「……と、いう訳で俺達は今からジュペッタ達を追うから、ハルカ達は御神木様と共にベースキャンプの守りを頼むわ」
強制的に眠らされていたハルカ達に現状を軽く説明し、そのまま突入の準備を始める。もしカゲボウズ達がマスクの中で進化したら、媒体となったジンベイザメマスクは耐久力の問題から破れる可能性がもの凄く高い。しかも、時たま媒体となった人形が進化時にカゲボウズに吸収されるという事もあるらしい。
だから! 奴らが完全に進化するよりも早く! ジンベイザメマスク取り返すことを! 強いられているんだッ!!
しかし、そんな俺の決意や行動とは反して、ハルカとワカシャモは未だに顔や首周りを水で滴らし、寒さで体を震わせながら凄くゲンナリとしたような表情でこちらを眺めている。一刻を争う事態だというのに君達は……
それに着替える時間ぐらいはあっただろうに。タオルと毛布を渡すと、一息付いたように話し始めた。
「……正直、眠気で頭が回らないんだけれどもさ? ベースキャンプを守るだけだったら私達そのまま眠らされていても問題なかったんじゃない?」
なーにとぼけた事を言っているんだ、この娘は。
「防衛以外にも問題があるから起こしたに決まっているでしょうが……ちなみにさっきからナックラーの姿が見えないけど、どうしたんだ?」
大賀がナックラーだけ起こさないなんてことはしないと思うのだが。
「ナックラーなら起き抜けに水を頭からぶっかけられたせいで、改めて気を失ってる」
ばんなそかな!? 無防備な状態で苦手な水を頭からぶっかけられたのが拙かったか。まぁ……何かあったら叩き起こされるだろう。
「お、おう……まぁ、なんだ。【さいみんじゅつ】で眠らされた訳じゃないならいいんだ。一番の問題点はソコだからな」
「と、言うと?」
どうやら本当に頭が回っていないようだ。ハルカは寝起きからの起動が遅めだからなぁ……ん? いや、待てよ……今回は寝起きだからというよりも、【さいみんじゅつ】で無理やり眠らされたことによる軽い後遺症なのかもしれない。
「ただ単純に眠っているだけなら、俺もここまで無理やり起こそうとしないさ」
何やら方々からホントかよ……みたいな目で見られているが、普段の俺がどんな風に思われているかよくわかった。お前ら次の訓練を楽しみにしてろよ?
「【さいみんじゅつ】には単純に眠らせる以外に、暗示をかけたりも出来るだろ? 過去の新聞にもスリーパーによる児童誘拐事件が大々的に載ってたみたいだしな。そんな感じでハルカやワカシャモ、ナックラーが操られた場合、ベースキャンプ防衛チームが予想外のタイミングでバックアタックを受けかねん」
流石の御神木様でも視覚外からの攻撃は防げない。それに、俺がそういう状態になったら御神木様ならたぶん構わずにぶん殴るだろうけれども、流石にハルカ相手だとソレもやりずらいだろうしな。
まぁ、場合によっては遠慮なくやるんだろうけれど。
「あ~……それは確かに拙いかも」
やはりまだ完全に覚醒していないのか、微妙に間延びした声がテント内に響く。ハルカもそれを自覚したのかべしべしと頬を叩き始めた。
「だろ? あとは、相手がゴーストタイプのポケモンだから【ゆめくい】を使って回復をしてくる可能性もある。そんな感じで便利な人質として扱われやすいから無理にでも起こした訳だ」
それに、流石にここにはいないだろうけれども、ダークライのように悪夢の中に閉じ込める、ないしは夢を利用するポケモンもいるからな。特にダークライの場合、本ポケに悪意がないから余計に対処に困る。
頬が赤くなったハルカがコクコクと頭を縦に振る。
「共用クーラーボックスにスッキリとした後味が売りの眠気覚まし用ドリンク剤があったはずだから、後でそれでも飲むといいんじゃないか?」
