真祖の姉 作:幽
また、感想等いただけると嬉しいです。
その日、ロナルドは夜の見回りに出かけていた。ドラルクはなにやら用があるからと出かけており、一人でのことだった。
「今日は平和だなあ。」
ドラルクがいれば、それをフラグと言うんだよ、などと言われそうな台詞であるがロナルドとしてはご機嫌に道を歩いていた。
この調子ならば、何事もなく家に帰ることができるだろうと考えていた。
が、その時だ、けたたましい悲鳴が聞こえてきた。
それにロナルドは慌てて気を引き締めて声のする方に走った。
「なんじゃこりゃあ!?」
ロナルドが叫んだのも無理のない話で、彼の目の前には巨大なスラミドロがうねりをあげている。
「また馬鹿な奴が餌でもやってたのか!?」
「すいません!」
野次馬の中から聞こえてきた声に、ロナルドは馬鹿野郎と叫ぶが、それよりもとそれに向き合う。
ロナルドは己の拳銃を構えるが、それより先に、己の顔の横、真後ろからぬるりと手が現れた。ロナルドは反射のように振り向こうとした。が、それよりも先にその手は、ロナルドの頬をそっと撫でた。
手袋をしているはずのそれは、まるで氷のように冷たい。
「手を貸してやろう。」
その手の温度に反して、聞こえてきた声は本当に優しくて。
『ねじれて、止まれ。』
それにまるでスラミドロは、出来損ないのらせん階段のようにぎちりと己自身を絞り上げた。
『ちぎれて、割れろ。』
その瞬間、それは風船のように破裂した。破裂した一部が、赤いそれが、まるで雨のように辺りに降り注ぐ。
それに、ロナルドはようやく声の主が自分の隣に立っていることに気づいた。
それは、女だった。
ああ、まるで、姫君のような女だった。女は、おとぎ話から出てきたかのように美しかった。
まるで太陽のような黄金の髪は艶やかで王冠でも被っているかのように結い上げられていた。白磁の肌はなめらかで、陶器の人形のようでさえあった。緩やかに微笑みの浮かんだ顔立ちは命が吹き込まれたアンティークドールのようで。
何よりも目を引いたのは、その瞳だろうか。青空のような澄んだそれは、宝石のようにロナルドを見ていた。しんと、静まりかえった水面のような眼だった。
赤いそれが女の白い頬に張り付いた。そんな、赤い何かが降り注ぐ、それこそいっそ、地獄のような光景の中で。
何故か、その女だけが絵画の中で微笑んでいるかのように、清らかだった。
それに、何かを考えそうになった。考えそうになったけれど、ロナルドはその前に女の衣服に目が行った。
黒いマントに、黒いスーツのようなそれ。
肌の色は気になるが、なんとなく目の前のそれが吸血鬼であることを察した。
体のラインに沿ったスーツからは豊かな胸と、細い腰が目に見えてわかった。
ああ、と思った。
それは、今まで見た吸血鬼たちとは違った。それは、ネジが外れているだとか、厄介ごとの臭いがするとか、そういったことではなくて。
もっと、本能に根ざすような、感情。
アカの中で、悠然と微笑む、魔性のもの。
雨が降り注ぐようなそれらが終った後ロナルドは息を飲み込んでそれを見た。
明らかに、何かが違う。今までのポンチな吸血鬼たちとは違う、何かがそれにはあった。
それは美しいその顔をゆるりと笑みの形に整えて、一歩、ロナルドに近づこうとした。
それにロナルドは、後ずさりとした。
「なあ、君・・・」
それを畏怖というならばそうなのだろう。戦くように、そうした瞬間。
べちゃり!
