この話をするなら、この人しかいないと思った。
「地方にいるトレ……坂川さんを、中央に戻してください!」
「……は?」
糸目の男の目が少しだけ見開かれた。
あたしは誠心誠意、気持ちを込めて頭を下げた。
「お願いします!」
「……頭を上げてそこにお掛けください。話はそれから」
「……はい」
彼に促される通り、応接用と思われる黒い革張りのソファに腰を下ろした。
彼は出入り口の扉の鍵をかけてから、机を挟んであたしの真正面へと座った。
「さて……」
彼の瞼の奥から覗く鋭い眼光に射抜かれた。心の奥まで見透かされるように感じた。
「いくつか伺っても? 坂川健幸を中央に戻せとは、一体どのような意味でおっしゃっているのですか?」
「……今、坂川さんは地方に行っているんですよね。その……URAの命令で」
「命令……ええ。表向きの理由は違いますが、内実はそうですね」
「その命令を無かったことにしてほしいんです! あの人を中央に戻ってこられるようにしてください! お願いします!」
「……なるほど。そういう意味でしたか」
彼はあたしから視線を外し、何かを考えているようだった。
「少し話を整理しましょうか」
「整理、ですか……?」
「ええ。あなたはこの件について
「……いいえ、結構です」
「そうですか。なら私は失礼して」
彼は立ち上がりデスクからソーサーに乗ったティーカップを持ってきて、再び座ると白く細い湯気が立ち上るそれに口をつけた。
ティーカップを置いてから彼は口を開いた。
「坂川くんへの処分……あなたの言う命令ですが、どのような内容かご存じですか? 知っていることを話してください」
「はい……えっと、坂川さんを地方へ長い間行かせることです」
「なるほど。…………話してもいいか。あなたは紛れもない当事者ですしね」
「え?」
「いいでしょう。まずはそのあたりについて詳しいことをお教えします」
「……あたしの言ったこと、間違ってたんですか?」
「間違ってはいませんが……さて、坂川くんを地方で研修する期間ですが、短ければ1年ほど、最長でもあなたがトゥインクルシリーズを卒業するまでです。現段階で具体的な期間は決めていません。これを長い間と思うのかどうかはあなた次第ですけれどね。ご存じなかったでしょう?」
「は、はい……」
初耳だった。父からは具体的な期間について聞いたことは無かった。長い間とは聞いていたから、10年20年……ひょっとすればトレーナーを定年になるまで地方にいるんじゃないかと思っていた。
「以上を踏まえてもう一度訊きますが、それは一体どのような意味ですか?」
「どのような意味……」
「『中央に戻してください』とおっしゃいましたが、期間はどうであれ彼は地方から中央に戻ってきます。あなたにお願いされるまでもなく。そういう捉え方をするなら何も問題ないように思いますが」
確かに期間についてのことは今知ったけど、あたしの言いたかったことはそうじゃない。
あたしは今すぐにでもトレーナーさんに中央へ戻って来てほしいんだ。
あたしは首を振って彼の言葉を否定した。
「あたしは、坂川さんができるだけ早く中央に戻ってきて、トレーナーを続けてほしいんです」
「……少しお待ちいただきたい」
終始余裕を感じさせていた彼の声のトーンが低くなった。
「同じことを何度も繰り返して申し訳ありませんが、それはどのような意味でしょうか。その言い方だと再びあなたのトレーナーになってほしいとしか聞こえませんが」
「違います。……そうじゃないんです」
「ならばどういう意味でしょう? はっきりとお答えいただきたい」
「…………」
清島からあのノートを渡され目を通し、あたしは色んなことを考えた。
彼にまたあたしのトレーナーになってほしいとか、そんなことは考えていない。
「またあたしのトレーナーになってほしいとは思っていません」
だって怖いから。
今の彼があたしに対してどう思っていてどんな人なのか、あたしには分からないから。
感謝の気持ちもあるし後悔の気持ちもある。それだけじゃなくて、ドーピングと暴力を振るったことへの恐怖や怒りとか、色んな感情が残っていて処理できていないから。
何よりまた会って、あの日みたいに非道いことを言われたら今度こそあたしたちは──
「あたしに関係なく、あの人には中央でトレーナーを続けてほしいんです……」
菊花賞を勝って、あたしを支えてくれたみんなや応援してくれる観客の皆さんに笑顔や元気をあげることができた……でも、トレーナーさんには?
