キングヘイローが久々に勝利の美酒を味わった東京新聞杯から約1ヶ月後、メインレースを待つ中山レース場のスタンドに俺たちはいた。
今日のメインは中山記念(GⅡ)。出走するのはもちろんキングヘイローだ。少し前に控え室でパドックに向かうキングヘイローを見送ってスタンドに戻って来ていた……地下バ道まで見送りに行ったダイアナヘイロー以外は。
ちらほらと本バ場入場するウマ娘が現れてきたところで、ダイアナヘイローもスタンドにいる俺たちに合流した。
「はあっ……間に合ったみたいね」
「キングはどうだった?」
「一流らしい余裕に満ちていたわ。レース前の凛々しい顔も素敵だったわよ」
手を合わせて目を瞑りその時のキングヘイローの姿を思い出しているようだった。
キングヘイローの控え室での様子は変に気負ってる感じもなく良い感じに集中できていた。地下バ道でもその調子だったのならそこまで心配はいらないだろう。
「ダイアナ、中山記念はどんなレースか知ってるか?」
「どんなって?」
「距離やコース特性とか、知っていることはあるか?」
「ないわよ。私ほとんどレース見ないもの」
彼女を担当してから分かったことだが、彼女はレース自体の知識に乏しい。クラシックや有名なGⅠ程度ならまだ知っているようだが、GⅡやGⅢレベルになるとまず知らない。
元々レースやトゥインクルシリーズには興味が無かったようで、どうもトレセン学園に入学したのもレースとは別に理由があるらしい。
「自分が出ないレースまで知っとけとは言わねえが、せっかく尊敬する先輩のキングヘイローが出るんだ。どんなレースか知っておいても罰は当たらねえだろ。てなわけで──」
俺は車椅子に座っているウマ娘を親指で指さした。
何を隠そう、去年の中山記念を勝ったウマ娘が今まさにここにいるのだ。
「去年勝ったサイレンススズカ先輩が中山記念について教えてくれるそうだ。……スズカ、ダイアナヘイローにレースの概要を軽く説明してやってくれ」
「へっ!? 私が……ですか?」
「ああ。ちゃんと予習してきたんだろ? コース形態とか基本的なことでいいから」
「…………はい、分かりました」
「スズカが教えてくれるなら是非聞きたいわ!」
ダイアナヘイローはキングヘイローだけでなくサイレンススズカにも懐いている。『キングとは種類が違うけど、スズカとも運命的な何かを感じる』かららしい。
「ちょ、ちょっと待ってね……えーっと……」
サイレンススズカは膝の上に乗せたトートバッグからノートを取り出した。
「『中山記念。格付けはGⅡ。中山レース場コーナー4つの1800mで行われる。上半期のGⅠに向けての始動戦として選ぶウマ娘が多い。中山1800mはスタートしてから第1コーナーまでの距離が200mと近い。枠は内枠が有利。逃げと先行勢が有利で──』」
「そんなもんでいいぞスズカ。ありがとうな。どうだダイアナ、分かったか?」
「ええ。ありがとうスズカ!」
ダイアナヘイローはサイレンススズカの手を握ってそう言った。
「あ、ありがとう。ダイアナさん……そう言ってもらえると嬉しいわ」
サイレンススズカは手を握られて多少驚くような仕草を見せたものの、まんざらでもない様子で柔らかい笑みを浮かべていた。
「スズカの言った通り前目で運ぶウマ娘が有利だ。もちろんキングもそれは頭に入ってる。それを踏まえてレースを見てみたらいい。キング以外のウマ娘もな。勝ったウマ娘、負けたウマ娘、それぞれがどこにいたのか。どこを通ったのか。ペースは……これは今はいいか」
厳密に言えばペースによって位置取りの有利不利は変わってくる。他にも開催何日目だとか、AコースやBコースかなどコース替わりも頭に入れておく必要がある。何より直前のレースを見てバ場傾向を掴むことが必須だ。
ちなみに昨日と今日の芝レースでは第4コーナー回った時点で中団のウマ娘が勝ったレースもいくつかあり、絶対的に前が有利というわけでもない。
だが一遍に色々なことを見ようとしても大抵は上手くいかない。ひとつひとつ積み重ねていくことが重要だ。
中山記念を選んだ理由は、端的に言ってしまえば東京新聞杯と異なる性質のレースだからだ。
