真祖の姉 作:幽
生まれたて、というとどこか暖かくて、小さくて、弱いものを思い浮かべる。
けれど、それが意識というものを獲得し、そうして眼を覚ました折り、そんなものはどこまでもかけ離れていた。
幼い、といっても未だ赤ん坊だとか、幼児だとか、そんな単語はほど遠い、成熟した体。
そうして、はっきりとした意識。
むくりと起き上がった先で、自分が棺桶に寝転がっていたことを理解した。
ぼんやりとした意識の中で、縁起の悪いと考えた。
そうして、ふと、自分のいる場所がやたらと薄暗く、そうして湿り気とかび臭さがあること理解した。
ぼんやりとした意識の中で、立ち上がった先には茶色く変色した何かと、そうして干からびた何かが転がっていた。
それに、少女は目を見開いた。がたりと、勢いよく立ち上がり、すでに事切れて久しいそれを見た。
驚きはしたが、さほどの嫌悪感はない。いや、それ以上に、何か、飢餓感を感じた。
(落ち着け、そうだ、落ち着くんだ。)
少女はそう思い、その人間に近づいた。干からびたそれは、すでに顔だとか性別だとか、そんな判別も叶わないほどに崩れ落ちていた。
そこで少女は、その死体の近くに一枚の羊皮紙があることに気づく。恐る恐るそれを拾い上げた。不思議と読めたそれは、文字が掠れており、変別は難しい。
(・・・をすすり、れど?夜を、歩く。)
その紙にはつらつらと、何かの能力が書かれている。
怪力であること、炎など自然の力を操り、人を惑わし、獣に姿を変え。
そうして、他の血を糧に在りし者。
書かれたそれの荒唐無稽さに顔をしかめていると、最後に、ある一文が書かれていた。
これなる、光に反せし、生まれ出でた夜の子どもたち、二人の姉弟。
どうか、永き時の中、幸あらんことを
書かれた二つの名は、一つは男の、もう一つの女の名前だったようだった。
(・・・状況的に私が姉か?なら、この弟というのは。)
きょろりと周りを見回すと、そこには小さな棺桶が一つ。嫌な予感を覚えながら、その棺に近づき、そうして蓋を開けた。
そこには、黒い髪の見目の良い少年が一人。すやすやと眠るそれにめまいがした。
(つまりは、これは私の弟で。)
現状などわからない。なぜ、ここにいるのかわからない。
ただ、置かれた手紙を見る上で、なんとなく自分たちの身を案じた何かは、目の前の少年を自分が守るようにと言っている気がした。
何もかもがわからない。ここがどこかもわからない。
それでも、石を積まれたそのこの部屋は光もないのに、やたらと居心地が良い。けれど、それと同時に早くここから出た方が良いと感じる。
危機感と言える、びりびりとしたそれに、少女ははあとため息を吐いた。
そうして、その少年を抱き上げ、担ぎ上げる。
微かに風の流れる方に歩いて行く。ちらりと、ぶちまけられた茶色のシミと、干からびた死体、そうして、その脇で山になった塵。
少女はそのまま、それを一瞥した後、振り返ることもなく、その地下室から抜け出した。
(・・・・今年で、何年になるんだか。)
そんなことを、便宜上、魔女と呼ばれている女は満月を見上げて考え込んでいた。
年の頃は、二十歳になるかどうかというところだろう。
金の髪に、碧の瞳。そうして、血色の良い肌はそれこそ太陽に愛されたかのような見た目だった。
黒いズボンに、白いシャツ、そうして黒いマントを纏ったそれは普通の人間ならば眉をしかめていただろう。
目下のところ、女というのは貞淑で、スカートをはいて、善き母であることが求められる。
自由など無く、家のために生きて死ぬ。
そんな時代にその格好はきっと魔女と言われても仕方が無い。
(まあ、存在自体が教会からすれば悪魔に等しいか。)
自分たちが吸血鬼、またはヴァンパイアという存在であると知ってからどれぐらい経っただろうか。
目覚めてすぐ、通称として呼ばれている、Mはともかくは弟と、自分たちにとってよき保護者になってくれる存在を求めた。
けれど、昼の人々にとって夜に属するMたちは疎ましいというか、明確に敵でしかなかったらしい。
