駆ける。翔ける。駆ける。翔ける。こけかける。
悪から逃れるため、至福の時間を嫌々手放した俺は、全速力で走っていた。この世の悪から逃げ出すのには、なんとも手間取った。今も尚俺の後ろを高速移動しながらゴキブリのようにストーキングされている可能性があると考えると、おぞましすぎて死にたくなる。
……ああ……最悪だ最低だ終わりだクズだゴミだ最悪だ最悪だ最悪だ最悪だ。
俺は嘆く。
途中まで、俺の歩かない大作戦はうまくいっていた……はずだ。
なのに何故こうなる……?どうして……よりにもよってクソめんどくさい走る、という行為を俺がしなきゃいけないんだ!!
俺はただただ真っ直ぐ走るだけでは不味いかもしれない、と思い、とりあえず校舎らしきものに侵入していた。
適当に廊下を駆け回り、適当に曲がって曲がって階段を上がったり下がったりと繰り返す。
しばらくくるくると駆け回っていると、ついに息が切れてきた。まずい、追いつかれるかも、と鳥肌が立つ中、なんと言う幸運か、一筋の光が天から伸びているのに気がついた。
俺は光に吸い寄せられるように、1-Aと書かれた一番近くにあった教室のドアを開き、光が差している位置を把握する。
その神々しいこの世のものとは思えない光は、素晴らしいものを指していた。
それは、至福の時間を味わうことができるもの。この世の悪によって奪われた至福の時を取り戻すことができるもの。
疲れた己が肉体を癒してくれる魔法の道具。触れればたちまちどのような生物であろうと逃れることはできない素晴らしきもの。
俺は今───────
──────椅子に座っていた。
ああ、まさしく至福の時。腰を下げるのは少々面倒だったが、ここに座ってしまえば何もしなくて良い。
目の前に椅子があったら目にも留まらぬ速さで涎を垂らしながら座るのが礼儀だろう。いや……椅子、と言うのは失礼か。これからはチェア様と呼ばせていただこう。
このチェア様こそ人類の叡智の塊。布団、椅子……いやチェア様、電車、バス。ここらへんの道具を考案したものたちこそ素晴らしき人類であり、誰よりも尊い栄誉ある存在だ。…‥いやまあ誰がどうやって作ったかなんて一切知らないけど。
と、そんなことを考えていると、突如として声をかけられた。
「突然失礼、何故そんなに幸せそうな顔をしているのでしょうか?」
ふと声の主の方を向くと、俺の隣の席には、銀髪の杖を持った少女が座っていた。
「!?一体いつからそこに……!?」
衝撃を受ける俺。まさか、忍者だろうか?不自然に持っているその杖は、もしかすると水遁の術を使うためのものかもしれない。どうしてこう俺の周りに忍者は多いのか、俺が疑問に思っていると、少女は真顔で
「いえ、あなたが来る前から私、ここに居ましたよ」
「あ、そうすか」
…‥忍者ではない、のか?い、いや騙されるな俺。忍者だぞ?忍者なんだぞ?忍者というと正体を隠さなければいけない職業だ。いや多分職業じゃないけど。
……とにかく、この少女が否定したからといって、この少女が忍者ではない、ということにはならない……!
「………」
俺を無言で見つめ続ける少女。暇なのだろうか?
そのまま無言の時が続く。他の生徒の喧騒が響くのはナンセンスだが、中々に癒される無音の時間だ。
と、そんなことを思っていると、少女は俺の癒しの時を堰き止めたいのか、ついに口を開いてしまった。
「…‥あの、まさかとは思いますが、私が質問をしたこと、忘れてはおりませんよね?」
「そのまさかです」
俺、何か質問されただろうか?記憶にない。まあたぶん、記憶するのがめんどくさかったのだろう。うんうん、と1人頷く俺を見て、何故かドン引く少女。
「…………はぁ、さっきした質問は、さっき廊下をバタバタと走っていたようでしたが、一体どうかしたのでしょうか?という問いです」
何故か呆れたように言ってくる少女。
さっきされた質問と比べ、内容が天と地くらい乖離している気がするが、まあこんな感じだったような気もする。
「……実は、悪、という概念が具現化した存在が俺を追いかけてきてたんだ」
俺は珍しく真面目な顔をして答える。椅子に座っているので気分がいいし、何より、あのような怪物がいるという事実を誰かに愚痴りたかった。
地球外生命体でも視認したような顔を浮かべた少女が少ししてから口を開く。
「…‥つまり?」
「……高校生を見て鼻息を荒らげる警備員こと変態が、俺のことを俺の許可なくお姫様抱っこしてきたので、そこから逃走してきた、と言うわけだ」
「そんなまさか……」
衝撃を受ける少女。しかし直ぐに冷静さを取り戻し、少女は口を開く。
「……失礼ながら、その警備員は門にいた警備員でしょうか?」
「イエス」
「……しかし、女子高生に欲情するような輩をこの学校が採用するとは思えないのですが……」
「ああ、その通りだ」
俺の言葉にますます混乱する少女。
「……ヤツは……女子高生"には"欲情していなかった」
「には……?まさか……」
俺の言葉で直ぐに理解したのか、衝撃を受けたことを隠しきれない少女。
……そう、お前が思っている通りあの化け物は女子高生ではなく
「まさか、無機物に欲情を……」
そう、無機物に欲情を…‥って違う!
