「ワールドちゃん、勝てるんでしょうか……?」
数日後にスプリンターズステークスを控えたある日。
チームシリウスのトレーナー室にてチーフトレーナーである天崎ひよりは枠順が確定した出走表を眺めていた。
そんな天崎に声を掛けたのはスペシャルウィーク。彼女は先月のジャパンカップにてモンジューはじめ海外のウマ娘相手に勝利を収め、年末の有馬記念を控えていた。ホームルームが終わりシリウスのトレーナー室に直行していたので、他のウマ娘はまだ誰も来ていなかった。
「ワールドちゃんなら大丈夫。世界のウマ娘相手に勝ったすごいウマ娘なんだから! 力を発揮できれば絶対に勝てるよ。私はワールドちゃんを信じてる」
アグネスワールドは今年10月のフランス、不良のロンシャンレース場1000mで行われたGⅠアベイドロンシャン賞を勝利した。更には1200mのレコードタイムホルダーでもある。その絶対的なスピード能力は世界レベルのウマ娘だ。
スペシャルウィークに言ったことは嘘ではない。実力さえ発揮できれば勝てると踏んでいた。
ただコーナリングが不得手であることと、逃げ先行で1番人気を背負うだろうから他のウマ娘の標的になることが予想される。坂も少し苦手にしている。以上3点が懸念材料だ。
コーナリングは中々修正できない。けれど、あまり修正に力を入れ過ぎて他に影響を及ぼしては面白くないので、あまり修正に拘り過ぎないようにしている。
天賦の才を持つウマ娘ばかりを集めているチームシリウス。ここにいるウマ娘たちには短所を消すより、長所を伸ばした方が良い成績が残ることをこれまでの経験で理解していた。
気分良く日々を送らせ、モチベーションは常に高く。体調管理は怠らない。変に矯正しないで伸び伸び育て、ウマ娘の本能や野生を引き出してあげる。そうすれば勝手に育ってくれるし、レースでも最高のパフォーマンスを出せる。
その結果が目の前にいるスペシャルウィーク。ジャパンカップでモンジュー含め世界の強豪たちをねじ伏せたことが何よりの証明だ。
「そうですよねっ! ワールドちゃんもお姉さんのヒシアケボノさんに続くんだーって、トレーニングすっごい頑張ってますし!」
「うんうん。姉妹で同じGⅠ勝てたら……なんて、本当に映画やドラマの話みたいだよね」
姉妹でのGⅠ制覇など心底からどうでもいい。それがアグネスワールドのモチベーションのひとつではあるので、話を合わせてやってはいるが。
「でも、他にも強いウマ娘がいるんですよね……えっと、ブラックホークさん、マサラッキさん、それに……キングちゃん」
「強敵揃いだね」
「あのっ、トレーナーさん……キングちゃんはどうですか……?」
「……キングヘイローちゃんか……」
あの翠の勝負服を着たウマ娘と坂川の姿が自然と思い浮かんできた。
「初めての1200mだけど、油断はできないね。マイルチャンピオンシップ、ジハードちゃんがあそこまで迫られたんだから、あの力は本物だよ。長距離の菊花賞でも5着に入れるのに、マイルのGⅠでも2着だなんてすごいウマ娘だね。……スぺちゃんの友達なんだよね?」
「はいっ。……本当に努力家で、勉強だってできるし、しっかりしてるし……授業ではキングちゃんに助けてもらってばかりでした」
「いい娘なんだね。う~ん、難しいなあ……スぺちゃんの友達も応援したいけど……でも、私はシリウスのトレーナーだからね、私はやっぱりワールドちゃんを一番に応援するよ。その次にキングヘイローちゃん!」
天崎ひよりが坂川健幸のウマ娘を応援? 何があってもあり得ない。口に出した自分の白々しさに内心で失笑していた。
だが、腹立たしいことにキングヘイローの実力自体は認めている。あのマイルチャンピオンシップの走りには肝を冷やされた。エアジハードが並のGⅠウマ娘ならやられていただろう。安田記念のように大崩れすることもあるピーキーなウマ娘ではあるが、前走のように歯車が合致した時の爆発力は無視できない。
