風の聖痕――電子の従者   作:陰陽師

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第十二話

 

(くそがぁっ!)

 

心の中で悪態をつきながら、和麻は必死で逃げ続ける。無様、実に無様!

だが無様でも何でも、敗北するよりもいい。死ぬよりはマシだ。

 

(落ち着け。隙を見つけろ。あいつだっていつまでも攻撃を続けるなんて無理だ。どこかで必ず一呼吸を置くはず。その隙に反撃に転じれば……)

 

如何に圧倒的な攻撃力と防御力を誇っても、厳馬はまだ人間なのだ。人間ならば付け入る隙はある。体力、精神力が共に限界がある。永遠に持続させ続ける事など不可能だ。

 

(けどあいつの体力や精神力が、簡単に尽きるなんてあるのか……)

 

弱音が漏れる。あの男は化け物だ。体力・精神力共にその限界はまだまだ先だろう。

怒涛の攻撃は続く。空を縦横無尽に飛び回る和麻。さらには光学迷彩やら蜃気楼を応用して、自らの気配を遮断し闇に同化して隙を突こうと考えた。

 

(……無理だな。下手すりゃ、広域殲滅用の攻撃が来る)

 

自分が姿を隠せば、厳馬は周囲に炎を展開しあぶりだそうとするだろう。

炎の攻防移動を簡単に行うような化け物だ。周囲に和麻の風と同等の炎を薄く展開するのと同時に、自らの身体を守りきれるだけの炎を残すくらい分けないだろう。

 

(選ぶんなら空……それも遥か上空なんだが、万が一にもあいつに気づかれる心配があるからな)

 

和麻はすでに奥の手を準備していた。遥か上空。厳馬には決して感知できないであろう場所で。

しかし和麻は厳馬を侮るつもりは無い。長い間、退魔を続け前線に立ち続けたあの男の第六感は尋常では無い。感知の能力を超越した危機回避能力。あの男ならば、感知の外にある和麻の風に気づく可能性が僅かにでもある。

 

気づかれれば終わりだ。風術師が勝つには奇襲しかない。どれだけの威力の攻撃を準備しようとも、迎撃態勢を整えた炎術師の最大級の攻撃の前には敗北する。

勝つためには、決して己の策に気づかれてはいけない。

 

(チャンスを待つんだ。何とか、少しでも今の状況を好転させる!)

 

切り札を切る最大のチャンスを作るために、今の状況を打開する。どの道、準備が整うまでまだだいぶ時間がかかる。

 

(だがしのげるか、この厳馬の猛攻を)

 

冷や汗を流しながら、和麻は必死に厳馬の攻撃を回避し続けた。

厳馬も厳馬で一向にしとめ切れない和麻に驚愕しつつも、何も出来ない、して来ない和麻に違和感を覚えていた。

 

(……ただ逃げ続けるだけ。一見すれば情けない行動だが)

 

この炎に対抗する手段が無いゆえに、逃げの一手しか無いのか。はたまたチャンスを狙っているのか。おそらくは両方か。

 

(だが解せん。逃げるならば攻撃の届かぬ遥か上空に逃げれば済む事……)

 

いくら厳馬の攻撃の射程が長くても、上空百メートル以上にまで上がられればさすがに精度と威力は落ちる。和麻も回避しやすいだろう。

それをしないのは逃げたと思われるのを嫌がっているからか。プライドが邪魔しているのか。

 

(違う。何かある……)

 

厳馬は遥か上空を見上げる。一見して何も無い。闇に浮かぶは月と星ばかり。目視できる範囲には何の変化も無い。

だが厳馬の第六感が叫ぶ。何かがあると。それが何かはわからない。わからないが、自分は脅威を感じている。

目を凝らし、視力を強化し、意識を高めても何も無いが、全身が総毛立つような奇妙な感覚が生まれる。一体空に何があるというのだ。

 

「よそ見している暇は無いだろうが!」

「むっ!」

 

厳馬が意識を上空に向けた僅かな時間、和麻は好機と判断し風の刃を解き放つ。逃げ回っている間、何もしていなかったわけではない。彼はその圧倒的な召喚速度を持って風の精霊を集め、反撃の準備をしていたのだ。

 

疾きこと風の如し。風の刃がチャクラムが、矢が、槍が、厳馬へと襲い掛かる。和麻は反撃とばかりに怒涛の攻撃を厳馬に向ける。

弾幕を張る。厳馬に効く、効かないの問題ではない。厳馬にこちらに攻撃する暇を与えないための攻撃だ。

 

(ったく。気づかれたのか!? ありえないだろ。炎術師の感知能力の範囲外どころか、風術師でも絶対に察知できない高度だぞ! 何で感じ取れるんだよ!)