菊花賞を勝てたのは誰のおかげ? もちろん清島の存在は大きいし、支えてくれたみんなや応援してくれた観客のおかげでもある。
でも、あたしをずっと見てくれていて、トレーニングメニューをたくさん考えてくれて、それで菊花賞を勝てるまでキタサンブラックを育ててくれたのは他の誰でもないトレーナーさんだ。
あたしは、彼に何かあげることはできただろうか? 何かを返すことはできただろうか?
……何もあげられていないことに気づいたんだ。
ドーピングや暴力があったとしても、今のあたしを一から作り上げてくれたのはトレーナーさん。トレーナーさんがいたから、あたしはここまで来られたんだ。
今はもう、あたしの知っているトレーナーさんじゃないかもしれないけれど……それでも少しでも何かをあげられた、返せたらって思った。
……あたしのレースやライブを見てくれていないとしたら、あたしは一体何をしたら返せるんだろう。
いくら走っても、いくら勝っても、いくらライブで歌と踊りを頑張っても、トレーナーさんには何も返せないんだ。
だからノートを読んでから1週間あたしは考えた。
思いついたのはこれぐらいだった。これしかなかった。
「……頑張って勉強して中央のトレーナーになられた人ですから、地方にいるのは不本意だと思うんです」
「…………」
黙り込んだ糸目の男の目つきが更に鋭くなった。
「これから質問することには正直に答えてください。嘘はつかないように。良いですか?」
「質問……はい」
強い物言いに対して体が身構えるのが分かる。
嘘をつく気なんてないけれど、この人の前じゃ嘘なんて通用しないって直感で分かった。
「あなたの家の前で別れて以降、坂川健幸と接触しましたか?」
「いいえ。トレーナーさんとは会ってません」
「電子機器や手紙、第三者を介しての接触もありませんか?」
「ありません」
「……今日、こうやって私の元を訪れているのを知っている人物は?」
「誰もいません。あたしは誰にも相談していません」
「……坂川健幸に誑かされたわけでもない。誰かに唆されたわけでもない。全てあなたの独断で動いているということですか?」
「はい」
確かに清島からノートを貰ったことがきっかけではあるけど、清島から直接何かを言われたわけではない。
この糸目の男にお願いしに行ったのはあたしの判断だ。
「ですが、あの事件から何か月も過ぎたこのタイミングでやって来たからには何かきっかけがあったはずでしょう。それは何ですか?」
「……それは」
「隠さず答えていただきたい」
「……………………」
本当のことを話すか迷った。はぐらかそうかと思ったけれど、この人は誤魔化しとかは通用しない人だ。うやむやにはしてくれないと思う。
ノートのことを話すことにした。
「……あの人が残したノートがあって」
「ノート? 坂川くんが書いたノートですか?」
「はい。あたしのトレーニングの評価や考察が書いてあります。あたしを担当してから記録されていたノートで、20冊近くあります。それを読む機会があって。昔からノートを書いているのを知ってましたけど、中身は見せてくれなかったので」
「そのノートを読んだことと今回のことに何の関係が?」
「……トレーナーさんが、あたしのことでたくさん頑張ってくれていたことを知ったんです。だから少しでも何かをあげられたら、返せたらって思ったんです」
「……それが今回の行動の理由の全てですか?」
「はい」
「あんなことをした彼も昔は自分のために頑張ってくれていた。それを知って、そんな彼の地方送りをなかったことにして少しでも彼に報いたい。そんなところですか」
彼はティーカップを口に運んだ。
「全く、理解に苦しみますね」
ソーサーに置いたカップから湯気はもう出ていなかった。