安易に人に近づいたその日、少女は悪意を見た。その日、少女は憎悪を見た。その日、少女は明確さの見えない殺意を見た。
人間たちのしてくる攻撃で、傷つくことはなかった。振り払った手によって、簡単に死んでいく人がいた。
それに、Mはああなるほどと理解した。
自分たちはどうしようもなく、彼らに畏れられ、そうして憎まれているのだと。
(・・・・私だけなら、人に紛れて生きていけたのか。)
人に近い、血色のいい肌だとか、金の髪に青の瞳の自分ならば人を騙せて生きていけたのだろうか。
(ないな・・・・)
そんな幻想染みたことを考えてMは呆れたようにため息を吐いた。
弟を置いていくような選択肢などはないし、何よりも血を飲まねばならない己ではいつかはばれていただろう。
血色が悪く、そうして血のように赤い目をした弟を人々は疎んだ。
Mはそれに昼間に自分たちの居場所はないと理解し、目覚めた廃城に逃げ帰った。
そうして、少なくとも自分たちの能力が安定するまではと、弟と共に獣の血と、時折迷い込んでくる人間たちの血で食いつないだ。
それから、数十年いや、もう少し経ったのか。二人の姉弟は廃城、とは言えないほどに直った城を根城にしていた。
城の中は、まるでどこぞの貴族のように整っている。城中に宝が多く詰め込まれている。
(貯蓄、頑張ったなあ。)
それに関してはMは自分を偉いと称えたい。というのも、宝石等をため込んだのはMであったりする。
吸血鬼としての優秀であったMは弟とさほど変わらない程度ではあったが、特に催眠術や暗示に特化しており、寂しい金持ちの老人にすり寄って財産を相続するなどちまちまと金品を稼いだ。といっても、とんでもないはっちゃけた弟が引っ張ってくる財宝に勝てた試しはないのだが。
人との交流を断ち、その後、自分たちと同じような種族がいるのも分かりはした。けれど、どれも彼もが見事に個人主義の部分があり、頼るなどと言う単語を使えることはなかった。
(まあ、享楽主義だとか言い出したら・・・・)
ぼんやりとソファに寝転がって夜空を眺めていたMの視界にずいっと何かが覆った。
「姉さん、お暇?」
黒い髪に、赤い瞳。血色の悪い肌。そうして、見上げるような上背。享楽主義、というか楽しいことが大好きなこと極まれりである弟は機嫌がよさそうにそう言った。
(こいつは、気にしてないのかねえ。)
目の前に立つ弟を見た。
弟であるDは幼い頃のことなど忘れているのか、びっくりするほどまでに人間とも、また、吸血鬼ともあくまで楽しく遊んでいる。
もちろん、それを遊ばれている方が望んでいるかどうかについては押してしかるべきなのだろうが。
Mは基本として城に引きこもっている。もちろん、尋ねてくるものがいることも考えてだが、それ以上にさほど社交的というわけでも、何もしないと言うことを苦に感じないタイプだった。趣味で楽器をいじることも好きだったため、適用に過ごしていることが殆どだった。
弟は大きくなれば誰が勝てるんだレベルだったため基本として放任している。それでも何かあればわかるようにはなっているので、その時はその時だろう。
ちらりと見た、結構な時間ぶりの弟に目線を向けた。
「まあ、暇っちゃ暇だが。どうかしたのか?」
よっこいせと起き上がった自分に弟はいつも通りの無表情で、けれどどこかうきうきとした声を出した。
「奥さん出来た。」
「は?」
「子どもも出来た。」
「はあ!?」
「今日からここに住んでもいい?」
「はあああああああああ!?」
予想通りになってくれたことなど欠片だってない弟だった。
けれど、それはあんまりなことではないのだろうか。
(いや、確かに仲のいい人間がいるし、女だって言ってたし。)
考えれば、確かに兆候があったがこんなことになるとはあまりにも斜め上に振り切れていた。
Mは人が嫌いである。あの日受けた、悪意と憎悪を彼女は忘れることはないだろう。けれど、そうはいっても弟の子を宿しているという女を邪見にも出来ない。何よりも、弟に振り回されているだろう彼女に同情心も出ていた。
そうして、今時、夫の影もないような子を宿した女の末路は押してしかるべきだ。
