「ちょっと暗くない? 足元見えないんだけど。それになんか変な匂いするし……」
「近くで吐いた奴でもいるんだろ。ゲロ踏まないように気をつけろよ」
「げっ……!? はあ、もう最悪。ヒール汚れたら弁償してよ」
「誰がするか。自分で洗ってまた履け」
「……店選び、坂川くんに任せたのが間違いだったよ……」
メールを送ってから数日後、お互い都合のついた今日の深夜に俺と天崎は2人で夜のドヤ街を歩いていた。今は話をするために飲み屋へ2人して向かっている途中である。
明るく煌びやかな繁華街とは違い、街灯も最低限で道幅も狭く、一見して民家なのか店なのか判別の付かない古びた街並みが並んでいた。天崎が訴えた通り、あたりは
通りから横道に逸れて、人間2人がギリギリ並んで歩けるぐらいの道を進んでいくと目的の店にたどり着いた。年季の入った木造の日本家屋に“居酒屋”、“営業中”と書かれた赤ちょうちんが二つが吊るされ、小さな暖簾が玄関にかかっていた。俺の行きつけの飲み屋だ。
ここを選んだのはドヤ街なら顔見知りや記者もあまりうろついてないだろうとか、単に天崎をドヤ街に連れてきて嫌な顔をさせたかったとか、そんな理由があった。
以前飲みに行ったときの彼女みたいに高いアクセサリーをつけていてはドヤ街では絶対に浮いて目立つので、ピアスや指輪は外して質素な普通の服装で来させていた。
「着いたぞ」
「……まあ予想はついてたけどさ。こんなみすぼらしい店、入ろうって気によくなるね」
ぶつくさ言っている天崎を放っておいて先に暖簾をくぐった。狭い店内のL字カウンターには既に何人か客がいて、壁には手書きで書かれたメニュー表の紙が貼ってある。俺が通い始めた何年も前から全く変わらない光景だった。
店内に足を踏み入れると、カウンターの奥で調理をしている顔なじみの初老の店主と目が合った。
「どうも。奥、大丈夫です?」
「おう。空けてある」
そう返事をされたので、勝手知ったる俺は店の奥の方へ足を進めた。ちなみに予約はしてあった。
この店には奥まった所にテーブル席がひとつだけある。なんとか4人座れるぐらいの小さなものだが、2人なら十分な大きさだった。
2人して脚がガタつく木製の椅子に腰を下ろした。
「こんなとこのカクテルは何使ってるか分かんないし……生があるなら生でいいや」
「俺はホッピーでいいか……」
一人で切り盛りをしている店主を手を上げて呼び、食べ物も併せて適当に注文した。
俺が注文した焼き鳥盛り合わせ10本の値段が300円を切っていることに天崎は面食らったようで、本当に鳥を使っているのか不安そうに訊いてきた。味は鳥だと言っておいた。
「でさ。今日はなに? 何か用があるんでしょ?」
「別に。強いて言うなら、サイレンススズカのことだな」
「……へえ」
運ばれてきたホッピーをグラスに注ぎ焼酎と混ぜると、グラスの中の氷が慎ましく音を奏でた。
天崎は乾杯を要求することなく、生のジョッキに軽く口をつけた。
俺も彼女に遅れて酒を飲んだ。
「……ここ、大丈夫? 誰か聴いてるのは──」
「この感じなら大丈夫だと思うが……」
店内を見渡しやすくカウンターとは少し距離があり、隅にあるテレビが爆音で番組を流しているので、盗聴器でもないと盗み聞きは難しいだろう。客も数人しかいないし、テーブルに近いカウンターにも人はいない。
酒に遅れて注文した品を店主が持ってきた。
「心配なら、近くのカウンターに誰か座ったら場所を変えるのはどうだ?」
「ん~……すぐ店変えるのも面倒だし、それでいいよ。で、スズカちゃんがどうしたの? 病院で会ったんでしょ? スズカちゃんから聞いたよ」
「ああ。この前あいつと会った。日本に戻って来てたんだな」
「正式にリリースはしていないけどね。あの病院で見た人がチラホラSNSで報告してるから、嗅ぎつけたメディアが取材に来たら発表しようかなって」
「なんで海外から戻って来たんだ?」
「怪我が治る見込みが無いって言われたからね。治らないのに金のかかる海外の病院に置いとく理由ある?」
天崎は盛り合わせの焼き鳥を串から外しながらサイレンススズカの怪我の詳細について説明してくれた。
天崎のウマ娘に対するスタンスについて今更言及する気はないので話を進めた。
「怪我の状態は?」
「日常生活には戻れるけど、元の走りに戻る可能性は0%。奇跡が起こってレースに復帰できるかどうか。復帰できたとしても未勝利戦でさえ勝つのは100%無理だろうってさ。良い医者何人も呼んで診てもらったけど、みんな一緒の意見だった」
