私がまだ幼かった頃、私には一人の
兄と私は歳が離れており、物心がついた頃にはもう、体を壊した父に代わり、多くの人間を率いるファミリーの頭となっていた。
自分と同じ髪色と目の色。しかし私以上に美しい黒髪と金眼を持った兄は少し変わった人だったのを覚えている。
兄は病に侵された父に代わってファミリーの頭を継ぐために性別を偽り、年齢も偽り、若くして早々に血生臭いギャングの道を歩むことになった。
ファミリーを支えるため、他のグループとの交渉を行い手を結び、時には裏切り、ファミリーの邪魔となる芽は仲間だろうと友人だろうと、摘んできた。
同年代の子供たちが勉学に励んであろう時期だと言うのに、兄は抗争の際、自ら出向き手を血に染めた。同年代の子供たちが友人と楽しく遊んでいるであろう時期に、彼は自らの手で裏切り者に引き金を引いた。同年代の子供たちが大人という存在に憧れを抱いていた時期に、彼は大人と社会の汚さを知った。
そんな過酷な人生を歩んできた兄は、しかし常にニコニコと笑みを浮かべていた。兄は弱音を吐くことも辛そうな表情を見せることもなかった。
家族はそんな兄を天才と称え、そしてそれ以上に恐れていた。
道徳心の欠けた異常者だと罵った人がいた。
仲間さえ手にかける残酷な人だと怯えた人がいた。
でも、私はそんな兄のことが好きだった。
確かに兄は少し異常だったかもしれない。戦いも、殺しも何もかも、ゲーム感覚で楽しんでいるような人だった。それにたまに意味のわからない言葉を話すこともあった。ちなみに言った本人も意味はわからないようだったし。その上、血のつながった家族にさえ他人のように敬語を使うし、ニコニコと笑った笑顔を崩したところを私は見たこともない。
けれど、私に取ってはかけがえのない家族だった。
1人複雑なスラム街に迷い込んだ時、探しにきてくれたあの笑顔が好きだった。
敵対するファミリーに人質としてとらわれた際に単身で乗り込み救い出してくれたあの笑顔が好きだった。
いつだって辛いことから私を守ってくれたあの笑顔が好きだった。
その笑みが、
ああ、でも、そんな笑顔以外の顔を、初めて見た時のことを私は忘れない。
『お兄ちゃん!おかえ……お兄ちゃん?』
真っ赤に染まったスーツとその下に見えるワイシャツに、同じように赤く染まった手とそれが震えながらも握って離さない黒光りする金属質な機械。
『あ…ぁ…■■■■■……わ、私…私は…』
そして、その時初めて目にした崩れた彼の笑顔。
初めて見せた彼女本来の表情。
『お、お兄ちゃん?』
『私は、私は…どうすればよかったの…?ねぇ、何が正しかったの?どこで、私は間違えたの、かな…?私は、ただ、皆んなで…普通に…』
私はそれに応えることはできなかった。
ただ、唖然として何も言うことはできなかった。
だからだろう。それから私は彼の中の彼女を見ることはできなかった。彼の顔にはそれ以来ずっと不気味なほど整った笑顔が張り付いていた。
彼がこちらを見てくれることはあっても、しっかりと“私”を見てくれることは無くなった。彼が“家族”を見る目も、どこか冷めて熱を感じないようになった。
私は今も後悔している。
あの時私には彼女に何かかける言葉があったのではないか。彼女はあの時私に何か言って欲しかったのではないか。
そして何より、私が答えれていれば──
『…先に行ってください』
『大丈夫。お兄ちゃんはこんな奴らには負けませんよ』
『可愛い妹を守るのは兄の役目ですから』
赤く燃える炎の中、あんな別れ方をすることもなかっただろうから。
◆
「………サスさん」
「………キサスさん」
「起きてくださいテキサスさん」
聞こえてきたどこか懐かしい声色に彼女は目を開ける。
ぼやけた視界に映る人影は、どこか優しく、やはり懐かしい。
あの人を連想させるようなものだった。
「…にい…さん…?」
「はい?」
「大丈夫かテキサス?寝ぼけてんのか?」
しかし聞き慣れた渋い声に目が覚める。
目の前にいたのはキャスケットを被った男性とサングラスをかけたペンギン。
自治隊のライトとうちのボスだ。
「すまない…寝ぼけていた」
「おう。いや、でも確かに似ているな?髪が赤いのを除けばそっくりか?ちょっと糸目で笑ってみろ」
「あ、あの…一体何のことかわかりませんが、今の状況は理解できますか?」
エンペラーにジロジロ見られながら狼狽えるライトの声に、彼女は状況を整理し始める。腕時計が示している現在時刻は17:36。最後に見た時から大体1時間半ほど経っていた。