ロナルドは視界がそのまま空に反転して、そのまま頭に衝撃が走った後、ぶつりと気絶した。
「・・・・それで。」
「ええ、はい。それは・・・・」
微かに声が聞こえるその声にロナルドの意識は覚醒した。頭の裏側に、やたらと暖かくて柔らかな感覚を覚える。どうやら寝かされていることを自覚し、慌てて目を開けて、起き上がろうとした。
むにゅん。
顔いっぱいに訪れる柔らかくて、そうして、暖かい感触。それと同時に、鼻をくすぐる甘い匂い。
何だ、自分の顔にぶつかったそれは。ロナルドは無意味に見事な腹筋で半端にその状態で止まっていた。
「ちんちん!!」
ヒナイチの慌てた声にロナルドはそのまま横に転がってその場を逃れた。
だんと、高いものから落ちる感触の後、地面に転がったロナルドは自分の寝ていただろう方向を見た。
どうやら自分が寝かされていたらしいベンチ、そうして、そこに座る女。ロナルドは理解した。
先ほどの、柔らかな感触。それが、なんであるのか。
「すまない、君、大丈夫・・・・」
たゆんと、揺れた豊かな胸。自分が起き上がるその瞬間に、それに突っ込んだと言うことを。
「も、申し訳ございませんでしたああああああああああ!?」
それはそれは見事なジャンピング土下座をロナルドはかまして見せた。
「落ち着いただろうか?」
「・・・・えっと、はい、すみません。」
そう言ってロナルドはしょもしょもとした顔でその場でうなだれている。
女吸血鬼は慌てた様子でロナルドのことを起こし、そうして別に構わないと断りを入れた。
ヒナイチから話を聞くと、どうやら下等吸血鬼の退治の折、ずっこけて気絶したロナルドを介抱してくれたのが彼女であったらしい。
そうして、誰かが呼んだらしい吸対から事情を聞かれていたらしい。
「それで、その。な、なんで、ひ、ひざ、あの。」
きょどり続けるロナルドに女吸血鬼は不思議そうな顔をした。
「膝枕のことだろうか?いや、ただ、そのまま転がすと体を悪くしてしまうと思ってな。すまない、私の足は硬かったか?」
それにロナルドはぶんぶんと頭を振った。
(いやいや、まったく堅くなかったし、柔らかかったし。というか、暖かくて、良い匂いが・・・)
そこまで考えてロナルドは己の顔に一発入れた。
「どうかしたのか!?」
「いいえ!なっんでもありません!!」
「そ、そうか。」
「それでだ、ロナルド。彼女はなんでもドラルクを探しに来たそうなんだが。」
「ドラ公を!?」
それにロナルドは叫んだ。ちらりと見た、彼女。
先ほど見た、ぞっとした、背筋の凍るような空気など霧散してしまっている。ロナルドは首を傾げてしまった。まるで、先ほどのことなんて夢であったかのように。
ロナルドの様子に女吸血鬼は立ち上がった。
彼女は羽織ったマントをまるでドレスの裾のようにつまんで優雅にお辞儀をして見せた。
「名乗りもせず、無礼を。この身は吸血鬼ではあるが、恥ずかしい話、未だに字を持たぬ身だ。魔女の娘、エリザと呼んでくれ。」
ゆらゆらとそれは笑って、ロナルドを見た。
ああ、と思う。
魔物のように美しかった。触れてしまえば、危ういことがわかる程度に、美しい生き物だった。
けれど、そう言って浮かべた笑みは幼子のように無垢で、柔らかなものだった。
ロナルドは隣を歩くエリザをちらちらと見た。少なくとも問題を起こしたわけではない彼女はひとまずは解散と言うことになり、ドラルクの待つロナルドの自宅へ向かうことになった。
が、送っていく側のロナルドからすれば非常に気まずい。だって、今でさえも顔にあの柔らかな感触が残っているのだ。
(俺はゴミ虫・・・・)
罪悪感で死にそうで、それと同時にその柔らかな感触に興奮している自分を殺したいとロナルドはくちびるを噛んだ。
「・・・・ロナルド殿?」
「え、あ、はい!聞いてませんでした、すいません!!」
「いや、何も言っていないんだが。すまない、仕事の途中にこんな。本来なら、私が自力で尋ねていかなくてはいけなかったんだが。」
「いいや、そんなことはないです!」
「そうか、ありがとう。」