彼女が良い医者と言うのだ、世界的に高名な医師たちに違いない。その見立ては正しいのだと思う。
「あいつをどうするつもりなんだ?」
「引退させる予定だったよ。勝てない……稼げないウマ娘をチームで飼う必要ないでしょ?」
ゴミはゴミ箱に捨てないとね──と彼女は言いながら、焼き鳥を外し終わった串をテーブル上の串入れに放った。
「ブライアンちゃんはまだいいけど、奇跡的に回復して現役続けさせたライスちゃんはDTLでもさっぱりで賞金全く稼げてない。そのくせ身体のケアで莫大な金を食い潰して赤字を生むだけ……元の競走能力に戻るかもって私の甘い算段が裏目に出た。チームの資金繰り考えたら金食い虫はいらないよね。ライスちゃんは年末のWDT終わったら引退させるから、スズカちゃんと一緒に引退式する方向で調整してたんだけど…………」
「……けど、なんだ」
「スズカちゃんがやっぱり現役続けたいって言い出したんだよ。坂川くんと会ってから」
じろっと天崎の視線が俺に突き刺さる。
「あの娘になに吹き込んだの。坂川くんと会う前まで引退受け入れてくれてたんだよ」
「なにもしてねえよ。言いたいことがあるなら天崎に言えって、そう話しただけだ」
「……余計なこと吹き込んでるじゃん。ゴネるスズカちゃんを説得するの本当に面倒だったのに……私の努力が水の泡だよ。シリウスの皆もスズカちゃんの現役復帰を応援する、手伝うってうるさいし。それで現役続行の決意も前より強くなったみたいで。“景色”がまた見たいとか、ほんとどうでもいいし意味分かんないし。はあ~、責任取ってよ坂川くん」
天崎は気だるげに頬杖をついた。
「私、ただでさえジャパンカップのことで機嫌悪いのに。スズカちゃんのことまでってなると…………坂川くんのあることないことメディアの前で口滑らしちゃうかもねえ……?」
「…………」
この前のジャパンカップでスペシャルウィークは3着に敗れていた。1着は天崎の目の敵、清島のチームアルファーグに所属するエルコンドルパサーだった。
揶揄うことだけが目的の脅迫を無視して話を続ける。
「……それでも引退させるつもりなのか?」
「うん。現役を続けさせる理由ある? ……でも、“天崎ひより”としては、シリウスの皆がああ言ってるから無下にできなくて困ってる。説得がほんと面倒。次は泣き落としでも試してみるかなあって思ってた。『スズカちゃんの身にまた何かあったら……私、耐えられないよ……』って感じで」
「お前にしちゃ苦しいな」
「うるさい。……使えるものなら何でも使うしかないからね。でもスズカちゃんより重症だったライスちゃんが現役続けてた経緯があるから、そのこともシリウスの皆が持ち出してさあ…………スぺちゃんなんて付きっきりでお世話するとか言うし。ジャパンカップで無様に負けたくせに、他人の面倒見る余裕なんてないのにね。まあ、私としては結構弱ってるのが正直なところ。でさ、坂川くん」
「……なんだ?」
「もう一度聞くけど、何か用があるんでしょ?」
その挑発めいた笑みから、俺が何のために呼び出したのか彼女は察しているようだ。
「……お前がサイレンススズカを見捨てるなら、拾ってやろうかと思った」
「へえ~……やっぱりね。坂川くんがゴミ箱になってくれるんだ?」
見透かされていたことにばつの悪さを感じた。
「スズカちゃんが可哀想になって同情しちゃった? それとも坂川くんのタイプだったとか? ああいう娘が好みだったんだ~。彼氏はいないから手籠めにするならチャンスだよ?」
「走りたいってあいつが言ったのが気になっただけだ」
「ふ~ん。一応訊くけど、スズカちゃんを引き受けてどうしたいの? あの娘は走りたいって言ってるけど、レースに復帰することさえ夢みたいなことなんだよ?」
「ああ。確かにお前の話が本当なら復帰も難しいだろうな」
「言っとくけど怪我について嘘はついてないよ。一般的な視点で言うけどさあ、走れない娘に夢を持たせるのも残酷だと思うけど?」
「別に夢を持たせようなんて思ってねえよ」
「……ならなんで」
俺ならサイレンススズカを復帰させられる……なんて思い上がったことを考えてはいない。
「あいつにチャンスと時間を与えたいんだ」
「チャンス? 努力したって走れなかったら意味ないでしょ。無駄な努力して、余計に悲しむだけじゃない?」
「……そうかもしれないな。だが走りを辞めるにしても、今お前に辞めさせられるのと、向き合ってから辞めるのとではおそらく違うんだ」