城での同居に頷いたMは、件の女と顔を合わせた。
眼鏡をかけた、どこか中性的な彼女は世界への好奇心に満ちていた。それに、ああ、なるほど弟の好みそうな女だとは思った。
そうして、義妹との生活が始まったが、彼女との生活は険悪になることはなかった。
義妹になった彼女は、今時の女にしては賢しく、そうして自己を持っていた。
聞く上では弟の旅というか、冒険に付き合って世界を歩き回っていた時期も合ったらしい。
Mは自分の断ったそれに人間である彼女が付き合わされた事実に関してはさすがに罪悪感がわいたというのもある。
Dというとんでもない話題の尽きない存在がいたせいか、会話にも困らなかった。
Mは、たぶん、その女のことは嫌いではなかったのだと思う。
きっと、たぶん。
弟以外どうでもいいと思っていても、その、快活で未知への憧れを持った女のことが嫌いではなかった。
その女が死んだ日のことをMはよくよく覚えている。
晴れた、自分たちにとって忌々しいほどに、美しい昼のことだった。
赤ん坊が、泣いていた。弟の子ども、己の甥。
昼と夜の合いの子。
母を失った、哀れなドラウス。ダンピールから吸血鬼になったその幼子について母親と父親の間でどんな会話があったかは知らない。
ただ、その子どもは吸血鬼になり、その女にもよくよく頼むと託された。
そうして、その女が死に、弟はその血を全て吸った。頼まれたのだと、そう言っていた。
依然のMならば、呆れでもしただろうが、その時はああそうかと少しだけ納得した。
「・・・・吸ったのか?」
そんなことを聞いたMにDはこくりと頷いた。そうして、そっと、その胸を押さえた。
「これからも一緒だよ。」
寂しくないのかと、そう、聞きたくもあった。けれど、聞いてはいけないのだろうと。それぐらいのことは理解できた。
だから、その胸にそっと耳を押し当てた。何の音もしない、その胸。
そこに、あの、昼のような女がいるとはついぞ思えなかった。
それから吸血鬼らしく、Mは永い時間を過ごした。
台風のような性質の弟に変わり、他の血統との交渉や細かい雑務などをして、変わることなく過ごした。父親に振り回される甥の世話をした。
頼むと言われたとおり、一応は人並みに育っただろうと思っている。
人間やら、そうして同胞からも魔女と呼ばれるようになりすっかりそのあだ名は定着してしまった。
元々、力ある者の名前を呼びたがらないためか、魔女というそれにもすっかりなじんだ。
数百年、めまぐるしかったような、永い時間が過ぎ去った。
彼女の弟であるDはその間、家族を多く増やしていった。
いつの間にやら姪が増え、その子どもも増え。そうして、ちび助のドラウスもいつの間にか伴侶を得て、子どもまで生まれていた。
いつの間にやら、自分のになっていた細かな雑務や実質的な実験を甥に引き渡し、楽隠居と言える状態になった。
自分は、結局、家族というものを弟以外に作ることはなかった。
姉さんは、家族、作らないの?
吸血鬼というものが人間におとぎ話でないと知られるようになってそこそこの時間が経ったとき、魔女は弟にそんなことを聞かれた。
その言葉を言われたとき、少しだけどきりとした。表面的には姪や甥たちを邪見にしたことはない。けれど、自分がD以外をどうでもいいと考えていることを見抜かれたような気がした。
例え、血族になろうとも、心のどこかでD以外を家族だと思っていない自分がいた。
弟の血を引いているから、その理由だけで眼をかけている。
そこに情があるかと言われれば悩んでしまう。あるのは、純粋な義務感だ。
ないわけではない。ただ、接点である弟がいなくなったとき、自分はどうするのか。それに答えられなかった。
人も吸血鬼も嫌いだ。
人は愚かで浅慮で、吸血鬼は傲慢で享楽だ。だから、どちらとも、自ら歩み寄る気にならなかった。
弟のように恋をすることも、どこにも行けない子どもを引き入れる気にもならなかった。
Dの連れてくる子どもの世話をし、教育はしても、弟のようにその心を労る気にはなれなかった。
