだ。
……でも、そうはいかなかった。そう言ったあたしに彼は手を振り上げて────
「っ!」
頬に伸ばしそうだった手を引っ込めた。思い出しそうになったその時の記憶を振り払い、ノートの次の項目へ進んだ。
その下の“成長の停滞。早熟の可能性”と“
「停滞……早熟……限界……」
あまり良いイメージのない単語が並んでいた。これまでで一番読むのが怖い。
しかし、意を決してそれを読み始めた。
「……あ…………」
そこにはあたしのウマ娘としての能力や成長曲線の予想から、天皇賞秋が最後のGⅠを取る機会になるかもしれないという彼の予想が書かれていた。あたしだけのデータだけじゃなく、これまでの歴代の他のウマ娘のことも参考にしていたようだった。肯定する材料と否定する材料を比較して思考を繰り返していたようだ。
この文章量といつもより少し乱れた字から、彼の痛々しいまでの苦悩がこの文章から伝わってきた。
「……トレーナーさん、ここまで…………」
文章の最後にはこれまでのように彼の気持ちが書かれていた。
“行き詰っているのは確か。どうしたらいいのか、何が正解なのか分からない。既にピークを迎えていて、今は衰えに入ってしまっている可能性を考えると…………絶対に失敗できない。正解を見つけ出すしかない”
「……」
そして締めに、一番最後に書かれていたのは──
“キタサンの夢を叶えさせたい。何より、キタサンに喜んでほしい。心の底から笑ってほしい。自分がトゥインクルシリーズの主役なんだって、自分は凄いウマ娘なんだって、そう自分を認めさせてやりたい”
「──え?」
思わずページを捲った。その先は白紙で何も書かれていなかった。今の記述が彼のノートのゴールだった。
「────え?」
このノートを読むにあたっての、あたしのさっきまでの気持ちを思い出す。
──彼の気持ちがどんな風に変わっていくのか。あたしに対してどう思うようになっていったのか。
──それを知るのが怖かった。ひどいことが書いてあるんじゃないかって考えてしまった。
「…………あ……え……?」
はたしてそれは書いてあっただろうか?
──『俺はお前のことを大切になんて思ってなかったんだよ。だからお前をぶって、ドーピングさせたんだ』
──キタサンの夢を叶えさせたい。何より、キタサンに喜んでほしい。心の底から笑ってほしい。
今のあたしが思う彼に対しての人物像と、目の前のノートが示す彼の人物像が決定的に乖離していた。
「……トレーナーさん…………え……あれ…………?」
彼の思いは変わっていただろうか?
例によって続きとなる追想3はまたしばらく先になります