しばらく時間を置いてからトレーナー室へ戻った。
部屋には誰もいなかった。あの紙袋もどこにも見当たらなかった。
「持っていったか……」
先程紙袋を置いたテーブルに視線が引き寄せられると、中身の見当なんてついていない様子のキタサンブラックが自然と思い出された。
ここで彼女はあのノートを読んだのだろうか。
「……俺も焼きが回ったな…………」
自らの行動に対しそう思わずにはいられなかった。
これは愚行以外の何物でもない。彼女に言った通り、本来ならばトゥインクルシリーズを終えて引退するときに見せようと考えていた。
なら何故あの事件から3ヶ月も経っていない今、ノートを見せたのか。
「…………」
人への想いなんてものは時が過ぎれば動かなくなり固着する。2人が別たれてしまった今、キタサンブラックから坂川へ向けられていたものも時が過ぎればそうなるだろう。自分の事であっても固着された感情には揺れ動く余地がない。
彼女から彼への感情や想いは限りなく負のものだ。憎しみ、怒り、恨み、悲しみ……当然だ、彼は一番大切なことを伝えず、ドーピングに加えてあんなことを言ってしまったのだから。
だが──
「それだけじゃねえだろ……」
──決して、負のものだけではない。
何の確証もない。キタサンブラックは坂川のことをあれから一度も口にしていないからだ。
自分はキタサンブラックというウマ娘を知っていて、彼女が坂川と接しているのを見守ってきた。
その経験だけが、自分にそう思わせていた。
理解している。キタサンブラックに見せず処分する。または走るのを辞めてから見せる。おそらくそれが正解だ。
そうせずこのタイミングで見せることを選択したのは、キタサンブラックに対する坂川の想いが何の意味も持たず消えていくことに自分が我慢できなかったからだ。
何年も経過して、全てが終わって、想いというものが風化したその後にあれを彼女に見せたとして、果たして意味があるのか。
せめて、その想いを向けられていた
まだ、坂川への感情が揺れ動く余地があるうちに。
これは後先を考えない愚行だ。間違っても、多くのウマ娘とトレーナーを抱えるチームを率いるトレーナーのやることではない。更にはキタサンブラックの父親を裏切る行為でもある。
それでも自分は結局坂川の肩を持ってしまった。あのどうしようもないバカの肩を。
全て理解した上でやった。だからこその愚行なのだ。
あのノートを見てキタサンブラックがどう思うか、どんな行動に出るか全く読めない。怒り狂うかもしれない。これがきっかけでドーピングが公になることだって有り得る。坂川とキタサンブラックだけの問題でなく、あの糸目の男が言っていたような大騒動に発展する可能性もある。
しかし賽は投げられた。投げたのは自分だ。もう後戻りはできない。最悪の目が出るかもしれない。だが──
「キタサン……お前は、どう思うんだろうな……」
──キタサンブラックという心の優しいウマ娘は、ノートに目を通したうえで持って行った。
今の清島義郎にとってはそれだけで十分だった。
◇
「……」
暗い自室で膝を抱えて座っていた。
同室の娘は年末で実家に帰省していて、部屋にはあたし一人だけがいた。
あたしのそばには、先生からもらった紙袋があって、その紙袋から出したノートが散らばっていた。
「…………」
トレーナー室でノートをすべて読んだあたしは、気づいたら胸に紙袋を抱えて栗東寮の自室へ向かって走っていた。
あのままトレーナー室にいたら動けなくなりそうだったから。
必死に何かをこらえながら自室に戻った。
そしてまたノートを見返した。
何度も。
何度も。
何度も。
「……」
あたしの家の前のことを今でも鮮明に思い出せる。
あそこでトレーナーさんに言われたことを一字一句思い出せる。
一番耳に残っているのは、最後のあの言葉。
『俺はお前のことを大切になんて思ってなかったんだよ。だからお前をぶって、ドーピングさせたんだ』
トレーナーさんがそう考えていたんだって知って、あたしは……傷ついた。ずっと立ち直れずにいた。
……今だって、そうだ。
裏切られたと思った。トレーナーさんは嘘をついていたんだって。
あたしのことを想ってくれてた言葉は真っ赤な嘘で、あたしのことなんて大切に思ってくれてなくて、どうでもいい存在だったんだって。