「今冷たいのはちょっと……暖かいコーヒーじゃだめなの?」
「コーヒー飲んでもいいけど、先に完全に眠気を飛ばした方がいいぞ」
コーヒーとドリンク剤では効能が段違いだからな。ジョシュウさんやデボンコーポレーションの研究社員さん達が書類の提出期限に間に合うかどうかの瀬戸際の際は、コーヒーではなくドリンク剤を愛用している実績もある。
「ただしかなりドギツイので用量、用法を守って正しく使いましょう」
「そんなに?」
「試飲してみた感想として、味は苦味が強めだけど後味は売り文句通りスッキリ。ただ、飲んですぐ一気に眠気が飛ぶレベル」
研究社員さんからは劇薬だから不味くしていると聞いている。まぁ、そうだわな。
「うへぇ……進んで飲みたくはないかなぁ……」
ハルカがクーラーボックスを漁っている間に、バックパックに必要な物を積め終え、最終確認をする。ついでにもう一度一縷の望みを掛けて無線の代わりであるポケナビを機動させてみるが、ザリザリとノイズが酷くやはり使い物になりそうにない。此処は上も下も本当に面倒な性質をしてやがるな。
「どれぐらいでベースキャンプに帰ってくる予定なのさ」
うむ、問題はソコだ。
「とりあえず、右の道がどれほど深いかわからないが……おそらく他と同じぐらいだと思うから最奥の部屋まで2時間半~3時間はかかるだろう。往復で約6時間と考えて……あいつらを探す時間や、バトルの時間を考えて8~10時間といったところか」
通路の先にある部屋の大きさにも依るだろう。広ければ探すのがかなり面倒な事になる。そもそも部屋が一つしかないとは限らないしな。
「ちなみに相手の数は?」
「下手人はジュペッタ1匹にカゲボウズがおそらく20匹以上だな」
正確に言うと全員がジンベイザメマスクを使ってすぐに進化をする気なら、進化間近のカゲボウズが20匹以上居ることになる。また、全員が全員一気に進化する訳ではないだろうから、おそらく全体で40~50匹はくだらないだろう。群れとして考えるならなかなかの大所帯と言える。
そしてカゲボウズの進化レベルは37。対してこちらは、おそらく一番高い御神木様でもレベル30ぐらい。この時点で相手の方がレベルも数も上だ。だが、それでも俺達はやらなくてはならないんだ!
とは言え、現実的に考えるとそこまで進化間近のカゲボウズが多いという事はないだろう。そこまで群れとして強いのなら、あんな事せずに正面から襲ってマスクを根こそぎ持っていくだろう。あのジュペッタならそれぐらいの判断はできるはずだ。
それを実行しないということは、しないだけの理由があるはず。
おそらく、あのジンベイザメマスクの中にいる大半は見せかけのハリボテだ。戦えるカゲボウズはあまり居ない。だから数を揃えて体を大きく見せているんだ。
「……それ部屋の入口で待ち構えられて、数の暴力で襲ってくる可能性が高くない?」
「だろうな」
そんなこと想定済みよ。相手は釣り出しのようなテクニックを仕掛けてくるポケモンだ。釣り野伏せのような伏兵の使い方ぐらいやってきても不思議じゃあない。まともに戦ったら面倒なことこの上ないだろう。
「まぁ、閉所での引きこもり対策ぐらいなら考えているさ」
――なら最初からまともに戦ってやらんことにする。メトロのB拠点突破ラッシュと似たようなことをしてやろうじゃあないか。
悪いが俺達が最も開発しているドクトリンは室内等の閉所だぞ? それに今回はとっておきもあるからな。は、ははは、アハハハハハ……じわじわと追い詰めてやるわ。
「……なんかキョウヘイ先生から黒いオーラが見えるかも」
「……シャモ」
失敬な。同意する要素皆無だろうが。
◇ ◇ ◇
大した妨害もない状態で網代笠を抱えてほぼ全力で走り続けせいか、思いの外早く部屋の入口が見えたな。1時間もかかっていないんじゃないだろうか?