「トレーナーが担当ウマ娘のために努力するのは当然のこと。彼はただ仕事をしていただけで、特別に感じることなどありません。何よりあなたは彼に騙されてドーピングされたり暴力を振るわれている。詳細は存じ上げませんが、あなたの自宅前では言葉の暴力も振るわれたと聞いています。あなたはひどく傷ついたはずだ。坂川くんを憎むことはあれど、報いようなどと……お人好しが過ぎるという表現では到底足りそうにない。歪んでいますよ。それとも、哀れに思えたのですか?」
「……正直、あの人についての思いは整理できていません。確かにあたしは怒ったり……憎んで、いたと思います。その感情が残っていないと言えば嘘になります。それでも、あの人があたしのために頑張ってくれたことは変わりません。あたしはあの人……トレーナーさんからたくさんのものを貰ったんです。それをひとつも返せていないことに気づいたんです。何かできることはないかと思って──」
「もう一度申し上げますが、彼はあなたにドーピングして暴力を振るった人間です。あなたが彼に報いたいと思っていても、逆に彼はあなたを疎ましく思っているかもしれませんよ」
「……あたしがお願いしたって伝えてもらうつもりはありません。伝えないでほしいです」
「……第一、彼は真っ当なトレーニングを放棄してドーピングに手を染めた人間です。そんな人間が中央に戻って真面目にトレーナー業に勤しむとでも?」
「っ! トレーナーさんは、あたしの……ウマ娘のために一生懸命に頑張ってくれる人です!」
「そんな確証はどこにも無いし証明できないのですよ。誰にも、もちろんあなたにも。特に今現在の坂川くんについてはね」
「…………っ……」
トレーナーさんが今どんな人間かは分からないだろうと糸目の男は言った。
……痛いところを突かれた。否定できない。あたしは分からないんだから。
「そもそも、なぜこんな辞令を出しているのか理解しているでしょう?」
「……それは」
「あなたに会わせないためですよ。先程、彼が地方にいる期間を1年からあなたがトゥインクルシリーズを終えるまでと言いましたが、事情がない限り後者の予定でした」
「事情……ですか?」
「はい。いくつか想定される物事がありましてね。また、彼があなたに接触を図った場合、お父上の希望があればすぐにでも彼のトレーナーライセンスを取り消しにすると約束しています。……お父上が彼に物凄く怒っておられるのはご存知でしょう」
「……はい」
あの日、トレーナーさんに対して凄んだ父を目の当たりにしている。その後今でも、誰であっても父の前で“坂川健幸”の名前を出せるような雰囲気ではない。
「あなたに接触を図ったらその時点で彼は終わりです。もしそうなったら、あなたの望みは叶うどころか真逆の結果を招くことになる。メリットなどなく、リスクしかないのです」
……確かにその通りだと思う。
「よろしいですか? ……今のあなたは混乱しているだけです。彼のことは忘れて、今はレースに集中してください。菊花賞1着、有馬記念3着。あなたはドゥラメンテと並んで間違いなく世代の主役の一人なのですから」
「…………」
あたしの考えてることは、やっぱりダメなの……?
こうやったって、何もトレーナーさんのためにならないの……?
この糸目の男の人が凄い人だってことは知っている。言ってることも全て正しいように聞こえる
どうにもできないのかと、焦ってしまう。
でも何もできなかったら、それこそあたしはトレーナーさんに──
「坂川くんが中央に戻ってきて騒ぎを起こせばあなたのドーピングがバレてしまう可能性だってあります。それだけはあなたも嫌でしょうに」
──“ドーピングがバレてしまう”……
──本当にあたしのためだけ……?