距離短縮で結果を残しているのを見るにスプリント適性はあるのだろう。去年みたいに有馬に出走してくれていれば全く問題にならなかったのだが……あの男は実に厄介なことをしてくれる。
……まあ、有望なウマ娘が彼の元についたらこのような結果になるのはどこかで分かっていたことだ。
さらに横水のブラックホークも初めての1200m挑戦だ。彼女が考えなしに初距離をGⅠで試すわけがない。どうもきな臭さを感じる。嫌な感じだ。
「……私も、できれば2人ともに勝って欲しいんですけど……勝つのは1人ですもんね」
「そうだね。厳しい世界だよ。……スぺちゃんも、有馬記念でグラスワンダーちゃんにリベンジしないとねっ」
そう言うとスペシャルウィークの雰囲気が変わった。頼りない雰囲気が立ち消え、引き締まった雰囲気を纏う。
普段の様子はチームに入ってきたときと変わらないが、以前よりもこうやってオンオフがはっきりするようになった。日本総大将と呼ばれていることもあり、自覚というか責任みたいなものを感じているらしい。良い傾向だった。
「…………はい。絶対に勝ちます。宝塚みたいな、悔しい思いはもうしたくないですっ」
そうしていると他のシリウスのウマ娘たちがトレーナー室にやって来た。スペシャルウィークはその娘たちと一緒に部室に向かい、部屋には自分だけが残される。
スプリンターズステークスに挑戦するアグネスワールド……彼女がシリウスで果たした役割は大きい。
アグネスワールドは海外GⅠ勝利という成績をシリウスにもたらしてくれた。これでシリウスの名は日本だけでなく世界にも轟いた。こうやって名声を博することで、海外生まれの有望なウマ娘をシリウスに入れてもらえる良い切っ掛けとなる。加えて、この海外勝利によって海外志向のあるウマ娘を引っ張ってきやすくなる効果も期待できる。
アグネスワールドも元々はアメリカ生まれのウマ娘で、姉のヒシアケボノと同じチームに入る予定だったところに横槍を入れて引っ張ってきたのだ。
才能のあるウマ娘を集めなければならない以上、こういう名声こそが大きな役割を果たす。海外のジュニアクラブやポニースクールとの繋がりを持つためにアグネスワールドに海外遠征を持ち掛け、そして勝利して
あの天皇賞秋後にアメリカ遠征を予定したサイレンススズカの代わりにもなった。スペシャルウィークのジャパンカップも世界へ向けて大きなアピールとなっただろう。
このように繋がりを新規開拓するのはシリウスにとって重要なことだ。海外はもちろん、国内の有力なクラブやスクールとも積極的に関りを持ちパイプを作るようにしている。
……エルコンドルパサーとグラスワンダーなど海外から来た強力なウマ娘がいる清島のアルファーグに対抗するためにも重要なことだ。
掴んだ情報によると清島はアメリカにいるシンボリクリスエスとかいう名前のウマ娘や、アイルランドの王族のファインモーションというウマ娘に唾を付けているらしい。国内なら今年のダービーウマ娘アドマイヤベガの妹アドマイヤドンもアルファーグに入る予定だと聞いている。
3人とも超がつくほどの有望株で、どうにかして横取りできないか画策中だ。……正直なところ、かなり危機感を抱いている。
繋がりと言えば、近い将来メジロ家とは縁を切る予定でいることを思い出す。
DTLを引退しチームを離れたメジロマックイーンの出身であるメジロ家だが、今は没落に向かっている。と言うのも中学生から小学生のメジロ家が所属しているクラブやスクールに有望なウマ娘がほとんどいないのだ。現役のメジロブライトや先日引退したメジロドーベルより下の世代が全く育っていない。
その原因など興味もないし調べる気すら起きないが、この前メジロ家のクラブの模擬レースに招待され見に行ったときにはあまりのレベルの低さに愕然とした。……何より、そこで育成しているメジロ家の関係者たちがそのことに気づいているだろう。
メジロラモーヌ、メジロマックイーン……GⅠウマ娘を多数輩出し中央を席巻した名門メジロ家の姿はもうそこにはなかった。盛者必衰とはよく言ったものだと思う。
