日本社会主義共和国、通称『共和国』は大東亜戦争末期の本土決戦最中に産声を上げた。
スターリンの指示の元南樺太に集められた共産党員と、その指導者高村忠雄の共和国宣言で生まれた共和国は、日本軍の主力が関東に集中している隙を狙ったソ連軍の北海道侵攻に合わせて武装蜂起を命じ、北海道を手中に収めた。
1949年。ソ連の傀儡政府に過ぎなかった共和国に一つの転機が訪れた。
本土決戦後、新たに誕生した日本国はラテン語化や基幹産業の海外資本化を受け入れた。
また、昭和天皇の強制退位とキリスト教徒の大統領の就任は多くの国民を憤慨させ、
政府に対しての支持を失わせた。
これに目を付けた高村指導部は開戦を決意。宗主国であるソ連、成立した中国や
朝鮮政府のからの支持を獲得した。高村は1950年メーデーに南に派遣した
工作員の武装蜂起に合わせ、青森を奇襲攻撃。二日後には同県を支配に収めた。
共和国では祖国解放戦争、日本国では日本戦争、通称「メーデー戦争」の始まりであった。
六か月後、共和国は士気を完全に喪失していた日本軍を電撃戦・共産党員の武装蜂起によって粉砕し続け、日本政府を九州地方まで追い詰めた。日本の再統一は時間の問題となっていた。
しかし、アメリカ主導の国連軍の関東上陸作戦によって統一の見込みは完全に外れ。
その後スターリンの死後までの泥沼の戦いが引き起こされることになる。
1953年12月 停戦
富山・長野・山梨・神奈川ライン以北を共和国の領土とする停戦が結ばれた。
これに対して指導部は楽観的、いや、勝利として捉えていた。なぜならば、
これにより共和国の人口は大幅に増え、五か年計画での産業の構築を可能にさせるものになったからだった。
その上に傀儡政府は人口の半数を失い、大統領の権威を完全に喪失した。ならば産業の形成を終えた10年後に再び攻め込めば、完全な統一が達成できると踏んでいたのだ。
しかしそんな指導部との予想とは裏腹に、日本国は昭和天皇の復位と西側からの経済援助によって、
世界有数の経済力を手にすることになるのだった。
1960年代 共和国の自立
フルシチョフのスターリン批判による社会主義陣営の動揺は、はるか極東アジアまでにまで及び、中ソ対立として影を落としていた。
スターリン批判後、ソ連と歩みを進める共和国は党内議論を解禁した。その結果は指導部にとって
大失敗であり、新たに台頭したトロツキスト世界革命派によって高野は失脚。
かつてトロツキーがメンシェヴィキに言ったように歴史の掃き溜めに捨てられた。
世界革命派は平和共存を進めるフルシチョフに反発。秘密裏に中国へと接近していった。
その結果、世界革命派は毛沢東主義を取り入れることになり、のちの政策に大きく影響することになる。
1969年、共和国は中ソ国境紛争に際してソ連帝国主義政府から自立すると宣言し、在ソ連軍の駐屯地を包囲した。この行動は共産圏の緊張を一気に高めたが中ソ、そして共和国の会談によってソ連駐屯軍の撤退という結果をもって解決し、共和国は自国の自立を世界中に宣言することになる。しかしその報復として日本は共産圏から追放された。
1970年代 米中国交正常化と日中断絶
ニクソンの訪中に共和国は中国に対する不信感を植え付けられた。その後の米中国交正常化を世界革命への裏切りととらえた世界革命派は、すぐさま中国政府に対して帝国主義者の犬と反応を返し、続く中越戦争では義勇軍部隊を派遣してベトナム軍を助けた。対する中国政府の反応は、日本の合法的な政府は日本国であるという見解を示し、国交断絶の代わりにアメリカから中華民国の政府に代わって中国の正当な統治者として認められる。
後に共和国政府とベトナム政府はドイモイ政策の折に国交を断絶することとなる。
1980年代 サンディカリストの台頭とアフリカ介入
多くの友好国を失い孤立した共和国内では、世界革命派に対する反発と70年代の組合の自立によって生まれたサンディカリスト組合派が勢力を伸ばしていた。世界革命派はかつての高野のようになるまいと積極的に闘争を始め、暴力沙汰にすらなった論争の結果、世界革命派と組合派の連合という結果に落ち着いた。
これには両派ともに政局の支配が成し遂げれなかったことや、日本国の経済大国化を脅威と捉えたことによるものだった。
共和国は新たな外交展開を開始し、ユーゴスラビア、アルバニアなどの非ソ連圏社会主義国との関係樹立や、キューバに倣った第三世界の共産化を目指し、アフリカ各地の反政府武装勢力を支援することになる。
特にクイト・クアナヴァレの戦いでは、アンゴラ=キューバ=SWAPO=共和国の連合軍は南アフリカ軍を壊滅させ、そのまま南アフリカへと逆侵攻を狙い、敗北の衝撃によってアパルトヘイト体制は崩壊。続くプレトリアでの軍事パレードはキューバ軍と共に民衆から黒人の解放者と祝賀されることになった。結果共和国は南部アフリカでの大きな影響圏と、アフリカでの日本語普及にもつながった。
1990年代 南部アフリカ経済圏の確立と核配備
ソ連と共産圏の崩壊は共和国に大きな影響を与えた。ヨーロッパでの友好国の崩壊によって国際的に
孤立化が始まることを恐れた共和国は、キューバと共に南部アフリカ経済連合を作り上げた。この経済圏は共和国にとって資源供給地として、南部アフリカ諸国にとっては共和国の技術協力による産業育成が可能だった。
共和国は、70年代後半から米中ソの脅威から社会主義を守る名目上、秘密裏に核開発を進めており、政争による中断を挟みながらも1994年5月1日、多楽島において『解放一号』爆弾を起爆。これは15キロトンの威力を発揮し、共和国は7番目の核保有国となった。続く1998年には水爆『団結一号』が起爆。これは10メガトンもの威力を発揮し、多楽島を消滅させた。
2000年代 アフリカ大戦への参加
アフリカでの共和国の影響は、コンゴの独裁者モブツセセセコの反発によって不安定化した。コンゴ動乱に際して共和国は20万人規模の大規模派兵を行い、中部アフリカの共産革命を目指すことになった。
介入は成功を結び、中部アフリカを諸国を南部アフリカ経済連合に加えさせることに成功した。
しかしこの成功は西側、ロシア、中国などの権威主義国に警戒を引き起こし、対共和国の共同戦線を敷かれることとなってしまった。
2010年代 アフリカ連合の設立と・・・
世界の大半との対立に対し、共和国はアフリカの統一によってこれを打破することを企図し
南部アフリカ経済連合を発展解消、ヨーロッパ連合に倣いアフリカ連合を成立させ
共和国とキューバもまた連合に加盟した。
2013年4月30日メーデーの前夜、共和国全土に突如として霧が立ち込た。