今日も歓声が浴びせられている。
『ありがとうございますっ! みなさんの応援のおかげです! ……あっ!』
いつの間にか、あたしを支えてくれた人たちが周りにいる。
『清島先生、ありがとうございました!』
清島はにかっと笑っていた。
『父さん、母さん! あたし、やったよっ!』
両親が涙を流して喜んでくれていた。
『ダイヤちゃん、ドゥラちゃん、あたしの走り、見ててくれた!?』
2人がいて、その他にもたくさんの友人たちがあたしを褒めてくれて、労ってくれた。
そして最後に残った1人。
「トレーナーさ──────────────」
全てが掻き消えて黒へと塗りつぶされる。
あなたに何も言えず、今日も夢から覚める。
◇
「──っ! …………はあっ……」
横たえていた体を起こすと見慣れない寝室が目に入ってきた。と言っても、ここの主は紛れもないあたしなのだけれど。
ここはあたしが借りているマンションの一室。トゥインクルシリーズを引退して学園の外で一人暮らしを始めてから半年以上経過していた。
なのに、この寝室含め部屋の景色にはまだ慣れないでいる。
「またこの夢……」
あの家の前の夢を見なくなった代わりに、今日見たような夢を見るようになった。
「……」
夢の記憶を頭の片隅に追いやっていると、寝ぼけて霞がかった思考が段々と晴れてきた。
時計を見ると、起きる予定の時間から10分ほど前だった。
「……顔洗お……」
寝室を出て洗面所へと向かうと、栗東寮のそれとは比べ物にならないぐらい大きくて豪華な洗面台があたしを迎えた。
日本で知らない人はいないぐらいのウマ娘になったのだからと周りの人たちに勧められ、あたしは一等地にあるこのマンションに入った。芸能界の人とか会社の社長とかが住んでいるらしく、セキュリティはすごくしっかりしていた。
和室があるので選んだけれど一人で住むには5LDKは広すぎる。せっかくだからとこの部屋を不動産の人にも勧められたけれど持て余しているのが現状だ。トロフィーを飾る部屋や、マシンをいくつも搬入して筋トレ専用ルームを作るなど部屋はそこそこ有効活用できているけど、リビングもものすごく広くてがらんとしていて逆に寂しさを感じる。契約更新のタイミングで違う部屋を探そうかな……
そんなことを考えながら顔を洗った後、洗面台の鏡を見て髪を梳かし始める。
「…………」
鏡に映る自分の顔は、あの頃よりも少し大人びている気がした。
「……よしっ」
髪と尻尾を梳かし終え、自室に向かい寝間着からランニングパーカーに着替える。このあとは日課である朝のロードワークだ。ブラッシングは寝癖を始末する程度に抑えた。顔を隠すためにフードを深く被るので、どうせ頭髪は他の人に見えないし。
まだ薄暗い中、早朝の空気を感じながら走っていく。今は8月と夏真っ盛りだけれど、この時間帯はまだ空気に爽やかさを感じられ、走っていても気持ち良かった。
「はっ、はっ、はっ」
いつものアスファルト、並木道、そして徐々に赤みを帯びてくる空。
明るくなって照らされる大きなビルボードの広告が見え、そこには勝負服を着たあたしがこっちを見て笑ってた。
「はっ、はっ……ふっ!」
ペースを上げて、いつもの道を駆けていった。
ロードワークの最終盤、今走っているこの河川敷沿いを抜ければマンションに着くといった時に、杖をついて歩いている老婦人が前方に見えた。それだけなら気にならないのだが、その歩いている様子がおかしいことに気づいた。
「……ん?」
不自然な歩みが目につき、ぎこちない歩き方だった。脚だけの動きになって上半身を使えていない感じだった。
考えるまでもなく、あたしはその老婦人に話しかけた。
「どうかされましたか?」
「えっ……痛たたっ」
「っ!」
バランスを崩しそうになった彼女の身体をとっさに支え、彼女の話を聞いた。
「ごめんなさいねえ。ちょっと腰が痛くなって──」
話を聞くところによると、彼女は元々の持病の影響で腰痛があるらしい。今日はすこぶる調子が良いから散歩に出てきたのだが、いつもより長い距離を歩いていると腰痛が酷くなってきて今に至るとのことだった。
「やはり年を食うと無理は出来ないわね」
「でも、その心意気はご立派だと思いますっ! お家はどこですか? あたしがおぶって送ります!」
「そこまでご迷惑をおかけするわけには……」
