あれは11月下旬、カレンモエの京阪杯が終わった翌日のことだった。
前日の京阪杯で強いレースをしながらも2着に敗れたカレンモエを連れて、精密検査のために彼女が何度も世話になっている郊外の病院に来ていた。スポーツ整形外科にはそれなりに強くて規模も大きく、信頼のおける大学付属の病院だった。
故障したわけではないが、彼女には昔から脚や体質の不安があったので、万が一に備えてレース前から精密検査を予約していたのだ。
「トレーナーさん。行ってくるね」
「おう。そこらで時間潰してるから終わったら電話かメッセージでもくれ」
医師の検査前の診察が終わり、様々な精密検査へ向かったカレンモエとそう言葉を交わして別れた。MRIの撮影をはじめ検査には時間がいくらかかかるので、その間病院内で時間を潰すのはいつものことだった。
病院内にあるチェーンの喫茶店にでも……と考えながら連絡通路を歩いていると、窓の外から日差しの降りそそぐ中庭が目に入ってきた。
中庭は広々とした通路に手入れの行き届いた植え込みや花壇があり、ベンチも多く設置されていた。中央には小さいながらも噴水もあった。
「今日は暖かいもんな……」
今日は比較的温暖な気候だったからか、いくつか人やウマ娘の姿があった。と言っても今が冬には変わりないので、盛況とはほど遠い状況だったが。
「……よし」
騒がしくもなさそうだし、スマホに入れた論文でも読みながらカレンモエを待つことに決めた俺は、自販機で暖かい缶コーヒーを買って中庭へと向かった。
初めて中庭に出ると、外から見るより広い印象を受けた。冬なので植え込みや花壇は盛りの時ほど色鮮やかではないが、それでも椿が赤い花弁を見せていたりと、花は点在して咲き中庭に彩りを添えていた。
缶コーヒーを片手に歩きまわり、空いているベンチを見つけたときだった。
「あそこでいいか…………は!?」
空いているそのベンチの横に、車椅子に座った明るい栗毛のロングヘアーのウマ娘がいた。上半身はダウンコートを着て、下半身には厚手のひざ掛けをかけていた。そのひざ掛けの下に覗く左脚には、細身な彼女には似合いそうもない白くて武骨なギブスが見えていた。
トゥインクルシリーズを見る者なら彼女が誰か分からない方がおかしい。現に、何人か遠巻きに彼女へ視線を送っていた。
11月初めの天皇賞秋で故障し、大怪我を負ったサイレンススズカだった。
彼女は何をするわけでもなく、ぼんやりと中庭の景色を見ているようだった。
「……なんで日本にいるんだ?」
確かあのレース後に緊急手術を終えて、状態が安定した彼女はチームシリウス御用達の海外の大病院へ転院したと報道されていた。それを覚えていたので見間違いかと思ったが、どこをどう見たってサイレンススズカだった。皐月賞後の地下バ道にてすれ違ったときに目にしたあのウマ娘だった。
「…………」
何を考えるわけでもなく、気がつけば俺は彼女の隣にある空いたベンチに足を向けていた。
「よう。調子はどうだ?」
「……? あなたは……えーっと…………」
俺が誰か思い出そうとしているのか、はたまた覚えておらず警戒しているのか、そんな彼女を尻目に俺はベンチに腰かけた。缶コーヒーのタブを開けて一口それを煽った。
「……あっ、確かスぺちゃんの…………キングヘイローさんのトレーナーさん……?」
「そうだ。覚えててくれたのか。坂川だ」
「……どうしてここに? 私に何か御用ですか?」
「別に用はない。チームのウマ娘をこの病院で診てもらっててな。検査が終わるまでフラフラしてたらお前を見つけたんだ」
「そうですか……」
直接こうしてサイレンススズカと話すのは初めてだった。落ち着いた口調でゆっくりと話す奴だとインタビューを見て知ってはいたが、やはり心なしか元気がないように思えた。もっとも、この状態で元気がある方がどうかしているとは思うが……
「脚の具合はどうなんだ?」
「その…………怪我の状態のことはシリウスや病院スタッフの方以外には話してはいけないって、トレーナーさんに言われているので……ごめんなさい」
その口止めの話を聞いて、流石の対応だなと感心してしまった。チームシリウスを預かる天崎ひよりの顔が頭に浮かんできてげんなりした。
「いや、訊いてすまねえな。……天崎とは会ってるのか?」
「……? はい。毎日、シリウスのトレーニングが終わったあとに会いに来てくれます。スぺちゃん……あっ、チームの娘も連れてきてくれて」
天崎の心境を俺は知らないが、どちらにしても毎日トレーニング後に会いに来るのは大変だろう。シリウスのチーフともなるとトレーニングを見るだけでなく、学園やURAから依頼される仕事やメディア関係の取材も多々あるはずである。
「毎日か。あいつもマメな奴だな」