友と呼べる存在を作れるほど、気安いあり方が出来るほど、弱くもなかった。
だから、それでいいと思っていた。
弟がいて、元気に過ごしていればそれで。それだけでいいのだと。
「友人が出来た。」
Dがるんるんと擬音が着きそうなほどに機嫌がよさそうに城に帰ってきた。それになんだなんだと、暇つぶしに引いていたピアノから立ち上がり、それに向き直った。
「はいはい、迷惑かけるなよ。どこの誰だ?」
そんな返事をしながら、弟の言う友人について頭を巡らせる。Dの強すぎる自己主張に振り回されているようなら助けてやる必要があるだろう。ただ、このご時世だ。弟を利用しようとしているのなら、灸を据える必要がある。
「うん、紹介するからこれから行こう。」
「は?」
Mがそう言った瞬間、Dはそのまま彼女を抱え上げて、窓から飛び出した。Mは一瞬だけ抵抗しようかと考えたが、なんだか久方ぶりに心底楽しそうな弟のそれに水を差す気にはなれず。
だから、そのまま友人というそれに会いに行くことにした。
「ヘローマイフレンド。」
弟の暢気な言葉が頭上から聞こえる。そうして、目の前には、弟の声に扉を開けた男があんぐりと口を開けていた。
砂色の髪に、青い瞳をした、眼鏡をかけた男だ。
「え、おま、どっから攫ってきた!?」
慌てた声にDが意気揚々と答えた。
「約束したでしょ?姉さん、紹介するって。」
そう言って、Dは抱えた自分を男に差し出した。自分は疲れた顔で、男の方を見た。
「・・・・愚弟が世話になっていると聞いた。」
それが、ヒュプノスの魔女、などと大層なあだ名をつけられた自分と、吸血鬼退治人、アルミニウス・ヴァン・ヘルシングとの初対面だった。
「・・・・・その、申し訳ない。むさ苦しい部屋で。」
「突然押しかけたのはこちらだ。手土産もなくすまない。」
ヘルシングの言葉通り、部屋の中はお世辞にも片付いているとは言えない。ひたすらなまでに、本に紙束が積み上がっている。どこか、ほこりっぽい空気は、男の雑というよりはせわしなさを感じさせた。
弟はというと、リビングを離れて勝手知ったると茶を入れてる。
Mはじっと、ヘルシングを見た。そうして、無意識のうちに皮肉気な声音を出した。
「・・・・・彼の退治人が吸血鬼と仲良くしていていいのか?」
それにヘルシングは視線をうろうろとさせた。そうして、気まずそうに言った。
「色々、ありまして。」
その様子に男がけして悪心を持って弟に近づいたわけではないことを理解する。
「いや、私も意地の悪いことを聞いた。あれに押し通されたらどうにも出来ないだろう。嫌ではないのか?」
なんともなしに、Mはそう言った。てっきり、苦みの走った顔をするのかと思った。けれど、その男は苦笑交じりに。けれど、どこかすがすがしい笑みを浮かべた。
「ええ、とんでもないことばかりですが。Dと遊ぶのは、楽しいです。」
(ああ。)
目の前の男は、確かに退治人で。そうして、自分は吸血鬼で。
己の前に弟に会い、友になったとしても。その隔たりはどこまでも深いはずなのに。
なんともまあ、朗らかに、そうして屈託なく笑うことだと心のどこかで感心したことを覚えている。
それから、Mとヘルシングが友好を深めたかと言えばそんなことはない。
Mは荒れに荒れた時代が面倒で、一族の仕事も殆どドラウスが請け負っているため己の所有している城に引きこもっていた。
それでも、弟に誘われてヘルシングと遊ぶ折についていくことはあった。いくら、人間と交流があるといっても楽しくなると止まらなくなるところがある弟だ。下手にヘルシングに怪我でもさせて落ち込む弟を考えれば重い腰も上がった。
そうはいっても、特別親しく振る舞うことはなかった。二人の馬鹿騒ぎを一歩下がって眺めては、本当に危ないと思ったときだけブレーキをかける程度だった。
そうだ、いつだって、少しだけ下がってそれを見ていた。
夜と昼が、日向や闇の中でふざけ合うのを、ただ、眺めていた。
それにどんな感情を持っていただろうか。ただ、ぼんやりと、二人の騒ぎを眺めていた。
「すいません。」
「いや、お前さんも災難だな。」