「…‥今なんて?」
「ですから、その警備員は無機物に欲情してしまう、対物性愛者──」
「──いやいや高校生を見て欲情してたって言ったろ」
「……しかし、その確証はないのでしょう?門を見て欲情していただけでは?……やはり女子高生を見て欲情するような輩が採用試験を通ることができるとは……」
「いや、女子高生じゃなくて男子高生な」
「はい?」
俺の言葉に心の底から意味がわからないと言った表情を浮かべる少女。
真実とはいつも残酷だ。
「……つまりは、同性愛者ってことだ」
「……………な、なるほど」
理解することができない……いや、したくなさそうな少女は、なんとも形容し難い複雑な表情で、神妙に頷いた。
「しっかしこの学校は政府が関わっている、とかなんとか言っていたが、あのような怪物を雇用してしまうってことは、甘いんじゃないか?この学校のトップの顔が見てみたいな。一体どれほどのバカドジ間抜けのドブ野郎なのか。確か、坂柳だったか?」
俺が思いの丈を述べていると、突然、少女が俺の肩をトントン、と叩いた。
少女の方を向くと、少女はとある一点に指を刺しており、俺は流されるようにその文字を読み上げる。
「……坂、柳……有栖……?」
……ここの理事長は確か坂柳なんとか野郎。そして今目の前にいるのは坂柳ありんこさん。……俺はもう一度少女改め坂柳の顔を見る。
「……は、はははは……お綺麗なお顔がお台無しですよ……?」
目の前には、鬼がいた。
坂柳の後ろに鬼がいるのではない。坂柳こそが鬼に成っているのだ。
悪、鬼、次は神でも現れるのだろうか。
そんな予測を俺が立てる中、口角をあげ、にっこりと微笑み続けている坂柳が口を開く。
「あら、お綺麗だなんて、ありがとうございます」
ニコニコと笑顔でそんなことを述べてくる坂柳。
……何故皆平然としていられる?周囲には既に何人かの人々が集結してきている。
にもかかわらず、どうしてこの明らかに人間の皮を被った鬼をうっとりした顔で眺めていられる?
バカなのか?いや、それとも洗脳……いや、彼らも鬼の仲間……!?
絶望に浸る俺をさらに絶望広がる現実世界へと帰還させたのは、坂柳の言葉だった。
「……さて、バカドジ間抜けのドブ野郎、が、なんでしたっけ?」
──ははっ、俺は死んだ。
◆
人生で二度死ぬと言う貴重な経験を積んだ俺。
あの後は笑顔のまま謎の威圧感を醸し出す坂柳に許してくださいなんでもしますから、と思ってもない嘘をつき、謝りに謝りに謝りまくった。
最終的には俺の方から今後何かして欲しいことがあれば呼んでほしい、と真っ赤で真っ青で真っ黒な嘘を考案し、鬼となった坂柳はついに人間へと擬態した。
ああ全く今日は厄日だ。悪に出会い、鬼に出会い、俺の体力はもう尽きていた。
体を机にだらーんとつけ、顔だけを前に向ける俺の視界には、今、教壇の上に立つ教師が映っていた。
まだチャイムが鳴っていないというのに突如として教室に入ってきたあの男は、まさしく教師の誇り……いや、埃だ。
規定時間に満ちていないと言うのに教室へ入ってくるとは全くどうかしている。普通、規定時間から5分から10分遅れてその場に登場するのが礼儀というものだろう。
めんどうだ。
──教師が時計をしきりに気にしている。
恐らくはもうそろそろチャイムが鳴るのだろう。カチ、カチ、と聞こえないはずの時計の音が幻聴として聞こえてくる。カチ、カチ、カ……バン……バン……バン……ってバン!?