「よく分かんないなあ。後悔するだけじゃん。無駄になる時間と努力に何の意味があるの?」
「お前の言ってることは分かる。俺の見当違いで、サイレンススズカに恨まれるかもな」
叶わないのに努力するのは無駄だと、天崎の言うことは間違ってはいないのかもしれない。
……いや、間違ってるとか正しいとかの話ではないのだ。天崎の考えと俺の考えが異なっているだけのことじゃないかと思う。
「だが向き合うことで得られるものは必ずあると思う。もし後悔しても、それが必ずしも悪いことだと俺は思わない。後悔は糧にできると思うんだ」
「それは坂川くんの勝手な考えでしょ。無責任だね。後悔しないようにって、普通は言わない?」
「かもな。……で、どうだ。もしお前がサイレンスズカを手放したいなら、俺のチームに移籍させるのはどうだ? お前は復帰させるために面倒見る気ないんだろう」
「そうなんだけど……ん~……」
天崎は食事する手を止めて小さく唸ってから口を開いた。
「引退させてシリウスをさっさと辞めさせたかったから、正直移籍についてはオッケー。
「問題?」
「表向きに移籍する理由を考えないといけない。走れないから捨てたって多少なりとも思われるのは仕方ないけど、私とシリウスへのダメージは最小限に抑えたい」
「保身ってことか」
「そうだよ。シリウスの娘たちへの説得と、メディアに対しても体裁のいい理由を用意しないと。ウマ娘から私への信頼が揺らぎかねないし、これからのスカウト活動に直接影響するだろうから。あれだけ注目されてたウマ娘だから余計にね」
「理由、か……」
サイレンススズカのことなんて1ミリも思ってもいない天崎は置いておいて、天崎が納得する理由を考えつかないと移籍は実現しないだろう。
俺も一緒になって天崎やシリウスへのダメージを最小限に抑える移籍理由を考え、少し時間を置いたあとにそれを提案した。
「俺が故障や怪我に詳しいトレーナーってことで移籍させた──ってのはどうだ。お前と俺は同期なんだ、それも付け加えたらいい」
「それは私も真っ先に考えたけど…………実際、坂川くんなら故障についても詳しいんだろうけど、証明のしようが──」
「故障や怪我に強いって証明……印象付けたらいいんだな。……年末に発表会あるだろ」
トレセン学園では頻繁にトレーナー間での事例検討や発表会などを行っているが、年に数回は大きい規模のものを催している。年末に開催されるのもそれだった。その内容は後から外部にも公開される。
「そのときに故障や怪我に関する総説……Reviewっぽいのを出して発表する。学術雑誌にアクセプトされるレベルまで仕上げたら問題ねえだろ」
論文におけるReview……日本語なら総説論文やレビュー論文とも言うが、関連する世界中の論文を基に、先行研究の知見をまとめ上げたものになる。
実際には投稿していないのでアクセプトどうこうの話ではないが(そもそも一回でアクセプトされる論文なんてハゲタカジャーナルでもない限りほぼあり得ない)、それに準ずるクオリティのものだと思わせればいい。
「……出来るの? て言うか演題登録の締め切りって先週じゃなかったっけ?」
「ここ最近発表してなかったから適当に演題考えて登録だけしといたんだ。あんま発表してねえと学園の方から突っつかれるし」
あくまで学園内……身内での発表なので、演題の差し替えなどはあらかじめ申請すれば可能など、その辺は結構緩く自由が利く。
「論文なら365日読み漁ってる。自分で言うのもなんだが、そういう知識量は俺はトレセン学園でトップだと思う。纏めてちょいちょい指摘入れりゃいいだけだ」
……かつての先輩も同じようなことを言っていたことを、不意に思い出した。
「え~……1ヶ月で出来るとかドン引きなんだけど。本当に出来るの?」
「やるしかねえだろ」
トレーニング関連については手を抜けないので、その空き時間を使うことになる。睡眠時間を削って、最後の数日は完徹すれば完成すると見込んでいた。
「どうだ、もしそうならお前の問題はクリアか?」
「確かにそれなら移籍についてある程度の納得は得られそうだね。内にも外にも。シリウスの皆にも、怪我の治療のために私より詳しいトレーナーに任せるって話なら受け入れやすいだろうし。落とし所としてはまあまあだね。タイミングが良すぎて疑われはするけど……許容範囲かな」
どうやら彼女の同意は得られたようだ。