」
控えめに笑うそれにロナルドは感心さえした。
まともだと。今まで知る限りの、それこそポンチな吸血鬼に比べてあまりにもまともすぎる。
もしや、何かあるのかと警戒したいが、全体的にあまりにも逸脱過ぎていてそんなことも思えない。
控えめに微笑むエリザはきょろきょろと周りを見回した。興味深そうに辺りを見ていた。
「・・・珍しいんですか?」
「ええ、外にでるのは、それこそ、初めてなもので。」
「え、そうなんですか?」
「ああ。私の母は。ああ、ドラルク兄様の祖父君にあったことは?」
「ああ、じいさんになら何度か。」
「私の母は、彼の姉に当たるんだが。人間嫌いの、吸血嫌いで有名で。山奥の城にずっと引きこもりっぱなしで。私も、城の外に出たのは、他の親族に会いに行く時ぐらいだったんだ。」
いいなあ。
それはそう言って、夜の町を見つめた。
これ以上にないほどに、焦がれるように、まるで、幼い子どもが星を見上げるような顔でそんなことをするものだから、ロナルドは思わずこう言った。
「そんなに言うなら、少しだけ、町を見て回るか?」
かあさま、きいてください。
能力の扱いが上手くなりました。
母様、お酒は控えられた方が。
母様、外の世界とは、どんなところでしょうか。
母様。
エリザベートにとって、記憶の大半には母がいた。
美しい人、であったのだと思う。
金の髪に、エメラルドのような澄んだ瞳、白磁の肌。賢しい人だった、強い人だった。
ずっと、遠い方だった。
エリザの記憶の中で、母は大抵酒を飲んでいた。酔うわけでも無いが、母の私室はアルコール臭かった。いつだってまともで、いつだって、思慮深い母はそれでも、酒を飲むことを止めなかった。
何故か、と問うたこともある。
それに母は静かな眼をして肩をすくめた。
「・・・・飲めば酔うて、忘れられはしないかと思ってな。」
静かな瞳で母は言った。
誰を忘れたいのか、問うことはなかったが。それでもなんとなく察せられることはあった。
父のことは知らない。父がどこの誰かなのか見当も付かない。ただ、自身がダンピールであったことを従兄にあたるドラウスから聞いたことがあったため、昼の人であったのだろうとわかっていた。
肖像画もない、痕跡も無い。だからこそ、自分の父の話は御法度であるのだろうと黙り込んでいた。
母は滅多にエリザに関わってくることは無かった。教えを請えばなんでも答えてくれたし、望めば願いは叶えられた。けれど、母は自らエリザに何かをすることは無かった。
ドライな人、であると言えばそうだったのかもしれない。
母に認められたいと、散々に、多くのことを頑張りはしたけれど。母はいつだって、そうかと頷くだけだった。
それが普通だったものだったから、そんなものなのかもと思っていた。寂しいと思う気持ちがあったが、どこか、ぼんやりと孤独に黙々と変わらない日々の中で過ごすことになれてしまっていた。
いつの間にか、遠くにいる母を見つめて、結局、何と言えばいいのかわからないまま、過ごしていた。
それが変わってしまったのは、あの日、いつか竜の一族の当主の補佐として必要になるだろうとドラウスに外に連れ出されたときのこと。
それは青天の霹靂だった。
本では知らない多くのことが外にはあった、知らない誰かがいた、見たことのないものがあった。
その日、エリザは初めて、自分のいた城以外の場所があるのだと理解した。
外の世界は楽しかった。閉じた世界で生きていた彼女には、あまりにも外は遠く、そうして、広かった。
うきうきで帰ったエリザは母に一つの願いを言った。
独り立ちをしたいのだと。
当時、年は百にも満たなかったが、能力のコントロール等は出来ていた。外での常識さえわかれば許可されると思った。
それに母は、あっさりと否とした。
「だめだ。」
あっさりとした、その言葉。それに、エリザははいと頷くことしか出来なかった。
理由を聞くことは出来なかった。エリザにとってそれほどに母は彼女にとって絶対的だった。
(・・・何より、あの人は、私の言葉を慮ってくれるのだろうか。)