右回り、コーナー4つの2ターン、短い直線などのコース形態の話に加え、逃げが有利気味なのは共通しているものの、差しが届きやすい東京新聞杯と差しが厳しい中山記念。
レース場が違えば距離も違う。求められる要素が異なってくるのだ。
キングヘイローにはワンターンが合うからといって得意条件以外を捨てているわけではない。合わない舞台でも好走できる可能性はあるし、将来彼女がまた中長距離を走りたいと言うかもしれない。
少しでも彼女の未来の選択肢を残しておくためにも、今はまだ条件を絞りすぎるべきではない。まだ彼女はシニア級になったばかりなのだ。
キングヘイローには将来のことも考えて……と相談し話し合った上で中山記念への出走を決めた。
「ダイアナも、それにスズカも、しっかりとレース見て勉強な」
「キングの応援が最優先だけど、覚えておくわ」
「……はいっ」
2人の返事を聞き届けてターフに目を向けると、すでにキングヘイローもバ場に姿を現してホームストレッチのゲート前で待機していた。
スタンド最前列にいる俺のチームの声援が聞こえたのか、彼女は一度こちらを見て余裕たっぷりに手を振った。
落ち着きもあるし、前走勝ったことで自信を取り戻しているように見えた。
スターターが旗を振ってからファンファーレの演奏が流れ観客の歓声が沸き起こった。
『いよいよ中山記念発走となります! 今年は重賞ウマ娘6人が揃った非常にハイレベルなレースが展開されそうです。抜けた1番人気は前走東京新聞杯を勝って復活の狼煙を上げたキングヘイロー、2番人気は今年の中山金杯を勝って今年3戦掲示板を外していない実力者サイレントハンターが続きます────』
枠入りが始まった。
キングヘイローはいつものように落ち着いてゲートに入って待機していた。
枠入りが進み、少しちゃかついていた11番ゲートのウマ娘が最後の枠入りとなった。
『プロモーションがゆっくりと入りました。さあ、係員が離れて…………スタートしましたっ!』
◇
ゲートが開いて5枠5番から私は飛び出していった。
私以外も全員大きな出遅れなく揃ったスタートで、普通にスタートを決められた私はポジションを取るために前へ進出していく。
中山レース場は最後の直線が短いので先団に位置取るのは最重要なことだ。だからスタートから隊列が決まる第1コーナーまでの200mではミスが許されない。
行き脚がついて第1コーナーまで100mの当たりでバ群から抜け出して先頭に立とうとしていた。しかしそれは束の間で──
(前へ行くのは……やっぱり、そうよね)
外から来た勢いの良いウマ娘が先頭を奪っていった。2番人気のサイレントハンターだ。事前のレース予想の通り、このウマ娘がやはり逃げるようだ。
サイレントハンターに続いてもう1人、プロモーションも私を追い抜いていく。プロモーションと私は2人で併走しながら第1コーナーに入っていき、彼女に2番手を譲った。理想を言えば単独2番手だったが、ここで主張して消耗したら元も子もない。
先行が有利な中山記念。坂川との作戦では5番手以内でレースを運ぶことを決めていた。ちなみに全体がハイペースに感じた時のみ6番手以下でも可という指示だった。
私は3番手でレースを進めることにした。ここまでは計画通りだ。
第1コーナーから第2コーナーへ差し掛かる。先頭は飛ばしていくサイレントハンター、5バ身離れて2番手プロモーション、その後3バ身ほど離れて私が単独3番手。私の1バ身後方にはバ群が密集していて、真後ろには3人が並んでいた。
向こう正面を駆けていく。私は1番人気だから誰かプレッシャーをかけてくるかと警戒していたが、どうやらそんな気配は後方から感じない。迫るウマ娘や3番手を奪おうとするウマ娘はいなかった。寄られたりしたら走りのバランスを崩す可能性のある私にとっては好都合だった。
だけれど後ろから見られている感覚はある。私がいつ動くか見られている……そんな感じだろう。
良い感じだった。走りも安定しているし、頭も冴えていて冷静に状況把握ができている。
そのポジションのまま向こう正面を走り、段々と第3コーナーが近づいてくる。先頭の遠くにいるサイレントハンターは10バ身以上差を広げて第3コーナーへ入っていった。
(──ここよっ!)