「大丈夫です! 力と体力には自信があるので! あたしに、お助け大将にお任せください!」
「……お助け大将?」
「……あ」
つい口走ってしまった。
背の低い彼女がフードの下のあたしの顔をまじまじと見つめていた。
……もしかして、
「お嬢さんもしかして……キタサンブラックさんかい?」
「えっ……いやー……あはは。はい、そうです」
あたしに関する色々なことをメディアで特集される中で、あたしの“お助け大将”という愛称も取り上げられている。それが世間一般的に浸透しているのだと、目の前の老婦人を見て改めて実感させられた。
「まあまあ! まさか本物だなんて……私、トゥインクルシリーズが昔から好きでずっと見ているんです。キタサンブラックさんのことも、ずっと応援してましたよ。孫もあなたの大ファンなの」
「ありがとうございます! ……って、それよりも! やっぱり私、おぶって送ります!」
「……すまないねえ。携帯を家に置いてきたものだから、主人に連絡も取れなくて弱っていたの……。お願い、出来るかしら?」
「お任せください!」
お願いされたあたしは彼女をおぶって駆けていった。
彼女の誘導によりたどり着いたのは昔ながらの日本家屋の平屋だった。
「ここで大丈夫よ。本当にありがとう。助かったわ」
玄関前で彼女を下ろした。玄関へ向かって何歩か歩く姿を見たけれど、やはりまだ腰は痛そうだった。
「いえいえ! お役に立てたなら嬉しいですっ。それではこれで」
「あ、キタサンブラックさん、ちょっと待っていただけるかしら」
「はい?」
老婦人が玄関の戸を開けると、彼女の夫を呼んで何かを話していた。目が合った時に夫に会釈すると、彼も驚いたような表情を見せた後、何度も頭を下げて感謝の言葉をくれた。物腰が柔らかくて優しそうな老人だった。
夫婦の話が終わると夫だけ家の中へ消えていき、老婦人だけこの場に残っていた。
「もう少し待っていただける?」
その様子を見て、たぶんお礼かなにかだと思った。
「お礼とかはいらないですよ!」
「そんなわけにもいかないわ」
「いえ、本当に大丈夫ですから──」
と、応酬を続けるうちに夫がまた玄関に戻ってきた。彼の腕には何かを新聞紙で包んだものがあった。
「これ。もらってちょうだい」
夫から手渡されたのは新聞紙にくるまれた色とりどりの花束だった。沢山の種類の花があり、鮮やかな花弁が踊っていた。「これは向日葵、こっちはダリア、こっちは睡蓮……」と言う風に、花をひとつひとつ説明してくれた。
「家の裏庭で育てている花なの。貰ってくれるかしら」
貰うかどうか少しだけ逡巡したけれど、せっかく自宅で育てている花を採って渡してくれたのだから無下には出来なかった。
断った方が悲しませてしまうし、何より素直に嬉しかった。
「……ありがとうございます! 家に飾らせていただきます!」
「そう言ってくれると嬉しいわ。裏庭で私と主人だけに見られるより、花も喜ぶと思うの。それと、これはお礼じゃなくてお願いなのだけれど……あなた」
夫は家の中から何かを持ってきた。
「あ、これ……」
「そう! あなたの有馬記念よ」
それはトゥインクルシリーズを取り扱っている雑誌で、彼が開いたページにはラストランの有馬記念のゴール前の写真が載っていた。
「厚かましいとは思うのだけれど、ここにサインをお願いできないかしら? まだ小学生になったばかりの孫が遠くにいるのだけれど、あの子にあげたくて。あの子あなたの大ファンで、将来はトレーナーになるんだって言っていて」
答えは決まっていた。厚かましいなんて全く思わなかった。
このご夫婦も、お孫さんも喜んでもらえるなら。
「はいっ! あたしのサインで良ければ!」
◇
マンションに戻ったあたしは貰った花を花瓶に生けた。それをリビングに飾ると、部屋が一気に華やいだ雰囲気になった。
人助けをしたという達成感と、あの老婦人の嬉しそうな顔を思い出してこちらまで嬉しくなった。
それからはシャワーを浴びて汗を流し、髪を乾かしながらリビングの椅子に座ったあたしは何の気なしにテレビをつけた。
『──今日は先日のSDTのエクステンデッド部門……長距離戦で見事優勝を飾ったウマ娘、キタサンブラックさんにお話を伺います!』
テレビにはトレセン学園で記者の質問に答えるあたしが映っていた。数日前に受けたテレビ取材のやつだった。
