私は少し遅めのスタートになった。
坂川の指示が頭にあった私は無理に先行しようとせず、自分のペース、リズムで運ぶことを優先した。
そうすると自然とポジションが後ろへと下がり、他のウマ娘たちが我先にと前ヘ進出していった。後ろからバ群を眺めていると、まるで今が最終直線で競り合いながら末脚を使っている場面のようだった。
昨日今日のバ場は内が少し荒れ気味で外の芝が綺麗な状態。内よりは外有利のバ場になっていた。以前坂川が予測した通りだった。
『バラついたスタートです! マイネルラヴ好スタート、そして内から上がってきたトキオパーフェクトが先頭1バ身のリード。2番手アグネスワールド、その後にメジロダーリング、ブラックホークと続きます。キョウエイマーチは控えました』
坂を下りながらスピードを上げる。このスタートした数秒だけでもスプリントの激流をその身に感じる。中距離とはもちろんマイルとだって違う……この速さは他のどの距離のレースとも違う。異質という言葉がぴったりと合う。
スタートして10秒ほど。距離的には1ハロンほどの位置だが、私は単独最後方の殿というポジションになった。前のウマ娘と1バ身半ほど間が空いて、その先にバ群が固まっている。こんな位置でレースを運ぶなんて、デビュー2戦目の黄菊賞以来だった。
私だけ置いて行かれるように感じ、焦燥感が芽生えてくる。
(私は私のペースを……! でも……)
マイペースに運んでいるものの、必要以上に走りを緩めているわけではない。むしろ自分のリズムの中では速いペースのつもりだ。
なのに前のバ群には追いつけない。緩めれば一瞬で突き放されるだろう。
最前線の方にはちらりと有力ウマ娘たちの姿が見える。外の方にいるマイネルラヴ、その前にポジションを取るブラックホーク、逃げウマ娘に差を詰めていくアグネスワールド……私からは遠く離れたところに力のあるウマ娘たちがひしめき合ってしのぎを削っている。
(……! あれは……)
『去年のチャンピオン、マイネルラヴが前と並びかけようとしています!』
去年のスプリンターズステークス覇者マイネルラヴが外から進出し、ブラックホークを交わし前方へとポジションを上げていった。あの娘は去年も同じように道中で捲り気味にポジションを上げて勝利した。彼女はその戦法でタイキシャトルとシーキングザパールを競り落としたのだ。
スプリントのG1で道中捲って勝ちへ繋げる。しかも相手がタイキシャトルとシーキングザパール。それがどれだけ凄いことなのか、今の私なら身を持って理解できる。
彼女は私と同期で、ジュニア級の時は東スポ杯で私が彼女をマークして交わして勝利したことを不意に思い出した。
あまり猶予は残されていない。私も動きださないといけないと思うのだけれど──
(くっ……これ以上……!)
──体が前に進んでいかない。
故障ではない。必死に追い上げようとはしており、前との距離も詰めて後ろから2番手の娘と並ぶまでは進んでいるのだが、スパッと加速してイメージ通りに進出できない。
……おそらくスプリントのペースに私は翻弄されているのだ。これまでマイルでも追走に苦労したことがない私にとって、道中で置いていかれるようなこの感覚は初めてのことだった。
気づけば600mのハロン棒を通過していた。もうレースの半分が過ぎたということ。
『中団後方に高松宮記念を制したマサラッキ、最後方はキングヘイローです! すでに600の標識は通過、第4コーナーのカーブに入っています!』
(もう第4コーナー!? 早すぎよっ! これがスプリント……!)
何もしていないのにもう第4コーナーに入っていた。
先頭ではトキオパーフェクトにアグネスワールドが並びかけ、更にその外にマイネルラブが迫り3人が横一線に並んでいた。
そして、その3人の2バ身後ろにブラックホークが差を詰めていた。
肝心の私は未だに遥か最後方。
昨日今日と差しが決まる傾向のバ場とはいえ、直線の短い中山でこの位置はまずい。いくらマイペースで運ぶ予定でも、この位置じゃ届くとか届かないとかの話にすらならない……!