「あいつ? ……トレーナーさんと、えっと、坂川トレーナーさんはお知り合いなんですか?」
「天崎とは同期なんだよ。トレーナーのな。だから新人の頃からあいつのことは知ってる。新人寮でも2年近く一緒だったしな」
そうなんですか、とサイレンスズカは目を丸くしていた。
「あいつはお前の怪我についてなんて言って…………答えられないんだったな。すまん」
「…………」
彼女は黙り込んで俯いてしまった。肩にかかった栗毛の髪がはらりと前へ滑り落ちていった。冬の陽気に当てられた栗毛は輝いて見えたが、対照的にその表情は暗かった。
出ている記事やニュースでも彼女の現役復帰は絶望的という見方が大半だった。この様子からすると、天崎の見立ても芳しくないのだろう。
元々何か意図があって話しかけたわけではないが、落ち込んだ彼女を見て興味本位で訊くことではなかったと内心で反省した。怪我で失意の中にあるウマ娘にそのことをほじくり返すなんて、そこらの記者と同じじゃないか。
俺は缶コーヒーを飲み干して腰を上げた。
「邪魔したな。天崎に会ったらよろしく言っといてくれ」
「…………あのっ」
「なんだ?」
呼び止められて俺は足を止めた。
「あ……いえ……その……」
「…………」
彼女の翡翠色をした瞳が逡巡していた。
俺はもう一度ベンチに腰掛けて彼女と目線の高さを合わせ、ただ彼女の言葉を待った。
「トレーナーさんの言うこと……正しいと思います。これまでだってトレーナーさんは私を導いてくれました。だから私はあの“景色”を見ることができたんです」
トレーナーさん……天崎のことを彼女は言ってるようだった。
「だからトレーナーさんの判断も……私のためだって分かっています…………分かっているのに…………」
彼女は膝の上に置いてある両手をぐっと握りしめた。
「それでも、私は走りたいんです…………また“景色”を見たいんです。おかしい、でしょうか……」
「……」
それで話は終わりのようだった。
俺は交わった視線を外し、再び立ち上がって彼女に背を向けた。
「言いたいことがあるなら、天崎にちゃんと言えよ。俺じゃなくてな。……じゃあな」
「…………」
今度こそ背中から声はかからなかった。
病院のエントランスで俺はカレンモエを待った。論文を読んでいたが、先程のサイレンススズカのことがどこか頭から離れなかった。
故障して引退に追い込まれるウマ娘なんて珍しいものでもない。毎週開催されるレースの中で、致命的な怪我をして競走中止する姿をこれまでに何度も見てきた。一方、俺の担当してきた中では軽度の故障こそあれど幸い重傷になるウマ娘はいなかった。
そんなことを考えながら論文を読んでいるうちにカレンモエから連絡が来たので、一緒に診察室まで検査結果を聞きに行った。結果は異常なしで、ひとまず安心した。
帰りの車を運転していても、ふと思い出すようにサイレンススズカのことを考える自分がいた。車椅子に座ってただ宙を眺めている彼女の姿が目に焼きついていた。
そんな俺を知ってか知らずか、気づけば助手席に座るカレンモエが俺のことをじーっと見ていた。
「……なんだ?」
「トレーナーさん、ぼーっとしてるように見えたから」
「そうか?」
「…………なに、考えてるの?」
「ああ、いや…………そうだ、昨日のレースだが……」
咄嗟のことで、俺は話題をそらしてしまった。
「昨日の京阪杯、クビ差の2着に負けたがいい走りだったぞ。中団より後ろのウマ娘が掲示板を占める中、逃げ先行勢でお前だけが残ったんだ。慰めにしかならないかもしれねえが、勝ちに等しいレースだった」
「…………ありがとう。だけど、勝ちたかった……」
初めての重賞でクビ差の2着。非常に強いレース内容だったが、勝利という結果だけが付いてこなかった。残り200mを切ったあたりで先頭に抜け出た時は勝てると確信させるほどだったが、最後の最後に1着のフィアーノロマーノに交わされてしまった。
カレンモエのスタイルである先行は、得てして他のウマ娘の目標にされやすい。スタートが抜群に上手いのでスプリントでも好位の位置を安定して取れるうえ、1番人気を背負っていた彼女はおそらく他のウマ娘の恰好の標的にされていただろう。
ほぼ勝っているようなレースだったのも手伝って、悔しいと思う気持ちを俺も一層感じていた。
「……でもね」
「ん?」
「また次があるから。トレーナーさんが一緒にいてくれるなら……モエはまた頑張るよ」
「…………そうか」
彼女は今年高等部3年だが、卒業せず来年もトゥインクルシリーズを走り続けると正式に決めていた。面談をして親の同意も得ている。
俺の担当ウマ娘は皆高等部3年で卒業を選んでいたので、そうなるとこれまで担当してきたウマ娘の中でカレンモエとは一番長い付き合いになる。
