星空の下のベンチにジャージを身に纏ったサイレンススズカがいた。
「走りに行ってたの?」
「はい。軽めのジョグですけれど。少し、気を紛らわせたくて。スズカさんは?」
「……私も、同じ……」
「?」
「……座る?」
サイレンススズカは松葉杖を自身の元に引き寄せ、空いた座面に手を触れた。
こうやって立ったまま彼女を見下ろすような格好で話をするのもどうかと思っていたので、私は彼女の隣に腰を下ろした。まだ門限までは時間があるし、寮は目と鼻の先だし。
彼女は再び夜空へ目を向けた。私もつられるように空を見ると、そこには青い鋼のような暗い空に幾千もの星が広がっていた。
「昔は毎日のように夜も走ってたけど今は…………走れないから。外に出て、空気に触れると気が紛れるの」
「……スズカさん…………」
鈍く光っている松葉杖が目に入った。
かつて彼女のチームメイトであったスペシャルウィークから『スズカさんは何よりも走るのが一番好き』と聞いたことを思い出した。そんな彼女にとって今の状況は言葉では表せられないくらい苦しくて辛いのだと思う。
「今日みたいに、GⅠの日は特に……」
話から察するに、今日だけのことではないのだろう。私は朝のロードワークはするけれど、夜は宿題や予習をするため外には出ないから会わなかっただけ。
同室のウマ娘に影響されて天体観測をするようになったと言う彼女は、空に輝く星を指さしていくつか星の名を──スピカやアルクトゥールスという星の名を──教えてくれた。その同室のウマ娘は過去に私とも関りがあって、更には先週のダービーで名を馳せていただけあって、その名前を聞いたときには驚かされた。
2人でただ星空を眺めていた。会話らしい会話はないけれど、不思議と居心地は悪くなかった。星の流れに合わせるように時間が緩やかに流れ、むしろ心地良ささえ感じられた。
そんな静寂に響いたのは、サイレンススズカからの問いかけだった。
「キングさんは……走るのは好き?」
「走る……」
サイレンススズカは夜空を眺めたままそう言った。
彼女がどう思って訊いたのかなんて、私には分かりようがない。ただ私は問いに対しての答えだけを考えた。
「昔は……幼い頃は好きだったと思います」
「今は嫌い?」
「……嫌いではありません。ただ……“走る”という行為に対して、何度も考えさせられることがあって」
レースで走り勝利する。勝利することで一流のウマ娘だと証明する。走るというのは、一流を証明する手段でしかなかった。
それがキングヘイローというウマ娘……
クラシックをひとつも勝てなかった現実を経た。
多くのウマ娘と関わって話をした。
坂川健幸というトレーナーの過去と今を知った。
様々な経験が積み重なった上に、
“走る”ことでキングヘイローは“一流のウマ娘”とは何かを探している。だから走ることが好きと嫌いとか……そういうことが今の自分には分からない。彼女に訊かれてそのことに気づいたぐらい。
前に進んでいる手ごたえはある。しかし、まだ見つかっていない。まだ私は走らなきゃいけないし、手がかりだってもっと──
「ごめんなさい。嫌なことを訊いたかしら……?」
「いいえ! ……スズカさんは何も悪くありません」
「難しい顔をしていたわ。……考えこませたみたい」
サイレンススズカは心底申し訳なさそうに表情を曇らせていた。こちらを向いた彼女の髪が肩からはらりと落ちて、星明りを微かに反射させた。
「……スズカさん。私からも訊いていいですか?」
「なに?」
「スズカさんはなぜ走っているのですか?」
「……走る理由ということ?」
「はい。その…………大きな怪我をされてまで、あなたは再び走ろうと頑張られています。シリウスからウチに移籍してまで。なぜですか?」
「…………」
再び彼女は星空を見上げる。揺れる栗毛がまるで空に浮いたようにそこにあった。
もうすぐ訪れる夏の気配を孕んだ夜の空気が私たちを包んでいた。
「“景色”を見たいから……って、思ってたの」
「景色……思ってた……?」
「でも、それだけじゃないって
空に浮かんでる星を掴むのと同じのように、彼女の話の全容を私は掴めそうになかった。おそらく彼女の内にあるものだからだ。
けれど、全てが分からないわけじゃない。
「走っている私で“景色”を見たい。そして何よりも、私は走ることが好きだから。走りたい……それこそが私の走る理由」
穏やかで静かな口調だが、最後の言葉の中にある確かな意志を感じた。遠くて掴めない星でも、その光は見えるように。
サイレンススズカにとって、走ることは景色を見るための手段ではあったんだろう。
でもそれだけじゃなくて、手段であるはずの走ること自体に──
──『わたしはとりあえず走れそうなら走ってみようと思ったんだ』──
──『わたし、走って良かったよ。走り続けて良かった』──
