人間、いざ死を目の前にした時。まず真っ先に思い浮かぶのは、目の前の光景に対する率直な感想だった。
赤色。ただひたすらに。その色は恐ろしく、いっそ美しくさえ思うほどに鮮やかで、真っ赤な噴水だ。
視界の端で首から上をどこかに忘れてきてしまった友人が、糸の切れた操り人形のように倒れ伏す。
そこに恐怖はなかった。
なぜならそんなくだらないことを考える時間すら、彼にはなかったのだから。
そして、運が良いのか悪いのか。脳が状況を理解した頃にはもう、視界が逆さまになっていた。
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「失礼っ!」
突然肩を強い力で引かれ、その力に逆らえぬまま、視界が上を向く。映ったのはところどころひび割れたコンクリートの無機質な鼠色と点滅を繰り返す蛍光灯。そして数本の髪の毛を巻き込んで眼前を通り過ぎてゆく銀色の刃だった。
「…ちっ」
凶器を振るう橙色の襲撃者の舌打ちと再度刃が風を切る音、そしてそれがライトの持つ軍刀によって防がれ、金属同士のぶつかり合う鋭い音が通路内に響き渡る。彼女が自らの命の危機を察知したのは、その一瞬の攻防が全て終わってからだった。
──死──
自身の命が失われかけた。その事実に体の芯から冷やされるような感覚に襲われる。シラクーザに今までの仕事、何度も経験したはずのその感覚は、いつまで経っても慣れないままだ。
「リスタさん!」
「っ!襲撃だ!総員密集陣形を取れ!」
襲撃者の刃を押さえながら叫ぶライトの声に応えるようにしてリスタが隊員に号令をかける。
安全の保証されたセーフティルームなはずの地下通路に存在しないはずの侵入者。
ありえない、なんてことはない。
考えたくないことではあるが、この事実が示すことはすなわち中央司令塔が落とされ情報が流出したか、駐屯軍または自治隊、この地下通路の存在及び侵入方法を知っている者の裏切り。どちらも考えたくない、最悪な状況だ。
しかしそんなことを考えているうちにも状況は悪化してゆく。
「ぐっ!」
「ライト!」
血を吸うことなく防がれた凶刃は弾かれ、しかし続いて蹴り出された追撃によってライトの体はひび割れた壁を突き破って吹き飛び、襲撃者もまたそれを追って穴に消えてゆく。これで戦力が一人減ってしまった。
しかし襲撃者はその一人ではない。
残った襲撃者達は血濡れた凶器を片手にリスタたちを囲み始める。
「な、なんでこんなとこまで…!」
「ここは安全じゃなかったのかよ!」
「い、嫌だ!俺はまだ死にたくねぇ!」
「クソがっ!狂った感染者どもめ!」
「落ち着け!民間人と怪我人を後ろに、陣形を崩すな!相手は所詮まともな戦い方も知らない暴徒供だ!この数なら、落ち着いて対処すればどうにかなる!」
細かい傷が所々に入った大楯を構えながらリスタ小隊長が兵士たちを奮い立たせようと指示を出す。しかし兵士たちの武器を持つ手は震えまともに戦えるような状況ではない。ライトという自治隊の指揮官を任されるほどの人物が真っ先に落とされたこともあるのだろうが、彼らは知りすぎていた。狂った暴徒達の恐ろしさを、そして死への恐怖を。
感染者を舐め腐り、見下していたかつての姿はもうそこには無い。あるのはただ恐怖に震えることしかできない弱者の姿だけだった。
「……」
しかし感染者達は動かない。
リスタ達を囲むことはしても、一定の距離を保ってそれ以上近づいてくることはなかった。こちらが一歩進めば凶器を見せつけるように構えてくることから、我々を逃す気はなさそうではあるが。
はっきり言って異常。外にいる感情のままに暴れ回る暴徒達とは何かが違った。それが彼らの恐怖と混乱をより加速させる。
「い、いや…皆んなここで死ぬんだぁぁぁ!」
