クレストベスト 作:ルカリオ
━━━私は自分が天才であることに疑いをもったことがない
「凄いわねぇ、坂柳さん。この成績ならどんな高校でも進学できると思うわ」
「ありがとうございます」
季節、春。天気、快晴。今朝見たニュースの情報を思い出しながら、窓の外から見える雲一つない青空を見た。
中学校舎の一室、進路相談室では三年生を迎えた生徒一人一人に先生が三者面談を行なっていた。対面には終始上機嫌な様子の担任の女性講師。左手には空席の椅子。右手には中身が詰まった本棚。『わかりやすく』『出る順』『できる』などの単語が必ずと言っていいほど背表紙に書かれた参考書がズラリ。
「今日は親御さん来られると良かったんだけねぇ。残念残念」
私が先程から退屈している原因は目の前にいる教師にあった。去年までは生意気だと舌打ちや陰口は日常茶飯事だったにも関わらず、卒業年に自身の受け持つ生徒になると態度が急変。手のひらもびっくり。
ただ今でも心からの歓迎はしていないのか、その雑な口調に私の鬱憤が溜まる。そのため外の景色を見てリラックス。そして話を右から左へ、または左から右へ流す。
「じゃあ、そろそろ終わりにしましょう。次の人を呼んできて」
「はい。失礼します」
片手に私専用の杖をつきながら、冷静にその場を後にする。後ろ手にドアを閉めた後、中に聞こえない程度に一つため息。
「あら、いけません。ついつい、、」
誰もいない廊下で一人そう呟く。誰かに見られてもネタにすらならないほどの隙でも、この学校のお猿さんたちに見られるのは絶対に嫌。
「ふふっ、あまりにも普通にそんな風に考えてしまう私はソシオパス?それともサイコパス?」
その問いに答える者はもちろんいない。
天才とは常に孤独で孤高なもの。自分よりも誰かの方が天才だと認めれば、それは秀才へと変わり果てる。
天才は、その他大勢の凡人とは視点、思考において別の次元に立っている。偉人であるアインシュタインやリンカーン、ガーシュウィン、ピカソも例に漏れず、凡人や秀才とは別の次元から物事を捉えていて、周りには理解されたくても理解されることはなかったはず。
私の考えが他と違っていても何ら不思議はない。むしろ、当然なことと思考をシフトする。
「お父様の学校に、その片隅でも理解できる人がいてくれたら嬉しい限りですね」
誰もいないおかげで、私の声は廊下によく通った。
1
理想通りの私。
可愛くて、頭も良くて、運動もできて、友達もたくさんいる。それが私、櫛田桔梗。
そんな私に足りない物があるとすれば、誰もが羨むパトーナーだった。
フリーなことのメリット、それは、異性からの人気。ワンチャンを狙って近づいてくる男子が一定数いることで、周囲からの尊敬の眼差しだったり、自尊心が保たれたりなどプラスなことは少なくない。ただ、精神的ストレスやストーカーなどの実被害のリスクは否めない。
だったら彼氏を作ればいい。その考えに至ったとして、実際に作るとなると色々と障害も生まれる。
まずは人選。不細工は論外。普通もまずない。となると残りはイケメンのみ。ただクズと付き合ってもメリットどころか印象が落ちる面でデメリットしかない。イケメンで悪い面がない性格の持ち主。
想像してみて欲しい。周りにそんな人がいるかどうかを。まぁ、、いないよね。
芸能人とかインフルエンサーだって本当のところは分からない。ど畜生の可能性だってあるし、実際に見てみたらハッとすることもあると思う。
だから、私は今までの人生で告白を受け入れたことはないし、ましてや自分から、など考えたこともなかった。それも今日までのことになるわけだけど、、。
今、私の目の前にいるのはイケメンで高身長な男。これで性格も中の上とくれば、狙わない理由はない。
私には自慢の演技力がある。今回は『告白されるのには慣れていても、自分から告白するのは慣れていない。勇気を出して呼び出してはみたけど、やっぱり恥ずかしい』という女の子を演じる。…まぁ、実際そうなんだけれど。