躊躇わずアクセルを踏んで速度を上げていく。最後の直線に向いたときにはサイレントハンターを射程圏内に入れる必要がある。
『飛ばしますサイレントハンター、その差がもう10バ身以上差がある! 淡々と2番手プロモーション。その後ろ単独3番手キングヘイローがプロモーションとの差を2バ身、1バ身と詰めてきたところで600mを切りましたっ!』
第4コーナーで垂れてきた2番手のプロモーションを捉えて外から抜かして2番手へと躍り出た。
私の後続にいるウマ娘たちも私のスパートに合わせてぴっちりと付いてきた。前には依然として大逃げするサイレントハンターがいて、私との差は10バ身を切った程度。
そのサイレントハンターがまずは最後の直線へと入っていった。
サイレントハンターを捉えて、尚且つ後ろから抜かせなければ勝ちだ。
『さあ直線に入りましたところで、リードはまだ7バ身ある先頭サイレントハンター! 逃げ込むことができるかどうか!? 徐々に差を詰めてきたのはキングヘイロー! 集団から抜け出しましたっ!』
逃げるサイレントハンターの背中が大きくなってきた。詳しいタイムまでは分からないが、このウマ娘は序盤から飛ばしていた。確実に勢いは削がれており、2番手だったプロモーションと同じように垂れてきていた。
一方、私は完全にトップスピードに乗っていた。
『徐々に差を詰めてきたキングヘイロー、5バ身4バ身3バ身! 200を切って坂を上がって来るっ! サイレントハンターいっぱいになったか!?』
スピードは完全に私が
勢いそのままに、サイレントハンターの外を並ぶ間もなく抜き去って先頭に立った。
『あっという間に変わったキングヘイロー!』
1バ身、2バ身と2番手のサイレントハンターとのリードを築いていく。追い込んでくるウマ娘の気配は遠く、私に迫ってこない。
『大外からダイワテキサスも突っ込んでくるが2番手争いまで!』
私だけが完全に抜け出して、ゴールラインを突き抜けた。
『2番手接戦! 先頭はキングヘイロー快勝ゴールインッ! 約2バ身差つけましたキングヘイロー、完勝で重賞2連勝です!』
「──ふっ、はあっ、はあ」
ゴール後、脚を緩めながら呼吸を整える。四肢も肺も心臓も、そして頭もレース用のものから切り替えていくと、勝った実感が沸々と湧いてきた。
ジョグしながら振る手に力を入れて、拳を小さく握った。
派手なガッツポーズはしない、大きな声を上げたりもしない。ここで……負けた11人がいるここで、そんなことをする必要はない。
「……よしっ」
ただそう小さく呟きながら、こみ上げる勝利を噛みしめた。
スタンドから起こる歓声とターフから見えるチームの皆に向かって軽く手を振って、ウィナーズサークルへ向かった。
◇
地下バ道で帰ってきたキングヘイローを手荒く迎えた。
東京新聞杯の時と同じように平静を保っているように見えるものの、チームのウマ娘たちに祝福されるキングヘイローはその喜びを隠し切れず、緩む口元や声色からは嬉しさがにじみ出ているように見えた。
今日のレースは文句の付け所が無いと言って彼女を褒めた。「そう、ありがとう」と口ではそっけなく返されたが、内心では「一流だものトォーゼンッでしょっ!」とおそらく思っていることだろう。じきに控え室に入ればその喜びを爆発させる姿を見られる。
地下バ道から関係者用の通路へと進み、キングヘイローの控え室を目指しているときだった。
前方から来た誰かが、俺たちを見て声を上げた。
「えっ!」
小柄な体、ふんわりと揺れる亜麻色の髪、その明るい声……俺の良く知っている人物だった。
なんでここにいるんだと考える間もなく、彼女は俺たちに駆け寄ってきた。