それこそ、ドーピングをするぐらいに。
病院で目が覚めて、ドーピングのことを聞かされたときは、頭が何も考えられず真っ白になった。最初はドッキリでもしてるんじゃないかって思った。
でも、周りの大人たち……両親やURAの偉い人……糸目の男の人がそろって怖い顔で言うのだ。それでも信じられなかった。
トレーナーさん本人に聞いて彼の口から聞かないといけないと思った。そんなことをする人なんて信じられなかったから。
何かの間違いだって思っていた。
でも、そんなのはあたしの都合の良い思い込みでしかなかった。
『分からないならもう一度言ってやる。俺は俺の意思で、禁止薬物だと知っていて、お前を騙して、ドーピングさせた』
トレーナーさんから本音をぶつけられた。
隠してたであろう本心を。
『あの日にタイムを出せたのはドーピングのおかげなんだよ。……こんなヘマしなければ、お前にも、URAにもバレることは無かった』
『そんな理由でレースを選んでGⅠを勝てるなら、誰がこんなに苦労するか。約束なんて、くだらない』
そして再びあの言葉が蘇ってくる。
『俺はお前のことを大切になんて思ってなかったんだよ。だからお前をぶって、ドーピングさせたんだ』
「……っ……」
いつからそう思っていたんだろう。
あたしはトレーナーさんのことを信じてたのに。トレーナーさんはそうじゃなかった。
すごく悲しかった。
信じてた人に裏切られるって、胸が張り裂けそうな気持ちになるんだって思った。
今までのことがいっぱい蘇ってきて、それが嘘で、騙されてたんだって思うと、涙が止まらなかった。
ダイヤちゃんにもたくさん話を聞いてもらって、慰めてもらった。
最後にはここまで言うトレーナーさんのことを、あたしは怒って………………憎んだんだと思う。
この人はあたしのことなんてどうでもよくて。だから黙ってドーピングさせたんだ。
あたしのトレーナーだった人は、最低な人間だったんだ。
そう思うしかなかった。
「…………」
あの騒動の後、まだ傷ついているあたしに周りの人が慰めてくれた。その人たちもトレーナーさんは悪い人間だったんだって言ってくれた。
周りの人も言うんだから、自分もそう納得した。
あれからトレーナー室に行くたび、ターフに出るたび、トレーナーさんのことを数えきれないぐらい思い出しそうになっていたけど、必死に思い出さないように頑張った。
夢にも見るし、何度も思い出しそうになった出来事に遭遇したけれど、前よりも頭の中の彼は薄れていった気がしていた。
そして今、あたしはノートと向き合っていた。
部屋の床に散らばった何冊ものノート。
トレーナーさんが、あたしがプレゼントした万年筆でずっと書いていたノート。
「…………」
いつからかは分からないけれど、騙されていた。嘘をつかれていた。
そう思っていた。
だって、トレーナーさんがそう言ったのだから。
でも、目の前にあるノートがそれを否定してきた。
そこにあったのは、あたしのことをずっと想ってくれてた一人のトレーナー。
あたしのトレーナーさん。
折に触れて、何度も何度も書かれていた。
あたしを笑顔にって。
GⅠを勝たせてあげたいって。
主役にさせてあげたいって。
“キタサンの夢を叶えさせたい。何より、キタサンに喜んでほしい。心の底から笑ってほしい。自分がトゥインクルシリーズの主役なんだって、自分は凄いウマ娘なんだって、そう自分を認めさせてやりたい”
ドーピングさせられた前日……ノートの最後に、彼はそう書いていた。
「トレーナー……さん…………」
ノートを読み終わって、いろんな感情や想いが溢れてきた。それを未だにあたしは整理できないでいた。
だからこうやって、ノートを持って寮の部屋までやってきたんだ。誰にも邪魔されないところで、一人で考えたかった。
最初にやって来たのは戸惑い。あたしのことを大切に思ってない人間はそこにはいなかった。
遅れてやって来たのは嬉しさ。トレーナーさんはあたしのことを大切に思ってくれていた。
あたしも彼のことが大切で、彼もあたしのことを大切に思ってくれていると、あたしはずっとそう感じていた。このノートには、
────本当に、そうだった?