「…………」
「……黙り込んで、どうされましたか?」
考えてはいけないことが心の中で鎌首をもたげた。
これは絶対に正しくないこと。頭の良くないあたしでも、それだけは分かる。
だってこれは脅迫だ。最低な行為だ。でも、なりふり構っていられない。
「今回のこと、URAはドーピングがバレないように、あたしに気を遣ってくれたんですよね」
「ええ」
「……でも、それだけじゃない」
「……は?」
「あたしの言うことを聞いてくれないなら、ドーピングのことを世間に公表します」
「……今、なんと?」
こうは言っているけど、あたしはそんなことする気はない。だってそんなことをしたら、トレーナーさんに何も返せないばかりかトレーナー人生を終わらせてしまうんだから。他の人達やウマ娘にだって迷惑がかかる。
でも、あたしは本気でそうするんだって、この人に思わせなきゃ。
「あたしのためってことも本当なんだと思います。でもURAもドーピングを秘密にしたいんですよね。あたしのお願い、聞き入れてくれないならドーピングを公表します。あたしはドーピング被害にあったって。……それを、URAも隠そうとしてたって」
「脅しのつもりですか? しかし、残念ながら交渉の余地などありません。なぜならあなたがそんなことをするわけがないからです」
「あたしは本気で──」
「ドーピングを明らかにすることで、あなたが報いたい坂川くんはトレーナーとして完全に終了する。加えてアルファーグに限らず、他のチームのトレーナーやウマ娘へもドーピングの疑いがかけられたり、誹謗中傷の的になるでしょう。それが分からないあなたではないはずだ。助かるのはあなただけ……あなたはお助け大将と呼ばれているのでしたか。そんなあなたが他人の害にしかならないことをするわけがない」
「……っ」
まるで心の中を読まれたように、全て彼の言う通りだった。言い返せなかった。
「結局のところあなたは彼を助けたいのではなく、自分が楽になりたいだけだ」
「そんな……あたしはっ……」
……違う……あたしはただ、トレーナーさんに……
「それと忠告しておきますが、どんな事情があろうが他人を脅すのはやめた方がいい。脅迫なんて二度としないことです」
「……はい……」
「話は以上ですか? ではお引き取りを」
思わず下を向いて、膝に置いた両手を握り締めた。
全て見透かされたうえで、あたし自身の最低な行為を咎められた。
「…………」
やっぱり、あたしがURAの偉い人と交渉しようなんて、最初から無理なことだったんだ。
「ごめんなさい……失礼します……」
無力感に打ちひしがれながら、席を立とうとした時だった。
「……キタサンブラックさん」
「……え?」
「申し訳ございません。そのまま少しお待ちを」
「は……はい……?」
糸目の男は腕を組んで目を瞑った。時折指をトントンと動かしながら黙ったままでいた。なにか考えごと……?
静寂の中、5分ほど経った頃、彼はやっと組んでいた腕を解いて目を開けた。
「……良いでしょう。あなたのその話、承知いたしました。坂川くんが早く中央に戻れるようにしてあげましょう」
「えっ!? どうして、ですか!?」
突然のことで頭がついていかない。さっきまで絶対に聞き入れてくれない様子だったのに、なんで……?