 

予測の範囲だったが、それでも万分の一以下の可能性だった。それなのに厳馬は気づいた。確信があるかどうかは分からない。しかし警戒する以外に方法は無い。

 

(これが失敗したら、俺に打つ手は無い。少なくとも余力はほとんどなくなる)

はっきり言うと和麻は大博打を打とうとしていた。

 

もう少し小細工を使えば有利に運ぶのだが、今の厳馬相手にこれを使う気は無い。

 

(ほんと、せこい技を使えば楽なんだけどな……)

 

和麻の小細工。この一帯を真空状態にするとか、この一帯の大気成分の比重を変化させる。

これで人間相手には詰みなのだ。人間である限り、生命活動をするには酸素が必要だ。

それも酸素は大気中に一定でなければ人間の身体を破壊しかねない。他にも二酸化炭素や窒素の割合を増やしてやるだけでいい。

 

厳馬ならばそれらを燃やし尽くす事も可能だろうが、正常な状態の大気成分を理解していなければどれだけの酸素を、二酸化炭素を、窒素を燃やせばいいのかがわからない。

 

仮に理解していたとしても、そんな割合を感覚で作り上げる事が可能だろうか。その前に大気成分の変化で思考能力が低下し、肉体が破壊される。

つまり発動すればほとんど防ぐ手段は無いのだ。

 

もっともこんな事をやれるのは世界でも和麻のみだ。事象としてではなく、物理法則を無視した風を生み出す。いや、まだ物理法則の範疇ではあるが、それをやってのけるのは普通の風術師には不可能に近い。そもそもそんな発想も生まれないだろう。

 

それに仮にそんな発想を持ち、そんな事ができる術者がいたとしても、その効果範囲は極めて小さいものだ。それこそ一、二メートルの範囲。そんな狭い範囲ではすぐに逃げられるし、風を蹴散らせばすぐに元の状態に戻る。

 

だが炎術師が水を沸騰させずに水中で炎を起こせるのと同じように、酸素しか含まない風を操るなんて事は和麻にとって難しくなく、範囲も数十メートルから百メートル範囲を望んだ状態に出来る。

この範囲から瞬時に離脱、または破壊するなど正直厳馬クラスでも容易では無いだろう。

 

(いや、あいつなら普通に吹き飛ばすかもしれないな。……けど今回は使いたくないんだよな。あいつの全てを叩き潰すために……)

 

それらは一つの戦術であり戦法である。和麻はこれを卑怯とは思わないし、小細工大好きな男だから、強者がこんな絡め手で、あっさりやられて悔しがる様を見るのを楽しみたいのだが、この戦いでだけは使いたくなかった。

 

まあ一度勝ってしまえば仮に二度目の厳馬との戦いがあった場合は、何の躊躇も躊躇いもなく卑怯と言われても、最高の褒め言葉だとでも言いながら喜々として使うのだが。

 

(そう。今回だけ。今だけは、らしくも無いやり方で勝たせてもらうぞ、神凪厳馬!)

 

高速移動を続けながら攻撃を続け、和麻は厳馬に反撃の機会を与えないようにする。準備が整うまでの時間稼ぎ。もう少し、もう少しだけ時間が要る。

和麻の体から汗が吹き出る。体力もどんどん落ちている。

 

厳馬と相対するのに体力と精神力をすり減らし、同時に大技の準備もする。はっきり言ってとてつもない労力だ。和麻でなければ、こんな事はできない。

だが集中力は何とか持続させているが、まだ僅かな時間しか経っていないはずなのに和麻の限界は近づいていた。

 

(ちっ、やっぱり無理があるか。こいつと戦いながら“あれ”の準備をするのは。まだ十分程度しか経っていないのに、こっちの消耗が激しすぎる。それに完成にはあと二分って所か。……あと二分。あいつに反撃させないで持ちこたえる? 何の冗談だ、それは)

 

正直、無理だと思った。この攻撃もあと十秒も続かない。精霊を召喚し続けているが、厳馬が大人しくこちらの攻撃を受け続けてくれるはずも無い。その証拠に、厳馬の闘気が膨れ上がっている。

 

(来る!)

