ディストピアゲーに転生したら行政側だった件について 作:我等の優雅なりし様を見るや?
監測機関の報告により、特定の区域における反政府思考指数が国家安全保障評議会の定める基準値を超過したと認められる場合、法務省はその権限において当該区域を「汚染思考区域」と指定し、期間を定めて特別措置を実施することができる。
国家公共秩序保全法より
首都、東京。政府機能が全国に散逸したとは言え、この国で最も繁栄した地は決して眠らない。
不遜にも天を突くが如くに屹立する無数のビル群の側面に満ちる、途絶える事を知らぬ窓の明かり。不夜城にして伏魔殿、数多の策謀と権力、氾濫する富によって駆動する組織が放つこれらの光は、腐りかけの果実が放つ腐臭とも芳香ともつかぬ混ざり合った二面性の美を湛え、夜の闇を侵犯する。
そして夜空を彩るは星々ではなく、極彩色の光の点描画。空域を国から借り受けた企業群の操る無数のドローンが織りなすそれは、夜空を
『新発売、電脳甘味!完全乱数プログラム(当社特許取得済み)により、何度でも楽しめる美味しさを貴方に─────』
夜空に映し出されたピンク色の文字が宣伝文句を綴ると同時、アニメ風のキャラクターが楽しそうにヘッドセットを被り、その側面にUSBのような物を差し込む映像が映し出されていく。横で表示された様々な料理の写真を見る限り、使う度に変わった味を楽しめる味覚データセットのようだが、その全てが過剰なまでの極彩色で描かれていては食欲も湧かないという物だ。
というか、この広告を見る何人が写真に写っているような料理を実際に食べたことがあるというのだろう?高級官僚たる二等市民なら話は別だろうが、薄給の三等市民には夢物語に等しい────ああ、いや。夢物語だからこそ、それを味わいたいのかもしれない。
『貴方の明日は、国家によって常に最適化される。』
立ち並ぶビル群の上で編隊を変えたのであろうドローンが、また新たな広告を映し出す。どうやら今度は政府の広報らしい。企業広告は一定期間が経てばその内容の顔ぶれも変わるが、こればっかりはそのまま変わらない。国家、国家!なんとも素晴らしい響きだ。これの一部である限り、己は搾取する側に回れるのだから。
金と営利に満ちた色彩と国家の謳う光輝が星々と月を押し退け、天蓋の主人となる時間。それがこの東京という伏魔殿にとっての夜という時間のあり方だった。
一方、その輝きから取り残された場所もまた存在する。都心の明かりの余波で鈍く照らされる市街。都心の繁栄から取り残された者達が住まう、言わば貧民街だ。
三等市民、それも最低限の配給を受け取るための『人権認証』すら持たないような住民が多くを占めるこの様な場所は、当然の事ながら活気があるわけではない。夜も12時を回れば明日の日雇いの労働に備えて眠りに落ちる者か、闇市で手に入れた粗悪な電脳で再現された、質の悪い粗っぽい仮想空間で疲れを癒す者の二通りしか居ないのだから。
国家が声高に叫ぶ世界最高峰の技術も、繁栄も、庇護も、光と賑わいすらも、その余波しか受け取ることを許されない吹き溜まり。辛うじて死なないだけの生活を日常として送っている者達の溜まり場たるこの地にとって、夜は変わらぬ澱んだ明日の訪れを告げる朝日の訪れを粛々と待つだけの時間に過ぎなかった。
──────少なくとも、この日までは。
バリバリバリと耳障りな音と共に、ダウンウォッシュで砂塵を巻き上げながら空を行くヘリコプター。ダークブルーに染め上げられたヘリが放つ目を灼かんばかりの光が古びた市街を照らし、そこら中に乗り付けられたバンから大挙して降車する黒尽くめの装備で総身を包んだ男達の足音と、彼等に叩き起こされた住人の困惑の声と怒号が夜の