言葉を語ることはなく、エリザにとって父に当たる人を語ることも無く。
結局の話、拒絶されるのが怖くて、本心など聞くことも無く、その言葉に平伏した。それから、必死に勉強して、能力を鍛えた。
そうだ、ドラルクも独り立ちしていない。だから、自分も仕方が無い。彼よりも年下の、自分ならば、なおさらに。
そうして、ドラルクが独り立ちをした後、エリザもまた独り立ちを願った。けれど、その時は母にでは無くて、先に親族たちに相談をした。
けれど、彼らはエリザのそれを否とした。
親類たちもエリザの優秀さは理解していたが、その性格は素直でありすぎた。元より、ヒュプノスの魔女、などというあだ名をつけられ、竜の真祖とは別口で、恐れられ、そうして、疎まれている彼女の娘にちょっかいをかける存在がいることは想像できた。
何よりも、利用されることも考えれば、エリザの独り立ちは反対された。
エリザはそれにまた諦めた。親類たちに否定されたのでは、母も赦すことは無いだろうと。
そうだ、もっと、しっかりして、勉強もして、立派になれば、あるいは。そう思って、母と二人きりの城の中で過ごしていた。
ドラルクが、人間と暮らしている。
それにエリザの中で、何かが爆発した。
ドラルクが独り立ちしたときも、未だエリザは未熟だからと親族から止められて、母の元に止まった。
それなのに、自分よりも弱いドラルクが城から飛び出したというならば、それは。
エリザははぐと、ロナルドに渡されたメンチカツを食べた。
「!」
「え、えっと、ソースかけましょうか!?」
「それをかけるとおいしくなるのか?」
「はい!」
ジューシーなメンチカツにかかる濃厚なソースは確かにおいしかった。母が人の食べ物を娯楽としていたため血以外も摂取していたが、そんなふうに外をぶらつきながら食べるということは新鮮だった。
エリザは内心ではどきどきしていた。何と言っても、目の前のそれは身内以外で初めて言葉を交わすような存在だった。
昔聞いた、ドラウスにとってのノースディン、そうして、祖父に聞いた人の友人。
(そうだ、私も、作ってみせる。)
友達、というものを!
エリザはそこでちらりとロナルドを見た。
そうだ、今回のエリザの目的、それはドラルクの許可もいるが、目の前の青年の了承も必要だ。
そうだ、自分が未熟というならば、しっかりした誰かと共にいれば良いのだ。
「申し訳ない、ロナルド殿。」
「え、あ、はい!何ですか?」
「ドラルク兄様と暮らしていると聞いたのだが。」
「え、まあ。その、色々ありまして。」
どこか挙動不審にそう言った彼に、エリザは彼の手を取った。ロナルドは、エリザの華奢で、細く、されども柔らかなそれに固まった。
「私も、一緒に暮らすことは出来ないだろうか?」
「へ?」
ロナルドはそれに目が点になった。
美しい生き物だと。
最初に会ったときに思ったのは、そんなことだった。
アルミニウス・ヴァン・ヘルシングがその女に、Mに会ったのは親交のあったDが連れてきたためだった。
彼の姉だというそれはあまりにもDとは似ていなかった。
太陽のような輝く髪に、白い肌、そうして澄んだエメラルドのような瞳。
退治人として恥ずかしい話であるが、ヘルシングは彼女ほどに美しいものはいないなどと思ってしまった。
もちろん、退治人としてそんなことは口に出す気は無かったが。それでも、その女吸血鬼はそれほどまでに美しい生き物だった。
そんな存在と気軽に話が出来るほど女には慣れていなかった。Dのように気軽に話せるヴィジョンも浮かばなかったために本当に困り果てた。
が、予想に反して、Mは滅多に話しかけてこなかった。自分たちの巻き起こす騒動に顔を出して、呆れたように後ろ姿を眺めるぐらいで。
けれど、放っておくというわけでは無く、手助けをしてくれたし、ヘルシングのことも気遣ってくれているようだった。
けれど、Mはヘルシングに何かしらの特別な態度を取ることは無かった。彼女の視線はいつだってDに注がれていて。
それを悲しいだとか、寂しいだとか、そんなことを思ったことは無かったけれど。