重賞レベルならまだしも、GⅠを確実に取れるほどの逸材は皆無だ。シリウスが必要としているのはGⅠを最低でも複数勝てるウマ娘であって、GⅡGⅢレベルのウマ娘など必要ない。あれだけレベルが落ちると、今までメジロのウマ娘を受け入れてきた有力チームも嫌がるだろう。
そんなウマ娘を押しつけられる前に疎遠にしようという算段だった。こちらからいきなり切ったら信用問題になるので、徐々にフェードアウトする予定だ。自分がシリウスのチーフになってからはメジロマックイーンしかメジロ家のウマ娘は所属しておらず、昔のシリウスほど繋がりが深いわけでもない今なら手を切るのはそこまで大変ではないはずだ。
……まあ、最悪1人か2人は受け入れる必要はあるかもしれない。受け入れて対外的なイメージアップにでも繋げられたらそれでいい。
「……今はそんなこと考えている場合じゃないね」
頭を切り替えて立ち上がってトレーニングの準備をする。アグネスワールドとスペシャルウィークに勝ってもらうために、今日もやるべきことが沢山ある。このメニューだって、シリウスの優秀なサブトレや学園外の多くの専門家の意見を聞きながら時間をかけて仕上げたものだ。
……私1人じゃ、あの2人には届かないから。
「……さて、坂川くんと……幸ちゃんか」
坂川健幸のキングヘイロー、横水幸緒のブラックホーク。
スペシャルウィーク、キングヘイロー、セイウンスカイのクラシック路線に続いて、こんなところまで来て再び争うとはなんて因果なものなのだろう。
「ロマンチックに言えば、運命の巡り合わせかな?」
私はファイルや道具を持ってトレーナー室を後にした。
◇
──時は遡り、在りし日のこと。
「幸ちゃん、私気づいたんだ。トレーナーの価値、意義ってやつに」
「……久しぶりに会ったと思えば、いきなりなんだ」
「結局、トレーナーとして優劣を決めるのはどれだけ勝てたか、どれだけ賞金を稼げたかなんだよ」
「…………」
「トレーナーがいくらウマ娘のために頑張ったって意味はない。勝利すれば全てが肯定され、敗北すれば全てが否定される。勝利こそ正しくて、敗北に価値はない」
「……勝利至上主義か。ありきたりで陳腐な考え方だな」
「え~、でもさ、負けるトレーナーに価値なんてないでしょ。ウマ娘と固い絆を結んで、一緒に戦って、懸命に努力して……それで勝てなかったら? そんなのただの笑い話じゃん。勝利が伴うからこそ、その絆や努力とか全てに意味が生まれるんだよ。勝利が伴わなかったら、無能な間抜けの与太話にしかならない」
「……ひより……? どうしたんだ一体……」
「社会において求められるのは成果。はっきり言うと金稼ぎ。金を稼ぐ奴が勝つ。一番金を稼ぐ奴が一番偉い。トレーナーも一緒だよ。だからさ、トレーナーとしたらウマ娘なんてただの手段、つまり道具なわけじゃん。トレーナーの価値を高めるためのさ。そう考えたら
「何の話を……支離滅れ──」
「私さ、シリウスのチーフになるんだ」
「なっ!? 確かにあの人はもう定年で……だが、シリウスじゃお前は一番経験が浅いだろう? ベテランのサブトレーナーたちは──」
「私の下についてもらう。
「……チーフになるために、一体何をした?」
「えー、聞きたいの? 色々やったけど、お嬢さんの幸ちゃんは聞くのやめた方がいいと思うなー。それでもいいなら教えてあげるけど、幸ちゃん顔真っ赤になっちゃいそう」
「ひより、お前まさか……! ……もういい。お前が下らない下種な考え方に支配され、汚いやり方に手を染めたのは分かった」
「ひどいなー。真理だと思うんだけど。……て言うか、そもそもこんなことに気づいちゃったのは坂川くんのせいなんだよね」
「坂川が!? 何かされたのか?」
「何もされてないよ」
「……は?」
「坂川くん、
「……何が言いたいのか分からないな。理解できない」
「きっかけは坂川くんだってことだよ。ま、私のことを幸ちゃんに理解してもらおうなんて思ってないけどね。幸ちゃんみたいな恵まれてる人には分かりっこないよ」