ヘルシングはMに渡された暖かな紅茶の入ったカップで暖を取る。二人は現在、南極にいた。南極の氷でカキ氷をしたいというとんちきな弟の願いのために二人は寒空の下にいた。
ヘルシングはDの開発したマントを着ているため凍えることはないようだが、寒いものは寒いのだろう。
Dは現在、氷をせっせと切り出している。
「さすがにここでは食べないよな?」
「ここで食べたらお前さん、本当に凍えるから全力でとめるわ。」
「にしても、今回は遠くまで来たな。」
「・・・・・前は火山の火口で肉を焼きたいって。」
「ほんとにすまんな。」
話すことなんてそれぐらいだ。殆どがDの話だった。当たり障りのないことなどそれだし、基本的にお互いが集まる理由なんて一つだけだったせいもある。
楽しいかと言われれば悩む。自分でも、わざわざくる理由ガあるのかわからない。ヘルシングが怪我でもして、弟が傷つくかもしれない。なんて、考えればあり得るはずもない。
即死でも無い限り、ヘルシングが死ぬことなどないだろう。
けれど、何故か、ふと。
気が向くと、弟とヘルシングの冒険に後ろから眺めていた。
(私は・・・・)
「あ!」
隣でヘルシングが驚いた声を上げる。それに、目線を向けると、夜の空に美しいヴェールが覆っていた。
「見てください、オーロラですよ!」
弾んだ、声がした。
キラキラとした、青空が。夜の下できらめいていた。
男が、幼子のような顔で笑っていた。敵意など無く、単調すぎる喜びに満ちあふれた眼が、ただ、自分にその美しいものを見て欲しいと思う無邪気な声音が、そこにあった。
「・・・・ああ、本当だ。」
綺麗だな。
遠くで、はしゃいだ弟が同じようにオーロラを見ていた。美しいものを、同じように見ていた。
Mが一人でヘルシングを訪ねるなどと珍しい行動を取ったのは、偏に男が弟が同行した退治において怪我をしたせいだった。
何でも足の骨を折ったという男の状態を慮り、Mは見舞いに向かった。それを知った血族は、あの叔母上が、と目を見開くほどの珍事であった。
向かった先、男の自宅では目を見開いたヘルシングがいた。見舞いであることを告げると、それは不思議そうであったが自分を迎え入れた。
(人がいい。)
独り身の男のためか、どこか、色々と不自由そうなそれにMは一言座っていろと告げ、そうしてたまりに溜まった家事を片付けた。
洗濯物にゴミ出し、掃除、洗い物。
上手く身動きの取れないせいか溜まったそれを片付けた。ヘルシングは慌ててそんなことをしなくていいと言ったが無視した。
そうして、最後に食事を作ってヘルシングに出してやった。
「本当に申し訳ない。」
気恥ずかしそうに、それでも旨そうに食事を口にするそれに気まぐれだと一言言った。
(気まぐれ?)
顔を覆ってしまいたかった。
大嫌いな人間の元に行って、嫌悪した退治人の身の回りの世話をして。
(何が、気まぐれだ。)
何故、こんなことをしているのだろうか。向かい合ったテーブルで、椅子に縋るように座って男のことをみた。
ああ、大体こいつもこいつだ。敵対する吸血鬼の作った食事を、そんなにも旨そうに食べるなんて。
(・・・・本当に、旨そうに食べるな。)
その間抜けさに、いつの間にか淡く笑ってしまった。己の滑稽さもそうだけれど、男の、旨そうに食べるそのあり方に、その間抜けさに、笑えてきてしまった。
(どうだっていいか。そうだ、気まぐれだ。気まぐれ。)
そうだ、今はきっとそれでいい。その程度で、それだけでいいのだとそう思った。
次にMがヘルシングの元に向かったのは、怪我でも何でも無く、旨いワインが手に入ったときだった。
一緒に飲もうと思った弟は丁度留守だった。そんなとき、頭に思い浮かんだのは食事を旨そうに食べる男のことだった。
きっと、あの男は、このワインも旨そうに飲むのだろうなあ。
そんなことを思うと、不思議と足は男の住まう場所に向かっていた。
自宅を訪ねた男は、また驚いた顔をして、それでもMを招き入れた。男は、その日、ひどく傷が目立っていた。
包帯だらけのそれは、痛々しいほどに、男のもろさのようだった。