けれど、それはどんな眼でDを見ているのだろうかと、ぼんやりと考えてもいた。
ある時、Dがかき氷が食べたいと、北極に連れて行かれたことがあった。例に漏れず、それに連れられたヘルシングと、ついてきたMはせっせと氷を削るDを見ていた。
その時には、そこそこ頻繁に話をするようになっていた。けれど、ヘルシングはちらりと、隣の女を見た。
言葉を交わして、けれど、その目はいつだってDに向けられていた。
悲しくは無い、寂しくは無い。けれど、心のどこかで、こっちを見ないかと、そう。
そんなことを考えていたのも事実で。
ヘルシングはそれに自分であきれかえり、誤魔化すように空を見た。それにヘルシングは目を見開いた。
オーロラの存在にはしゃいだヘルシングはすぐに恥ずかしくなり、目を伏せた。そうして、ちらりと、話かけたMを見た。
笑って、いたのだ。
ヘルシングはそれに目を見開いていた。だって、彼女が、笑っていたのだ。
緩く弧を描いた口元、緩く細まった瞳、柔らかな空気。
それは、本当に、優しい笑みで。
夜のとばり、そこにぽつんとあった、カンテラの灯に金の髪がきらきらと輝いていて、風がそれを撫でればまるで金のヴェールを羽織っているようだった。
本当だと、Mは頷いた。綺麗だと、彼女は言った。
それに、ヘルシングも無意識のうちに、魅入られたようにMの笑みを見た。
「ええ、本当に。」
ヘルシングはMの顔を見て、こくりと頷いた。
Mのその笑みがヘルシングの中でずっと反芻していた。
綺麗だった、ああ、綺麗だった。
何かしらの作業をしていると、そんなことを思い浮かんでしまう。そうして、そのたびに何を考えているのだと自己嫌悪していた。
(友人の姉であるご婦人に、何考えているんだああああああ!!)
がしがしと頭をかきむしっては悩み続けた。
ただの友人、であったはずだ。そうだ、ただ、遠くて、けれどどこかにいる。そんな人だった。
それが変わってしまったのは、ヘルシングが仕事で怪我を負ったときのことだ。
訪ねてきた人間を出迎えれば、扉の先にいたのは黄金の髪に、翠の瞳のそれ。
何故来たのかと問えば、見舞いだと告げてくる。それに慌てて出迎えたが、散らかりに散らかったその部屋に迎えてしまった。
後悔しても後の祭りだ。
Mはそれに呆れた顔をして、部屋の片付けを始めた。
「怪我人が動くな!」
そう言われてしまえば、ヘルシングに出る機会もない。
そのまま掃除に洗濯、そうして食事まで用意をしてくれた。その味付けは、Dによく似ていた。
旨いと言えば、投げやりにそうかと頷いた。
(呆れられてしまったな・・・・)
しょんもりしながら食事をしていたとき、ちらりとMを見た。
(ああ。)
椅子に座って、肘を突いて、自分を見て。それは笑っていた。
Dに向けるのと同じ、優しく、あめ玉みたいに甘やかな眼で、自分を見ていたものだから。
顔が熱い、真っ赤になってしまった耳が本当に気恥ずかしくて仕方が無かった。
それからMはよくヘルシングに会いに来た。
何故かは知らないけれど、それでも、それはよく酒を持ってやってきた。
そのたびにヘルシングはばくばくと鳴る心臓を抱えていた。それでも、嬉しく思っていた。もしかしたら、仲良くなれているのかもしれない。
そう思うと、二人きりの飲み会は、ヘルシングにとって確かに嬉しいものだった。
二人きりの宵の口。
くだらない、それでも殆どDの話をして、飲み明かした。
それが嬉しくて、言ったのだ。
こんな風に話せるとは思っていなかったのだと。
それにMは嘲笑うように自分を見た。
人が嫌いだと、それは言った。
美しいそれから、まるで氷のように冷たい何かを、炎のような憎しみを、そうして、あきれかえった諦観を感じた。
宵の口、酔った酒の席。
それに、ヘルシングはそれでもと、口を開いた。
それでも、自分は確かにあなたといるのだと。
恐ろしくなかったわけでは無い、言っていいのかと思っていたこともある。
けれど、けれど、それでも、ヘルシングはその女の中にある慈悲というものを知っていた。
