第68話 安田記念
半年前から目指していた舞台をようやく迎えた。有馬を走り終えてから、この日を最大目標に準備をしてきた。
チームの皆に支えられてここまでやってこれた。カレンモエやダイアナヘイローとは一緒にトレーニングをし、ペティやサイレンススズカにはトレーニングを手伝ってもらったりアドバイスをもらった。
そして今更言うまでもなく、彼……坂川にも。
グラスワンダーは強い。有馬で共に走ったからこそ知っている。
セイウンスカイを並ぶ間もなく交わし、メジロブライトの追撃を凌いだ彼女の背中が私の目に焼き付いている。
でも負けられない。
今度こそ勝ちたい。
ずっと抱いてきた決意を胸に、東京の長い地下バ道を抜けてレーストラックへと向かった。
◇
去年の夏に少しだけ関わったアドマイヤベガがダービーを制したその翌週……つまり今日、ここ東京レース場で上半期のマイル王決定戦安田記念(GⅠ)が行われる。
キングヘイローは中山記念から3ヶ月間休養を挟んで安田記念へ臨んだ。使い詰めだったクラシック級とやり方を変え、休養と調整十分にてレースへと彼女を送り出した。
安田記念と同舞台である東京マイルの東京新聞杯を含め重賞2連勝を引っ提げた彼女は2番人気に推された。対する圧倒的な1番人気は去年の有馬記念覇者、そして安田記念の前哨戦である1400mの京王杯スプリングカップでも勝利したグラスワンダーだった。
キングヘイローとグラスワンダーは去年の有馬記念以来、2度目の対決となる。友人でありライバルであるグラスワンダーにこの東京マイルで負けるわけにはいかないと、今度こそGⅠを取ると、強い決意で彼女は日々のトレーニングに取り組み、そして安田記念を迎えた。
俺個人としてもグラスワンダーの担当トレーナーは俺の師匠である清島だ。恩返しと言うとくすぐったいが、勝ちたい気持ちに嘘はない。
グラスワンダーが強いウマ娘であるのは分かっている。だがキングヘイローの実力を発揮できれば勝機は少なからずある。
──現実は甘くないと叩きつけられるのは、安田記念が発走してから1分35.1秒後のことだった。
『さあ残り400を通過! 先頭はエガオヲミセテだが、グラスワンダーやって来た! グラスワンダーやって来た!』
道中を2~3番手で運んでいたキングヘイローだが、最後の直線に入ると後ろから来ていたグラスワンダーに易々と外から抜き去られ、ズルズルとポジションを落としていった。第4コーナーで外から被せられた影響で直線ではバ場の良い外に出せず、さらにバ群に包まれた影響で走りのバランスを崩したせいなのか、明らかに失速してしまっていた。
後退していくキングヘイローとは対照的に、残り200mで先頭に立ったグラスワンダーは後続を引き離し、加速して抜け出していく。
『先頭はグラスワンダー! 200を通過! 体半分のリード!』
しかし、そのグラスワンダーを狙うウマ娘がいた。金髪を靡かせて外からグラスワンダーに追い縋るウマ娘は──
『2番手外からエアジハードが迫って来たッ!!!』
エアジハード……前走京王杯スプリングカップでグラスワンダーの2着だったウマ娘が、逆襲せんとグラスワンダーに襲い掛かっていた。
『グラスワンダーかッ!? エアジハードかッ!? グラスワンダーかッ!? エアジハードかッ!?』
抜け出た2人のマッチレースとなった。必死にリードを保とうとするグラスワンダーと、それに食らいつくエアジハード。
2人はバ体を合わせてゴールへと突っ込んでいく。栗色と金色の尾が彗星のように流れて重なっていく。
グラスワンダーとエアジハードの決着はゴール板までもつれた。
ハナ差前へ出たのはエアジハード。ゴールする瞬間にグラスワンダーを遂に捉えたのだった。
『エアジハードですっ! 京王杯のリベンジ成った! 圧倒的1番人気のグラスワンダーを倒し春のマイル王へ!』
エアジハードは大本命のグラスワンダーを退けてGⅠ初勝利を飾った。
彼女もシニア級1年のウマ娘だ。最強世代と称されるウマ娘の一員にエアジハードの名前が加え入れられた。
2着のグラスワンダーや11着に敗れたキングヘイローはじめ、足取り重くターフを去っていくウマ娘たちの一方で、エアジハードは観客席の前を通りウィナーズサークルへと向かっていた。彼女はその道中で所属しているチームの連中……つまりチームシリウスの連中がいる所で足を止めて言葉を交わしていた。もちろんその中には笑顔の天崎の姿も見て取れた。
◇
惨敗して地下バ道に向かうと、その先でチームの皆が揃って私を待っていた。心配そうに見つめるみんなの視線が痛いように感じられ、思わず目を逸らした。
「……ごめんなさい。期待に応えられなかったわ」
そう絞り出すのがやっとだった。
心の中は自分への落胆と情けなさ、湧き上がってくる怒りに満たされていた。
6か月ぶりに味わった敗北は相変わらず許容できない味だった。
「身体はどうだ。故障じゃないんだな?」
「……お生憎さま、どこも問題ないわ」
「念のためだ。そっちの空いてるとこで身体見せろ。……お前らは先に戻っとけ」
振り返って歩き出した坂川の後をついていく。チームメイトたちは彼に言われた通り控え室へ入っていった。