『さあトキオパーフェクト、アグネスワールド、マイネルラヴ、3人が横に広がっている! 1バ身半差ブラックホークは4番手で400を通過! 4コーナーのカーブから直線へ!』
先頭のウマ娘たちが直線へ向こうとしていた。
(こうなったら……直線一気に賭けるしか……!)
私も直線へと向かう。
腹をくくって私は外を回して直線の入り口へ入っていくが──
(ああっ!?)
──身体が遠心力で外に持っていかれた。
身体がよれる。外に膨らむ。
やはりと言うべきか、スプリントのスピードでコーナーリングした影響で外に膨らんで距離をロスしてしまったのだ。
……あれだけ練習したのにっ!
(何してるのよキング! ……このへっぽこっ!)
さらに──
(なっ!?)
──前にいるウマ娘たちが横に広がり壁ができた。前が完全にふさがれる格好になった。
彼女たちを見ていると、私と同じように直線に賭けるために外へ持ち出した娘や、速度を落とし切れずに膨らんだ娘などがいた。
最後の直線へと完全に入った。残り310mしかない。
瞬時に決断を迫られる。バ群の間を縫っていくか、更に外へと持ち出すか──
(──私にバ群を縫っていくような器用さはない……なら、これしかっ!)
眼前に広がるバ群の壁の更に外へと持ち出した。
私が選択したのは大外直線一気だった。
『先頭はアグネスワールドとマイネルラヴ! この2人の一騎打ちとなるかっ!? その外からブラックホーク! 真ん中レッドチリペッパー!』
バ群の隙間から見える先頭の方ではアグネスワールドとマイネルラヴが競り合いながら先頭へ躍り出ており、2人の後ろ外側にブラックホークの姿があった。
先頭のウマ娘たちが残り200mの標識に差し掛かろうとしていた。
バ群の外に持ち出して目の前にウマ娘は誰もいない。けれどまだ加速が不十分でトップスピードには乗れていない状態だった。
『残り200を通過! 先頭アグネスワールドが抜け出したか──』
このままじゃ──
──ふと、脚が軽くなった。
──脚に羽が生えたようだった。
(……え?)
脚の回転がレッドゾーンまで一気に吹き上がる。
一瞬遅れて、ターフを蹴る脚にこれまで感じたことのない力強さも感じる。
(これで──)
流れる風景が速くなり、周りのウマ娘が止まったかのようにスローモーションに見えた。
(──これならっ!!!!)
──初めての感覚だった。
羽が生えたように脚は軽いのに、溢れんばかりに力が湧き上がって来る──!