さて、ここからだ。深呼吸をして、マラソンで熱くなった体に再度気合を込める。相手もこちらの光に気がついたはずだから慎重に、それでいて大胆に行こう。ボールから大賀と夕立を出してから、互いに頷きあって確認する。
失敗は許されない。速やかに実践する。
「全員【かげぶんしん】を積んでくれ。オペレーション・メトロを始めるぞ」
単純計算で8~10匹の分身が6回、夕立は少し数が少なくなるがそれでも6匹ほどの分身を作ることが出来るから、最低計算でも分身だけで132匹となる。ちょっと通路が狭いが、通勤ラッシュなんてこんなもんだ。だからそんな暑苦しいみたいな顔するなよ。お前らの分身だぞ?
「第一段階、斥候を送って様子を見る。夕立は分身の1体を部屋に突っ込ませてくれ」
「ブイッ!」
分身が走って部屋を潜った瞬間、四方八方から多数の空間の歪みや少しの紫を煮詰めたような色の球体が分身へ殺到し、ちぎれ飛ぶように掻き消えてしまった。中で待ち構えていることは間違いない訳だ。黒に近い紫の球体は十中八九【シャドーボール】だろうけど、あの歪みはなんだ? カゲボウズも使えるとなると、レベル7程度で覚えるであろう【ナイトヘッド】か?
【シャドーボール】が使えるのならそっちを使うだろうし、やはり戦える個体は少ないのかもしれないな。それでもジュペッタがかなり厄介だが……まぁ、まともに戦うつもりはないし問題はないはずだ。
「第二段階開始! 入り口に向かって網代笠は【バウンドガン】発射! 大賀は事前に生成しておいたありったけの【スモークバウンド】と【バウンドガン】を撃ちまくれ! 夕立は【てだすけ】で二匹の補助!」
「キノココココココッ!」
「スブブブブブッ!」
「ブイィィィイ!」
【てだすけ】によって通常よりも威力が高く、異様なほど跳弾する弾が入口の地面に着弾し、四方八方に飛び散ってゆく。また、一部の弾が何度か跳弾した後に破裂して【しろいけむり】を辺り一面に撒き散らしているせいか、部屋から漏れた【しろいけむり】が漂って来た。
「カゲッ!?」
部屋の中から混乱している鳴き声が聞こえてくる。対室内としてこれほど面白いコンボはないだろう。弾薬の生成に時間がかかるという欠点はあるものの、まだまだ発展できるのも素晴らしい。早く【フラッシュ】の技マシンが欲しいものだ。
「そろそろかね……影分身隊は突撃開始!」
先ほど作り出した影分身達が一斉に部屋へなだれ込み始める。さながら朝方の改札口に殺到するサラリーマンや学生のようだ。分身の一部は先ほどの【バウンドガン】の跳ね返りを受けて消えるだろうが、その程度想定の範囲内。【みがわり】があればもっと違うのだが……やはり技マシンが足りない。
「第三段階……俺達も突っ込むz」
「キノッ!?」
言葉の最中に明かりがふっと消え、網代笠が悲痛な悲鳴をあげた。何事かと見ると、網代笠が頭に着けていたヘルメット型のヘッドライトが無くなり、代わりにちょっと大きな岩が転がっている。あの岩が頭に直撃したのだろう。
「光源を奪いに来たか……入れ替えたのは【トリック】だな」
今の状況を冷静に判断し、俺達がいる場所を特定して、ヘッドライトと岩を入れ替えたのか。そんなことが出来るのは熟練のポケモンだけだ。おそらくはジュペッタによる【トリック】だろう。
やはりまともに戦うべき相手じゃないな。圧倒的に不利だ。ふと、網代笠に目を向けると涙目になっている。お前そこまであのヘッドライトを気に入っていたのか。
「道中で説明した通りの策で行く。回収できそうならヘッドライトも回収するから、そう落ち込むな……目標はジンベイザメもどきとジュペッタだ! 突撃開始!」
一斉に走り始めて入り口を抜ける。部屋の内部は白い結晶に覆われていて、他にも何やら石版のような物が複数設置されているが、【しろいきり】が濃いため近づかなければ読めそうもない。そもそもじっくりと読んでいる時間もない。
入ってからすぐに多少の攻撃が来ることを想定していたが、それすらもやって来ないほど場が混乱しているようだ。この機を逃すべきではない!