チームシリウスのトレーナー、天崎ひよりだった。
「坂川くんのチームのみんなだ! おーい坂川くん! あっ!? スズカちゃんもいる!」
「あ……トレーナーさん」
「久しぶりスズカちゃん!」
車椅子に乗ったサイレンススズカの元まで天崎がやってきた。
いきなりリーディングを争うトップトレーナーが現れて、キングヘイローはじめチームのウマ娘たちはどうしたらいいのか分からないといった様子だった。
「……お前らは先に控え室戻ってろ」
「分かったわ」
キングヘイローはライブの準備もあるので、サイレンススズカ以外の連中を先に行かせた。
「スズカちゃん、脚の様子はどう?」
「少しずつ体重をかけれるようになりました。順調に治ってるって、お医者さんが」
「そうなんだ! 良かった~」
くしゃっとした笑顔を見せる天崎に対し、サイレンススズカも安心したような笑みを見せた。彼女の天崎に対する信頼感が感じられた。
天崎がウマ娘の前では
「……ん? スズカちゃん、これなに?」
「あ、これですか?」
天崎はサイレンススズカの膝上に乗せてあったトートバックの中身に興味を示した。
サイレンススズカはその中からノートを取り出した。ダイアナヘイローに説明していた、中山記念のことについて調べていたことが記されていたあのノートだ。
「トレーナーさん……あ、坂川トレーナーさんにレースとか戦術とか、色々な勉強をするように言われていて……調べたこととか、教えてもらったことを書くノートです」
「……へえ~、そうなんだ! すごいねスズカちゃん! 坂川くんは頭いいから、いっぱい教えてもらってね」
俺のことを口にしたときに、一瞬だけ天崎と目が合った。その顔は笑顔だったが目は笑っていなかった。
「……なんでお前がここにいるんだ。今日の中山にシリウスのウマ娘は出てねえだろ」
「テレビ局主催のメディア向けの仕事でね。ここ中山で対談番組の収録があるの。坂川くんもそんな言い方ひどいな~。ほんとは私に会えて嬉しいくせに~。このこの」
天崎は肘で俺を小突いてきた。寒気がした。お前は俺に会えて嬉しいのか訊いてやりたかった。
「ふふ……2人とも本当に仲がいいんですね」
「そうだよ~。なんたって同期だし! スズカちゃんを坂川くんに任せたのも、坂川くんが信頼できる人だって私が一番よく知ってるからだし……あっ」
天崎は思い出したように腕時計に目をやった。
「うわ! もう時間になるから行くね! じゃあねスズカちゃん、坂川くん。またねっ」
「はい、また」
俺たちに手を振ってから小走りで急いでいく天崎の背中を、サイレンススズカは苦笑しながら手を振って見送った。
「……なあスズカ」
「何でしょう?」
「天崎はいいトレーナーだったか?」
「はいっ。トレーナーさんだからこそ、私は走る楽しさを知ることができて、“景色”を見ることができました。私の恩人で……大切な方です」
「……そうか」
サイレンススズカから嘘や偽りを感じない。心から天崎を敬愛し信頼しているのが伝わってきた。天崎は彼女にそう思われるだけのことをやってきたのだろう。
──ゴミはゴミ箱に捨てないとね──
……天崎が心の中でどう思っているか俺は知っているが、サイレンススズカの思いは紛れもない本物だ。そこに何かを挟み込む必要性は感じない。
「俺たちも行くぞスズカ。今日のレースの分析もしてもらうからな」
「はい。頑張ります」
彼女は車椅子を漕いで、俺の後を付き従った。
控え室へ戻る道すがら、サイレンススズカと病院で会って初めて話したときのことを思い返していた。
彼女が俺のチームへ移籍するきっかけとなった出来事のことだ。