そこら中の薄汚れた家から人々が職員達によって引き摺り出され、銃を突きつけられ連行されていく中で、空中で旋回するドローンが、スピーカー越しに響く無神経なまでに間延びした声でこの混乱の理由を説明していた。
『こちらは、法務省厚生支援課です。この区画における反政府思考回数が、許容値を上回りました。つきましては、区画の洗浄及び、汚染思考領域にお住まいの住民の皆様の健全化を目的として、短期間の奉仕活動の斡旋を行います。』
『どうか慌てず、落ち着いて職員の指示に従って行動してください。こちらは、法務省厚生支援課です────』
やけに強弱の激しい抑揚をつけて流れる合成音に追い立てられる様に、擦り切れた服を纏った住人達は荷物一つ持つことも許されず、老若男女の区別なく列を成して真っ白なバスへと詰め込まれていく。
着の身着のままで車内に押し込められた彼等は、困惑と疲労、不安と困惑が入り混じった表情で、狭い車内で言葉を交わしていた。一体どこに連れて行かれるのか、そしていつ帰れるのか。だがまぁ、短期間と言っているし、そう心配する事もないだろう。というか、反政府思考なんて不埒な事をした輩がいるのか、けしからん────
だがそれは、無知であるが故のある種の幸福であったのだろう。
職員に襟首を掴まれ、半ば引きずられる様にして戸口を潜り抜けた一人の男は、その形相を恐怖の一色に染めながら必死で叫ぶ。泣きじゃくり、地面に爪を立て、鼻水を垂らし、みっともなく己の首元を掴む職員に泣き縋れど、機械的に動く彼等が足を止めることはない。
「頼む!お願いだ、何かの間違いに決まってる!よしんば思考犯が此処に居たとしても、俺は違う!なんで、なんで俺まで巻き込まれなきゃならないんだよ!頼む、頼むよぉ……嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!連れて行かないで、お願いします!」
見苦しいまでに滂沱の涙を流し、果てには幼児の様に泣き喚く彼は、元は都心で職を持つ身だった。企業内の派閥争いに巻き込まれ、自らが下っ端として属していた派閥の敗北によって人権と職を剥奪され人非人となった彼だったが、一時は東京で過ごした身として己が行く先を朧げに理解していた。
────法務省に連行された人間が、帰ってくることは決してない。
東京に住む人間なら誰もが知っている。万人の背後に立つ者、正義よりも秩序を優先すると公言して憚らない彼等が掲げる天秤は、善悪を量るものではない事を。彼等が罪人と看做した人間は何処かへと連れ去られ、そして二度と現れる事はない。まるで消しゴムでその痕跡を消されたかの様にあらゆる記録から抹消され、そしてそのうち本当に忘れ去られていく。
彼等は厄災のようなものだ。唐突に訪れる理不尽であり、何の脈絡もなくやってくる終わりの象徴。本人に罪を犯した自覚が無くとも、漆黒に身を包む彼等が戸を叩く時、そこが日常の行き止まりである事を意味する。
連れて行かれて消えた人間が何処に行ったかなんて知る由もないし、知りたくもない。その末路が碌でもない事は分かりきっているのだから。だってそうだろう?これまで長らく、多くの人間が法務省によって連れ去られてきたが、その膨大な数の人間が一度も帰ってこない時点で────少なくとも、二度と日の目を見る事が出来ないのは確実だろう。
それを知るが故に、彼は半狂乱で抵抗する。職を追われ、人権を剥奪され、毎日食うや食わずの生活を送ることに不満はあった、不服はあった。だがそれでも命あっての物種なのだ。連れていくな、死にたくないと喉も裂けんばかりに叫び、襟首を掴むグローブに包まれた職員の腕を必死に掻きむしる男は、みっともなく、臆面もなく無様に息を詰まらせ、嗚咽と共に命を乞う。