 

厳馬との目が合った。まるで獲物を狩る狩人のような鋭い眼光。厳馬は今の今まで、何もせずに攻撃を受け続けていたわけではない。和麻の動きを観察し、逃げられない攻撃を放つタイミングを計っていたのだ。

 

「おおっ!」

 

気合と共に蒼炎が牙を向く。まるで八岐大蛇のごとく、巨大なうねりを上げる炎の龍の群れが和麻の風を飲み込み、和麻自身へと迫り来る。

この瞬間、厳馬に攻撃すれば厳馬の身体を切り裂けるかもしれないが、生憎と和麻にはそれが出来なかった。

 

そんな攻撃をする余力がなかったのだ。今までの怒涛の攻撃で力を使い、厳馬を足止めしていたのだが、足止めどころか相手に貯めの時間を与えるだけでしかなかった。

厳馬はあの攻撃で足止めされていたのではない。ただ見極め、タイミングを計り、最高の一撃を放つ力を集めていたのだ。

 

対してこちらはほとんど手元に精霊を残していない。何とか神速の召喚速度で精霊を集めているが、とてもではないが厳馬の炎を超える風を生み出すことなど不可能。

迫る炎は四方より和麻に襲い掛かる。逃げ道など無い。防御も出来ない。受け流す事も、出来そうに無い。

 

「くそったれぇっ!」

 

悪態をつきながら和麻は奥の手を使う。迷う時間は無い。後先など考える余裕も無い。生きるか死ぬかの瀬戸際!

死を予感させる炎。まるで時間がスローになったかのようだ。体感時間が限りなく圧縮され、走馬灯のような状態に陥る。

 

集中力を極限まで高めた和麻は、それを発動する。己の中にある扉を、かの者へとつながる世界への扉を開け放つ。扉の向こうに広がるのは無限に続くかのような遥かなる蒼穹。

 

この全てがかの者。扉を開け放ち、和麻はかの者と一つになる。

和麻の瞳が透き通る蒼へと変わる。それは御印。契約者の証。風の精霊王より大気の全てを統べる者に捺された、風の聖痕“スティグマ”。

本来なら発動に時間がかかるが、極限状態の今、和麻は今までに無い程の速さで聖痕を発動させた。

 

人でありながら、風の精霊を統べる者へと彼はその存在を再構築される。自我が拡大し、どこまでも己の存在が広がる。

半径百キロ。それが今の和麻の意志が届く範囲。世界の事象をすべて把握する程の神の領域。

迫り来る厳馬の炎を、和麻は全力を持って受け止める。

 

「おおぉぉぉっっっ!!!」

 

厳馬の炎と和麻の風がぶつかり合う。炎は和麻の召喚し続ける風を次々に喰らいつくす。だが和麻はそのたびに無限とも言える風の精霊を召喚し続け、炎を相殺し続ける。

その光景を厳馬は馬鹿なと心の中で吐き捨てる。ありえない。全力に近い攻撃を放ったのに、和麻の風はそれに拮抗し続ける。それどころか相殺しかけているではないか。

 

(ありえん。何と言う精霊の数だ)

 

厳馬自身、非常識なほどの精霊を従えるのだが、その厳馬を持ってしてもありえないと思えるほどの精霊を和麻は従えている。

ここにきて、厳馬は和麻の事をまだ過小評価していた事に気がつく。厳馬は和麻が自分と同格の術者であると想定し、ここにやってきた。

しかし事実は違う。和麻は自分よりもさらに上の領域に進んでいる! それはまるで全盛期の重悟のような、自分が決して超えることが出来なかった存在のような領域に。

 

くっと小さな言葉を漏らしながら、厳馬は笑っていた。そう、常に無表情な男が笑っているのだ。声を上げて笑うと言う事はしていないが、厳馬の顔には愉悦の笑みが浮かぶ。

 

(強くなったのだな、和麻)

 

息子の成長を嬉しく思う。自分にそんな資格はないと言うことは理解している。だが父としてこれほど喜ばしい事は無い。あの弱かった息子が、これほどまで大きく成長して自分の前に立ちはだかっているのだから。

 

しかしだからと言って負けてやるつもりは厳馬には一切なかった。彼も和麻と同じ負けず嫌いなのだ。

自分よりも上の領域に息子がいると言って、ああそうかと簡単に敗北を認めるようなことはしない。そんな可愛げのある男ではないのだ。

むしろより闘志を燃やし、和麻との戦いを望む!