呼吸を整えて、私は自分の中にある見えないスイッチを押した。
「あの、急に呼び出してごめんね、、?迷惑だったかな、、?」
「別に迷惑じゃない。それよりも、、これは何だ?」
周囲を見渡す男。学校での告白と言えば定番の校舎裏。だが状況は漫画やドラマの世界とは大きく異なる。一階から最上階までの全窓から数多くの生徒が覗き込んでいるし、屋上からも見下ろす影がある。校舎影から見守る私の取り巻きたちの姿まで。おそらく全校生徒の半数近くが昼休みの時間を費やして私の告白を、否、彼の返事を聞きにきていた。
「ごめんね、お昼ご飯一緒に食べた子たちにしか言ってないはずなんだけど、、」
これは真っ赤な嘘。予め仕込んでおいた観客だということは目の前の男が知るはずもない。そもそも口の軽い女子中学生に緘口令を敷くこと自体が無謀な話。猿に叫ぶなと言っても、言ったそばからキーキー叫ぶだろう。
「それで、なんだ?」
「あの、今って、彼女とかいないよね、、?」
「ああ」
「そうなんだ、、。よかった、とりあえず安心、、」
そう言って可愛く安堵のため息をついておく。この状況の時点で好意がバレバレなことは疑うまでもない。露骨に攻める。その私の態度で確信に変わったのか、窓から覗き込んでいた一部の男子生徒たちは悲しみのあまり膝から崩れ落ちていた。追い討ちをかけるようで申し訳ないけど、そもそも彼らに可能性は微塵も無かったのだから、私からすれば無駄な恋ご苦労様と言う他ない。
目の前の彼の表情や態度も見るが、特に変わった様子はない。こんな状況下でも、いつも通りのマイペースな彼がいた。
先生に怒られても、自分が正しかったと思っていたのなら意見は変えず、真っ向から立ち向かって反抗している姿は勇敢でカッコいい。彼の言うことはいつも正論で、大人の事情がある教師たちは、その度に手を焼いている様子だった。
だけど彼のそんな性格のおかげか、生徒たちからの信頼は厚かった。彼はいい意味でも悪い意味でも正しいことをする。間違っていると思ったのなら容赦なく立ち向かう。そんな姿に惹かれないはずもなく、多くの生徒は彼を頼っていた。中にはその信念を利用する輩もいたけど、結局は正しい結果になっていた。そんな事が出来る彼だからこそ、カリスマ性という面において、同学年の中ではずば抜けていた。
周りの観客が今か今かと待ち構えているこの状況。私は言うならこのタイミングだと思った。
「ずっと好きでした。私と、付き合ってください、、!」
突如、静寂が訪れる。次の彼の言葉次第で、この沈黙の破られ方も違う。歓声か悲鳴か。はたまた怒号か罵倒、慰めか。
人間は損得勘定で物事を考えたくなる。仮にクイズが二問用意されていたとする。一つのクイズは正解すれば一千万だが不正解だと罰金千円。もう一つのクイズは正解すれば千億だが不正解だと罰金一千万。人はどちらを選ぶだろうか。十中八九、前者だろう。今回はお金だったが、もし代償が命だったら?リスクマネジメントの結果、デメリットの小さい方を選択するのは当然。
今現在、彼にしている告白も同じ状況だ。受ければ祝福され、私のような可愛くて人気者の彼女ができる。しかも彼氏がいたこともない処女。断れば周りからの罵詈雑言、学校での居心地も悪くなるだろう。これがただの片思いであればいいが、二年間も溜めた告白。それも告白している方は学内で絶大な人気を誇る美少女。断り方でさえ細心の注意を払わなければならない。
そんな時、例え好きでなかったとしてもとりあえず付き合ってみるというお試し制度が世間には存在する。その選択肢さえ選べば最期。私は絶対に離さない。
さぁ、答えを聞かせ━━━
「ごめん。タイプじゃない」
、、はい?
私は自分の耳を疑った。いや、この場にいる全員がそうだろう。誰もがお祝いの言葉を準備していた中、この男は何て言った?