退治で怪我をしたという、ただの擦り傷だという。
そうだろう、以前の骨折に比べれば、ずっと軽傷だった。けれど、薬臭い白さがやけに生々しかったのだ。
酒盛りに付き合ってくれ。
それを人のいい男は了承した。
Mの作ったつまみに、持ってきたワインを飲んだ。ヘルシングと遊ぶのに、Dを呼ばないのは五月蠅そうだと思ったが、こんな日があってもいいだろう。
そう思って、二人でたわいもない話をした。
なんとなく、包帯のことには触れられず、酒を飲んで話をした。酔うことも出来ない酒ではあるが、ヘルシングはそれでも段々と陽気さが増していく。
「Mとこんなに話せるなんて思わなかったなあ!」
「そうか?」
「ああ、不機嫌そうだったから。俺のことが嫌いなのかと思った!」
にこにこと、ヘルシングは笑っていた。酔っているせいだろう。だから、酔っていないMは酔いどれの戯れ言だと、口を開いた。
「いや、人は嫌いだよ。」
ヘルシングがどんな顔をしているのか、見ようとは思わなかった。ただ、ワインの入ったグラスをじっと見つめた。
「人は嫌いだ。歩み寄ることもしないくせに、知ることさえも拒絶して、一方的に拒絶するその愚かさと浅慮さと、弱さが嫌いだ。」
吐き捨てたその言葉に、男はどんな顔をしているだろうか。見てやろうかと、顔を上げようとしたとき、穏やかな声がした。
「それでも、今、私と君は共にいる。」
まっすぐとした、恐れも、遠慮もない、眼だった。炎のように熱く、木の杭のように鋭く、春風のように穏やかな瞳だった。
「あまたの吸血鬼と、私も酒を飲むことは出来ない。テーブルを共にすることはできない。けれど、君となら出来ている。Dとも、私はテーブルを共にすることができる。今は無理だ。人は、臆病だ。闇が恐ろしい。だが、いつか、夜が優しいのだと理解する日がやってくるはずだ。夜が、いつか昼を美しいと思う日が来るはずだ。私と君やDのように。」
暮れぬ太陽がないように。明けぬ夜はないだろう。
ああ、それに、なんだか。素直に何かを言いたくなかった。
だから、混ぜっ返しのように皮肉を吐いた。
「なら、ならば、お前さんは吸血鬼になりたいと思うのか?」
それに、黙り込んでしまうと思っていた。黙り込んで、気まずさに顔でも背けてしまうのかと。
「・・・・それもいいかもしれないな。」
その時の、言葉と顔を、魔女と呼ばれた吸血鬼は命が潰えるときまでも忘れることはないだろう。
冗談交じりの声音だった、それでも、男の浮かべたこれ以上無いぐらいに優しい笑みを、その人でなしは忘れることはないだろう。
それから、それから、Mは時々弟のいないとき、ヘルシングを酒盛りに誘った。
そうして、たわいもない話をした。
何故だろうか。
いつだって考えた。どうしてか、その男に時々会いたくなった。
弟を抜きにして、二人で話をしたくなった。
それが何故かはわからなかった。けれど、わからなくていいと思った。
わからなくても、その秘密の酒盛りはMにとって楽しかったのだ。久方ぶりの、義妹が死んでから久しい、楽しみだった。
だから、わからなくたって構わなかった。いつか、終わりが来るというのに。
男が死にかけたと聞いたとき、弟の悲しそうな顔を見たとき、ああそうかと理解した。その男は人間で、そうして、百も足らずに死ぬのだと。
去られるのなんて慣れていた。
いつだって、Mの生とはそういうものだった。誰も彼もがMより弱く、脆かった。
弟だけがMの側にいてくれた。
だから、弟だけでよかった。弟さえいてくれればよかった。
なのに、その男が自分の元からいつか去るのだと理解した日、訳もわからない衝動に襲われた。
そうか、そうか、あの男はいってしまうのだ。
あの日、悪くないなんて良いながら、男が人として死ぬことを理解していた。わかっていたから。その生がどれほどまでに短いのかを理解した。
次の酒盛りの日。
包帯だらけの男を見た。昔よりも、少しだけ老いた男を見た。
変わることなく、男は自分を受け入れて、朗らかに笑っていた。だから、だろうか。
初めて、男に己の力を使った。