「坂川くんのところにもメディア来るけど大丈夫? 誹謗中傷とまでは言わないけど、なんか言われたりするかもね。あと治らなかったらもっと叩かれるかも?」
「好きにさせときゃいい。俺んとこのウマ娘と、キタサンに何かない限りはな。……なあ」
「なに?」
「俺とキタサンのこと、知ってる奴はどれくらいいるか分かるか?」
シリウスにいて他のトレーナーたちとの交流も多く、URAとも密接に関わってる天崎ならその辺の状況を把握してるのではないかと思い訊いてみた。当事者では中々把握しづらいのだ。
「
「……そうか」
「キングヘイローが活躍して表に出てきてる今も大丈夫なんでしょ? なら今更キタサンのこと蒸し返されることはないでしょ。サブからチーフへ担当が移るのも普通だし。自意識過剰とは言わないけどさ、他人やメディアは坂川くん程度にそこまで興味ないんじゃないかなー。最近のことならまだしも10年前のことだからね」
「ならいいんだが……」
「ま、私の主観でしかないけどね。それより話進めよっか」
その後、具体的なスケジュールについて打ち合わせをした。チーム移籍の書類手続きやリリースの時期、メディア対応での話の合わせ方など、今決められるものはほとんど決めた。
話しているときからカウンターには常に目を光らせていたが、テーブル近くに座る客はいなかった。
話が一段落すると、天崎は大きく伸びをした。
「ん~~。ふう、こんなもんかな。あとはまたメールとかで打ち合わせで」
「ああ。そろそろ出るか。……なあ」
「なに?」
最後に、天崎の言葉の中で気になったことについて訊いた。病院で会った時のサイレンススズカが口にしていたことだ。
「サイレンススズカの、“景色”を見たいっていうのはなんだ?」
「さあ? なんかそれが走る目的らしいよ。自分の好きなように走ったらその景色ってのが見えるんだって。それで走ってくれるならって適当に話合わせてただけだから、何かは知らない。移籍するなら本人に訊いてみれば?」
「……」
サイレンススズカへのあまりの無関心さに言葉を失った。
だがそれで別のトレーナーの元では苦戦していたサイレンススズカを逃げに徹させることで能力を引き出し、宝塚記念やあの毎日王冠を勝たせたりと、トレーナーとして結果は残しているのも事実だ。そもそもウマ娘へのスタンスだってトレーナー一人一人によって違うのだから、一方的にそれを非難することはできない。
次に会った際に、彼女本人に“景色”については訊いてみることにしよう。
2人で店を出ると、更けた夜が辺りに広がっていた。
「あ、そう言えば」
「どうした」
タクシーを探して歩いていると、天崎が思い出したかのように口を開いた。
「坂川くんはスズカちゃんになんて言うの?」
「は?」
「坂川くんは必ずしも復帰させることを考えてないんでしょ?」
「…………」
「スズカちゃんは元のように走れることを望んでる。そんな娘に走れないなんて、言えるわけ──」
「言うぞ。嘘はつかねえ」
隣にいた天崎の足が止まった。
俺は気にせず歩みを進めていると、コツコツと速いテンポのヒール音が近づいてきた。
「今のお前の言葉を少し訂正するが、そもそも俺は絶対に走れないなんて思ってねえぞ。お前んとこのライスシャワーみたいに、治療がうまくいって走れるようになる可能性は決して0%じゃない。だが可能性は限りなく低いってことはちゃんと伝えるつもりだ」
ドラマや小説のような奇跡なんてそう起こるものじゃない。現実はどこまでも残酷であることを俺は身をもって経験している。
「……スズカちゃんが受け入れられないって言ったら?」
「さあな。その辺は上手くやるさ。シリウスに戻られてお前に辞めさせるのだけは避けないとな。それでも俺は嘘はつかねえよ。無責任な甘い言葉なんて、相手と……自分も、傷つけるだけだからな」
「……」
「言葉にするなら責任を……ちゃんと背負わねえと」
少し広い通りまで来ると、空のタクシーが通ったのでそれを呼び止めた。
「ほら、お前はこれ乗って帰れよ。別々で帰った方が変な噂立たなくて済むだろ」
「……ありがと。じゃあね、坂川くん」
天崎は無言でタクシーに乗り込んだ。タクシーはドヤ街から逃げるように去っていった。
「俺も帰るか」
しばらくしてからタクシーを捕まえた。
学園に戻ったその日からReviewの作成に取りかかった。
◇
あるタクシーの中、呟かれる言葉がひとつ。
「……んとに、ムカつくなあ……はあ。仕方ないか……今回のは渡りに船だし……」