俺は思わず振り向いた。
カチカチと聞こえてきていたはずの音は今やバン、という謎の音に変換されており、音の出どころは廊下の方面だった。
少しずつ近づいてくるその音、ついに音は止まり、教室の中へと汗をかいた存在が侵入してきた。
侵入者は……なんというか冴えないやつだった。なんか強者の腰巾着をやっていそうな、そんな感じの。そこはかとなく、冴えないやつだった。
「ふー、あぶなかったー!」
構うのも面倒臭い、と興味を失った俺は、独り言を呟き続ける厨二病患者を気にせず机によりかかるという至福の時を過ごす。
横にいる坂柳がどうにも恐ろしいが、あえて今坂柳が何をしているのか見ないよう、俺は自らの腕で意地でも坂柳を視界に入れないようにしていた。
「あれ……?俺の席が……ない……?なんで全ての椅子が埋まってるんだ……?」
……うるさいな。俺の至福の時を邪魔するつもりか?……まあいい。俺は一生あいつのような人種とは関わらずに生きてい──
「戸塚弥彦……戸塚弥彦……っと」
──おい待て今なんて……?
坂柳から見せてもらったネームプレートがそれぞれの座席には置いてあるのか、冴えないやつ……改めて戸塚なんとかさんはそれを探しながら歩き始めた。
俺は現実から逃げたかった。俺は自らの椅子から離れたくなかった。それでも、恐る恐る自らの席に置いてあるであろうネームプレートを確認したところ……そこには……戸塚弥彦……そう、書かれてあった。
──刹那、俺はそのネームプレートを手で隠す。その世界を戦慄させるほどの瞬間的動作に、誰もが俺の動作に気がつかない。否、気がつけるはずがない。俺はネームプレート隠す選手権速さ種目において世界大会の優勝者なのだから。いや出場者は俺と開催者のみだった挙句めんどくさくて途中で放棄して帰ってきたけど。
余程の間抜けなのか、俺が手で隠していることに気が付かずに教室を一周した戸塚は、先生の元へ向かい、何かを話し始めた。
所々聞こえてくるワードから推測するに、自分の席がない、という事を話しているのだろう。
しばらくがたつと、教師が教団の上に立ち、口を開いた。このクラスは優秀なのか、先生が到着をしてからは戸塚というもの以外誰も口を開いていない。
「ごほん。まだチャイムがなっていなくてすまないが、彼の席がないらしい。しかし、席は間違いなくクラスの人数分用意してある。誰か間違えて別のクラスのものが入ってきていないか?一応これから1人ずつネームプレートをチェックしようと思っているのだが……」
……これはまずい。非常にまずい事態だ。俺は絶対にこの椅子からは離れない。許嫁であるお布団と離れてしまったからには、俺はこいつを……このチェア様を……俺の婚約者へとしなければならないのに……
俺が葛藤する中、1人の生徒が礼儀正しく手を挙げた。
「別クラスの人、ということか?」
「いえ、そうではなく、単なる質問です。クラスの座席表のようなものはないのですか?」
「ああ……それならネームプレートがあるからと職員室に置いてきてしまってな。そろそろチャイムもなるだろうし、流石に今から取りに行くというのは──」
と、なにやらどんなものも疑問に思う幼稚園児のような生徒と話し合いを始めた教師。ナイスだ幼稚園児。
だが……一体どうすれば……
……い、いや!今ならまだ間に合う!幸にして教師は質問大好きマンに質問攻めに合っている。
俺はチェア様に座っているおかげか、加護の力によって素晴らしきアイデアを思いついた。
ネームプレートを見られて困るのなら、ネームプレートを隠して仕舞えばいいじゃないか!と。
作戦は単純明快。ネームプレートをなんとか警備員から逃げる時に持ってきたカバンへと詰め込み、放置する。戸塚という存在には悪いが、俺のチェア様は絶対に渡さない。これは俺のチェア様だ!しっしっ!
よし、やるぞ。
未だ質問攻めをされ続けている教師を横目に、俺はネームプレートを素早く掌へ収める。
そしてゆっくりとカバン のファスナーを開け、そこへ俺がネームプレートを入れようとしていると──丁度、カバンの置いてあった方向にいた、坂柳と目があった。
しばらく、無言の時が続く。すると突然、坂柳が聖母のような微笑みを浮かべたかと思うと──
「──先生、この方が別クラスの方です!」
いや待てほんと待て!!