SDTのレースのことを話題の中心にしたインタビューだった。画面の中のあたしは元気よくはきはきと喋っていた。
『次の目標をお聞かせください』
『WDT優勝です!』
『WDTもエクステンデッド部門で挑戦を?』
『はい! WDTで結果を残せたら、来年からはロングやインターミディエイトにも挑戦する予定です!』
そんなやりとりをして、あたしへのインタビューは終わった。
花瓶に飾った花やこうやって自分が口にしている姿を見ると、もっと頑張ろうって気持ちになる。
そうしてまた今日が始まる。
次のレースへ向けて、あたしは走っていく。
◇
それから半月後の8月末のこと。
トレーナーさんのウマ娘6人全員が最後の未勝利戦に敗北した。
あたしはトレーニングの休憩中に、スマホでそのレースをリアルタイムで見ていた。
最後に残ったウマ娘のレース結果は5着だった。
「……うそ」
トレーナーさんは去年5人、今年6人の計11人を担当して、誰一人として勝たせることができなかった。
今年の6人については全てのレースを映像でチェックしていた。この6人も去年の5人と同じく、メイクデビューでは全員が最下位かブービーだった。
しかし、レースを重ねるごとに順位は上がり、今のレースのように掲示板に入れているウマ娘が何人もいた。最下位やタイムオーバーばかりだった去年とは違い、確実に成績は向上している。去年よりも色んな距離や条件で出走させていて、ウマ娘のフォームも洗練されていっているように見えた。おそらくこれはトレーナーさんの手腕だ。
けれど、結局未勝利戦に勝てなかったのは同じだった。
「今年も……? 振り分けられるウマ娘って言っても…………でも、これは……」
11人も担当してトレーナーさんが勝たせられないなんて流石におかしい気がする。トレーナーさんと清島の指導を経験して結果を残した今のあたしなら、当時のトレーナーさんのトレーニングがいかに良くできていたかも理解できる。実際に今年の6人もフォームは修正できて最初と比べたら雲泥の差だし、メイクデビュー最下位周辺から最後は掲示板に乗ったウマ娘が何人もいることを考えれば大きく進歩している。
でもそもそもの話、残っているウマ娘だからってみんながみんなこんなに遅いわけじゃない。2年連続でこれは……
「……もしかして……?」
──意図的……?
そう考えればこれだけ遅いウマ娘ばかりなのがしっくりくる。
もしそうなら、ほぼ100%あの糸目の男が絡んでいるのだと思うけど……
……駄目だ。あたしじゃ考えても理由は分からない。
このことをあの糸目の男に話だけでも……それで…………いいや、そんなことをしたら振り分けに対して運営側でないあたしが関わるようなものだ。無理な話だと思うし、現実的じゃない。
それにトレーナーさんを早く中央に戻してもらうのと引き換えに、彼のことには口を出さないと約束してしまった。もうあたしの言うことなんて糸目の男は聞いてくれないだろう。
「…………」
いつもの結論……あたしにできることは何もない。
「……あたしは……」
こうやって自分の無力さを感じた時に思うことがある。
GⅠをいくつも勝った。DTLで名ウマ娘に勝った。
そんなあたしはあの頃から何か変わったのだろうか? 何かできることが増えたのだろうか?
テレビやSNSではあたしを賞賛する言葉や美辞麗句ばかりが並んでる。まるで偉大なことを成した偉人のように、20歳に満たないあたしが持ち上げられる。
GⅠ7勝という結果は確かに誇れるものだ。多くの周りの人の支えがあって、あたしの努力と……才能があって、それが実を結んだ。ライブやメディアの出演も頑張って、みんなに喜んでもらった。
でも、それだけ。
それだけなんだ。
あたしという中身はあの頃からの何も変わってない。何もできることは増えていない。
今も昔も、あたしは走ることしかできない。
◇
それから1年後の8月。初めてトレーナーさんのウマ娘が勝った。青鹿毛のロングヘアーのウマ娘だった。
「やったっ……よかった……」
まるで自分のことのように嬉しかった。
スマホには大逃げするウマ娘を放っておいて2番手から押しきってゴールしたそのウマ娘が映っていた。……まるであたしの走りを見ているようだった。
「…………」
嬉しさと一緒にもやもやっとしたものが胸に去来する。
「……?」
なんだろうこれ……?