寝る以前に残っている記憶を、未だ半分寝ぼけた頭から引っ張り上げる。思い出せるのは燃え盛る駐屯地と、その後にたどり着いた薄暗い地下通路。
そして最後は後方から聞こえてくる悲鳴を後に暗闇をひたすらに走り続ける光景だった。
「....あの後何があったんだ?」
「やはり覚えていませんでしたか。では状況の整理も兼ねて私が説明いたしましょう。仲間を殿に敵から逃げたところまでは覚えているようなのでそこから起こったことを....」
あの後、我々は薄暗い地下通路を脱出し、感染者の蔓延る地上の都市部へと脱出した。敵が何らかの方法で地下通路に侵入が可能だと分かった以上、あの場所に止まる利点はなかったからだ。
ただでさえ全容が把握できていないにも関わらず、狭い、暗い、複雑の三拍子が揃った地下通路で敵と戦いながら中央に位置する本部を目指すことは難しい。
故に戦火に包まれた都市部へと戻り、地上経由で本部へと向かうこととなった。
しかし、仕事でただでさえ疲れているうえに、休む暇もなくそのまま暴動に巻き込まれてしまったテキサスやエンペラー。初めての実践で仲間を失い、その様子をすぐそばで見ることとなった駐屯軍の生き残りは身体的にも精神的にも疲労が目立ったため、こうして家主のいない家屋を利用して休息を取ることとなった……のだそうだ。
日が沈みながらも、未だ炎に包まれた街は明るかった。
しかし、それに反比例するように生存者たちの目は、暗く絶望に満ちている。
もう、限界なのだろう。
「生存者計14名。現在位置は本部まで残り2kmほどの位置の住宅街ですが....状況はあまりよろしくありません。皆が皆、限界などとうに超えてしまっています。テキサスさん、あなたも大丈夫ですか?うなされていたようですが」
……本当に似ている。
「あ、あの?」
この顔も
この匂いも
この笑顔も
懐かしい
兄さん、お兄ちゃん。
お兄ちゃんお兄ちゃん
お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん
お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん
お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん
寂しいよ。会いたいよ。
「お兄ちゃん」
「しっかりしてください」
おでこに感じた鈍い痛み。
傷かぬ間に壁に押しやっていたライトからのチョップだった。
「っ........すまない」
「貴方が疲れていることは分かりますが、こんなことはやめて下いただきたい。大体私はウルサスで貴方はループス。いくら姿形が似ていようと別人です。本当に、しっかりしてください」
真面目な顔でそういったライトの言う通り、いくら似ていようと彼と兄さんは別人だ。彼の被るキャスケットにもウルサス用に作られた熊耳を入れる飾りがついていた。それに兄さんはあの時……
確かにライトの言う通り彼女は疲れていたのかもしれない。
似た顔だが、彼はウルサスだし、そもそも性別が違う。
でも、それでも…
「っ……いい加減に…!」
「す、すまんっ!だがこいつも疲れているんだ。少しだけ頼めねぇか?」
「………はぁ」
懐かしい気配の中、再び微睡の中に落ちてゆく。
もう少しだけ。幸せの中にいさせてほしい。
もう二度と得ることのできない幸せの中に、たとえそれが偽りだとしても。たとえ、もう、血に濡れた過去から逃れることが出来ずとも。
「『仕方ないですね』」
珍しく、困ったような、しかし自然な笑みを浮かべた兄がいた気がした。
しかし、幸せというものは長くは続かない物で。
悲劇と悲劇の間奏でしかないそれは唐突に終わりを迎える。
街に轟音が、天災と間違えるほど強大な地響きが鳴り響く。
歓声が都市中から上がり、窓の外が一段と明るくなった。
崩れ落ちる艦橋の一部と、燃え落ちるウルサスの国旗。
各地で燃え上がる狼煙の下からは、苦痛に嘆く、声にならない悲鳴が鳴り響く。
町中に設置されたスピーカーから、雑音が鳴り、くぐもった性別の判断できない声が発せられた。
ーー地獄のような苦痛を耐え抜き、共に夜明けを望んだ同胞諸君。
ーーたった今、我々の宿願は叶いました。
ーーこの地獄は、我々の楽園へと生まれ変わったのです。
ーーようやく、深い苦しみの夜は黎明期を迎えたのです。
ーー我々
ーーさあ、皆さん.....感染者の明るい未来に、喝采を。
ーーCiRFリーダー、先導者”faceless“の名の下に、感染者の勝利を宣言します。
日が沈む。
夜が来る。
絶望はまだ、前奏に過ぎなかった。