「俺、俺は此処の連中とは違う!反政府思考をする連中とは違う!し、調べれば分かる、昔は中央で国家の為に働いてた!今も忠誠を誓ってる!思考でもなんでも好きに読めば良いだろ、そしたら分かるって!分かるって言ってるだろっ!なぁ!だから!だがら"っ!お願いじまずっ!じにだぐない!ごめんなざい、ごめんなざい!」
だが、その言葉が事態を好転させる事はない。当然の話だ、彼等は此処に罪があるから罰しに来たのではない。彼等にとって必要だから此処に来た、ただそれだけなのだから。真実も、謝罪も、命乞いも、その目的を
「………ぁ、え?」
だからこそ、己の首に加わる圧迫感が消えた時、彼は唖然として瞠目するしかなかった。無言のままに彼を引きずっていた職員が足を止め、黒光りする強化プラスチックのバイザーに覆われた顔がこちらに向けられていたのだ。
『お前、都心エリアにいた事があるのか。』
たった今、己が引き摺り回していたのが人間であると気づいたかのように首を傾げながら、告げるは簡潔な問い。感情の色が感じられないその声はしかし、男にとっては福音に等しかった。
「そ、そうです!都心エリアのD-28区画!嘘じゃない、本当です!勤務先は────」
『名前は?』
「え?」
『お前の名前は?』
聞き分けのない子供に言い含めるように言葉を繰り返す職員を前に、男は迫り上げてくる横隔膜を必死に宥め、己の前に吊り下げられた救いの糸を掴むカンダタのような面持ちで言葉を紡ぐ。
「巣山、巣山聡太……。」
『スヤマ?漢字は……いや、良い。顔をこっちに向けろ、直接照会する。』
呆然としながらも職員を見上げれば、鏡のように艶やかなバイザーに涙と鼻水に塗れた己の顔が映る。自分がかつて都心にいた事が現状の打開の要因になり得るのか、何故これ程までに相手がそれに拘るのか、それは男に知る由もない話。だがそれでも、今の彼にとっては唯一の光明であり、生存の可能性なのだ。
既に抹消されたであろう己の戸籍がまだ残っているのか?自分がただの企業の下っ端だった事が分かれば、また連れて行かれるのではないか?疑心が暗鬼を呼び、彼の心臓は早鐘を打つかのように心拍数を上げていく。
果たして、全身の毛穴に針を突っ込まれたかのような焦りと緊迫感の中で過ごす永遠にも等しい数秒の時間の後。微動だにせず顔を此方に向けていた職員がため息をつきながら、困ったような声色で彼が心の底から待ち望んでいた言葉を告げた。
『……嘘じゃないみたいだな。うーん、都心住みとなると、お前はあの中には乗せられんなぁ。』
その言葉を前にして、男は己の目から先程まで垂れ流していた物とは別種の涙が零れ落ちるのを感じながら、全身から力が抜けたかのように項垂れる。それが幸福によるものか、死を伴う緊張が解けたが故の弛緩か、己でも判断がつき難い程に極まった感情の発露。その涙で声を震わせながら、彼は夢が覚める事を恐れるかの様な面持ちを浮かべ、縋る様に尋ねる。
「ほ、本当ですか……?お、俺、行かなくて良いんですか?良いんですよね!?」
『まぁ、そうなるな。あーっと、此処じゃ連中に見えるか……おいお前、立てるか?ちょっと付いてこい。』
そうぼやきながら此方へと手を差し伸べるその姿は今や、地獄に現れた
微かに振り返った彼の視界に収まるは、バスの車窓から眠たげに外を見つめる人々。ああ、彼等は知らないのだろう。己の末路を、自らを連行する者達の恐ろしさを。
無知故の幸福を享受する彼等への憐みが無いわけではない。彼等と共に生活した記憶が、この市街での不自由ながらも助け合った思い出が胸をよぎらない訳ではない。だが、自分だけが生き残れるという安堵から生じる優越感が、人権を剥奪され此処に流れ着いてからは捨て去ったはずの選民意識を呼び起こしていく。
(都心エリアに住んでた俺を連れて行かないって事は、もしかしたら今は中央の方で人手不足なのかもしれない。俺はアイツらとは違う……そうだ、やっぱり俺は違うんだ。俺は、やり直せる側の人間だ!)