「理由は説明しません。坂川くんを中央に……そうですね、4月頃には中央に戻って来られるようにしてあげます。
「いいんですか……?」
「ええ。ただ、この件についてあなたは以後関与しないことを条件にですが。……また何か要求されてもこっちは困りますからね。いかがですか?」
彼が何を考えているのか分からない。こんないきなり考えを変えるなんて……怪しいとは思う。でも、だからってその理由が分かるはずもなかった。
……とにかく、理由はどうであっても、あたしの願いは叶ったんだ。
「お願いしますっ! ……ありがとうございますっ!」
「よろしいのですね。分かりました。彼が中央に戻って来られるよう手配しておきましょう」
──後から振り返ると、あたしの要求は通ったように見えた。
──けれど、彼が約束したのは彼を中央に戻してくれることだけだったんだ。
──彼がこの後苦しむことを、この時のあたしは思ってもいなかった。
◇
「……まさか彼にではなく、キタサンブラックに
キタサンブラックが去った後、彼女の要求を呑んだ糸目の男はそう独り言ちる。
坂川がしたドーピングや身体的、精神的な暴力は彼女を十二分に傷つけたはずだ。
いくら過去の彼が違うからといって、なぜあそこまでするのか、話を聞いたうえでも全く理解できなかった。
……そう。理解できなかったことが重要なのだ。
キタサンブラックというウマ娘の性格は把握している。あの件で、彼女個人の調査を徹底的にした過去があるからだ。
それを踏まえてあの脅迫の内容……あのような性質を持つウマ娘がするわけがない。
しかし、絶対にそうしないと言い切れないのだ……自身には彼女のことが理解できていないから。
「……あの年代の女なぞ、何をしでかすか分かったものではないからな……」
この年代の少年少女は多感な時期だ。何にでも影響され、自身の考えなんて軽い一本の羽毛のようで、瞬く間に翻る。悪い意味で極めて不安定な状態で、それが普通のことなのだ。
キタサンブラックはドーピングを公表したりしないだろう……それは、自身の勝手な思い込みでしかないのだ。
あの年代は利益と損失の天秤のつり合いなんて何かのきっかけで簡単に破綻する。合理的に動く者ばかりではないのだ。
この仕事をしていると、相手は利益しか頭にない一癖も二癖もあるビジネスの猛者たちだ。久しぶりにあのような年代を相手にした自身は、出ていくよう言った直後の思いつめたようなキタサンブラックを見るまで、そのことを忘れていたのだ。
また今日接して彼女の性質に少し違和感を感じた。彼女は困ってる他人や果てには商店街の人々にも手を貸す利他的な性質だと思っていたがおそらくそうではない。彼女の他人を助けるというのは他人のためだけではなく自分のためでもあるのだ。だからこんな話を持ってきたんだろう。
天秤が他人より自分に振り切れたとき、一体どんな行動に出るのか予測がつかないのだ。こういう手合いは得てして予測通りに動かない。
ここで突っぱねて極端な行動に出られるよりは、少しでも要求を呑んでやって留飲を下げる方がリスクは低いと判断したのだ。坂川相手に取った対応と似たようなものであった。
もし何かあれば根回しした全てが無駄になってしまう。ドーピングを隠蔽したという事実が明るみに出ることが最悪のシナリオだ。
──あの程度の要求ならなんとでもなる。
坂川は地方でも献身的に働いているようだ。大人しくしているだけかもしれないが、今のところ悪い話は耳に入らない。中央に戻す時期が違っても……元々の素行は良いトレーナーだったが、それが爆発したのがあの件の結果と考えるのなら、逆に長々と地方に留まらせて鬱屈させるのもリスクがある。
どちらにせよ、彼が中央でどうするかのリスクは何をしても残るのだ。
キタサンブラックの父親の対応にはそこまで苦労しないはずだ。
地方で坂川健幸を怪しむ声や、あの件について深入りしてくるジャーナリストがいるとでもでっち上げればいい。警備が緩い地方ではなく、警備が厳しく関係者以外が出入りしにくい中央に戻したいなどと説明し、娘のドーピングがバレる可能性があると伝えれば、首を縦に振るだろう。あの父親にとって最優先事項は娘で、ドーピングが漏れないことだからだ。念には念を入れ、彼の周辺をウロウロするだけのジャーナリスト
そして約束したのは中央に戻すことだけだ。スカウトの禁止や、落ちこぼれの最底辺ウマ娘だけを振り分けることに関しては、話に出す義務さえこちらにはない。
彼はドーピングを疑われることなく最底辺を這いずり回るだろう。
彼女にとって、それが分かるのは早くとも数年先のこと。多少なりとも今よりは分別がついていることだろう。
最も強いと称される菊花賞ウマ娘として、もっと強くなってほしいところだ。そうすれば彼女の肩には背負うものが増え、今回のような短絡的で刹那的な行動は取れなくなる。
それにしても、そこまでしなければならない人物だったのだろうか、坂川健幸という男は。
「全く、仕事が増えたな。……時間か」
確認した腕時計は次の会議がそう遠くないことを示していた。