──レースに出て走ること、それ自体に理由や意味があったんじゃないか……そんな風に私は思った──
そんな時に過ぎったのは、あるウマ娘の言葉と、彼女と話して私が考えたこと。
……同じだ。
あの天皇賞秋で、故障してゴールできなかったサイレンススズカと、1着で勝利を掴んだオフサイドトラップ。
対照的な結末を辿った2人のウマ娘は同じことを言っていることに気づいた。
2人は走ること自体に理由や意味を見出していた。
キングヘイローは……私は、どうだろう。
キングヘイローは走って一流のウマ娘を探している。
サイレンススズカとオフサイドトラップは、走ること自体が意味を持つと言った。
別物であるかのようなそれは、しかし別物には思えない。その間には一体何が──
「えっと……変な話をしてごめんなさい? 参考にはならなかったわよね」
「あっ? いいえ、こちらこそ訊いておいて申し訳ありませんっ! とても参考になりました」
「そうなの?」
「はい!」
本心だった。彼女の話は手がかりになって──
──何かの音を耳が拾った。
「……?」
暗闇の先からだった。
遠くから足音が聞こえてきた。地面を踏みしめる音が段々近づいてきた。
今の私たちのように外出していたウマ娘が寮に戻ってきたのだろうと、私は特に気にも留めなかったけれど、サイレンススズカは違っていた。
彼女は足音のする方を真っすぐに見据えていた。
「……今日は早いのね」
意味深にサイレンススズカがそう呟いた直後、大粒の汗をかいたウマ娘が電灯の下に姿を現した。息遣いは静かだが頻回で、酸素を取り込もうとジャージ姿の彼女の肩が上下に動いていた。
「! あなたは……」
そこに立っていたのは、去年の夏に私と模擬レースをし、サイレンススズカに天体観測のことを教えた相部屋のウマ娘だった。
今年の日本ダービーを勝ったダービーウマ娘、アドマイヤベガがそこにいた。
「良かった。今日は早く切上げてきたのね」
「……靴ひもが切れたから新しいのを取りに戻ってきただけ」
「…………また、走りに行くの?」
「あなたには関係ない。……門限まで時間はある」
……言いようのない空気か流れている。仲が悪いというわけではなさそうだけれど……この突っぱねるような物言いは少し気になる。
アドマイヤベガが顔を上げた際に、サイレンススズカの隣にいた私と目が合った。僅かに目を丸くしたところから察するに、どうやら私の存在に気づいていなかったようだ。
「…………あなたは」
「こんばんは、アドマイヤベガさん」
「……ええ」
彼女は足を止めることなく、そのまま栗東寮の中へと消えていった。
「……喧嘩ですか?」
「いいえ。喧嘩ではないの。ここ最近……ダービーが終わった後から以前にも増して夜のロードワークが激しくなっていて……」
心配なの、と言ったサイレンススズカは自身の左脚を撫でていた。
「普段からオーバーワークだった娘だから…………やっぱり止めないと。私、行くわね」
サイレンススズカは松葉杖を携えて立ち上がった。ウチのチームに来た当初は右脚だけで立ち上がっていたけれど、今は左脚にも体重はいくらか乗っているようだった。
彼女は入り口前の階段に差しかかる前に立ち止まった。
「キングさん、今言うことじゃないかもしれないけれど……今しか言えないような気がするから、ひとつだけ良い?」
彼女は昇降口の方を向いたままで、私には彼女の背中が見えるだけ。
松葉杖をついたその細い背中は傾くことなく真っ直ぐに伸びていた。
「今日の安田記念…………実は羨ましかったの」
「羨ましい……?」
「ええ。キングさんにはとても悔しい結果だったでしょうけど…………今日の安田記念、私の同期たちがいて」
確かに今日の安田記念には彼女の同期であるシニア級2年のシーキングザパールとキョウエイマーチがいた。
「復帰してもおそらく私は同期とは……あの2人や、ブライトやフクキタルとももう走れないから…………あなたにもグラスワンダーさんやジハードちゃんやスペちゃんがいて、負けたときは悔しいとは思うけど、すごく幸せだとも思う。悔しさも喜びも、走らないと手に入らないから」
「……」
「だから同期やライバルと走って競えることを……走れることを大切にしてほしい。……おやすみなさい」
サイレンススズカは一段一段丁寧に階段を上っていき、アドマイヤベガのあとを追っていった。
「同期やライバル……」
何人も頭に浮かんでくるウマ娘があった。三冠レースを一緒に走ったウマ娘や、シニア級になってから初めて走った同期のウマ娘たち。
「……」
サイレンススズカの言葉がまだ耳に残っている。
負けてばかりで悔しくても、同期やライバルと走ることを大切に……それには意味があると、サイレンススズカは感じているいうこと。
「私にとっての……走ること……」