「えぇっと、つまり、、私とは付き合えない、ってこと、、?」
「ああ」
聞き返すも、変わらず返事はノー。私が暫くその場で立ち尽くしていると、話は終わったと言った様子で彼は校舎裏を後にしようと歩き出した。全員が全員、顎の関節でも外れたかのように口を開けたまま彼を見送っていた。
彼が完全に姿を消した後、付近で隠れていた私の取り巻きたちが駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫?、、桔梗ちゃん?」
「ああ、うん、ごめん。何となく分かってはいたんだけど、ちょっとビックリしちゃっただけ」
そう言って笑って誤魔化す。まぁ、結果が何となく分かってたのは本当だし、、。
そんな事を考えながら立ち尽くしている様子が無理をしていると捉えられたのか、一人が怒りを露わにした様子で携帯を操作し始めた。
「もぉー、ありえない!容姿がいいからって何よ!何しても許されるってのは大間違いなんだからね!」
「、、何してるの?」
「学年のグルに今撮った動画貼ってやる。明日からはアイツも席無しね。これで少しは人間の心を取り戻せっての」
「やめて」
その声にビックリしたのか、彼女の携帯を操作する手が反射的に止まっていた。私自身、意識していなかったが、怒りの色が含まれた声音だった。
ダメダメ、切り替え切り替え、、。
「私のためにそんなに怒ってくれるのは嬉しいよ。けど、そんな事したら可哀想だよ」
いつも通りの私に、止まっていた時間が動き出したかのように彼女たちも動き出した。
「いやいや、それは優しすぎるって!」
「そーだよ桔梗ちゃん!一人で抱え込んだらダメだよ!」
この子たちは何を言っているんだろう。まず浮かんできた感想はそれだった。私は自分の性格を良いと思ったことはない。けれど、この子たちも大概ね。彼は好きでもタイプでもない女からの告白を断っただけ。責められるとすれば、ストレート過ぎたその言い方だけ。でも、それが彼の性格。
「本当に自分勝手な奴よねぇ!」
「、、だから好きになったんだけどね」
私のそんな呟きは、友達のために怒っている自分に精一杯なようで、彼女たちには届かなかった。
それからも、彼女たちの彼に対する悪口は止まらなかった。挙げ句の果てには、最近調子に乗っている鼻につくクラスメイトの話まで展開し始めた。
私の本性など、知っているはずもなかった
2
櫛田に告白されてそれを断った後、俺がいじめの被害に遭うような状況にはならなかった。少なからず覚悟していたが、杞憂だったようだ。微小ながらも、周りからの評価があったおかげかもしれない。今ではほとんど弊害なく学校生活を過ごせていた。
友人も多くはないが存在していて、休み時間や放課後は学生らしく青春を謳歌していると言っても過言ではない。良い友人たちに恵まれていると再確認する事ができた。
放課後にカラオケに行った後、ファミレスで夕飯を済ませ友人たちと別れた。そして、家に帰る前に立ち寄った本屋。そこで小さなトラブルがあった。受験生になったことで参考書のコーナーで物色することに夢中になってしまい、不用意だったことが不味かったのかもしれない。
本棚を曲がってすぐ、ここ最近で一番会いたかったが、同時に一番会いたくなかった人物と鉢合わせしてしまった。彼女もこちらに向かっている途中で、正面衝突しかける寸前で止まったため、お互い向かい合う形となった。
流石に無視されることはない、よな、、?
「、、久しぶりだな、鈴音」
「、、こんばんは。それと、もう私のことを下の名前で呼ぶのはやめて。迷惑よ」
目の前にいる堀北鈴音という少女とは、いわゆる幼馴染だ。だが、ただの幼馴染ではなく、幼少期から家族ぐるみの付き合いもあって、中学に入る前から許嫁に似た恋人関係にあった。1ヶ月前までは。
気まずい沈黙が数秒と流れる。大した話題も思い浮かばず、どうしたものかと頭を悩ませる。ここで手を振って立ち去るという選択肢を真っ先に排除して、どうにかして話をしようと思考を巡らせる。
「櫛田さんに告白されたそうね」
そんな俺の思考を汲み取ったのか、そして暫く留まるつもりなのか、その場で近くにあった参考書を手に取って、雑談と思われる話題を振ってきた。
「ああ。正直驚いた。話した回数も数えられる程度だったと思うんだが」