「……ひとつ忠告しておく。皆が皆、勝ち負けや優劣だけを追い求めているわけではない」
「戯言だね。逃げる弱者の言い訳でしょそれ。勝てないから下らないことに価値を見出してるだけだよね」
「……もう、戻れないのか」
「うん。戻るつもりもないよ」
「…………そうか。残念だ。変わってしまったんだな」
「人なんて変わるのが普通でしょ。幸ちゃんだってさあ、だいぶウマ娘に厳しいみたいじゃん。結構噂になってるよ、『あの父親より厳しい』ってさ」
「…………もう話すことは無い。じゃあな、
「……………………ばいばい、
◇
「で、話とは何だ?」
「……えーっと、そのですねえ……」
「さっさと言え。怪我人の愚痴に付き合うほど暇ではない」
セイウンスカイはトレーナー室でデスクにいるチームアルバリのトレーナー、横水幸緒と向き合っていた。もっとも、横水の言う通り話がしたいと連絡したのはセイウンスカイ自身なのだが。
横水からしたら数日後に控えたスプリンターズステークスのために一刻も早くブラックホークの元へ行きたいはずだ。たぶん滅茶苦茶イライラしてる。それぐらいは私も理解していた。
一応、ここに来るまでに決心してはいた。でもいざ口にするとなるとやっぱり少しもにょってしまう。
「当ててやろうか? 引退を考えているんだろう」
「っ…………はあ~」
言い当てられて一瞬息が詰まったけれど、その直後は肩の力が抜けた。……彼女にはバレてたか。
屈腱炎の痛みは今日も私を侵していた。
「はい。トゥインクルシリーズを引退しようと思います」
「一応だが、理由を聞こうか」
「何もかもつまらなくなりました。モチベーションがマイナスになりました。……そんなとこですね~」
「お前らしいな。辞めた後はどうするんだ? DTLは? お前ならおそらく招待は来るだろう」
「レースをする気はありません。そうですね……昔、トレーナーさんに言われたみたいに、セイちゃん、ゴシップ雑誌の記者にでもなりましょうかねー? ずばり、敏腕トレーナー横水幸緒の過去を大スクープ! ……なんて☆」
ばちっとウィンクをしたけれど、横水は厳しい表情を崩さない。いつもの私のトレーナーだった。
──けれど、その瞬間彼女は表情を和らげた。気の抜けた表情と言っても良かった。初めて見た表情をしていた。
「……はあ、そうか。……脚は今も痛いか?」
「えっ? ……あ……はい。痛い……ですけど……」
「……まあ、そうだろうな。本当に酷い怪我だった。走るのも嫌になって当然だ」
訊かれた言葉より、今の横水に対して困惑している自分がいる。
本当に意味が分からない。この人はいつも刺々しくて、常に険のある空気を身に纏い、高圧的な態度をとる人だ。そんな人が今は憑き物が落ちたような雰囲気を醸し出していた。
横水はスマホを操作して誰かに電話をかけた。
「ローレル、周りに誰か……いないんだな。すまないが今日はトレーニングに行けるか分からない。先に始めておいてくれ。……セイウンスカイと少し話をな。メニューは予定通りで……ああ、トロットサンダーと一緒に頼む。……すまないな。ありがとう」
電話の相手は元チームアルバリのサクラローレルのようだ。同じく元アルバリのトロットサンダーのことも口にしている。彼女らは今は外部コーチとしてトレーニングを見てくれるウマ娘たちだ。以前は2人ともDTLで走っていた。
彼女はサクラローレルに対しても突き放すような口調で話しかけている。こんな優しい口調で話している姿なんて──
──まるで別人だ。
「……なにかの演技ですか?」
「これが素だが?」
「……なんですか。今の今まで皮を……狼の皮を被ってたってことですか……!?」
「お前にしては詩的な表現だな。そうだな……羊の皮を被った狼ならぬ、狼の皮を被った羊だったというわけさ。ははっ、人をよく観察しているお前をこうやって騙し通せる程度には私の被っていた皮も厚かったようだ。ローレルやトロットサンダーもうまくやってくれてたし、こちらが一枚上手だったな」
目の前の光景がまだ信じられない。
これが横水の本性……!?