住宅街の角を曲がり、住人達が詰め込まれた白色のバス────二度と帰れぬ所へと連れていく死出の車両が見えぬ様になったその時、向こうからやってきたもう一人の職員が気さくに片手をあげ、彼を伴って歩く職員へと声をかける。
『あれ、先輩。そいつどうしたんです?バス、満員になっちゃいました?』
『ああ、いや。なんかコイツ、都心住みだったらしくてよ、バス乗せたら色々面倒くさいだろ。ほら、俺等の事知ってるとさ……。』
『あー……じゃ、此処でやっちゃう感じですか?丁度向こうから見えないみたいですし。』
……?何の話をしているのだろう。バスから此方が見えない事と、自分に何か関係があるのだろうか?男は首を傾げ、彼等に声をかけようとおずおずと手を伸ばし─────
「え?」
そして、此方を振り向いた職員の手の中で鈍く光る銃口を前にして、思わず声を漏らす。
『こういう場合って略式裁判いるっけ?』
『人権剥奪されてる連中、裁判受ける権利ないんで要らないですね。パパッと済ませちゃいましょう。』
男が口を開く
──────男は幸運であった。無知故に、死の直前まで己の輝かしい未来を妄想できていたのだから。男は本当の意味で幸運であった。住民の大多数がこれから受ける苦難を思えば、生をこの場で速やかに終える事ができたのだから。
重苦しい音と共に、惚けたような顔の脳天に焦げ臭い風穴を空けた男が地面に倒れ込むのを尻目に、職員達は民家の塀に寄りかかりながら言葉を交わす。
『俺等の噂とか知ってる都心住みの奴と何も知らない連中を混ぜると、変な恐怖が他の連中に伝播しちまうんだよなぁ。』
『ハブ・ディメンション*1に跳んでる最中に暴れられたら面倒臭いですからね。』
人一人を殺しておきながら、気負う様子のない気怠げな会話。だが、それはある意味当然なのかもしれない。国家によって保障された人権を持たぬ者、それ即ち人にあらず。此処に住まう者は悉く、法的には人ですら無いのだ。人権とは生まれた瞬間に獲得するものではなく、国家によって付与されるもの。よって彼等にとって殺人ではなく、家畜の屠殺ですら無い。
ただ、必要だったからそうしただけの作業。命が介在する行為という認識すらなく、彼等は一仕事終えた後の雑談に花を咲かせる。
『しかし毎度思うんですけど、こういう『人材確保』の時の建前って毎回“反政府思考の感知”じゃ無いですか。なんか理由とかあるんです?』
『ん?そりゃ、そう言っときゃ誰でも黙るからさ。反政府思考をしたかどうかなんて、大体の連中にとっちゃ心当たりしかないだろ。誰でもどこかで後ろめたい記憶がある。そう言われりゃ、疑われても反論できねぇ。』
─────それは、彼等にとっても同じ事。
だが案ずるなかれ。弾圧し、搾取し、濡れ衣を着せ、体制の尖兵として動く限り、その理不尽な刃が己に向く事はない。少なくとも彼等はそう信じ、疑念を抱かぬ事で平穏の中に身を置く。無知とは至福であるが故に。
『さて、連中をハブ・ディメンションまで送り届けるぞ。そっから先は別の連中の仕事だ!』
彼等は自らが回収した『人材』がどうなるのかを知らない。知る意味も、理由も、下手な詮索をして身を危険に晒す意義も無いのだから。休憩は此処までだと両手を打ち鳴らし、職務へと戻ろうとしたその時。地面に転がっていた男の
微かな動き。だがそれは同時に、あり得てはならない蠢動。
男の指先が、頭部が、己が死んだ事を忘れたと言わんばかりに戦慄いているのを見た瞬間、彼等は腰のホルスターに手を伸ばし────そして、何かが違う事に気づく。死体だけでは無い、近くの窓のガラスが、建物の壁が、他ならぬ自分達が、そして大地が、彼等が立つ地面こそが揺れているのだと。同時、顔を覆うバイザーの裏に映し出される極彩色で綴られた警告文に彼等は目を見張る。