いつものように坂川に身体の確認をされる。どこにも痛みはないし違和感はない。身体は正常そのものだった。
……そんな自分の身体を恨めしく思うのは何故だろうか。
確認が終わった坂川は私から離れた。
「今んとこ異状はねえな、良かった。だが状態には気を配っとけよ」
「……なぜ私は負けたの」
「敗因か……今、聞きたいのか?」
「ええ。お願い」
「…………簡単なことだけだが──」
坂川はメモ帳を取り出して、それを捲りながら口を開いた。
「全体的なレースの流れを見ると、コーナーの流れが東京新聞杯より速かった分、ラスト4ハロンの時計も東京新聞杯より1秒は速い。加えて、ラスト1ハロンの時計の落ち込みも合わせて考えると、スタミナや持久力、何よりスピードの持続性……単なるキレや瞬発力だけじゃなく、より総合力が問われたレースだった。ただバ場や時期が違うから全体時計含めタイムは一概には比較できねえ。お前の走りを見るなら、第4コーナーで被せられて予定通り外に出せなかったのと、包まれて走りを崩したのは痛かったな。オークス、ダービー、今日の安田とBコース開催が続いたバ場だから、お前含め内の方にいたウマ娘は伸びてなかったように見えたし──」
坂川の説明が続いていく。それを頭に入れながら反芻して理解していく。
「──今のとこ分かるのはこんぐらいだな。あとは帰って……明日でいい」
「…………」
同時に、どれだけトレーニングを積んでも上手く走れない自分への憤りが再び熱を帯びてくる。
──また、だ。
「こんな……無様な負け方……っ」
口をついて出たのはただの悔恨だった。
これに何の意味もないのは分かってるのに。
上手にレースを運べなかったからと言って、これほどまでに惨敗する自分に落胆が抑えられない。
完璧に準備はした。休養十分。調整も万全。故障もない。なのに待っていたのはダービー以来の二桁着順11着。
ジュニア級からクラシック級まで、私は間違いなく世代の先頭を走るウマ娘の一人だった。三強だなんて呼ばれていて、スペシャルウィークやセイウンスカイと同じ列かその近くにいた。そこから数歩後退しているのが今の私の立ち位置だと思っていた。
しかし今はどうか。彼女らから数歩どころかもっと大きく後退しているのではないか。同世代のスペシャルウィークは天皇賞春制覇。セイウンスカイも天皇賞春3着。今日の安田記念だって勝ったのは同世代のエアジハード、2着はグラスワンダー。外国から来ていたウマ娘を除けば私より上位に5人もの同世代のウマ娘がいる。
並んでいたウマ娘たちには追いつけず、違う道を選んだ先では別の誰かに後ろから追い抜かれる。
近くにあった背中は遠くなり、新しく見る背中が増えていく。
分かっていたことではある。覚悟だってしていた。
でも現実として突きつけられると……
「おい、キング」
「……なに──」
振り返る前に、背中に大きな衝撃と肌が弾ける音がした。
「痛っ!? な、なにするのよ!?」
素肌が出ている肩甲骨の間に手ではたかれた。まだちょっとヒリヒリする背中を感じながら、突然の暴挙にでた彼を睨みつけてやる。
「背筋が曲がってたからな。情けねえ。もっとしゃんと歩け」
「なっ!? あなたねえ……手の痕が残ったらどうしてくれるのよ! 負けたとはいえ、ライブだってこの後あるのよ!」
「知らん。肌色の湿布でも貼って踊っとけ」
「くうっ……あなたは本当に口が減らないわね……! 担当ウマ娘が負けて落ちこんでるっていうのに……何するのよっ!」
「なんだ、やっぱ落ち込んでたのか」
「あっ……ふんっ……」
売り言葉に買い言葉でまた余計なことを口走ってしまった。
「余計なことばっか考えるな。……キング、お前は走ることで、一流のウマ娘を探して証明するんだろ」
「……!」
それは菊花賞の後、グッバイヘイローに向かって私が言ってのけたことだった。
「たかがG1をひとつ負けた
「……トレーナー……」
彼は励ましてくれている。彼の心遣いのようなものを感じる。
……言い方ややることに文句はあるけれど、さっきより気分は軽くなった。
「……あなた、もっと気の利いた感じにエスコートできないの? こう……笑顔で、キングを褒めて称える感じで」
「はあ? んなことしてほしいのか? 俺がやったら気持ち悪いだろ」
確かにこうやって言い合う方が私たちには合っている気がする。
「……それもそうね」
背筋を伸ばして胸を張り、一歩先を歩く坂川に並びかけていった。
◇
その日の夜、やっぱり敗北の悔しさが襲ってきていた私は、気を紛らわすため外で軽くジョギングをしていた。
坂川には連絡し、距離や時間の制限付きで許可が出ていた。
私は走り終えて、栗東寮の近くまで戻ってきていた。
「ふっ……はあっ……」
身体は本当に問題なかった。門限まで時間はあるし、本音を言うならもっと走りたかったけれど、坂川が決めた制限を破るわけにはいかない。
部屋に戻ってシャワーでも浴びようと思いながら栗東寮の敷地に入った。
すると、寮の近くに設置してあるベンチによく見知ったウマ娘が座っているのが見えた。彼女は独りで空を見上げていた。
「スズカさん?」
「……あ、キングさん……」
サイレンススズカがベンチに座っていた。ベンチの傍らには銀色に鈍く光る松葉杖が置いてあった。