「敵を欺くにはまず味方からってことですか……? 私の観察眼もまだまだですね……!」
「まだ二十歳にもなっていない小娘なんてそんなものさ。何でも分かってる気がして、何も分かってない。私も昔はそうだった」
「っ!」
物凄く腹が立っていた。自分自身に。
彼女の言う通り、人を見る目は優れてると思っていた。だが、まさか一番身近にいる人間やウマ娘たちにずっと騙されているとは思わなかった。
横水はいつも真っすぐに伸ばしている背筋を丸め、椅子へ沈み込むようにたれかかっていた。
「なんで、こんなことをしてるんですか?」
こんなことをしている理由が分からなかった。わざわざ本性を隠すような真似をして、横水は何がしたかったんだろう。
「言うことを聞いてくれないウマ娘が怖いんだ。だからこうやって上から押さえつけて言うことを聞かせる。……裏切られるのが怖いから指示に従わない傾向のあるウマ娘は辞めさせるか、そもそも担当にしない。昔、模擬レースでお前が私の指示に従うかが最も重要だと言っていただろう?」
「……ありましたね、そんなこと」
「生徒のお前は分からないかもしれないが、女性トレーナーだと舐めてかかってくるウマ娘は実は少なくない。女とは、同性同士と言うのは嫌なものだな」
「……」
「非情で弱くて、臆病な女なんだよ、私は。……昔、痛い目に会ってな。それからはこんな感じでやっている」
……その痛い目、実は心当たりがある。彼女の経歴を分かる範囲で調べたことがあるのだ。
先代のアルバリのチーフトレーナー……彼女の父が病に伏したとき、サクラローレルとトロットサンダーだけを残して他のウマ娘とサブトレーナー全員がアルバリをやめて新チームを結成したと記憶している。
裏切られる……それのことではないか?
サクラローレルに一度当時のことについて尋ねたことがある。詳細は何も教えてくれなかったが、大変だったとは言っていた。
「ま、それだけが全てじゃないけれどな。私のやり方は、かつてトレーナーであった父のやり方を踏襲している。今の私みたいに極端なやり方ではないにしろ、自他共に厳しく、厳格な父のやり方を……横水家のこのトレーナー像こそ理想の姿だと私は信じてやってきている。私は元々……甘ったれな人間なんだよ。昔はよく名家の箱入りお嬢とか言われてバカにされていた」
「……なら尚のこと、何故今打ち明けたんですか?」
「特に理由はない。気まぐれだ」
「……は?」
「明確な基準があるわけじゃない。私が明かしてもいいかなと思ったウマ娘にはこうやって話すことにしている。と言っても、あの2人は私がこうなる前からの付き合いだし、お前以外じゃホクトベガぐらいだが……まあ、私がお前を信じたんだろう。気を許してしまったんだろうな」
以前の彼女からは想像もできないような言葉が並べられる。
一方の私は呆気に取られて言葉も出ない。これももしかしたら演技かと思ってはいるが、そう判断するには今の横水は自然体すぎた。
「お前は感情の機微に聡いからこちらもやり易かったよ。たまに踏み込んでくる以外は一定の距離を保ってくれるしな」
「……訊きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「なんだ?」
「例えばあの時……キングのトレーナーである坂川健幸について訊いたとき、明らかに怒っていましたよね。余計なことを詮索するなって。それにレースの事前検討でもキングはずっと外していた。あれも演技の一環なんですか」
「ああ、あれか。……あれは本心だ」
「……え?」
「言っておくが私は根が短気なんだ。頭に血が上りやすい。あれは頭がカーッとして怒ったんだよ。坂川のことに関して知りたいお前と、その坂川のことも思い出してな。あの時みたいに特別に怒っているような様子の私は大体本気で怒っている」
「……よくそんな調子でバレませんでしたね……」
「普段から不機嫌そうにしていたおかげだな。それと実は……あれは皐月賞前だったな。キングヘイローの取り扱いについてお前に詰められたとき、後から反省したんだ。確かに私は私情に囚われていた」
「ええっ?」
「驚くことか? 皐月賞ではあと一歩のところまで詰められていたじゃないか。内心ヒヤヒヤしていたぞ」
……何だろうこの人は。あまりにもギャップがありすぎてついていけない。そこら辺の気のいいお姉さんにしか見えない。
「だが、皐月賞後のレースでお前にキングヘイローの話を出さなかったのは意地を張っていたわけじゃない。お前の敵にならないから外していただけのことだ。お前とキングヘイローの直接対決の成績、言ってみろ」