『はぁ!?い、異界法則反応!?反応強度戦略級、発生地点は……って、何じゃこりゃ。』
『地下、ですよね?これ。あ、消えた。』
異能行使者がその身から垂れ流す異なる世界の法則。物理法則を喰らい、理外の摂理を押し付けるそれ等は周囲での異能の行使を知らせる指針として使われるが、しかし。局所的に大地を揺らし、測り得る限りで最大の数値を叩き出したそれの発生源に目を向ければ、思わずと言った様子で彼等は顔を見合わせた。
『……俺等にゃ関係ないな?』
『そうですねぇ……まぁ管轄とか諸々違いますし、自分達にはすべき事がありますから。とっとと人材の方運んでおさらばしちゃいましょう。』
触らぬ神に祟りなし。君子危うきに近寄らず。下手に報告などして、諸々の責任を押し付けられても困る。彼等はその身に染みついた危機回避のスキルを駆使し、迅速に己の職務に取り掛かるべく駆け出したのだった。
◆
星の支配種とはなんだろうか。これを惑星の中で最も繁栄した種と定義するならば、数億年前であればこの大地を闊歩した巨獣であり、数百万年前からは霊長を謳う猿の一種こそがこの星の支配種と言えよう。だが、しかし。如何に人が、生命が繁栄を謳歌しようとも、実際の所、形ある生命が占有できる場所はこの星の表面部分に限られている。
星を支配した?愚かな話だ。およそ1兆800億km3の巨大質量たるこの惑星の表面に張り付き、薄皮程度の深さまでしか掘り進めていない種が星の支配種とは。人類は大地から多くの物を掘り出したが、それはこの星が持つ僅かな片鱗にすら届いていないと言うのに。
故にこそ、人は夢想する。この大地の成り立ちを、この大地の底に待ち受ける物を。ある者はこの大地は母なる神の玉体であると唱え、ある者は天を駆けし龍の
─────だが、幻想が現実となったこの惑星において。彼等はある種の先見の明があったとさえ言えるだろう。
超常に侵食されたこの地の底に広がるは、死した神の肉より生じた巨大迷宮。かつての人の営みを上っ面に貼り付けた悍ましき地下世界。神の宿る場所、『
物理的な距離だけでは無く、次元や時空、空間の隔たりによって地上とは分たれているが故に、本来であれば地表へと影響を及ぼす筈のないその領域において、今一つの戦いの決着が付こうとしていた。
「拍子抜け、ですわね。出力は充分、場数もそこそこと見ましたが……。何故────」
箸より重い物を持った事がないという形容が似つかわしい程に細い指。装飾の類は一切不要、純粋なる美をその指先から見出せそうなほどに嫋やかな形を描く手はしかし、その全ての印象を叩き潰すに充分過ぎる程に物騒なものを手中に収めていた。
「
その手が掴むは、少女の喉輪。法務省異能調整局第一課、『氷結地獄』氷峰裁歌───日本の超常国防における一角を担う戦略級異能行使者である彼女は今、生涯三度目の純然たる敗北を突きつけられていた。
「あっ、ガッ……!」
「おっと失礼、力が入り過ぎてしまいましたわね。」
見上げれば果ては霞み、見下ろせば闇が口を開ける程に巨大な縦穴。高層ビルが何棟もすっぽりと収まる程の直径を持つその穴を埋めるかの様に、乱立した無数の氷の柱の一つに足をかけながら此方の首を握り締め、虚空へとぶら下げているのは本来であれば此方が生殺与奪の権を握っていた筈の
自らを
死んだ事に気づかせぬ程の速度で凍らせる己の異能であれば、頭部から上を凍結して持ち帰れば容易く蘇生は可能。抵抗されるようであれば容赦なく斬首し、大手を振って帰投する────その筈だったのに。
(この実力の差は、何だって言うんですか……!?)