でも、何はともあれトレーナーさんは勝利を手にした。担当ウマ娘に勝利をプレゼントしてもらえたんだ。
映像では、ゴールした青鹿毛のウマ娘が一目散に観客席の方へ走っていくのが映っていた。それをカメラが追って行って、その先には──
「──っ」
──その先には男性の姿があった。あたしはその男性の姿がはっきりと映る前に映像を閉じた。無意識的な行動だった。
「……なんで、あたし…………」
なぜそんなことしたのか自分で自分のことが理解できなかった。
「……でも、これで……」
トレーナーさんは一歩を踏み出せたはずだ。これから先、彼はあの青鹿毛のウマ娘と共に歩んでいくのだろう。
そしてまた、新たなウマ娘たちと出会っていく。
これで……これで、良かったんだって、そう思った。
そう思うことしかできなかった。
そしてまた、あたしはレースへと向かっていく。
◇
──それからさらに数年の月日が流れた。
◇
「待たせた」
「うん。ターフで会うのはあの宝塚以来だね」
「……ありがとう、キタサンブラック。君は本当にずっと“最強”でいてくれた。おかげで私は何も見失わずに済んだ。……今こそ“最強”に挑戦させてもらう……!」
「……始めようか、ドゥラちゃん。あたしは強いよ……!」
◇
『さあ! 世界の最強ウマ娘たちが最後の直線に入ってきた! 今年はこのドバイで、このメイダンレース場で世界一となるのは誰だっ!?』
『キタサンブラックが先頭で逃げるっ! 追ってくるのは────』
『しかしっ、キタサンブラックだっ!!!!! 見事な逃げ切りーっ!!!!!』
『キタサンブラック、初めて世界の頂点に立ちました!!!』
◇
気がつけば、トゥインクルシリーズよりDTLに在籍している期間の方が長くなっていた。
DTLで勝ち続けた。
復帰したドゥラメンテと決着をつけた。
世界のウマ娘相手に勝利した。
時々、学園内で彼が歩いているのを遠目に偶然見かけることがあった。
隣にいるのは真面目そうな青鹿毛のウマ娘であったり、騒がしいウマ娘と落ち着いたウマ娘の2人であったり、最近では芦毛のウマ娘であったりした。
月日が流れ様々なことを経験した。考え方も少しずつ変わり、昔の自分も振り返れるようになった。
昔の……トゥインクルシリーズを走っているときのあたしは、トレーナーさんにあたしのことを見てほしかったんだ。
あなたのおかげで今のあたしがあるんだって感謝の気持ちを伝えたかった。夢を叶えたあたしの姿を見てほしかった。その上で、あたしの走りや歌で彼に喜んでほしかった。
その気持ちはDTLでも続いていた。あたしがレースを走る限り、彼があたしを見ている可能性はゼロじゃないから。
でも今になって思う。結局、それらはあたしの願望で、それ以上でもそれ以下でもなかったんだって。
トレーナーさんに見てほしいのはあたし。感謝を伝えたいのもあたし。あたしの走りであなたに笑顔や元気をあげたいのもあたし。あなたに喜んでほしい。嬉しい気持ちになってほしい。
全てあたしの願望。全てあたしがしたいこと。
こう考えてしまうと、あたしが自分のことしか考えていないじゃないかと悩んだこともある。でも、年を重ねて多く出来事を経て、多くの人と接したことで答えが出つつあった。
どんな人のどんな願いや願望であれ、結局はその人自身のためでもあるんだ。別におかしいことじゃなくて、それが普通のことだということ。
それらを踏まえた上で、トレーナーさんに感謝を伝えたい、元気や笑顔をあげたい、喜んでほしいって思いはやっぱり変わらなかった。
でも、それを届けるのはあたしじゃなくていい。
彼に走ってる姿を見せるのは、歌を届けるのは、勝利を届けるのはあたしじゃなくてもいいんだ。
感謝を伝えるのは、元気や笑顔をあげるのは、喜ばせてくれるのは、
トレーナーさんが担当するウマ娘がしてくれたらそれでいいんだ。
トレーナーさんのことは今でも分からない。おそらく分かる日は来ない。拒絶される可能性を考えると、彼と言葉を交わすなんてできない。
あたしのことなんて大切に思っていなくて、あたしの存在を忌避していても何らおかしくない。他の誰でもない彼があの日にそう言ったのだから。
けれど、あの青鹿毛のウマ娘のように新しく担当しているウマ娘のことはきっと大切に思っているだろう。
結論として、あたしから彼にできることはないし、それをあたしは望まない。
前からと一緒だ。あたしはあたしの道を。彼は彼の道を。その中で、あたしは離れた場所で彼の幸せや喜びを願っている。これでいいんだ。
──なんて、理屈だけで自分の気持ちを騙せたならどれだけ良かったか。
考えが変わったなんて嘘。
望まないなんて嘘。
これでいいなんて嘘。
あたしじゃなくていいなんて……嘘。
なぜなら、あたしは今でも走り続けているから。レースをやめる気なんて一切無いから。
今のあたしの在り方が何よりそれを証明している。
大人になったあたしが表面的な理由を考えただけのこと。思考が気持ちや想いと一緒だとは限らない。
あたしは成長して大人になった。競技者としても圧倒的に成熟した。
キタサンブラックという存在と、それを取り巻く環境は大きく変わっていった。
でも、中身はどうだろうか?