思い返せば、その数回も挨拶や事務的な内容の話で、楽しく会話をしたことがあるかどうかでさえ定かではない。惚れられるエピソードどころか、そもそも櫛田とのエピソードすら大したものが思い浮かばない。
「それで、どうしたの?」
「断ったよ」
「どうして?」
「好きだから。まだお前が」
堀北のページを捲る手が、ピタッと止まった。ジト目になりながら俺を見てくる表情は、まるで不意打ちのパンチでも食らったかのようだった。
「急にくるのね」
「俺がお前を好きなのは、迷惑か?」
その問いには、先程まで即答で返していた堀北も一瞬答えに詰まっていた。
「それは━━━」
「あっれ〜?巷で噂のラブラブカップルじゃないですか〜?」
後ろからの突然の声に、俺も堀北も勢いよく振り返った。そこには俺と同じ学生服を着た男子生徒が一人いた。元クラスメイトで、今は別のクラス。堀北の方は今もクラスメイトのはず。
「あっ、そう言えば別れたんだっけか〜?いやけど待てよ?こんな所で密会してるとなると、別れたのはフリで、本当は今でも━━━」
「やめて!」
その堀北の甲高い声は、本屋という静かな場所では周囲の注目を一斉に集めるには十分すぎるものだった。
「あらあら、怒っちゃったか。失礼失礼。けどこれは問題じゃないか?別れたと聞いてたから櫛田ちゃんはお前に告白をした。それなのに本当は別れていなかったとしたら、、どうなんだろうなぁ?」
「私と彼は本当に別れたわ。あなたの勝手な想像で話を進めないで。まだ交際していると思われるだけで不愉快だわ」
そうピシャリと言い放つ堀北に、男は満足そうに微笑んだ。
「ごめんごめん。本当はさぁ、結構前からお前に興味があったんだよ。だから良かったらこの後━━━」
肩に近づいてくる手を、堀北は勢いよく振り払った。
「言っておくけど、あなたの存在はそれ以上に不愉快よ」
そう言って、堀北は参考書を買う様子も見せずスタスタと店外へと出て行った。
残された俺はどうしたものかと思ったが、考えてみればこの男とは大した接点もないためこのまま立ち去っても問題ないのではと思い直し、足を出口の方へと進めた。
「勿体ねぇなぁ。あんな気の強い女なかなかいないぜ?さぞや屈服させてる時は気持ちよかったんだろうなぁ。特に夜の方は━━━」
その瞬間、無意識に男の胸ぐらを掴んでいた。男は、地に足を着けていなかった。否、着けさせないほどに男の体を持ち上げていた。男はその瞬間に慌てた様子でジタバタし始めた。
「っ待て待て!冗談だって冗談!そんなムキになんなよ、、!」
それを聞くなり、俺は手を離して、足早にその場を去った。まだ追い付くかもしれないと繁華街を抜けて住宅街を疾走する。
もはや後ろ姿だけで分かる彼女の姿を見つけると、その腕を強引に掴んだ。早足で歩いていた堀北は必然的に足が止まったが、振り向く様子はなかった。
「悪い。俺の配慮がなかった。嫌だよな。別れた奴なんかと話してるとこ見られたら。その、、謝りたくて追いかけた。これからは、その、、気をつけるよ」
数秒経っても堀北に反応はなかった。なぜ反応がないのか、それを考え尽くしていた時、振り返った彼女はなぜか悲しそうで、泣いてしまいそうな顔だった。訳が分からず、表情の理由を尋ねることにした。
「なん━━━」
「どうしてあなたが謝るの」
俺の言葉を遮って被された堀北の言葉に、俺自身戸惑った。
「え?」
「あそこに立ち止まってあなたと話し始めたのは私。彼に動揺させられて迷惑をかけたのも私。あなたが追いかけざるを得ないような逃げ方をしたのも私。、、ねぇ、どうしてあなたが謝るの?」
その質問に、答えを見出せないでいた。堀北が何を求めているのかも分からないし、それを求める意図も不明だった。
「、、それがあなたの良いところであり、悪いところよ」
その言葉に、俺は押し黙らされる以外の道がなかった。何て返せばいいのかも分からなかった。
堀北と別れたキッカケになったのは、クラスの女子による堀北へのイジメだった。
生徒会長の妹で、成績トップかつ抜群の運動神経。その要因から堀北に興味を持つ生徒は多かったが、最終的に堀北は独りだった。コミュニケーション能力が低いのも原因の一端だが、最たる理由はそもそも堀北が仲良くしようとする姿勢を見せなかったからだ。それを心配した時に返ってきた堀北のセリフは決まって「兄と俺がいるから大丈夫」だった。
実際、堀北は独りでも変わらなかった。それが周囲の反感を買っている様子ではあったが、実際には何も音沙汰なかった。