本当に死にそうなとき、呆れたように大丈夫かと思ったりもした。
けれど、それでも、言ったのだ。
「あまたの吸血鬼と、私も酒を飲むことは出来ない。テーブルを共にすることはできない。けれど、君となら出来ている。Dとも、私はテーブルを共にすることができる。今は無理だ。人は、臆病だ。闇が恐ろしい。だが、いつか、夜が優しいのだと理解する日がやってくるはずだ。夜が、いつか昼を美しいと思う日が来るはずだ。私と君やDのように。」
理解したかった。
それがなんであるのかと。退治人になったのは、きっと、自分たち以外にこの世界に住む、夜の彼らがどんなものであるのかと。どんな風に生きているのかと、そんな好奇心と問いかけだった。
目の前のそれ。
冷たくて、無口で、恐ろしい。
けれど、ヘルシングは少しの時間であったけれど、その女のことを知っていた。
情があるものには優しくて、弱者を保護し、そうして。
気をつけろ。
そう言って、呆れたように自分をのぞき込む、その女。
優しいだけではない、あまたの幸せを願っているわけでは無い。けれど、それは人間だって同じで。
相反するようなそのあり方の中で、ヘルシングは確かに、その女の持つ優しさを知っていた。そうだ、ヘルシングは確かに、夜空に浮かんだ星の瞬きも、月光の優しさも、確かに知っていた。
それに、女はまるで、泣きそうな顔をした。
(綺麗だな。)
それさえも、そんな表情さえも、綺麗で、本当に綺麗で。魔性のもののような恐ろしさも、なりを潜めて。まるで迷子の子どものようなつたなさが愛おしくて。
吸血鬼になりたいのか、そんな問い。
答えられないものだった。退治人として、頷いてはいけない問いだった。
けれど、その女の、あきれかえって、心細くて、拙くて、そのくせ期待するような顔が本当に愛らしくて、綺麗、で。
だから、本当を言ってしまった。素直に、本音を吐いてしまった。
それも、いいかもしれないなんて。
そんな宵の口。二人きりの酒の席。
もしも、こんな時間が永遠と呼べるような間、続くというのなら。それも、構わないなんて。
「・・・・ヘルシング、お前は、本当に愚かな奴だ。」
掠れた声がした。弱々しい声だった。
ああ、ヘルシングは忘れない。きっと、どんなときでさえも忘れることは無いだろう。
呆れたような顔だった、馬鹿にするように笑っていた。
けれど、子どものように大口を開けて、泣きそうな顔で。そうして、それだけで全てが報われたというように、穏やかに、柔らかに、日だまりのように笑った夜の住民の笑みを。
(綺麗だな。)
アルミニウス・ヴァン・ヘルシングは永遠に忘れることは無いだろう。
それから、少ししてMはぴたりとヘルシングの元に来なくなった。吸血鬼という人と流れる時間が違うのならばそんなこともあるのだろうと考えていたが、そうは言っても遅すぎた。
だから、Dに問うたことがあった。
それに友人があっさりと言った。
「姉さん?妊娠したから、当分来ないんじゃ無いのかな?」
その時の絶望を、ヘルシングは言い表せない。
美しい女だった、賢しい人だった、そうして、不器用な優しい生き物だった。
引く手あまたのことだろう、あれの選ぶ男ならばいい男なのだろう。
愚かな話、その時、ヘルシングは自分の殺すべき美しい生き物に恋していたことを理解した。
そうだ、思えば、ずっと、
あの日、北の国、オーロラを見た時。
自分に初めて向けられた、自分と同じ心ある者を見るような、そんな優しい笑みを見た時。自分をようやく見た、あのとき。あの、女が自分を見た時、きっとヘルシングの中にそれがうまれていた。
無関心で、けれど、自分に当たり前のように手を差し伸べて。
人も吸血鬼も嫌いだといいながら、それらを一方的に邪見にすることもない。何かの賑わいや、幸福なそれらを遠巻きに見て、小さく笑っているその女。
吸血鬼であるくせに、退治人である自分に手を差し出して、夜の中へ来いと、期待と失望に満ちた眼で見た女の弱さと愛らしさが、夜の中で見た、あの美しい笑みが、差し出された手の不器用ないじらしさが、ヘルシングは好きだったのだ。