「……6戦6勝です。全て先着しています」
「そうだ。弥生賞、皐月賞の後も4戦4勝。特に対策を立てることなくお前はキングヘイローに全て勝ってみせた。お前に彼女への対策は必要なかった。そうだろう?」
「……確かに、そうですけど」
でもなんか腑に落ちない。
「マイルチャンピオンシップでも、安田の惨敗があったからそこまでキングヘイローを脅威とは見ていなかったんだが……ブラックホークが負けた。坂川のウマ娘であろうともう無視できない。あのウマ娘には力がある」
「……そこまで言わせるキングのトレーナーって、一体何をしたんですか?」
「それだけは言うつもりは無い。私は頭の固い人間だからな、ルールを破ったり、裏切る奴が嫌いなんだ。……お前をはじめ担当ウマ娘たちにこんな接し方をしてきた奴の言い分ではないかもしれないがな」
「……」
「頼むから、坂川については詮索しないでくれ。私にも、他の誰かにもな」
「……トレーナーさんから“頼む”なんて言葉、初めて聞いたなー。分かりました。興味本位で訊いてすみませんでした」
「いや、いい。こっちも悪かった。…………さて、話が大きく逸れたが本題に戻ろうか。トゥインクルシリーズを辞めたいんだったな」
少し緩んでいた空気が引き締まるのを感じた。
「はい。もうレースに対する熱が無くなっちゃいました」
「そうか……」
横水は腕を組んで少し考え込んでから口を開いた。
「辞めるのはいつでもできる。もう少し考えてみてくれ」
「……引き留めるんですか」
「そうだ。お前はまだやれると思う。トゥインクルシリーズでもDTLでもな。屈腱炎は辛いだろうが、治らないと決まったわけじゃない」
「……治ったところで、私はもう──」
「私はお前の能力が落ちたとは思っていない」
「……それは」
「天皇賞秋も苦手な東京で少し負けただけだ。……一番人気ばかり支持されて辛かった面もあるだろう。お前は一回も掲示板を外していない。胸を張って誇っていい結果だ」
「…………」
この人がこんなに素直に褒めてくれることなんて初めてだった。
「まあ、もし辞めるなら進学先や就職先をサポートしよう。なあに、これでも私は名門横水家の人間だ、かなり融通は利くぞ。どこでもコネでねじ込んでやる。はっはっは」
横水はからからと笑っていた。これまで声を出さずに口角を上げる程度でしか笑わなかったのに。
「辞めた後のことは心配しなくていい。だからもう少し考えてみてくれ。つまらない、モチベーションの低下……今はそうなんだろう。だが、時を置くと考えが変わることもある」
「…………」
「これを気に少し色々なものを見るといい。レース関係でも、レース以外のこともな。しばらくトレーニングは自由参加で良い。トレーナーとしたら、怪我のない箇所は鍛えてほしいが……お前に任せるよ」
……私はやっぱり甘いウマ娘なんだなって思う。
「……少しの間モラトリアムでも楽しむことにします。とりあえず保留ってことで」
「それでいい。ありがとう」
「……すいません、時間とらせて。先輩のトレーニング行ってください。私はこれで失礼します」
踵を返して扉に手をかける。
そこで、どうしても言っておきたいことが一つだけあった。
「トレーナーさん」
「まだ何かあるのか?」
「眉間にずっと皺が寄っているトレーナーさんより、ぜっっっったい今のトレーナーさんの方が良いです」
「……ローレルたちにも言われるよ。だがこれを崩す気はない。私は臆病だからな。これからまた前のように接するぞ。今の私のことは他言無用だ。こんな感じでお前に接するのは、今みたいに2人きりか、他にいるのがローレルたちだけの時だ」
私はその言葉に仕方なく頷いて、トレーナー室を後にした。
……サクラローレルとトロットサンダーがDTLも横水の元で走り続けて、今でも外部コーチとして来てくれるように、横水の傍にいるのがずっと不思議でならなかったが、今日やっとその理由が分かった気がした。
「……行ったか……はあっ……」
吐いた溜息が
セイウンスカイがトレーナー室を去ったので、急いでトレーニングの準備に取り掛かった。
彼女に言ったことは本当のことだ。嘘は一つもついていない。こっちこそ私の本性だ。
私は……少なくとも中身は年を重ねて丸くなった。
幼い頃から大人になるまでは、横水家の人間として相応しく在るために肩肘を張って歩んできた。昔の自分は融通が利かず、堅物で、高潔さなんてものを内に秘めていた。