「網代笠と夕立、頼んだぞ」
「キノコ!」
「ブイッ!」
網代笠や夕立と別れ、別々に行動を行う。網代笠達はジンベイザメもどきを探し、俺達は――
「ジュぺぺぺぺッ」
――すぐそこで腹を抱えながら大笑いしている、ヘッドライトを被ったジュペッタを相手に時間を稼ぐ役だ。【しろいきり】を切らす訳にはいかないから必然的にこういった組み合わせとなる。
ジュペッタは笑いながらゆっくりと奥に進む。罠の事も考えたが、追いかける以外に他に選択肢がない。
後を追うと、待ち構えるように空中に浮かんでいるジュペッタの後ろには、壁一面に寄生しているような錯覚を覚えるほどの巨大な結晶体が鎮座しているのが見えた。
「気張れよ大賀。待ちに待った強者だぞ……さぁ、魅せてみろ! お前の可能性を!」
「スブブブブ!」
呼応するように大賀の筋肉が震える。敵は強大だが止まるわけにはいかない。
さぁ、思う存分踊ろうか!
◇ ◇ ◇
静かなテントの中でカチコチカチコチと時計の針の音が響く。そろそろキョウヘイ先生が出発して2時間が経つだろうか。
「そろそろキョウヘイ先生達が部屋の前に到着する頃かも?」
走って進んだ場合だったらもう戦っているかもしれない。
「ガウッ」
膝の毛布の上で丸まっているガーディの頭をグリグリ撫でくり回す。あー……ガーディの暖かい体温が心地いい。こんな寒い場所で顔に水かけるとか鬼かと言いたい。風邪引いちゃうわ。
どうにもキョウヘイ先生は寒さというものの厳しさを忘れてしまっているようにも見える。
「ちなみに御神木様的には、今回のキョウヘイ先生の強行ってどうなのさ」
「……」
御神木様がすっと体を横に回転させた。無言で目を逸らす程か。
――それとも何かを隠してる? 上から覗き込んで表情を読もうと試みるも、普段通りのポーカーフェイスで防御している。そうやって防御してるって事はやっぱり何かあるのかな?
御神木様や大賀はあんまり表情を崩さないから、表情だけでは読めない時が多い。夕立も夕立で観察する時は表情を消している。キョウヘイ先生もマスクのせいで表情が読みにくいし……うーん……これは御神木様達がキョウヘイ先生に似てきてしまっているということなのだろうか。
例外なのは網代笠ぐらい? あの子は意外と表情に出やすいし。
「今回の場合、買い直すって判断も出来たと思うの。でもソレを端っから無視して取り返しに行った訳で」
前に野生のポケモンにご飯を盗まれた時は、また買い直せばいいとか言っていたのに。
「そもそもあの……ジンベイザメマスクだっけ? アレってキョウヘイ先生が固執するものなのかな?」
「……クギュ?」
御神木様もどうだろう? みたいな顔をしている。さもあのマスクが大事みたいに言っていたけれど、絶対にそれだけが理由じゃあないはずだ。ならそれ以外の理由としてあり得るとしたら何があるだろう?
「やっぱり、この間出来たとか言っていたドクトリン? を試したいとか?」
「クギュル」
御神木様達にかなり無茶な要求をしていたし、完成した時は昔みたいなテンションになっていたのを記憶している。だからってここで試す? それって未知の遺跡の中で行うべき行動じゃあないよね。もっと安全な選択肢だってあるはずだ。
「……キョウヘイ先生は何をそんなに焦っているのだろう?」
何か考えた上で成果を得ようとしているのはわかるけれど、少しばかり焦りすぎているように見える。というか前にも増して生き急いでいるというか……前にわたしに対して自分が言っていた事を覚えているのだろうか?