「死にたく無い!誰か助けて!」
「狼狽えるな!落ち着いて陣───
「うるせぇぞてめぇら!!民間人の前でみっともねぇツラ晒してんじゃねぇ!!」
ベール副隊長の怒号がこだまする。
「俺とリスタは今までこれ以上の戦場を、カジミエーシュの化け物騎士ども相手に潜り抜けてきた!この程度、テメェらがしっかりすりゃぁどうってことはねぇ!!」
ウルサス正規軍クレアスノダール駐屯軍リスタ小隊副隊長。そんな長ったらしい肩書を持つ彼はリスタ同様に長年ウルサスという国家に仕えてきた歴戦の兵士だ。“愛国者”や“雷獣”が代表するウルサスの英雄足り得ずとも、数多の戦場を生き残ってきた優秀な兵士出ることには変わりない。
故にその言葉は彼らによって大きな希望になり、兵士たちの混乱をある程度沈めるに至った。
しかし状況は変わらない。先程大口を切ったベールであったが、彼にもこの状況が明らかに不利な状況だということはわかっていた。
こちらの戦力はまともに動けそうなのが4名に、剣を握り形だけは保っているものの、戦うことすら厳しいものが9名。医療品が足りたとしても助かるかどうか怪しい重症者が7名。そして守るべき市民が6名。
そして彼方は暴徒…否、統制の取れた兵士が二十数名。武装も服装もその陣形の取り方も、地上の数だけは多い暴徒達とは全く違う。あれは確かな脅威であると彼は気づいていた。
「っ〜〜!!いったいですねぇ!」
「ライト!無事だったのか!」
「ええ!パイプ街を彷徨うのは久しぶりでしたが…存外覚えているものですね」
再度壁の崩れる音と共に転がり込んできたライトの姿にエンペラーが声を上げる。唯一露出している顔には切り傷ができ、羽織っていたロングコートも所々切り裂かれたのか縦に穴ができていた。
しかしそれでもクレアスノダール自治隊の一個小隊の小隊長の肩書きに相応しい実力を持っていたようで、不意打ちに対応した上で目立った傷もなく戻ってきていた。
これで状況は好転───とはいかない。目前の敵は実力者といえども、たった一人戦力が加わった程度で押し返すことができるほど甘い敵ではない。それに、そんな彼と剣を交えた襲撃者もまた彼と同じようにこの地下通路に戻ってきてしまったのだから。
「……やるな」
「貴方こそ」
鋭い目つきでライトを睨みつけるその襲撃者に彼はニヒルな笑みを浮かべる。だがよく見ると、息が上がり、剣を持つ手が震えているなど、彼は思った以上に限界のようだった。
「まだやれるか?」
「ははは…強がってみましたが少しきついですね。飛んだ大物が出てきたものです。確か……」
「『クラウンスレイヤー』だ」
「ああ、それです。いやぁ…参りましたね。これなら警備兵たちが皆殺しにされたのも納得できます」
「無駄口を叩いていないで構えろ」
「了解」
クラウンスレイヤー
数年前、たった一人の覆面の人物によって起こされた最悪の事件。ドルトン源石加工工場襲撃事件の後に起こった事件である『ロードレス源石採掘場』の主犯格であり、その後立て続けに起こった襲撃事件にも姿を現した人物だ。ドルトン源石加工工場襲撃事件の模造犯ではないかという話も出ていたが、もしかしたら全て同グループ、同人物による犯行だった可能性も浮上してきた。
いや、今考えることではなかったと彼はベール副隊長に言われた通りかチャリと音を立てて軍刀を構え直した。
「しかし……ミドル区の制圧報告が遅いと思ったらこんなところに隠れていたとはな。今頃他区画の小隊長共は守るべき市民とやらを守るために戦って、立派に無駄死にしたんじゃないか?少なくとも、一人はそうだったな」
「っ!貴様っ!」
「落ち着け!」