 

「ぬおぉっ!」

 

蒼炎の力を高め、厳馬はさらに攻撃を続ける。両手の拳を握り締め、和麻に向かい同時に左右時間を置いて打ち出す。うねりを上げ、さらには和麻のように回転を加えた攻撃に特化した一撃。まるでドリルのナックルである。

 

和麻はそんな厳馬の攻撃を両手をかざして膨大な風の渦で迎え撃つ。まともにぶつかることはしない。厳馬が剛の攻撃ならこちらは柔の攻撃なのだ。受け流し、その威力を殺すと言う戦法しか使えない。

 

(もう少し、もう少しだけ持ちこたえろ!)

 

厳馬の風を受け止め、受け流し続けながら和麻は必死にその時を待つ。聖痕を発動させたことで、準備の時間も短縮された。

劇的に広がった彼の知覚力は彼らの頭上、遥か上空五十キロより上で集結させ続ける風の渦を克明に捉えていた。

 

(厳馬は……)

 

炎の攻撃が続かない事を疑問に思い、和麻は厳馬を見る。そこには更なる炎の精霊を集め、最大規模の攻撃を放とうとする厳馬の姿があった。

おそらくはこれで決めるつもりだろう。普通ならそんな大技を放つ隙を与えないように攻撃を放つのだが、今の厳馬の炎を受け止めるのに精一杯で牽制に回す余裕が無い。

 

仮に牽制に回しても、今の状況では神炎を纏った厳馬の炎を切り裂き、集中力を乱す攻撃を放つことが出来ない。

 

お互いに狙うのは大技。

 

ただし和麻の場合は長い時間をかけて準備したものであるのに対し、厳馬はその半分以下の時間で準備が出来る。この差にはさすがに和麻も涙が出てくる。

奇襲をかけるつもりが、厳馬に準備を完了させる始末。当初の目論見はことごとく外される。それどころか聖痕まで使わされる結果となった。

 

(だが……準備は整った!)

 

風を開放し、自分に纏わりついていた炎を全て蹴散らす。

そして手を頭上にかざす。

 

「無駄だ、和麻! 如何に召喚速度が速くても威力は私の方が上だ!」

 

厳馬はすでに準備は出来ていた。如何に和麻の召喚速度が速くとも厳馬の最高の一撃を超える攻撃を一瞬で生み出す事は出来ない。それは当然のことであり、聖痕を発動させた和麻でも決して覆せない。

 

だが……。

 

「はっ! こっちも準備は終わってるんだよ! 受けてみろよ、俺の一撃を!」

 

和麻はバッと手を厳馬に向かい振り下ろす。瞬間、遥か上空で光が生まれる。

 

「なっ!?」

 

厳馬は見た。自分達の遥か上空より厳馬に向かい迫る流星のような光を。それは赤でも蒼でもない。黄金色(こんじき)に輝く一筋の光!

目視した時にはすでに遅かった。一瞬の硬直。あまりの光景に判断に迷ってしまった。

 

もう回避は間に合わない。厳馬に目掛けて一直線に迫る光。回避が出来ないのならば、受け止めるしかない。そのためには和麻に攻撃するために準備していた炎を使うしかない。

 

「おおおぉぉぉぉっっっ!」

 

炎を解き放つ。蒼い炎は球体状となり、厳馬の頭上で光り輝く。それはまるで太陽のようだった。否、小型の太陽と言っても過言ではない。それも計り知れないほどのエネルギーを有したもの。

 

頭上より迫り来る黄金色の流星のような風と蒼い太陽の炎がぶつかり合う。

衝撃と爆音、轟音が周囲へとあふれ出し、強固な結界に守られた空間を激しく揺らす。いや、そもそもその結界は黄金色の光が降り注いだ地点を中心にすでに崩壊を始めている。

 

(馬鹿な、この私の炎が押し負けている!?)

 

驚愕に目を見開く。厳馬は自分の全力の炎が真正面からぶつかり合って、押し負けそうになっていると言う事実が信じられなかった。

厳馬の放っている炎は厳馬が今放てる最大級の炎なのだ。極限まで収束し、圧縮した小型太陽とも言うべき炎。それがおそらくは風であろう攻撃に押し負けてそうになっているのだ。いや、気を抜けばすぐに炎を突き破られそうだ。これに驚かないはずが無い。

 

だが驚愕は和麻も同じ。最高の切り札である聖痕“スティグマ”とこの黄金色の風のコンボに対して、厳馬が拮抗している事が信じられなかった。

 

(あれを持ちこたえるのかよ、化け物が!)

