糸目の男の元を訪れてから3ヶ月後の4月、トレーナーさんが中央へ戻ってきたことを知った。糸目の男はあたしのお願いを本当に聞き入れてくれたようだった。
会うことはできないし、関わることもできないけれど、彼のトレーナー室に灯りがついているのを見るとほっとした気持ちになった。
……これで全て返せたとは思えない。本当ならあたしの走りやライブであなたに笑顔や元気、そして感謝を伝えたい。……もっとも、あたしの走りを見ているかどうかなんて分からないし、逆にあたしの走りなんて見たくもないかもしれないけれど。
彼に対して直接できることはもうない。
だから、あたしはあたしのできることを──レースやライブを頑張ろう。
……それしかないんだ。
◇
その年のシニア級1年での天皇賞春であたしは勝った。
去年の有馬記念であたしに勝ったゴールドアクターやサウンズオブアースが沈み、阪神大賞典を好走した同世代のシュヴァルグランやタンタアレグリアが迫ってきて、最後はシニア級5年のカレンミロティックに交わされそうになったけど、ギリギリで差し返した。
春の盾を手にしてこれでGⅠ2勝目。
海外遠征したライバルの2人……ドバイターフで初のGⅠを取ったリアルスティール、ドバイシーマクラシックで落鉄しながらも世界の強豪相手に2着に入ったドゥラメンテに対して胸を張れる結果だった。
そして6月の宝塚記念。あたしはダービー以来のドゥラメンテとの再戦となった。リアルスティールは安田記念に出走して宝塚にはいなかった。
人気投票はあたしが1位になったけれど、実際のレースでの人気は圧倒的1番人気がドゥラメンテ、少し離されて2番人気
結果は──
『一番外からドゥラメンテ上がってきた! しかし先頭キタサンブラックか!?』
──内で抵抗するあたしと、大外からやって来るドゥラメンテ。そんなあたしたちの間から抜け出していくウマ娘がいた。
『マリアライトだ! マリアライトだ! マリアライトだ!』
僅かに抜け出して勝ったのはシニア級2年のマリアライトだった。
『キタサンブラックを、ドゥラメンテを破った!
彼女は去年のエリザベス女王杯を勝ったGⅠウマ娘で、あたしが3着になった有馬記念でも僅差の4着だった。有馬では何とか抑えられたけど、追い縋ってくる彼女のスピードはずっと記憶に残っていた。
稍重のバ場をものともせず、マリアライトが1着。2着はドゥラメンテ、3着はあたしだった。
あたしはドゥラメンテにまたも負けてしまった。
「はあっ……はあっ…………え?」
レースが終わった直後、感情が訪れるその前に目の当たりにしたのは、左脚を抱えて蹲っているドゥラメンテだった。苦悶の表情を浮かべて、歯を食いしばっていた。
疲労なんてどこかに行ってしまって、すぐに彼女に駆け寄った。
「どうしたのっ!? 大丈夫っ!?」
「ぐっ……問題は──」
「下がって下がって!」
ドゥラメンテの様子を見てか、URAの職員がすぐに何人もやって来てあたしは引き離された。
彼女は職員に肩を貸され、ターフにまで入ってきた救急車両に乗せられた。左脚にほとんど体重をかけられないようだった。
──数日後、ドゥラメンテのトゥインクルシリーズ引退が発表された。複数の靭帯や腱の損傷により、競走能力喪失の診断が下されたと報道された。
◇
セミの鳴き声が賑やかな、夏合宿の真っただ中。
その日のトレーニングが全て終わり夕日が傾いてきたころ、夕食までの空き時間を使ってあたしは自主的にロードワークに出ていた。クラシック級の時よりもスタミナがついてきていて、ハードなトレーニングをしていても余裕ができて、こうやって自主トレにも取り組めるようになった。
……実はロードワークに出る理由はもうひとつある。それは清島の娘であるペティが夏休みを利用してこの合宿所まで今遊びに来ているのだ。
彼女はトレーナーさんはどこにいるのとか、なんであたしと一緒にいないのとか訊いてくる。答えるのが難しく、苦笑いで誤魔化すしかできないので、ちょっと居心地が悪い。
まさかあのときのオープンキャンパスのウマ娘が清島の娘だとは思わなかった。それを知ったのは夏休み前に両親と一緒に彼の家へ挨拶に行ったときだった。
「はっ、はっ、はっ」
脚はそこまで重くない。まだまだスタミナも大丈夫そうだ。
今のようなスタミナがあったら、トレーナーさんのトレーニングに応えられたのかな……
菊花賞の前、あの時にタイムが落ちたのは多分あたしのスタミナが無くて、疲労が積み重なってたからだと今になって思う。あたしは自分の疲労が溜まっていることにさえ気づけなかったんだ。
ちゃんとあたし自身が気づいて、トレーナーさんに言うべきだった。トレーナーさんだってあの時はまだ2年目で、あたししか担当したことが──
「はっ、はあっ…………」
──ちくりと、胸が痛くなって足を止めた。
これは身体的な不調じゃなくて、あたしの心の問題だ。
「……トレーナーさん、今どうしてるかな……」