確かに大人になった。年を重ねるに従い考え方や物の見方は変化していった。
しかしこの中身は……あたしの根本的なものは何も変わっていない。
あのノートを読んで、引退レースの有馬記念でライブをした時のあたしが今もここにいる。
一方で、あたしの心以外の何もかもが変わってしまっている。環境も、周りの人達も……トレーナーさんだって、新しい担当ウマ娘たちと一緒に歩んでいる。
みんながみんな、前へ向かって進んでいる。
あたしの心だけがあの場所から歩き出せていない。一歩も前に進んでいない。
あたしの心だけがあの時から進んでいない。時計の針はずっと止まったまま。
『あたしの走りで、あなたに笑顔と元気を届けられましたか?』
『あたしの歌で、あなたに感謝の気持ちを伝えられましたか?』
『あたしは、あなたの夢になれましたか?』
あなたの答えは返ってこない。
あそこに、あたし独りだけが取り残されている。
だから、あたしは今でもレースを走っている。
トレーナーさんとあたしが2人で走る未来なんて、世界が終わったって訪れないのに。
◇
この日はサトノダイヤモンドに誘われて、サトノ家の屋敷のテラスにて2人でお茶をしていた。
「どうして、そこまでして走るの……?」
「……え?」
先程までは和やかにお互いの近況を話し合っていたのに、彼女は唐突にそんなことを口にした。
「身体、限界なんでしょ? ……もうレースはやめよう?」
「……身体のこと、どうして知ってるの」
「…………」
彼女はばつが悪そうに目を逸らした。どこからか情報を掴んでいるらしい。
「心配してくれてありがとう。あたしは全然大丈夫だよ。ダイヤちゃんが心配するような──」
「嘘っ!!」
「……ダイヤちゃん」
「身体中の関節がボロボロで、これ以上酷くなったら手術しても後遺症が残るかもしれないこととか、脊椎の問題で足の痺れや痛みが酷くて日常的に痺れ止めや痛み止め使ってることとか…………知ってるよ」
彼女の言ったことは事実だった。サトノ家の情報網を駆使すればあたしの情報なんてすぐに手に入るだろう。
「そこまでして走るキタちゃん見てられないよ……」
「……ウマ娘に限らず、アスリートにしたら悪くなってる部位を手術するのも多少後遺症が残るのも珍しくない。痺れも痛みも休養取れば無くなるから本当に大丈夫だよ。薬飲むのはどうしてもトレーニングしなきゃいけないときだけだから」
「……今すぐ引退してなんて言わないから、せめてレースもトレーニングも強度を落として──」
「それはできない」
「どうしてっ? DTLはショーでもあるんだから、命を懸けて走らなくてもファンは喜んでくれるよっ。トゥインクルシリーズから今日までずっとトップにいたキタちゃんなんだから、誰も文句は言わないよ……」
彼女が心の底から心配してくれているのが伝わってくる。でもあたしの答えは決まっている。
「……あたしにはそれしかないから」
「ドゥラメンテさんとは一緒に走れたよね? 世界でもベルデス家の
「…………ごめん、ダイヤちゃん」
「……教えてくれないの……?」
もちろん、あたしが走ることでファンや応援してくれる人に喜んでもらうためでもある。
でも、いくら彼女が親友であってもトレーナーさんについては話せるわけがなかった。
「……ごめんね。あたしは走りたいんだ」
現状を打破する方法なんてない。遠くない未来、あたしは引退して、トレーナーさんはトレーナーを続けていくだろう。あたしたちは交わることなく終わる。
でもDTLを引退したらもう走りや歌をトレーナーさんに届けられなくなってしまう。その機会を永遠に失うことになる。ゼロではなかったものがゼロになる。
レースをやめたら、あたしとトレーナーさんの間で繋がっているかさえ分からないか細い糸が永遠に切れてしまうような気がして。
「でも、流石にもう限界なのは分かってる。本当に身体が耐えられなくなったら引退するよ。今も清島先生にちゃんと管理してもらってるし、医師の人にも診てもらってるから心配しないで」
「…………」