あらゆる技が通じなかった。『無能無敗』……誰あろう、己の
氷によって自由自在に足場を生み出せる氷峰とは違い、縦穴という地理的不利を抱えながらも尚、重力なぞ知らぬとばかりに縦横無尽に駆ける韋駄天の瞬足によって、触れれば全身を即座に凍てつかせる氷の武具による弾幕の悉くを回避し、ならばと挑んだ掠れば即死の徒手空拳は鎧袖一触、赤子の手を捻るように制圧される始末。
そして、最も理解を拒むのが─────
「……先の彼女もそうでしたが、貴女達に悪癖を教え込んだ者が居るようですわね。いえ、怪物と言うべきでしょうか?」
この全てを見透かしたような紫の瞳に
そうだ、あの時の様に。幾度となく突っ掛かり、しかしただの一度も『敵』として此方を扱わなかった朱羽亜門の様に、この少女も己を敵とすら見ていないのだ。
「
そんな事が認められるか、認められるものか。コイツの方があの人に近い在り方を持っているなぞ、断じて認めるわけには行かない。私が、私だけが、あの合理と精神の怪物の真の強さを理解している。異能も、身体能力も、全てが劣るあの人が私に勝る理由───それは、ひとえに心と精神である筈だ。
ならば、強く想え。己が理想を、己が知る最強を、無敗の怪物の心を
「────怪物の心を模倣したところで、怪物にはなれませんわ。実に、実に残念です。貴女も彼女も、目指すべき最強の形を履き違えている。」
くるり、と世界が裏返る。臓腑がひっくり返ったかの様な浮遊感、それが自身が弧を描いているが故だと気づいた瞬間には既に、凄まじい衝撃と共に己の視界の全てが漆黒に覆われていた。思考の間隙を穿つかの如き神速、顔面を鷲掴みにされたまま地面に叩きつけられた氷峰は、余りにもあっけなくその意識を手放すのだった。
◆
「本当に、本当に悩ましい事この上ありません!付け焼き刃の徒手空拳、小手先の技に修飾された児戯、その全てが彼女を台無しにしている……本来であれば
岩壁から迫り出す氷塊に穿たれたクレーターの中央。伏せる敗者を尻目に、勝者たる紫陽花は物憂げなため息と共に首を振る。この落胆を例えるならば、豊かな才能を宿した天才画家が美しい色彩で描いた自作の壁画を下地にして、下手とも上手いとも言い難い彫刻を彫り始めた現場を目撃した───と言ったところだろうか。
「その点、貴女の方は多少はマシな様ですが……それでも、小手先の技に逃げる傾向が目立ちますわね。全く、貴女達二人を此処まで歪めたのは何処のどなたでしょう?美を愛する者として、一言くらい文句を申し上げたい所ですわ───貴女に代わって。」
地に伏せた天才から目を逸らし、遠くへと向けたその言葉に答えられるだけの気力を、もはや
穴を挟んで対角線上、切り立った岩壁を抉る巨大な亀裂。その中心に埋没し、後ろで束ねていた髪を乱しながら項垂れる青髪の少女────卜部香織は、その片腕を失っていた。柘榴色の断面からとめどなく流れる鮮血が漂う冷気の前に凍てつき、辛うじて止血の効果を果たしているが、早急な手当が無ければ命が危ういのは明々白々。
そして────弱肉強食の摂理を重んじ、野に生きる美を体現する紫陽花が敗者へと手を差し伸べる事はない。尋常なる命の奪い合い……の土俵にすら立っていない一方的な蹂躙ではあったが、戦いの中で散る者に対する情けは無粋である故に。
命が、尽きていく。痛みが痛みとして認識できない程に、身体が死に近づいていく。
その
アメリカ合衆国陸軍、非対称環境適応戦闘実験団。既に滅び、歴史からも消えた懐かしき古巣、己が怪物から人となったあの戦場の記憶を。
アメリカ合衆国「お、俺ぇ!?」