その人生の途中で様々な人に出会った。
3人の内で一番優秀で、その上ウマ娘のためにひたむきに努力していたのに、過ちを犯した同期がいた。
心の優しい女の子だったのに、壊れてしまった同期がいた。
私や父に良い顔をしてくれていたのに、ずっと信じていたのに、掌を返すように裏切ったサブトレーナーやウマ娘がいた。
皆、そんなことをする人たちだとは思ってもいなかった。自分がどれだけお人好しで、甘い人間なのか知ることとなった。
残ってくれたウマ娘たちはいたが、その2人以外は何も信じられなくなった。
あの2人には感謝してもしきれない。2人がいなかったら私は……考えたくもない。今でも十分歪んでいるが、この中身までも歪んでいただろう。
何も信じられなくなった私は高圧的な姿勢で他者と接するようになった。
裏切られないようにするために。裏切りそうならこっちから先に切り捨てるために。
なんと弱い人間なんだろうか。しかし、こうせずにはいられない。新しいウマ娘を担当するときは怖くて堪らない。裏切られるんじゃないかといつも怯えている。どれだけ良い顔をしてくれていても、人は簡単に裏切れることを知ってしまったから。
……騙されることや裏切られることを恐れるトレーナーが、こうして演技してウマ娘たちを騙している。結局は私も同じ穴の狢なのだ。呆れるほど愚かで笑えない。
セイウンスカイに自分のことを話したときも……内心では怖がっていた。恐ろしかった。だからさっき吐いた溜息が震えていたのだ。
真実を聞かされた彼女が豹変して、今までの態度について逆上して怒る可能性だってあった。だが彼女は受け入れてくれた……ありがたいことだ。話しても良いと思った判断は間違っていなかった。
こうしてホクトベガやセイウンスカイに自分のことを話してしまうあたり、つまるところ自分は誰かを信じたいんだろう。人に裏切られても懲りない……本当に甘っちょろい。
……いつかは、狼の皮を脱いでずっと羊でいられる日がくるのだろうか。
坂川のことは……今でも許せない。彼のことだから何か事情……まあ、たぶんキタサンブラックを勝たせたいあまりの凶行だったんだろうが、それでもドーピングだけは許してはならない。ドーピングはトレーナーにとって、一般社会における犯罪と同じだと思っている。どんな理由があろうと許してはならない。URAの思惑があったにせよ、大した罰も受けずに中央でトレーナーを続けているのが許せなかった。
あの当時もそうだったし、弥生賞の取材の時に天崎に連れられて私の前に来たのだが、私の正義感と言うものは何年経っても黙っていなかった。あの怒りは間違いなく私の本心だ。
今の坂川が変わったかどうかは知らない。
ただ、コースに出ている彼の姿はたまに目にする。作業服を着て、スタンドに設置したタブレットを何台も並べて、更にはウマ娘のイヤホンと繋がっているであろうマイクに何か喋っている姿は中々にコースで目立つ。おそらく何か特殊な機器を使っている。走行距離を記録するためにGPS関連の機器を使っているトレーナーは他にもいるが、あのタブレットの数からするに他にも何かデータを記録しているのだろう。……何でも知識を吸収する彼らしいと思ってしまった。その点は昔と変わってないのかもしれない。
去年の年末の口演発表の資料もよく出来たものだった。あの質のレビュー論文は中々お目にかかれない。癪だが、セイウンスカイの屈腱炎の治療に参考になりそうな研究もいくつか見繕うことができた。
それでもドーピングだけは許せない。
そこだけはどうしても譲れない。許せると思えば楽になれることは分かっているが、無理な相談だった。これは私の本質的なことだ。私は一生彼を許すことは無いのだろう。
だが、ああやってウマ娘のために努力している姿勢を否定する気はない。彼は新人寮の時と同じように、あのキングヘイローたちのために努力しているのだろう。
キタサンブラックのために懸命に努力していた姿を私は近くで見ていたのだ。1人のウマ娘のためにひたむきに頑張る彼を尊敬していた。
……色々なことを考えすぎて思考がまとまらなくなってきた。
「……難儀なものだな」
準備を終え、トレーナー室を出てコースへと向かう。
アルバリのトレーナーとして、横水家の栄誉を重ねるために。
ブラックホークをスプリンターズステークスで勝たせるために。
こんな臆病な羊の後をついてきてくれるウマ娘のために。
……弱い自分を守るために。
私はまた狼の皮を被りなおした。