彼が中央に戻って来てから今まで、当然のことだけれど一度だって会ったことは無かった。彼が気をつけているのかは分からないけれど、彼の姿を目にしたことだって無かった。
少し前に調べたけれど、まだ担当はいないらしい。でも1月になったらウマ娘が振り分けられるはずだから、彼はそこであたし以外のウマ娘を担当することになる。
「…………」
もやもやした気持ちを紛らわすために再び走り始めた。
少し温度の下がってきたアスファルトの上を駆けていく。
彼は新しく担当したウマ娘から勝利をプレゼントされるだろう。だってあんなに優秀で、ウマ娘のために頑張ってくれる人だから。ウマ娘だって彼に応えてくれるはずだ。
……あたしはもう何もあげられなくて…………GⅠを勝ったって、トレーナーさんには…………
「え……?」
驚いて思わず足を止めた。向こうからこちらに松葉杖をついて歩いてきているウマ娘の姿が見えたから。
ここにはいないはずのウマ娘がいた。彼女はもう走れなくなって引退したウマ娘だから、こんな夏合宿の場所にいるはずがない。
見間違いかと思ったけれど、段々と近づいてくるその姿は見間違いを否定していた。
こちらに歩いてきたのは──
「ドゥラ……ちゃん」
「……キタサンブラックか」
──故障で引退したドゥラメンテだった。
彼女と会うのは、宝塚記念以来のことだった。
◇
道の真ん中で立ち止まるわけにもいかないので、近くにあった小さい公園に2人で寄った。
ドゥラメンテに話を聞くと、合宿所に来たのはここ数日のことらしい。この夏は病院の診察やリハビリのために学園に残っていたらしいが、トレーナーに現状の報告や脚の状態を見せるために合宿所へやってきたとのことだった。
今はウォーキングでトレーニングしているらしい。松葉杖をついた状態でトレーニングって……?
「脚は大丈夫なの?」
「……問題はない」
それが本当か問い詰める意味でじぃっと彼女を見つめていると、彼女は観念したように小さく溜息をついた。
「……いや、君に隠しごとはするべきではないな」
「……本当はどうなの?」
「歩く分には支障はない。こうして体重を殆どかけなければ杖をついてのウォーキングも許可されている。……ただ、走れはしない」
「殆どって……足をつけて歩いても痛くないの?」
「痛みなど些細なことだ」
「っ!? 駄目だよっ! 痛いの我慢しちゃ駄目!」
「この程度の痛みに屈しているようでは、復帰なんてできない」
「復帰!? ……とりあえず座ろっ、ほらあそこ行こう!」
「っ、おい?」
ドゥラメンテをお姫様抱っこで抱きかかえて、公園内の古い木製のベンチに無理やり座らせた。
「復帰ってどういうこと? だってあの宝塚の後すぐに……」
競走能力喪失で引退したと発表された。あれだけ早く決断が出るということは、本当に酷いケガだったんだろうと思う。
「……引退って、聞いたよ」
「ああ、引退はした。……トゥインクルシリーズはな」
「……え? どういう──」
「私はDTLでの復帰を目指している」
ドゥラメンテは一縷の迷いもなくそう言い切った。
「DTLって……トゥインクルシリーズを引退して、招待があったウマ娘が行けるんだよね?」
ドリームトロフィーリーグ……通称DTLはトゥインクルシリーズで活躍し、URAから招待を受けたウマ娘が移籍できるリーグのことだ。トゥインクルシリーズ引退後だから全盛期を過ぎたウマ娘が圧倒的に多いけれど、それでも本気で走るウマ娘もいるって聞いたことがある。
「ああ。……URAからは、私が望むなら招待すると返答があった」
「そ、そうなんだ……でも、脚は……」
「医師は長い時間をかければ治る可能性はあると。URAは完治するまで何年かかってもいいと言っていた」
彼女は本当ならトゥインクルシリーズに復帰しようと考えていたらしいが、トレーナーや家族、そして医師にこれ以上走ると致命的な故障を招きかねないと言われ、半ば強制的に引退させられたと続けた。
「DTLで走れる可能性が今の私にはある……これ以上のことは無い」
「そこまで……」
「DTLで私は走る。競走能力消失だと言われようとも、必ずこの脚を治しトゥインクルシリーズで証明できなかったものを……この“血”が流れるドゥラメンテが“最強”のウマ娘だと今度こそ証明する」
ドゥラメンテは変わってなかった。力強い言葉と、強い意志を宿す瞳は出会ってから何も変わっていない。
トゥインクルシリーズを引退させられるケガを負っても、彼女は走ることを決めた。それでこそあたしたちの世代の最優秀クラシック級ウマ娘だと、誇らしくもあって、逆に羨ましくも思えた。……あたしは、そこまで真っすぐに前を見られていないから。
「……なあ、キタサンブラック」
「なに?」
「…………」
「?」
ドゥラメンテはこれまでとは打って変わって逡巡するような様子を見せた。逆に、こんな感じになる彼女はあまり見たことがない。
「私は……君に謝らないといけない」
「謝るって……ええっ!?」
「……すまない……」