魅了され、催眠術で虚ろになった男の服を剥ぎ取って、ベッドに押し倒した。
埃を被った純血についてなんの感慨もなかった。衝動に任せて、ヘルシングに掲げたそれに奇妙な満足感と同時にむなしさがあった。
関係性が壊れるのも面倒でヘルシングの記憶も消してしまった。
何かを求めたわけではない。ヘルシングに何かをして欲しかったわけではなかった。
自分でさえも、何を求めていたのかわからなかった。
それは、スイカのように膨らんだ腹を目の前にしても変わらなかった。一度だけの交わりで孕んでしまったことに嘆けばいいのか、喜べばいいのかわからなかった。
一族の者は相手は誰だとざわついたが、Dが知っていることと自分が固く口を閉ざしていることに根負けして何も聞かなくなった。
Dは珍しく困り切った顔をした。
「言わないの?」
「言ってどうなる。言いたくない。」
その頑固な有様にDは姉の願いを聞き入れ、ヘルシングには何も言わないことを約束した。
生まれた女の赤ん坊はMによく似ていた。人間のように血色の良い肌に、黄金の髪。
けれど、眼だけは違った。美しい、青空の瞳だけが父親によく似ていた。
子どもにはエリザと名付けた。かわいい、エリザベートと名付けた。
ダンピールの娘は吸血鬼にした。親よりも死ぬ子どもなど、残酷以外の何者でも無いだろうと。
そうして、また、ヘルシングの所に時折通った。ヘルシングは何も覚えていないし、以前と変わることはなかった。
それで本当によかったのか、Mにはわからなかった。
そうして、ヘルシングも所帯を持つようになれば、男の元に通うことはなくなった。Dは変わることなく、男の退治について行っているようだったが。
娘の世話をしていれば、日々はあっという間に過ぎていった。そうしていれば、男はいつの間にか退治を出来ない程度に老いて、殆ど作家のように生きていることを耳にした。
「彼、すっかりおじいちゃんになっちゃった。」
「・・・・そう思っているなら無理させるなよ。」
そんな会話を弟とした。そうして、弟から、もうヘルシングが長くないことを聞いた。
そのまま男の自宅に向かったのは、いつかの衝動に駆られたせいだった。
男の孫だという少女を懐柔して、夜の男の自室に忍び込んだ。
記憶よりもずっと皺の刻まれたその顔は、男の歩んだ時間を表しているようだった。
かつりと、床を靴が叩く音がした。それに、老人のまぶたを開いた。
驚くかと思ったが、それは少しだけ微笑むだけだった。
「久しぶりだな、M。」
「・・・・ああ、久しいな。」
「ああ、急に会いに来なくなって心配したよ。嫌われたのかと思った。」
「色々と忙しかった。人の時間が短いと、すっかり忘れていた。」
そうかいと、男は頷いた。
少しの沈黙の後、Mは口を開いた。
「死ぬのかい?」
「Dと同じようなことを聞くんだな。」
ああ、そうだな。死ぬよ。命というのは、そういうものだ。
ヘルシングは変わることなく、その不躾さに起こりもせずに、じっとMの瞳を見て言った。
それにMはまたいつかの衝動のままに言った。
「吸血鬼にならないか?」
それにまた少しの沈黙があった。そうして、ヘルシングは起きることさえも億劫でありそうだというのに、起き上がり、そうしてMの頭を優しく撫でた。
言葉はなかった。けれど、それがどれほどまでに答えであるか。
Mには理解できた。
ヘルシングの葬式は、忌々しいほどに晴れていた。Dとそれを遠目に眺めた。
喪服を着た誰かが泣いている。誰かが、男の喪失に泣いている。
葬式から少し経って、墓にだけは行った。白い、墓石。男の名前が刻まれたそれ。
まるで、吸血鬼を拒絶するような十字架。
冷たいそれに手を触れた。墓に来る前に、いろんな所に行った。ヘルシングの良そうな所ならば、どこにだって行った。
それでも、ヘルシングはどこにだっていなかった。葬式の、誰かの泣き声が頭の中で反響した。
そうだ、その時、Mは男がいないことを理解する。看取ることさえも叶わなかった、男の喪失を理解した。
それに、ああ、それに。ようやく、人間嫌いの吸血鬼の胸に、ようやく恋しさが溢れた。