──あたしは、
「あたし……は…………え…………?」
ノートに目をやる。
その中の大半は、あたしのトレーニングに関することだ。あたし自身が知らないようなことや、難しいことがたくさん、たくさん、たくさん書かれている。
でもそれだけじゃない。
途中から綴られるになった彼の気持ちと────
「……知って、た……?」
──苦悩。
同じように綴られる、彼の苦悩。
皐月賞で負けてから、ぽつぽつとそれは増えてきた。
ダービーで負けてからは、もっと増えていた。
あたしにGⅠを取ってほしくて、夢を叶えさせてあげたくて……何とかしたいという、彼の思いと悩み。
そして書き込まれる、ものすごくたくさんの考察や分析。
ノートの端に書かれる“どうしたらいいんだろう”、“正解を見つけ出すしかない……”
“キタサンの夢を叶えるために”と。
繰り返されるそれは、まるで呪いのようで。
「……」
トレーナーさんは、ずっと悩んでいた。苦しんでいた。
あたしを勝たせたいから。
あたしに夢を叶えてほしいから。
それを、あたしは知っていた?
「……ほんとうに…………知ってたの…………分かってたの…………?」
あたしのために頑張ってくれている……それは分かっていたと思う。
でもトレーナーさんが、あたしのためにこんなに悩んでるって、苦しんでるって、あたしは知っていた?
「ぁ…………あぁ……」
思わず天を仰いだ。
薄く滲んだ天井に向かって、声を漏らした。
「……あたし……知らなかった……? ……分かってなかった…………?」
彼が悩み苦しんでいることを、あたしは知らなかった。分かってなかった。
ダービー後のノートの中で考察されている距離適性のこと。
言うまでもなく、ダービーでのあたしの惨敗がきっかけだ。軽い気持ちで試そうとしてるんじゃない。絶対に勝たせるために、トレーナーさんが何か月もずっと悩んでいた。
長距離は合っていなくて、あたしの適性は中距離だと、そう彼は考えていた。
ノートの最後に考察されていて、とくに文章量が多く、乱れた文字で書かれている“成長の停滞。早熟の可能性”、“
あたしのピークは今年の秋で、GⅠを取れる最後のチャンスがこの秋かもしれない。そう彼は考えていた。
そのふたつを合わせて考えると…………天皇賞にかけるトレーナーさんの強い思いが伝わってくる。
……ああ、そうだ。トレーナーさんはあの日こんなことも言っていた。
『ドーピングさせたのは、トレーニングで結果が出なかったからだ。あのクスリ、トレーニングで使うためのクスリでな。天皇賞秋を勝つには必要なタイムに届いていなかったから使った』
ドーピングの方ばかりに気が向いていたけど、よく考えてみればこうも言っているのだ。
『勝つには──』って、言ってた。
あたしを天皇賞秋で勝たせるため、って言ってたんだ。
最後のチャンスかもしれない天皇賞秋で、あたしに絶対にGⅠを取らせる。
……結果を見れば、天皇賞秋を選ぶのが正しかったのか間違っていたのかは分からない。今のあたしは長距離の菊花賞でGⅠを取ったし、有馬記念でだってもう一歩のところまで好走した。……この先、どうなるかは分からないけれど。
けれどそれは、あたしが知らなかった彼の強い思い。
「だから……あのとき──」
思い出されるのは、あの日のトレーナー室でのこと。
天皇賞秋ではなく菊花賞に出たいと伝えると、トレーナーさんが迫ってきてあたしに手を上げたこと。
……思い出したくない。頬をぶたれたのは生まれて初めてで、その初めてがそんなことをするはずないと思っていたトレーナーさんだったから。
でも、思い出さないといけない。だって、あの時トレーナーさんは何を言ってた──?