彼女はあたしが謝る理由を理解する前に頭を下げた。
「どうしたの? 謝るって……あたし、全然謝られることなんて──」
「いいや、私は謝る必要がある。私はトゥインクルシリーズで走れない。……つまり、もう君とは走れない」
「……!」
“トゥインクルシリーズで走れない”
“もう君とは走れない”
頭にゆっくりとその言葉の意味が入り広がっていった。
「去年、怪我をしていた私に君とリアルスティールはまた走ろうと言ってくれた。あの時の私は自身の感情がどういったものか理解できなかったが……やっと理解した。おそらく、嬉しかったんだ」
「……ドゥラちゃん」
「レースの世界でも、私に流れる血が“最強”だと示すために走る。それは今でも変わらない。だが、あの時までは相手にまで意識が向かなかった。……私はずっと自分と戦っていたからだ。そんな私に初めて相手というものを、ライバルというものを、共に走るということを認識させてくれたのは君たち2人だ。……感謝している」
彼女の顔には優しい笑みが浮かんでいた。
「2人の菊花賞を見て心が動いた。キタサンブラックとリアルスティール、君たちには負けない、君たちに勝ちたいという思いが胸の奥から湧き出てきた。初めてだった……誰かに勝ちたいという気持ちになったのは」
でも、あたしにはその笑みが泣いているように見えるのは何故だろう。
「君とは宝塚記念で、リアルスティールとは中山記念で共に走ることができた。だが、私のトゥインクルシリーズはあの宝塚で終わりなんだ。……また共に走ろうと、待っていると言ってくれたのに、私だけ先に引退してしまう。だから、謝らないといけないんだ。君にも、リアルスティールにも」
「そんなことないっ……ドゥラちゃんが謝ることなんて……!」
だってこの表情が全てを物語っている。
いちばん辛いのは、他の誰でもない引退してしまうドゥラメンテなんだ。
勝手な約束を取り付けたのはこっちなのに。
「キタサンブラック、すま──」
「ダメッ! 謝らせないっ!」
頭を下げようとする彼女の肩を押しとどめた。
「ドゥラちゃんはあたしの……目標だった。皐月もダービーもすごく強くて、キラキラしていて。最初はただ悔しいだけだったけど、あの夏からドゥラちゃんの視界に入れてもらおうと必死だった。……たぶんリアちゃんも」
「…………」
「ドゥラちゃんが引っ張ってくれたおかげで、あたしたちは強くなれた。これは絶対に、本当のことだから!」
間違いなくあたしたちの世代の中心にドゥラメンテはいた。それこそ彼女に勝たないとタイトルは取れないと思わせるほどに。
「謝ることなんてない。逆に、あたしがお礼を言わないといけない」
彼女の手を取り両手で柔らかく包み込んだ。少し汗ばんだ彼女の手の温もりが掌から伝わってきた。
「ありがとう。ドゥラちゃん…………一緒に走ってくれて、ありがとう」
「……キタサンブラック…………」
この思いが伝わるようにと、言葉に精一杯思いを込めた。
「それに、これで終わりじゃないよ」
「……何?」
「あたしもトゥインクルシリーズを引退したらDTLに行く」
「なっ!?」
「絶対にURAから招待されてみせる。誰にも文句は言わせないぐらい強くなるから。だからDTLでまた走ろうっ!」
「……君は……」
苦笑いする彼女の顔は、さっきまでのような泣きそうな表情ではなくなっていた。
「あたし、結局ドゥラちゃんとは3回走って1回も勝てなかったし、DTLでは絶対にリベンジするからっ!」
「……フフッ…………させないさ」
そうやって2人で笑みを交わしたあと、あたしはベンチから立ち上がり、一歩二歩と前に出た。
「ドゥラちゃん、見てて」
振り返って彼女の正面に立つ。
「トゥインクルシリーズでのあたしの走りを。絶対に強くなるから。ドゥラちゃんが現役を続けていても、あたしには勝てなかったんだってドゥラちゃんに思わせるような走りをしてみせる」
「大きく出たな。君がそんなことを言うやつだったとは」
……流石に自分でも口にしてどうかと思った。生意気過ぎない?
でも、これぐらいの決意を口にしないと。
「……分かった。見ていよう、君の走りを」
「!」
「DTLで私が倒すに足るウマ娘だと証明してくれ。つまり、君が最強のウマ娘になるんだ」
「あたしが……最強に?」
「ああ。そして最強になった君を私が倒し、改めて私が最強だと証明する。簡単な話だろう?」
それはつまり現役最強ウマ娘になるということで、トゥインクルシリーズの頂点に立つということ。
「私が君に挑むまで“最強”は君に託す」
ドゥラメンテが最も拘っている最強の称号。
それを託されてようとしている。
託されるということは、ドゥラメンテの思いと願いを背負うということ。
あたしとドゥラメンテの道は一旦別たれてしまうけど、未来で必ず交差する時が来る。
「うん。あたしが“最強”になってみせるよ」
あたしは確かに受け取って、そして背負った。
ドゥラメンテというウマ娘を。
ドゥラメンテ実装に即して彼女の台詞を微修正しました。