 

黄金色の風の正体。それは大気層の一つである上空五十キロ~八十キロの地点に存在する中間圏に存在する平均約-92.5℃の低温の風を集め、それを収束して放つと言う物だった。

 

ダウンバーストと呼ばれる現象がある。それは強力な下降気流を発生させるものである。

和麻がダウンバーストを起こす場合、成層圏に低温の空気を送り込むのだが、和麻は成層圏のさらに上、中間圏の空気をそのまま使うと言う行為に出た。

地表から五十キロ以上の高度の空気を操るなど、普通なら無理だ。否、和麻でさえも不可能に近かった。

 

当初は何度も失敗した。しかし地上とは違い、空には遮蔽物が何も無い。風の精霊を遮るものは何もなく、どこまでも蒼穹が広がっている。それが和麻に味方をした。

自らの上空であるならば、和麻は何とか地表五十キロの風を部分的に操る事が出来た。

 

炎の圧倒的なエネルギーと熱量に相対するために、その正反対であるマイナスとも言うべき冷気に和麻は着眼点を置いた。自らで冷気を生み出せないのならば別のところから用意すればいい。目を付けたのは中間圏の温度極小層の大気。

しかもここに目を付けたのはそれだけが理由ではない。現代社会において、空気は、風は、人間の手によって汚染され続けている。

自然の風の精霊達も、人間が作り続ける大気汚染の影響でかつてのような輝きを、強さを、力を失いつつあった。

 

だが遥か上空の大気は、まだ汚染が少ない。少ないと言ってもそれでも汚染は着実に進行しているが、まだ地表ほどではない。

ここの精霊はまだ穢れが少ない。そしてその力も地表に存在する精霊よりも強い。

それをかき集め、圧縮し、収束すればどれほどの威力になるか。またそれを和麻の気を融合させた神風とあわせれば。

信じられない速さで地表に向かい落下してくる。視認した時には手遅れである。

 

さらに風は加速させれば加速させるほど、そのエネルギーは大きくなる。

その低音の風は温度差と大気の摩擦とで発光現象を起こし、和麻の蒼い風を黄金色へと変化させる。何故黄金色になるのかは和麻もわかっていないが、以前これを上級妖魔に使用した際は、その圧倒的な威力と浄化の力で塵さえ残さず消滅させた。

黄金色の風は神凪の最上位の黄金以上の、さらにその上の神炎さえ超える破壊力と浄化能力を持つ風に変貌を遂げた。

 

ただしこれには欠点もある。まず聖痕“スティグマ”を発動させていない状態の和麻では準備するのに時間がかかりすぎる。

完全にこれだけに集中すれば一、二分ほどで完成させられるのだがそれでも長い。実戦の中では五分以上もかかってしまう。それに一度集中力を切らせれば、たちどころに霧散してしまう。

 

他にも使用条件が厳しく、とても実戦で安易に使えるものではない。だがあえて和麻は己の限界に挑戦し、これを実戦で使用した。威力だけ見れば、はっきり言って和麻の手持ちのカードの中で最強の一撃なのだ。

 

まあ最初から準備して開始と同時に放っても良かったんだが、さすがにその不意打ちで勝つのもどうかと、和麻にしては珍しく彼らしくない思考の下、ほぼ同条件でこの戦いに望んだ。

 

この一撃は聖痕発動状態での使用。今まで聖痕を発動した状態で放った事は無かったが、今の黄金色の風の威力は通常よりも数段上だ。これの直撃を防ぎきる存在などいるはずが無い。そう思っていた。

 

(これでも仕留められないとか、ありえないだろうが! 何で受け止め切れるんだ!?)