交わることが無いはずなのに、隣だって見た女のあり方が、ヘルシングは好きだったのだと思う。
勉強ばかりで、不器用で、女性など度外視で来た人生の中で、突然現れたその美しい生き物がその退治人にとって、愚かな話、初恋であったのだ。
馬鹿な話だ、愚かな話だ。
Mにとって自分は大事な弟の友人で、それ以上でも、それ以下でもなかったらしい。
悲しいだとか、寂しいだとか、そんなことも思えなくて。
ただ、時折、二人で飲んだ宵の口。一人になった宵の口で、それを見ていた。
「これ、あげる。」
唐突にそういってDが持ってきた絵を見た。それは、愛らしい赤ん坊の姿が描かれていた。
金の産毛に愛らしい顔立ち、そうして、まだ微かな瞳の色。
ヘルシングの焦がれた、翠の瞳では無くて、空のような青い瞳。それが忌々しいなんて思わなくて、ただ、ただ、その赤ん坊の姿が愛おしくて。
父親の、自分の知らない男の痕跡。それでも、女によく似たその赤ん坊の存在をヘルシングは喜んでしまった。
それが、ヘルシングの初恋の終わりだった。
幸せであればいい、それはヘルシングの心からの願いだった。
そうして、自分の死期が近づいてきたとき、ふらりとそれはやってきた。
満月に照らされた、それ。
ヘルシングはようやく顔を見せたのかと、少しだけ笑ってしまった。
死ぬのかと、久方ぶりの再会に不躾に言ったそれにヘルシングは怒らなかった。不器用な、翠の瞳がゆらゆらと揺れていたものだから。
ああ、そのひとは泣いていたものだから。
死ぬのだ、自分は。それを惜しいとは思わなかった。何故って、それぐらいには自分は生きたのだ。散々に駆け抜けて、初恋を終らせて、妻と出会い、孫まで出来た。
ならば、いいだろう。
人として、歩めた道は確かに満足の出来るものだった。
(そんな顔をしないでくれ。)
子どものように不安そうに、寂しそうな顔をして、それは吸血鬼にならないかと言った。
それにヘルシングは笑ってしまった。
起き上がり、そうして、その頭を撫でた。初めて触った、柔らかな、金糸のような髪。
それにヘルシングは笑った。
長い、人生だった。
目の前の、美しい生き物。妻のことを愛していた。けれど、それは確かにヘルシングの中で、一部になっていた。
美しい、初恋。忘れることのない、美しい思い出。愛らしい、赤ん坊。
手を伸ばすことも無く、終ってしまったそれ。
嫌いと言って、それでも、人に差しのばす手の不器用な寂しさを知っていた。
「ありがとう。」
微かに、その頭を撫でていった。
己のことを惜しんでくれた、死なないで欲しいと願ってくれた。
自分は、それの恐ろしさを知っている。国だとか、そんなものを滅ぼすことなんてたやすくて、ヘルシングを殺すことだってたやすいそれ。
二人の姉弟。自分の友人、夜の生き物。
けれど、それは、その美しい生き物たちは、確かにヘルシングと生きようとしてくれていたから。
そうやって、おずおずと自分たちに寄ってきて、少しずつ理解しようとするその様は愛らしかったものだから。
ヘルシングはその生き物たちが好きだった。その姉弟が好きだった。
そうして、その女のことが好きだった。
(さようなら、さようなら。)
人として死ぬ自分、人でないものとして生きる彼女。
交わってはいなかった。それでも、隣だって生きた時間がある。
あなたのことが好きだった。あなたという存在に焦がれていた。でも、手を伸ばすことも出来なかった。
けれど、いいのだ。
最後の最期に、それでもMは自分に死なないでくれと言ってくれた。
それだけで、十分だった。
さようなら、己の青春。また、いつか、私の初恋。
そんな夢みたいな事は起きないだろうけれど。
アルミニウス・ヴァン・ヘルシングは願っている。
いつか、いつか、彼女やその弟が、自分と馬鹿騒ぎをしたって、手を取り合ったって。誰にもとがめられないような時間、向かい合って机を囲むいつか。
その、不器用な女が、人が嫌いだと寂しそうな顔をしないいつかがくることを、ずっと。