「はぁ……ままならないなぁ」
以前の自分を見ているようで何かもどかしい。最近のキョウヘイ先生の行動が不審なのもいただけない。
「もうちょっとわたしを頼ってもいいと思うんだけど……」
「ワゥ……」
ガーディもそう思うよね。きっと、キョウヘイ先生的にはまだ頼れるには足りていないのだ。
「やっぱり、何か自分の力だけでやり遂げないとダメかも」
そう思うと、今の状況はなかなかに好都合だ。それなりに自由に動ける以上、何かできるはず。とは言え流石にこの部屋から移動するのは拙そうかも。御神木様も止めるだろうし、あんまり派手な行動は出来そうにない。
「じっとしているのも暇だし、もう一度部屋の調査でもしようか」
乗っかっていたガーディを撫でてから横に下ろし、毛布を羽織った状態でテントの外に出ると、テントの外は壁がライトの光を反射して相変わらず全体が琥珀色に光輝いている。こんな眩しい中、ワカシャモとゴンベが左側の通路を監視しているけれども、今のところ問題はなさそうかも。
御神木様は部屋の中央で回転しながら全体を監視する事に専念するらしい。
改めてこの部屋の全体を眺めてみるが、最初の頃の印象から変化はない。キョウヘイ先生はこの部屋の事を圧倒的な美であると言っていたけれど、わたしにはこの部屋は少し威圧的に見えた。どこか他を拒んでいるようにも思える。キョウヘイ先生もソレを感じて聖域なんて言葉を使ったのかもしれない。
でも個人的には聖域と言うよりは、この部屋も含めて1つの巨大な墓のように感じている。この威圧的な部屋も墓の役割の一つだと、勝手に納得しているからだ。何故かは分からないのに、そう思うとこの場所をすとんと呑込むことができた。
――だからこそ、この部屋には何かある気がしてならない。もしかすると隠し部屋とかあるかも? 作成した地図とにらめっこをしながら歩き周り、壁や床を調べる。
「こういうのも冒険のロマンだよね」
……なぜ誰も返してくれないのか。ロマンをわかってくれる子が少なくて悲しい。
テントから右回りで調べてゆくが、あるのは幾何学的な模様だけだ。何かこう……一部だけ模様が違うとかあればわかりやすいんだけれども。キョウヘイ先生曰く壁の模様はかなりの数学知識の塊らしいから、あるとしても巧妙に隠しているのだろう。
キョウヘイ先生が潜っていった通路の前を通り抜け、テントの真反対にあった通路の前まで来たが何もない。おかしいなぁ……アレかな? 通路のつなぎ目に何かあるとかかな?
テントの反対側にある通路に一歩踏み込んで覗き込むがやはり何もない。ただ奥から冷気のようなものが漂ってきているのを感じた。息を吐くと、わずかだが白い息が部屋へ流れる。この遺跡が寒い原因がこの通路の先にあるのかも?