襲撃者の言葉にベール副隊長が怒りを示す。当たり前だ。彼らはウルサス正規軍という肩書を持つ誇り高き軍人。その誇りが傷つけられれば怒りもする。それが感染者によるものならなおさらだ。例えこの数時間で感染者への油断が消え去ったとしても、それは仕方のないことだった。
だがしかし、そんな反応を見せたのはベール副隊長以外にはいなかった。
「他区の小隊長が、死んだ…?」
「いや、そんな…ダリル小隊長が死ぬわけない!」
「てことはここ以外…全滅…」
「やめろ!敵の戯言に耳を貸すな!」
リスタ小隊長が混乱の広まってゆく部隊員達に向けて叫ぶ。しかし、それが届くことはなかった。
「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「っ!」
初めはエンペラーのすぐ隣にいた女性だった。
彼女の甲高い悲鳴は地下通路上に響き渡り、絶望が伝播する。
「ああああ!し、死にたくねぇ!!」
「助けて!助けて!助けてぇ!!!」
「うわぁぁぁぁぁ!!お母さん!!」
ツギハギの平静は容易く破られ混乱と絶望が場を支配する。ほぼ全ての兵士たちが頭を抱え、悲鳴をあげ、うずくまり、泣き出し、嘔吐し、絶望した。もはや戦う気力のあるものなどどこにもいなかった。
「ふっ、無様だな」
「黙れ!」
「アイツも悲しいだろうな。こんな奴らに私たちは今まで苦しめられてきたんだからな」
クラウンスレイヤーは見下すような笑みを浮かべ、片手をあげる。それに合わせて包囲網を形成していた暴徒たちも凶器を構え一歩前へ踏み出した。それに合わせてリスタ小隊長たちも武器を構えるが、多くの兵士たちは動かない。反応したとしても、せいぜい小さく悲鳴を漏らすだけで戦うことも、逃げることすらできそうになかった。
しかしその状況で、動いた者がいた。
「隊、長…ここは!俺たちに任せてください…!」
「お前たち!?なにを!」
軍刀を杖代わりにつき、彼はそう言った。
「……負傷兵風情が何になる」
「時間稼ぎくらいにはっ!なるだろうよ…!」
それは兵士達だった。腕を失い、足を失い、目を失い、血を滲ませながらも立ち上がり、武器を持つ。仲間を逃すため。敵を撃ち倒すために、名も知らぬ兵士たちはその命を削って立ち上がる。
「テメェら!?重症者は下がってろ!」
「下がってても無駄死にするだけですよ副隊長。せっかくならこの命、有用に使ってくださいよ」
「っ!」
「ゴホ..... 今を生き残ればより多くの市民を守ることができる。今を生き残ればより多くの仲間を助けることができる。生き残りさえすればより多くの塵どもを殺すことができる。そう言ったのはアンタだ。ちゃんと生き残って、市民を、俺の仲間を俺の家族を、みんなを救ってくださいよ」
「っ!だ、ダメだ!俺が行く!テメェら部下を守んのは上司の俺の役目だろうが!」
「やめろ!アイツらの覚悟を無駄にするな!」
「なっ!?リスタ!テメェはアイツらを見殺しにしろってのか!?」
「私だって!……私だってこんな選択はしたくない。だが…私たち全員で戦ったって、奴らには、勝てない……無駄死にするだけだ!」
「だからって─────ぐぁ!?」
「失礼。彼を説得するのは無理そうでしたので」
ライトがベール副隊長の後頭部を殴り、気絶させ背負う。
「小隊長!撤退を!!」
「…すまない」
撤退だ。
下唇を噛み締めながらリスタ小隊長は号令を発した。ろくに戦えない仲間達を盾に敗走する。これほどまでに無様で、屈辱的なことはないだろう。
蛍光灯の灯りが途切れ、暗闇の中走り続ける。後方から聞こえてくる戦闘音と悲鳴を耳にしながら彼らは走り続けた。何もできないまま、彼らは走り続けた。
いつしか後ろから聞こえてくる音は何も聞こえなくなっていた。追っ手も来ない。私たちは、敵から逃げ延びた。
……彼らは最後に何を思って、何を呟いたのだろう。
「死にたくない」
私たちは何も聞こえなかった。