私は既に残り200mのハロン棒を過ぎている。まだ私は最後尾の大外。
しかし、周りのウマ娘……いや、ターフにいる16人の中で
加速し続ける。
ただ前へと進んでいく。
「はああああああっ!」
──1人交わした。……2人目。
──残り13人。
『さあ、前の争いはアグネスワールド! アグネスワールドが抜け出す! 外からブラックホーク!』
中山の急坂を喰らう。
私の脚は止まらない。
無尽蔵に脚のパワーが湧いてくる。
「はああああああああああっ!」
──3人目。4人目。
──残り11人。
先頭では内にいるアグネスワールドがマイネルラヴを突き放す。
その2人の後方にいるブラックホークがマイネルラヴに外から並びかけている。
残り100mを切る。
『先頭はアグネスワールド1バ身のリード!!! 外からブラックホーク来ているっ!』
「ぐっ!!! はっ、ああああああっ!」
──6人目。
──残り9人。
ゴールまで50m。
ブラックホークが脚の鈍ったマイネルラヴを捉え、先頭のアグネスワールドへと迫っていくのが見える。
私は内にいるウマ娘5人をまとめて交わす。
「あああああああああああ!」
──11人目。
──あと4人。
先頭にいるアグネスワールド。
迫る2番手ブラックホーク。
2人から1バ身半後ろに下がった3番手マイネルラヴ。
食い下がる4番手芦毛のレッドチリペッパー。
いつの間にか4人の姿がはっきりと近くに見えるところまで
残り30m。
「ああああああっ!」
レッドチリペッパーとマイネルラヴに迫る。
ほんの目と鼻の先、3バ身先に並んでいるアグネスワールドとブラックホークの背中が見える。
『アグネスワールド、ブラックホークッ! 2人が並ぶっ!』
残り10m。
脚は変わらずレッドゾーンで回り最高速を維持できている。それどころかもっと加速できるように感じる。
しかし──
(──ここ、まで……なの…………)
ゴール前。
レッドチリペッパーとマイネルラヴを捉える。
「はあああああああっ──」
──レッドチリペッパーとマイネルラヴ……12人目、13人目を交わした。
──残ったのは2人。
──そこまでだった。
『外からブラックホークッ!!!!!』
ブラックホークがアグネスワールドを捉える姿を、1バ身半後ろで見届けた。
『ブラックホークの手が上がりました!!!!! GⅠ初制覇ッ!!!』
◇
俺はストップウオッチを片手にレースを見ていた。
キングヘイローはゲートを出てから位置を下げて最後方へと下げていた。マイペースで運ぶことに徹した結果だろうが、追走に苦労しているような様子だった。
ハロンごとのラップに目を落とし、万年筆でタイムだけ素早くメモしながらレースを見やった。
あっという間に前半3ハロンが過ぎ、そのタイムを確認すると思わず声が出た。
「33秒2だと!?」
「何よっ!? そのタイム、キングに良いの悪いの!?」
このタイムの意味が分からないダイアナヘイローが俺に食い気味に突っかかってきた。
他の3人はタイムを聞いて不安そうな表情をした。3人は俺の言いたいことが分かっているのだろう。
「悪い」
「ええっ!?」
「遅いんだ。最初の1ハロン目が遅かったのもあるがここ5年のうち4年は前半は32秒台。33秒台だったのは1番手と2番手が1着2着だった……フラワーパークとエイシンワシントンのときだ」
「つまり何?」
「このペースじゃ前の方にいないと話にならない。最低でも中団だ」
スプリンターズステークスにしては遅いペースになっていた。さらに中山のコース形態も加味すると、前の方が絶対に有利な状況なのだ。キングヘイローが今いる最後方は考えうる限り最悪のポジションだ。
「ならもうキング駄目じゃない!」
「いやまだ分からねえ」
「へ?」
「すまんが説明してる暇はない。気になるならレース終わった後に教えてやる」
まだ後半3ハロンの速さで展開が変わる可能性はある。先団のウマ娘たちがペースを上げ前の方が消耗すれば、中団より後ろのウマ娘……キングヘイローにもチャンスは生まれるかもしれない。幸い今の中山のバ場が外が有利だ。差し追い込みが決まっても不思議じゃない。
第4コーナーに入ってきたキングヘイローは前との差を詰めようとしているが、未だにポジションを上げるには至っていない。
ポジション取りは意識しないのが今回のプランだ。走りを見ているとフォームは崩れてはおらず、確かに指示通りマイペースに走れているかもしれない。