 

何度目になるかわからない悪態をつく。切り札を二つも切らされたと言うのに厳馬は倒せない。それもただの切り札ではなく和麻自身の奥の手であり、これ以上無いと言うべき物を二つ使っているのに。

 

アーウィンと戦った時よりも、今の和麻は強くなった自覚はあった。ウィル子と出会い、幾つかの戦術も組み立てた。この黄金色の風も、ウィル子と出会って以降に二人で色々な情報や知識を参考にして作り上げた。

 

しかしそれを持ってしても厳馬を倒せない。

 

世界最高の魔術師で、ここ五百年では並ぶ者さえいないと言われたアーウィンでさえ、和麻は聖痕を発動させるだけで勝てた。

それはアーウィンが最高の魔術師でも戦闘者ではなかったからだ。彼は探求者にして研究者であり、様々な魔術の復活やその扱いには誰よりも長けていた。ゆえに戦闘能力も高かったが、それでも戦う者でもなく、その心構えもなってなかった。

だからこそ付け入る隙は十分にあり、自らよりも圧倒的に強い力の前にはアーウィンに抗う術はなかった。

 

だが神凪厳馬は違う。彼は探求者ではなく、戦闘者。力も、心構えもあり、自分よりも強い者と戦ったこともある老練な使い手なのだ。

それが聖痕を発動させた和麻との差を縮める要因にもなった。

契約者の力を行使する和麻と互角に戦うことの出来る男。

和麻も人と言う範疇を遥かに超える化け物と呼ばれるほどの力を持つが、神凪厳馬もまた、人を遥かに超える怪物であった。

 

「この……。いい加減にやられろ!」

 

和麻は風を己の右手にさらに集める。限界が近いのは理解している。聖痕を使える時間はおおよそ五分。それも万全の体調に近い状態でならだ。

今の疲弊した状態ではもうあと一分も続けられない。それどころか三十秒も持たないかも知れない。そして聖痕の発動が終われば一気に身体に疲労が押し寄せてくる。脳にかかる負担もハンパではない。人間の分際で神にも等しい力を行使するのだ。それくらいのリスクは当然である。

その前に何としても厳馬を倒す必要があった。

 

脳がズキズキと痛みを発している。しかし倒れるわけには行かない。限界まで力を行使しても、この男を倒すまでは倒れるわけには行かないのだ!

風を解き放ち、未だに黄金色の風と拮抗している厳馬に更なる追撃をかける。

 

「ぬぅっ!」

 

だが厳馬も負けていない。全力で、持てる力の全てを振り絞り厳馬は炎を召喚し続ける。拮抗を続ける炎と風。だがその終わりはやってくる。

 

「私を、舐めるなぁっ!」

「っ!」

 

炎が爆発する。蒼炎が最後の輝きを見せる。炎は風を飲み込み、消滅させていく。厳馬もまた、和麻と同じように限界を超えて炎を生み出しているのだ。

 

「てめぇこそ、俺を舐めんじゃねぇ!」

「ぐっ!」

 

もはやここまでくれば意地だ。意地と意地とのぶつかり合い。お互いがぶっ倒れるまで、限界まで風を、炎を召喚する。

轟音が当たりに響き渡り、衝撃が二人を襲った。

 

「がぁっ!」

「っ!」

 

お互いに衝撃で吹き飛ばされる。和麻は空から地面に落ち、厳馬は爆発の衝撃で背中から地面に激しく打ち付けられる。

 

(……身体が、動かない……)

 

和麻はうつ伏せに倒れながら、自分の体が動かない事に気がついた。限界を超える風の力を行使したのだ。さらには厳馬との戦いで神経と体力をすり減らした。聖痕の発動も、彼の身体に多大な疲労とダメージを蓄積させた。

すでに聖痕は封印している。と言うよりも発動させ続ける事が出来なかった。風を召喚しようにも、まったく風を操れない。

 

不意に厳馬の方を見る。厳馬はゆっくりとだが確実に立ち上がった。どうやらまだ彼の方がダメージが少なかったのだろう。息を荒くしているが、それでも尚、こちらに向かってくる。

 

「……よもやここまでとは思わなかったぞ。強くなったな、和麻」

 

和麻の横に立ち、彼を見下しながらも、厳馬は賞賛の言葉を送る。

四年前と似た構図ではあるが、かけられる言葉は正反対に近い物だった。

だが和麻にとって見ればそれは賞賛の言葉でもあの時を再現でしかなく、忌まわしい物だった。

這い蹲り、倒すと決めた相手を見上げている。それはまるで、自分がこの男に届いていないと言う証拠のようにも感じられた。

 

「だが私にはまだ及ばぬ。思い知ったはずだ」

 

うるさい。

 

「正面からの打ち合いでは炎の方が上だ。その炎相手にお前はよくやった」

 