「今日はありがとう。ダイヤちゃん、お仕事頑張って」
「……うん。またね、キタちゃん」
あたしは席を立ち、そして屋敷を去った。
「……キタちゃんのうそつき」
キタサンブラックが去ったあと、サトノダイヤモンドはそう呟いた。
◇
あたしの身体についてはトゥインクルシリーズの頃からずっと清島に管理してもらっている。特にDTLに入って何年も経った今はフォームチェックなどを頻回に行ったり、最先端の身体ケアも多く取り入れてもらっている。彼はその最先端のケア方法の導入や、故障について多くの知見を学ぶために、多忙なスケジュールの合間を縫ってアメリカやヨーロッパ、オセアニアにいる外国の有名トレーナーや研究機関へ赴いて話を聞きに行ってくれている。あたしも一緒に海外へ付いていったことも数え切れないほどある。
余談だけれど、アルファーグの名は海外でも知れ渡っているので、その際に現地の関係者から日本に興味のあるウマ娘を紹介されることが多々ある。だから最近は海外生まれのウマ娘がアルファーグに多く所属している。今年入ってきたグラスワンダーやエルコンドルパサーも、彼がアメリカへ訪れた際に現地の育成クラブの関係者から紹介されてウチに来たのだ。
あたしが走りたい限り、最後まで力になってくれると彼は言ってくれている。
でも、あたしの身体が限界に達したと彼が判断した時には、あたしはDTLを引退することになっている。これは納得のいくまで話し合って決めたことで、あたしも納得している。
現状、あたしの身体に相当なガタが来ているのは事実だ。“限界一歩手前まで来ている”とは清島の見解で、あとひとつでも大きめの故障や古傷の悪化があればその時点で引退だと言われている。
……今更ながら、清島には本当に感謝している。あたしを成長させてくれたことはもちろん、並の一流トレーナーならあたしの身体は10年も持たなかったし、ここまであたしが走るのを許可してくれなかっただろう。
客観的な事実として、キタサンブラックは不世出のウマ娘だ。そんなウマ娘が常識では考えられないぐらい長い期間走って大怪我を負ったとなれば、そのトレーナーへの厳しい非難は免れないだろう。そのリスクを清島は負ってくれている。数年前からあたしを走らせる清島にバッシングの声があるのも事実で、そんな非難の声を受け止めながらも、あたしを走らせることに全力を注いでくれている。
ドゥラメンテと決着をつけ、一度は世界の頂点に立ったあたしが未だに走る理由について、清島はただの一回も訊いてこなかった。
……ここまであたしのために頑張ってくれてるのだから、彼にはトレーナーさんのことを打ち明けようかと一瞬思ったけれど、結局あたしは言葉を飲み込んでしまった。
あのドーピングのことがあってから、清島は“坂川”の名前を出したことが無かった。ノートをあたしに渡してからもそうだった。
彼はあたしがノートを持って帰ったのを知っている。確信はないだろうけど、あたしがトレーナーさんについて何か思っているぐらいは清島も勘づいていると思う。
ちなみに診てもらっている医師とは菊花賞前に初めてお世話になった女医師だ。彼女とももう長い付き合いになる。何年も前に彼女に子供が生まれてからは、世間話はもっぱらその子供のことか夫の愚痴かどっちかだ。
身体のことについては彼女にも管理してもらっていて、精密検査なども彼女の元で受ける。医師として看過できない身体にあたしがなったらドクターストップをかけてもらうことになっている。
清島と女医師、2人のどちらかが現役続行不可能と判断した瞬間にあたしのレース人生に幕が下りる。
あたし自身、限界が近いのは分かっている。
でも、もうここまで来てしまった。
おそらく、このままあたしは終わっていくんだろう。
その瞬間が訪れるまで、ただあたしは走り続けるだけ。
◇
サトノダイヤモンドとのお茶会からまたしばらく経ち、トレーナーさんのURAのサイトをチェックするとあるウマ娘の名前が追加されていた。
“キングヘイロー”というウマ娘が、カレンモエの下に追加されていた。