だが実際問題あの位置はよろしくない。本人もそれは分かっているし、だから今ああやって前へ出ようとしているのだろう。
それでも捲ってはいけていない。ペースが遅いと言えど、初めての1200mに脚がついていかないのだろうか。やはり適性は──
──などと考えてレースを見ていると、キングヘイローはコーナーリングで大きく膨らみながら最後の直線に入ってきた。
スタートから始まる下り坂の勢いを殺せず外に振られてしまっていたのだ。しかも前にはちょうどウマ娘のバ群が立ち塞がっていた。
どう見たって最悪の出来事が連続していた。
「キングっ!? 何やってんですかあっ!? それじゃあ駄目ですよっ!」
これまで黙っていたペティが頭を抱えながら声を上げていた。
「大丈夫よキング、あなたなら勝てるわ……」
ダイアナヘイローは両手を組んで祈るようにレースを見ていた。
「「…………」」
カレンモエとサイレンススズカは固唾を飲んでレースの様子を見守っていた。
残り200mにキングヘイローが差し掛かろうとしていた。
大外に出せてはいたものの、未だに最後方にいた。
ラップのメモと今記録した5ハロン目のストップウオッチに目を落とす。4ハロン目11.5秒、5ハロン目11.3秒で計22.8秒。過去のスプリンターズステークスと比較しても速い。アグネスワールドやマイネルラヴが進出していった影響で速くなっていたようだ。
これでチャンスはゼロではないが、ゼロではないだけだ。走りは崩れておらず、前への進路は開けているが、残り200mを切ってこの位置ではもう──
──“惨敗”の二文字が頭によぎった瞬間だった。
中山の急坂で鈍るウマ娘たちの中で、キングヘイロー1人だけが加速していった。
「……は?」
他のウマ娘たちと全く勢いが違う。先頭にいるアグネスワールドやブラックホークと比べても比較にならないほど速い。
まるで別のレースを走っているようだ。
「えっ!? ……キングッ! 行けます行けます! 絶対差せますっ!」
「きゃー! キング、凄いわーっ!」
「……キングっ…………!」
「キングさん……頑張ってっ……!」
残り100mを切っている。
キングヘイローの脚は衰えない。
むしろ加速していた。
周りのウマ娘たちが止まって見えるような末脚だった。
1人、また1人と交わしていくキングヘイロー。
キングヘイローに向かって、俺のチームのウマ娘たちが思い思いの声を出して熱くエールを送っていた。
「……」
その一方で、俺の頭はひどく冷静だった。
この速度と距離から、おそらく先頭のアグネスワールドとブラックホークには届かないだろうことは分かっていた。
しかし、勝てなさそうだから冷静になっているのではないのだ。
この瞬間、キングヘイローの走りがどれだけ凄まじいものか理解したからだ。
──勝てる。
前半スローペースで前有利な展開のスプリント。
加えてコーナーでのロスや前壁。
そんなレースで最後尾から直線1ハロンの末脚だけでここまで迫ってくる?
普通ならあり得ない。
俺は身震いした。
──キングなら勝てる。
GⅠで展開不利を覆し得るほどの力を、彼女は今発揮していた。
彼女が元々持っているものは確かにある。
しかし、今のこのパワーとスピードは血の滲むような努力で彼女が押し上げたものだ。
──キングなら、スプリントでGⅠを勝てる。
そんな確信が全身を駆け巡っていた。
『外からブラックホークッ!!!!! ブラックホークの手が上がりました!!!!! GⅠ初制覇ッ!!!』
キングヘイローはブラックホークとアグネスワールドを差せなかったものの、去年の覇者マイネルラヴを差し切って3着に入った。
「ああっ!? くぅ~~~~っ……惜しすぎますっ……あと100m……いや50mあれば差せてますようっ……」
「ああんもうっ! もうちょっとだったじゃないっ!」
「…………」
「本当に惜しい……でも、凄い走りだったわ……」
ゴール後、背筋をまっすぐにして立ち尽くし肩を上下させながら、勝ったブラックホークの方を見るキングヘイローがいた。
「宮記念だ」
俺がそう呟くと、4人が俺の方を向いた。
「高松宮記念だ」
彼女たちの視線を受けながらも、俺は遠く離れたキングヘイローの方を向いていた。
「取るぞ……!」
両手を固く握りしめている彼女の背中に向けて、そう小さく声を掛けた。