黙れ。

 

「しかし結果はこの通りだ。私は立ち、お前は倒れている」

 

ほざくな。

 

「お前が望んだ戦いの結果だ。私の勝ちだ。それともまだ立ち上がる気力はあるか?」

 

問われるが和麻の身体は立ち上がることさえ出来ない。限界を超え、和麻の身体は悲鳴を上げていた。

何とか、和麻は厳馬を睨む。それでも見上げると言う構図が、和麻には屈辱的過ぎた。見下されていると言う事実が、和麻のプライドを傷つける。

 

「……まだ納得できないのであれば、お前の意識を刈り取り、確実な敗北を与えよう。心配しなくても命は奪わん。だがしばらくの間寝ていろ」

 

厳馬はその手を振り上げる。完全に勝利を収めるために。

 

「お前は確かに強くなった。この私すら負かしかねないほどに。いや、もしかすれば私の上を行っているのかもしれん」

 

負けず嫌いの厳馬らしからぬ発言。ここに重悟がいれば、かなり驚いた顔をしていたであろう。

 

「だが私には誇りがあり、信念がある。守るべき者があり、守らなければならない物がある。確かに神凪は罪を犯した。私はお前を捨てた。お前にとって見れば神凪や私はくだらなく、憎むべきものであり、消し去りたいものだろう。だが私はそれでも守る。守らなければならないのだ。宗主代行として、一族最強の術者として、神凪の名を、そこに住む者達を」

 

息子を守りきれず、結局最後には放逐しておいてこんな台詞もは無いなと厳馬自身思ってはいたが、神凪の名を持つものとして、それでも尚、背負わなければならない物があった。

 

厳馬ははっきりと言い放つ。お前と私の差は背負うべき物の差だと。

 

厳馬が手刀を和麻の首筋に向かい振り下ろす。和麻には振り下ろされる手がやけに遅く感じられた。炎を使わない辺り、厳馬もおそらくは限界なのだろう。いや、今の自分には炎を使う価値も無いと言うことか。

だがこちらはそれ以上に限界だ。もう一ミリも動きそうに無い。

 

ああ、俺はこの男に負けるのか。四年経っても、力をつけても、この男を上回る事は出来ないのか。

翠鈴。俺はやっぱり弱いままなのかな……。

弱音が漏れる。彼らしくない弱音。だがこの状況でどうすればいい。風術はもう使えない。身体も満足に動かせない。

もう、敗北以外に何が残されている。

 

厳馬の言葉が嫌に重くのしかかる。背負うべき物、守るべき者。それは四年前に失った。守れなかった。守ろうと決めていたのに、果たせなかった。

強くなったのは、もう二度と失いたくないためだった。泣くのは嫌だったから。弱い自分が許せなかったから。

けど今の自分には何がある。守るべき者、背負うべき物がどこに・・・・・・・。

 

だが不意に、和麻の頭に声が響く。

 

―――マスター―――

 

ピクリと和麻の体が震える。

 

―――マスター、頑張ってくださいね―――

 

どこかから聞こえる声援。はっきりと聞こえる少女の声。自分をマスターと呼び、この一年、共にあり続けた少女の声が聞こえる。

 

―――電子世界の神になるウィル子のマスターが、高々精霊王の加護を受けただけの奴などに負けるはずがないのですよ。と言うか、負けることは許さないのですよ!―――

 

思い出すのは彼女との会話。

微かに口元が歪む。微かに、和麻は笑みを浮かべた。負けられない。 ああ、そうだ。自分にも負けられない理由があった。

 

一族からつまはじきに合い、親に捨てられ、大切な人を守れず、復讐に生きて道を見失った自分にずっと着いて来た少女。自分の勝利を信じ、今もきっと待っていてくれるであろう者。

彼女の笑顔が浮かぶ。負けたら、どの面下げて帰ればいい。祝賀会の準備をしながら、シャンパン片手ににほほほと笑いながら、そのあたりのパソコンのデータを食べ漁っている超愉快型極悪感染ウィルスの少女になんて言われる事やら。

 

(負けらんねぇ……。負けられるかよっ!)

 

迫り来る手を和麻は受け止めた。

 

「なっ!?」

「負けられないのは、俺も同じなんだよ!」

 

和麻は叫びながら立ち上がる。

守るべき者を失ったが、また手に入れた者があった。交わした約束がある。帰る場所と人がいる。

だからこそ、和麻は負けられない!