ぼたりと、それが眼から流れ落ちる。
「ああ、そうか。」
そうだ、私はな、ヘルシング。お前とずっと一緒にいたかったんだ。
何をそんなに求めたのだろうか。何がそんなにも焦がれたのだろうか。ただの男のはずだった。善き人であるだけの、ただの男のはずだった。砂色の髪、青空の瞳。それだけの、男だった。
ひまわりに似ている男だった。ひまわりなんて嫌いだったのに。優しい暗闇の中、揺れる無粋な太陽のような花が不気味で嫌いだった。
けれど、いつのまにか、城の前のひまわり畑がそよぐのを眺めていた。
「姉さん。」
いつの間にか、自分の後ろに立っていたDは泣き崩れた姉を慮るように背中を撫でた。
「・・・・彼のこと、好きだった?」
好き?ああ、そうだ。きっと、心から、いつの間にか求めていた。求めて、焦がれていた。
けれど。
「はっ!恋なんて笑わせる。そんな感情ではなかったんだ。そんな、優しいものではなかったんだ。」
恋しさが、眼からぼたぼたとこぼれていく。
D以外どうだってよかった。Dの作った血族でさえも関心が薄かった。なのに、青空の瞳の男を求めている自分がいた。ずっと、共にありたいと願う心があった。
(何故だろうか。)
何を、そんなにも、求めてしまっていたのだろうか。
吸血鬼にしてしまえばよかったのだろうか。あの、月の光の差すベッドの上で、しわくちゃに縮んだその男を。
恨まれても、憎まれても、否定されても、嫌われても。それでも、血を流し込めば弟さえもしなかった蛮行をすれば。
この胸でわめく、むなしさも、恋しさもなかったのだろうか。
「なあ、お前はどうして、彼を吸血鬼にしなかったんだ?」
「・・・・なら、姉さんはどうして?」
改めて問われたそれに、Mは泣きながらやけくそのように笑った。
「違いない!」
そんなの自分が誰よりもわかっている。
何故、何故、何故!
だって。
「それも悪くないかもな。」
冗談交じりの言葉だった。二人で飲んだ、宵の口。否定しなかった、男。
そうだ、自分は、あの男が最期まで人として死ぬのだとわかっていた。それでもなお、夜の一族である自分たちが差し出した手を握り返してくれる彼が好きだったのだ。
(ああ、そうだ。)
きっと、求めてしまったのは、いつのまにかのことだった。
Mは人が嫌いだ。Mは吸血鬼も嫌いだ。
人はいつか、自分たちを拒絶したから。違うから、恐怖の目をしたから。
吸血鬼はいつか、弱い自分たちを虐げようとしたから。同族さえも恐れて拒否したから。
Mにとって、世界とはそうだった。
歩み寄る気もないくせに、自分を拒絶する。ならば、自分が歩み寄る必要性さえもなかった。
だから、引きこもって、理解者と共にいられればそれでよかった。
けれど、Mは知ったのだ。
自分を恐れるわけでも、媚びを売るわけでもない。
ただ、穏やかな、青空の瞳。自分を拒否した、昼の子ども。自分を殺す、退治人。
それでも、Dと同胞以外で、初めて、その瞳だけが自分をまっすぐと見ていたから。
命をかけて、それは他人の命をつなぐために生きた。ああ、そうだ。
男は、人として生きて死んだ男は、本当に美しい生き物だった。
だから、きっと、焦がれてしまったのだ。
ああ、ああ、ああ、それでも、己の胸は。
(恋しいと、泣いている。)
泣いた、それは泣いていた。ずっと、ずっと、青空の下で子どものように泣きじゃくった。
焦がれたひまわりは、もう、どこにもいなかったから。
「は、エリザが?」
すでに吸血鬼と人の敵対する時代も終わって久しく、己の居城で酒を飲んでいたMに甥であるドラウスから連絡があった。
『その、実はドラルクが今、日本の新横浜で人間と暮らしてるんだけど。それを聞いて、すっ飛んで行っちゃって。一応、叔母上にも報告しておいた方が良いかと思って。』
「そうか、連絡、礼を言う。」
Mはその連絡の後、少しの間考え込む。親族の新年の集まりさえも出席せずに引きこもっているため、そんなことはついぞ知らなかった。
彼女は椅子から立ち上がり、そうして、窓の外を見た。
「・・・・少し、様子だけでも見てくるか。」