『なんで、分かってくれないんだ……!!!』
「……分かって、くれない…………」
そうだ。トレーナーさんはそう言っていた。
あの時のあたしはぶたれたことのショックで頭がいっぱいで、その言葉を意味を考えられなかった。ただトレーナーさんが怒っているのだけは分かったから、謝ったら、更にトレーナーさんは怒ってもう一度手を振り上げた。
この直前で天皇賞秋から翻意して菊花賞を選んだあたしに対して。
トレーナーさんは、一体何を分かってほしかったのか?
今なら心当たりがある。
それは目に映る──
「……これ、じゃないの……?」
──床に散らばったノート。
頑張って苦しんで悩んでたくさん考えたのを、あたしに分かってほしかったんじゃ……?
トレーナーさんがたくさん考えて天皇賞秋を選んだことは分かっていた。でも、そこに至る彼の苦悩や想い……その過程をあたしは知っていた? 知ろうとしていた?
答えはいいえだ。あたしはトレーナーさんが頑張っているのを知ってはいても、苦しんだり悩んだりしているのを知らなかった。
……でも、難しい話だと思う。確かにもし知っていたら天皇賞秋を選んでいただろうか?
あたしが菊花賞に拘ったきっかけは、6月も終わりに差し掛かった時に偶然ドゥラメンテと出会ったことだ。その頃のあたしはまだダービーの惨敗を受け入れられずにいた。
ドゥラメンテはクラシック二冠を取り、名実ともにあたしたちの世代の頂点に立ったウマ娘。そして6月に故障をして、クラシック三冠も、日本の悲願である凱旋門にも挑戦すら許されなくなった彼女。初めて接した彼女は寡黙で、必要なこと以外は口にしない娘だった。表情も硬かった。
当たり障りのない話をしていたけれど、そこに偶然来たリアルスティールが混ざってきて話の流れが変わった。あたしはリアルスティールとはレースで一緒になった際に一言二言喋ったことがある程度の仲だった。彼女は明るくてフレンドリーな娘だった。
そのリアルスティールがドゥラメンテに対して菊花賞を絶対に勝つと高らかに宣言したのだ。ドゥラメンテに最後に勝ったウマ娘として、菊花賞でその力を証明してやるって。だからドゥラメンテが復帰したら、強くなった自分を倒しに来いって。皐月とダービーを走ったウマ娘として、別路線組が多く来る菊花賞では絶対に負けないって。だからドゥラメンテの強さもついでに証明してやるって。たぶん、リアルスティールはドゥラメンテを励ましたかったんだと思う。
あたしも勢いでそこで彼女に乗ってしまった。ダービーでは惨敗したけど菊花賞では絶対に負けないって言った。リアルスティールには1回勝って2回負けてるから、菊花賞で勝ってタイに戻してあげるって。ドゥラメンテには、復帰したらまた一緒に走って、次は絶対に勝つって言い放って約束した。
ドゥラメンテは関係ないとは言っていたが、その表情が少し変わったのをあたしは見逃さなかった。
その日はそこで別れたけど、夏合宿の場所が3人とも同じだったので、空いたプライベートの時間は一緒に過ごしたり遊んだりすることもあった。そうして過ごして少しずつ彼女たちの人となりが分かってくると、よりレースに対する情熱が強く湧き上がってきた。特にドゥラメンテは何でもないように振る舞っているものの、態度や言葉の端々から故障に対する悔しさみたいなものが感じられたから。
彼女のために走るんじゃないけど、次に走るときに不足と思われないように、ライバルと思われるように頑張って菊花賞を勝とうって思った。
だからあたしはずっと菊花賞に出走したかったのだ。何を言うまでもなく、普通に菊花賞に出るものだと思っていた。
セントライト記念を勝ったあと、トレーナーさんから距離適性じゃないから菊花賞を回避すると伝えられた。あの時は驚いたのと、トレーナーさんが凄い勢いで色んなことを言って、頭も下げてきて、思わず分かったと言ってしまった。
それからもずっと、菊花賞に出たい気持ちは抑えられなくて。でも、今更菊花賞に行きたいとも言いにくくて。
そしてあの日、トレーニングで良い結果が出た。これはクスリのおかげだったんだろうけど……ドーピングなんて知らないあたしはトレーナーさんに菊花賞に出たいと打ち明けたのだ。
トレーナーさんなら分かってくれるって思っていた。
そんな経緯があって、そしてトレーナーさんの苦悩を知ってなお、あたしはどっちを選ぶだろうか。
……難しい。トレーナーさんも大切だし、あの約束も大切だ。
「……選べないよ…………」
どっちもすごく大切なもの。どっちがとか、選ぶことはできない。
もう終わってしまったから、選ぶ必要がないから、こう言って逃げてるのかもしれない。
……あたしは卑怯だ。
そもそも、天皇賞秋に行くと一度言ってしまったあたしが悪いんだと思う。あそこでちゃんと話していれば、こんなことにはならなかった……?