よくメシを食いに(ついでに店に寄ったりもしているが)外出しているのもあって、気づけばプライベートでも共に長い時間を過ごしている。過去を振り返ってもカレンモエ以外にそんな付き合いのウマ娘はいない。キタサンとは時々出かけたりしていたが、キングヘイローやペティとはプライベートでの関りはあまりない。
最初は休日に遅くまでトレーナー室に残っていたから、ついでだと思って何となくメシに誘っていたのだが、今は2人で一緒に行くのが当たり前になっていた。1人でメシを食いに行っているときは何も気にならなかったが、2人で行くことを覚えてしまうと、やはり1人はどこか淋しいし話し相手が欲しいと思ってしまう自分がいた。
信号が赤になり、手持ち無沙汰に見回した車内には、彼女が選んだ芳香剤が置かれていたり、彼女が持ち込んだクッションが助手席にあったり、スマホを充電するケーブルも俺と彼女の2人分が常時繋がれていた。……今更ながら、大分浸食されていた。
カレンモエとはそんな仲だからだろうか。それは思わず口をついて出た。
「……なあモエ」
「なに?」
「もしお前が故障とかして…………俺がお前に走るのは辞めて引退しろって言ったら、お前はどうする?」
「…………」
信号待ちが解かれて、アクセルを踏みながらそんなことを訊いた。彼女にチラッと横目に視線をやると、相変わらずフラットな表情の中にある澄んだ青色の瞳と目が合った。彼女はこちらに身を乗り出していた。
「……なにかあったの? もしかしてさっきの検査、本当は異常が──」
「違うんだ。今日の検査は本当に何もない。…………すまんな変なこと訊いて。忘れてくれ」
「…………」
訝しまれるような雰囲気が感じ取れたが、彼女は乗り出していた身を引き、背もたれに背を預けてから口を開いた。
「分からない。その時じゃないと分からないよ」
「……そうだよな」
「でも、トレーナーさんがもし引退しろって言うなら、その時は本気でモエのこと心配してくれてる。そうでしょ?」
そう言われて、俺も“もし”の話を考える。
……その通りだった。故障が原因で走るのを辞めろと俺が言うなら、おそらく彼女に深刻なダメージが残ることを考慮してのことだろう。彼女の言う通り心配して憂いている自分が容易に想像できた。
「モエが走ってる理由はひとつじゃない。モエ自身のこともあるし、トレーナーさんとのこともあるんだよ。それにモエの気持ちだって、怪我をした直後と時間が経った後や、トレーナーさんに辞めろって言われる前と後で変わると思う」
「……なるほどな」
「うん。だから分からないんだよ。嫌って言うかもしれないし、トレーナーさんの言う通りにするかもしれない。モエが満足するまで走れたか、そうじゃないかによっても答えは違うと思う」
同じ人物であっても立場や状況によって感情や考え方が変わるということ。
改めて思えば、それは当然のことかもしれない。
「でもね、トレーナーさん」
「……なんだ?」
カレンモエはまた身を乗り出して──
「トレーナーさんと一緒にいたいって、一緒にいて嬉しいってモエの気持ちは、何があっても変わらないよ。……ね?」
──俺の耳元で囁いた。
耳に彼女の吐息がかかってくすぐったかった。
「…………そうかい」
そうとしか俺は言えなかった。
「もし大きな怪我しても、モエがまだ走りたい、頑張りたいって言ったらトレーナーさんはどうするの? 強制的に引退させる?」
「それは……」
答えはすぐに出た。
「強制的には絶対にさせない。お前が望むならどこまでも付き合ってやるよ。……もし本当に怪我が深刻なら、どうするかはお互いが納得いくまで話し合う。まあ、走りたいって言っても、10年20年経ってもレース続けたいとかは流石に困るが……」
「ふふっ。ありがとう」
「……なんで礼を言うんだよ」
「で、トレーナーさん。何があったか教えて」
「……は?」
「何かあったんでしょ。悩んでるの、モエ分かるよ」
「……参ったな…………誰にも言うなよ──」
俺はカレンモエの待ち時間にサイレンススズカと会ったことを話した。怪我をして車椅子に乗っていた彼女が頭から離れなかったと。それだけを話した。
「トレーナーさん、もしかして
「…………否定は出来ん」
「……そっか。なんか、トレーナーさんらしいね」
「俺らしい?」
「うん。お節介さんじゃなかったら、モエとは出会ってなかったって思うし。そんなトレーナーさんだからモエは…………ふふっ」
彼女はそれ以上言葉を紡がず、悪戯っぽく笑っていた。
◇
後日、ある女に向けて俺はメッセージを送った。
『酒でも飲みに行かねえか。今回は俺の行きつけの店でどうだ。場所と時間は──』