 

肉体の限界? それがどうした。限界なら超えればいい!

和麻の屈強な精神はボロボロになった肉体を凌駕した。俗に言う精神が肉体を超えると言う状態だ。

和麻を突き動かすのは、揺ぎ無い確固たる意思であり、断固たる決意!

 

和麻の拳が厳馬の身体に直撃する。それは決して死に損ないの拳ではなかった。

厳馬の身体はまるで鋼のようだった。鍛え抜かれた屈強な肉体。厳馬の強さを支える、もう一つの武器。

しかし和麻も負けていない。和麻も自堕落な生活を送ってはいたが、それでも鍛錬を怠る事はしなかった。

 

「らあっっっっっっ!!!」

 

和麻は吼える。気合を乗せ、魂さえも乗せかねない攻撃を繰り返す。ラッシュ、ラッシュ、ラッシュ!

 

「ぬぉっ!」

 

突然の反撃に厳馬もたじろぐ。実際のところ厳馬もほとんどの力は残っていなかった。立って、満身創痍の和麻の意識を刈り取る程度にしか残されていなかった。

思わぬ和麻の攻撃は、厳馬の身体を屈服させるのには十分だった。ガクガクと膝が笑う。

このまま倒れてしまいそうだ。

 

だが・・・・・・・・。

 

(私とて負けられぬ!)

 

ドンと足を地面に踏みしめ、目を見開き、厳馬は和麻を睨む。次の瞬間、厳馬の拳が和麻に突き刺さる。

激しい痛みが和麻を襲うが、和麻は倒れない。厳馬と同じように力の入らない足を何とか踏ん張らせ、大地を踏みしめ立ち続ける。

それでも厳馬の攻撃は続く。身体に顔に、厳馬の拳は容赦なく襲い掛かる。

 

「私は決して負けられぬのだ!」

 

負けられないと言う点では同じ。厳馬もまた、意地と屈強な意思で限界まで酷使した身体に鞭打ち、真正面から和麻と打ち合う。

厳馬もまた、精神が肉体を凌駕し限界を超えさせた。和麻の身体をその鍛えぬいた鋼の肉体より繰り出す拳で幾度も打ち抜く。

 

痛みに襲われ続ける和麻は、ここで倒れれば楽になれる。この痛みからも解放される。そう思ってしまった。

だが倒れない。倒れるわけには行かない。約束したのだから。勝つと。今日を、過去を乗り越える記念すべき日にすると。

 

この世界中で、唯一自分を信じる従者に、否、パートナーと呼べる存在と約束をしたのだ!

 

痛みがどうした? 疲労がどうした? そんなもの、あの十八年間や翠鈴を奪われた時に比べればどうだと言うのだ。そんな事よりも、交わした約束が守れない方が辛い。果たせない方が嫌だ。

守ると約束して守ることが出来なかった、弱かったあの頃、あの時。あの時と同じような思いをするのか。またあの時のように無様に泣くのか。

 

違う。そうならないように強くなったはずだ! こんなもの痛くも無い。こんな疲労など関係ない。

ただ目指すのはこの男に勝つことだけ! 約束を果たす事だけ!

 

だから! だから!! だからっ!!!

 

「俺が、勝つ!」

 

和麻は渾身の力を右手に込める。最後の一撃を放つために。

 

「ぬかせ、若造がぁっ!」

 

厳馬も同じく、拳を握り締める。和麻と同じように、渾身の一撃を放つために。

二人の拳がそれぞれの身体に突き刺さり、そのまま両者共にドサリと前のめりに倒れこむ。

 

ここで立ち上がった者が勝者となる。もう本当に二人には力は残っていなかった。

ゆっくりと時間が流れる。どちらも動こうとしない。否、動けないでいる。

このまま両者共に引き分けになるのか。

 

そう思われた。

 

だがピクリと動く男がいた。グッと両手を地面に付きたて、ボロボロの身体を必死に起き上がらせる。

ガクガクと震える足に力を込め、ゆっくりとだが確実に立ち上がる。

 

そして……その男は拳を握り締め、こう宣言した。

 

「俺の……勝ちだっ……」

 

ボロボロになりながらも笑みを浮かべ、彼―――八神和麻は、倒れ意識を失った神凪厳馬を見下ろしながら、己の勝利を宣言した。

 


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