あのとき悩んでいたトレーナーさんは、菊花賞に行きたいってあたしに言われて、でもピークとかの話はあたしに言えなくて。
それで、どうしようもなくなってあたしに手を──
「っ!?」
窓へ目に向けると、窓ガラスが小刻みに震えていた。風が強くなって窓に当たっているみたいだった。
今日は特に風の強い日でもなかったから驚いたけれど、窓の揺れが治まったあとも外では風の吹き荒ぶ音が聴こえていた。
……いつから風がこんなに強くなっていたんだろう。静かな部屋で独りでいるのに、全く気づかなかった。
「…………」
帰って来た時より暗くなった部屋を見回す。
坂川のノートがある以外は、何も変わりのない部屋を。
熱に浮かされたような頭が徐々に冷えてきた。
沈んでいた沼から引き揚げられたような感じだった。
自分のことを客観的に見ることができる気がした。
冷静になった頭で、再び
トレーナーさんはあたしのことをずっと想ってくれていた。あたしにGⅠを勝ってほしくて、ずっと悩んでいた。
あの日とはドーピングした日のこと。このノートには書かれていない日以降のトレーナーさんは…………?
ノートに書かれていたトレーナーさんは本当で、あたしの実家であんなことを言ったトレーナーさんも本当のことだ。
このノートに書かれている彼は確かにあたしのことを大切に思ってくれていたのかもしれない。
でも、このノートはドーピングさせる前日の途中までしか書かれてないんだ。前日の夜……つまりドーピングのクスリを渡されてからの彼の想いは書かれていない。
トレーナーさんは既にあたしを騙してドーピングさせ、非道いことを言った人間だ。
家の前であたしに大切じゃないって言ったことや、約束なんてくだらないって言ったことは本当の事なんだ。
このノートが担当してからドーピングする前日までの彼の想いを証明していたとしても、それ以降も同じだったとは限らない。
あの時のトレーナーさんが本当は何を考えていたかなんて、
トレーナーさんの想いが変わったかどうかなんて、
────あたしは、分からない。
傍であたしをずっと支えてくれていた人なのに。
「……」
あたしはトレーナーさんのことを分からなかったウマ娘だ。だから──
──あたしが分かるのは、このノートに書かれているトレーナーさんだけ。
──あんなに一緒にいたのに、あたしが分かるのは、このノートに書かれていることだけ。
たどり着いたのは、そんなどうしようもない答え。
あたしは、トレーナーさんのことを分かってあげられてなかったキタサンブラックというウマ娘。
「……ああ…………あたしは…………」
ふと蘇るあのときの記憶。
『トレーナーさんがそんなことする人じゃないって、あたしが一番知ってますから!』
よくそんなこと言えたね、と思う。
──なんにも知らなかったくせに。
「…………」
ノートによってあの時までの本当のトレーナーさんを知って、今やっと理解できたことがある。
トレーナーさんがあたしの前から姿を消したあの日から、あたしに起こった出来事。
ひとつはトレーニング。
『直すところは無い。それでいいぞ』
『……キタサン、もう一度言うぞ。無えんだ。フォームもタイムも何も問題ねえ。無えものをどうやって直したらいいんだ?』
あたしの走りを見て先生はこう言っていた。
『私はキタちゃんと併せすんの初めてだけど、話に聞いてた通りだったよ。全く走りを崩さなくなったって』
『うんうん。キタちゃんも成長してるんだねえ……というか、いつの間にそんなキレる脚使えるようになったの? 最後の末脚ビックリしたよっ!』
あたしと併せた先輩ウマ娘はこう言っていた。
先生と先輩は手放しであたしの走りを褒めてくれた。
──この走りを作ってくれたのは誰?