しかし、学年が上がり、生徒会長の兄が卒業したことで状況は大きく一変した。実感は無かったが、『生徒会長の妹』というのがある程度の防衛壁になっていたようで、ひっそりと陰口されるだけだったものが、堂々と本人に聞こえるように悪口が囁かれるようになった。そして徐々にエスカレートしていき、上履きや体操着、筆記用具や教科書など悪質なイジメへと変わっていった。
それにも関わらず、堀北は先生に報告することもなく、俺にも余計なことはしなくていいと忠告していた。時間の無駄。誰がやったのか証拠はないし、時間が経てばどうせ飽きて終わる。堀北の言い分はこうだった。
俺は、納得できなかった。イジメという状況が許されていいはずがないのはもちろんだが、これ以上、大切な人が苦しんでいる姿を見たくなかった。
堀北に嫌がらせをする主なメンバーが集まったグループに直接会いに行き、改心させて謝らせようと試みたが、どんな言葉にもヘラヘラ笑うだけで、その時は心底腹が立った。だが、彼ら彼女らは己の行いを過ちだと認識していないだけで、その意識改革さえできれば全ての物事が丸く収まると思っていた。説得という名の説教を続けていると、その反発心からか、向こうの会話がエスカレートしてしまった。
「うるさいんだけど。あんな無表情女のどこがいいわけ?」
「そもそも、最初に無視してきたのはあっちだし。なんで私たちが謝らなきゃいけないの?」
「社会に出ても結局はみんなの足を引っ張るようなあんな女、さっさと消えてくれた方がみんな幸せなんじゃね?」
「あー、それ言えてるー。やっぱり大事なのはチームワーク、コミュ力でしょ!」
「そーそー、あーゆうノリの悪いやつは死ん━━━」
拳が、理性を無視して男の顔面に直撃した。続きは、言わせなかった。言わせてなるものか。精一杯生きている人に対しての最大の侮辱に、耐えることができなかった。
壁に吹っ飛んだ男は流血などの目立った外傷はなかったが、体を起こす様子はなく、意識を失っているようだった。
我に返っても、後悔はやってこなかった。ただ、この件で堀北の状況が悪くならないかが心配だった。
そして、グループの一人が先生を呼びに走って行ったのを横目に映しながら、堀北がこの場にいなくて、本当に良かったと思った。
事件をきっかけに、堀北から別れを告げられた。俺と付き合っていることがストレスになってしまったのか、暴力を振るったことが許せなかったのか。別れた理由は、ついぞ教えてもらっていない。
別れてから初めて会った本屋では、いつも通りだった。しかし、今、目の前にある堀北の姿は、完全に弱り切っている様子だった。何が原因で堀北のネジが緩んだのか。
堀北の言葉を最後に、暫く停滞した時間が続いていた。
俺には堀北が何を考え、何を思っているのかが分からなかった。
「好きよ」
髪が靡くような風が吹いた。春に似つかわしい暖かい風ではなく、冷たい風。
「私は今でもあなたが好き。大好き。だけど、やっぱり戻りたくはない。だから、、私を好きにならないで」
そう言って、まるでさよならと言わんばかりに振り返って歩み始めた。
俺は、咄嗟に彼女の手を掴んだ。
「少しだけ、待っててくれ」
俺は堀北の手を強く、優しく握った。堀北の手は、少しだけ暖かかった。しかし、離してしまえばすぐに冷えてしまいそうで、手を離すことはできなかった。
今の堀北に何を伝えるべきなのか、それは考えても考えてもイマイチピンとこなかった。そもそも、なぜ別れることになったのか。そして、別れた上でなぜ好きと伝えてくるのか。なぜ、悲しそうで泣きそうな顔をしていたのか。そして、なぜ今そんなにも期待に満ちた顔をしているのか。俺には何も分からない。それでも、これだけは分かる。堀北は今、何かに苦しんでいる。それなら、俺がすべきことは一つだ。
「お前の障害は、俺が始末する」
咄嗟に出た言葉。しかし、俺はその言葉に責任を持つと決意した。夕陽を背景に映るこの綺麗な彼女を、守ると誓った。
この言葉が、この想いが塵になることはない。確実に俺の中で消えることのない炎として残り続けるだろう。
だが、それ以上に、振り向いた彼女の心の底から救われたような笑顔を、今生忘れることはないだろう。
中学三年生、中学校最後の一年間が過ぎて、俺は無事に高度育成高等学校に合格した。
ただその中で、堀北と顔を合わせることは、あの日以降、一度もなかった。