空を見上げる。
更けてきた夜の空から煌めく星光が降り注いでいた。
星に手は届かないけれど、さっきよりも近くにあるように感じた。
◇
スペシャルウィークやグラスワンダーが出走すると聞いて、私は坂川に宝塚記念に出走したいと話した。
年明けからマイルを中心にレース選択をしていたから、もしかしたら坂川に却下されるかと思っていたが、話した数日後に彼からオーケーの返事が出た。中山記念で私が結果を残していることから却下する理由もないと判断したらしい。
人気投票では7位……正直驚いた。GⅢやGⅡでは今年勝ったとはいえ、GⅠでは結果を残せていないから、こんなに応援してくれる人がいるなんて思わなかった。
そんな思いを坂川につい漏らしてしまうと、彼は「見ている奴はいるってことだな」と言っていた。あまり意味は分からなかった。
安田記念から一ヶ月。迎えた宝塚記念。
スペシャルウィークとグラスワンダーの一騎打ちのムードが世間に漂っていた。
道中、3番手辺りにつけた私のすぐ後ろにスペシャルウィークが追走していた。
しかし、これまでのレースで感じてきたスペシャルウィークのプレッシャーが今日は全く無かった。彼女の足音はずっと耳に入ってきているのに、あの喰い殺さんばかりの殺気が今日は鳴りを潜めていた。
不思議だった。調子が悪いのかも……なんて考えは、すぐに否定されることになる──
『キングヘイローの後ろ、ご注目くださいスペシャルウィーク……おおっ、両左右を確かめている。グラスワンダーを探しているのか? 左右を見たスペシャルウィーク。グラスワンダーは後ろにいるぞ』
──スペシャルウィークは私のことなんてハナから眼中に無かっただけ。彼女の意識は全てグラスワンダーの方に向けられていると分かった。だって、彼女はコーナーから捲っていくとき私に一瞥さえ寄こさなかったから。
それでも、必死になって捲っていくスペシャルウィークの背中に追い縋る。第4コーナーで先頭に立った彼女に離されまいと、スパートをかけて追っていく。
『さあスペシャルウィーク先頭! 外からグラスワンダーが上がってきたっ! グラスワンダーが上がってきたっ!』
しかし追えたのもそこまでだった。
(脚が……! 動きなさいよっ! 動いてよ……)
脚が鈍る。
息が上がる。
上体が起きる。
周りの景色が遅くなる。
(ああっ…………っ)
私は失速していた。
最後の直線に入った時には2人から大きく離されて、後続からは追い上げられていた。
『第4コーナーを曲がって直線に入った! 先頭はスペシャルウィーク! 追って並びかけるグラスワンダー! もう言葉はいらないのか!? 2人の一騎打ちか!?』
2人の背中が小さくなり、目に入る背中が多くなる。
3番手以下を大きく引き離す2人。
脚がついていかない。
私はもう、追い上げるような余力は残っていなかった。
「グラスワンダーが交わしたっ! スペシャルウィーク負けるのかっ!? グラスワンダー先頭だ! 2人が差を離した離した離した!」
キックバックがここまで飛んできそうなほど地面を叩きつけるように走るグラスワンダーが抜け出して、スペシャルウィークに3バ身差つけて勝利した。
『やっぱり怖かったグラスワンダー! グラスワンダーが勝ったあっ!!!』
スペシャルウィークも3着のステイゴールドには大きく差をつけていて、8着に入った私には軽く10バ身以上の大差がついていた。
「はあ……っ……はあっ……」
走り終え荒い息を整える。視線の先には、遠くでスペシャルウィークとグラスワンダーが何か言葉を交わしているのが見て取れる。
今のこの物理的な状況のように、キングヘイローはもうあの領域からは遠く離れて置いていかれてしまっている。
「…………っ……ううっ……」
目の端からまた何かが滲んできた。
分かってはいた。でも、負けた時の
──それがどうしたの?
「……っ……はあっ……くっ!」
天を仰いで、滲み出てきそうだったものを無理やり引っ込めた。
──覚悟は決めていたでしょう?
負けて悔しいのなんて当たり前。それでも私はレースに挑むと決めたのだ。一流のウマ娘を探して証明するために。
この結果と悔しさがレースを走る意味になる。負けたからって、唇を噛み千切りそうなほど悔しいからって、次の挑戦を拒む理由にはならない。
ここに意味はあるんだって今なら──
──ああ……
そう考えながら晴れた空を見ていると、ふと胸に落ちるものがあった。
空から視線を観客席にやり、坂川の姿を視界にとらえる。表情は分からないけれど、彼は真っすぐに私を見ているような気がした。
──サイレンススズカとオフサイドトラップが言っていたこと。
──私のトレーナーである、坂川健幸のこと。
はっきりとした形ではないけれど、掴めたものがあるって、そんな確信を持った。