抱える足に目を落とした。
もうひとつは運動器専門の施設にて。
『素晴らしい! あなた、本当にいい身体してるわ!』
『最低限、毎日欠かさずあなたの身体のことを考えてないと作れないもの。ウェイトの時も、実践的なトレーニングの時も、ずっと常に気を配らないとこんな身体にはならない。担当したトレーナーの熱意の塊みたいな身体よ』
『知識よりも何よりも、全ての時間をあなたに割くぐらいじゃないと、この身体は作れない』
あたしの身体を検査した医師の女の人はこう言っていた。
──この身体を作ってくれたのは誰?
自分自身の身体を抱いた。
あの医師はこうも言っていた。
『あなた、トレーナーに大切に思われてるんだなあ、って感じちゃうわ』
『あなたのトレーナーはね、四六時中あなたのことを考えてるわ。で、絶対大切に思われてる』
──大切に思ってくれていたトレーナーとは、誰?
『私、誰かに勇気や元気をあげられるウマ娘になりたいんです!!』
『ああ、それを叶える手伝いを俺にさせてくれ。改めて……俺は────』
──その走りと身体で、あたしが手にしたものは何?
『皆さん、応援ありがとうございます!!!!! ありがとうございます!!!!!』
──GⅠのタイトルとたくさんの声援。そして多くの人やウマ娘に勇気や元気、そして笑顔をあげることができた。
やっと…………やっと、分かったんだ。
──“キタサンを勝たせてやりたい”──
──“勇気や笑顔をあげられるって夢を叶えさせてあげたい”──
ノートの書かれていた、あたしのことを大切に思ってくれていたトレーナーさん。
あたしにたくさんのものをくれたトレーナーさん。
それはおそらく真実で。
今までの経験と、あたしの身体と走りが、それを何よりも証明していた。
そんな当たり前のことに今更気づいた。
ドーピングに至ってからあたしの家の前で別れた日。今現在どこか地方のレース場にいるトレーナーさん。
今の彼がこのノートに書かれていたように、あたしのことを今でも大切に思ってくれているかどうかなんて分からない。
あたしにドーピングしたこと。
あの日、トレーナーさんがあたしに言った非道いこと。
家の前で別れた日に言われたように、今は大切になんて思われていないかもしれない。
あたしはこのノートを読んだ今でさえトレーナーさんのことが分からないウマ娘なんだ。
……それでも。
「……あたし、菊花賞勝ちました…………トレーナーさん──」
──あたしが勝った菊花賞、見てくれていましたか?
──あたしの走りなんて、もう見たくもないですか?
「トレーナーさん…………あなたは──」
──今、あたしのことをどう思っていますか?
──このノートのように、本当は今でも大切に思ってくれていますか?
──それともあの日に言ったように、今ではあたしのことなんて大切に思ってないんでしょうか?
「…………トレーナーさん……」
伝わるわけがない。届くわけがない。
声にさえなっていないのだから。
あたしは、今のあなたは分からなくて。
分かるのは、ドーピングする前のあなただけで。
──でも、そのあなたは本当だって、それだけは分かるから。
──あの日まではあたしを大切に思ってくれていたんだって、そしてたくさんのものをくれたんだって、それだけは本当のことだって分かるから。
これが、これだけが、あたしの分かること。
「……」
◇
1週間後。年明け。
あたしは連絡を取って、ある男の人のもとを訪れていた。
ノックして、返事の後部屋へ入った。
「失礼します」
ここはURAの本部棟の一室。
デスクに座っている部屋の主と目が合った。
「おはようございます、キタサンブラックさん。それで──」
あたしはそのデスクの前に立った。
「──ご用とは一体何ですか?」
あたしの目の前には糸目の男が座っていた。