その場で立ち止まり、どういうことかと考え始めた瞬間に場の雰囲気が変わった。
「……グルルルル」
ガーディが姿勢を低くして、前へ向かって唸り始めたからだ。
「そこに何かいるの?」
「シッ!!」
後ろからワカシャモが走り始める音が聞こえ始め、その1テンポ遅れて今まで感じたことがない程の重圧で全身が押さえつけられる。
感覚が薄れてゆき、一周回ってスローモーションのように周りがよく見えた。前方には薄汚れてボロボロな漆黒の包帯を巻いた二つの手が空中に浮かんでいる。ソレは相手の意思を真っ黒に塗りつぶすような気配を撒き散らしながら、幽鬼のようにゆっくりとやって来た。
「……あ?」
一瞬、そのままねじり潰されるようなイメージが流れる。
――これが死の気配というものなのだろうか。背筋が凍りつき、足がすくんで動けない。声が震えてガチガチと歯が鳴る。まだ距離があるというのに、全てを黒に塗り替えるアレがただただ恐ろしい。
相手のプレッシャーに飲み込まれていると頭ではわかっているのだ。それでも理性ではどうにもできないような圧倒的で原始的な恐怖を振り撒くアレが恐ろしい。そんなわたしの怯えなど関係なく、手はそのままの速度で顔に向かってじわじわと迫って来ている。
「シャモォォォッ!」
もう少しで喉に手が届きそうになった瞬間、不意にふわりと浮遊感を感じてから世界が凄まじい速さで前方へ流れて行った。視界には何かを投げたような体勢のワカシャモと、空中に浮かぶ手へ向かって【かみつく】を行っているガーディが映る。
「きゃっ!?」
その数瞬後に背中からもにゅんとした触感の壁のようなものにぶつかり、そしてすぐに横から、少し短いけれど逞しい腕が伸びてきた。
「ゴンベ!」
そのまま反動で弾き飛ばないように、ゴンベに抱き抱えられる。どうやらわたしをキャッチする瞬間に軽く後ろに跳んで、衝撃を和らげてくれたらしい。
「あ、ありがとうゴンベ」
わたしを受け止めたゴンベは、わたしを下ろしてすぐに気絶しているナックラーを起こしにテントへ向かう。前を向いて状況を再度確認するが、あまり状況はよろしくないようだ。【かみつく】事で攻撃が出来ているガーディはまだいい。苦戦しているものの攻撃が通った様子があるのだから。
ワカシャモも【かわらわり】や【にどげり】という手足を使ったリーチのある攻撃を繰り出すが、手に当たった瞬間にするりと通り抜けてしまっている。まるで電気の紐に対してシャドーボクシングを仕掛けているように、まったくもって手応えがなさそうだ。
たぶん相手はゴーストタイプのポケモンだから、炎タイプの攻撃が制限されている現状では、ワカシャモは【つつく】以外の攻撃方法がない。だからそのせいでほとんど防戦一方となってしまっている。どうにかしないと一方的にやられてしまう!
「クギュルルルル!」
少しの逡巡の間に、先に御神木様が動いた。
御神木様がガーディやワカシャモが相手をしている浮遊した手に対して、長さ60cmほどの小型の【ステルスロック 大岩槍】を5本打ち出してゆく。回転によって打ち出された【ステルスロック 大岩槍】の内4本は、苦戦しているワカシャモの援護として空間を切り裂きながら手へ向かう。
――しかし、全て掠りもせずに空中で翻すように、ひらりと避けられてしまった。
「あれも避けるの!?」
だが全て外れた訳ではなく、残る1本がガーディの頭のすぐ真横を通り、【かみつく】から脱出していた掌の部分に直撃し、通路の奥へ標本のように磔にした。
暗闇の中で磔にされたはずなのに、漆黒の手の形がわかるぐらい異様で圧倒的な存在感を未だに放っている。
「シャァァァアッ!」
片手を磔にしたその間にもワカシャモが、もう片方の手によって【つつく】で攻撃した隙を突かれ、影からの一撃を頭に受けて部屋の中央へ殴り飛ばされた。片手の状態で格闘タイプが混じっているワカシャモに殴り勝つなんて……!
「クギュッ!」
漆黒の手とワカシャモが離れた瞬間、待ってましたとばかりに御神木様が【ステルスロック】で通路の入り口に壁を作り、物理的に封鎖する。
――しかし、これでも安心できない。
「…………」
壁の向こうにいるポケモンは鳴き声を一切出していないのに、その凄まじいプレッシャーからまだそこに居るのがわかる。
この子達もソレを理解しているのか、未だ気を失っているナックラーを除いて誰ひとり警戒態勢を解いておらず、姿勢を低くしている。まだ気を失っているナックラーは、もしかするとあのタイミングでこの手の主に眠らされてしまったのかも? ……いや、違う気がする。
気を失ったのは素で、あの凄まじい気配はナックラーに何か技をかけたからか! こっちのほうが納得できる。
「ゴンベとワカシャモは交代して!」
攻撃手段のほとんどないワカシャモがすぐさまゴンベと入れ替わり、必死になってナックラーを起こそうと気付け用の薬の瓶を2本口の中に突っ込んで無理やり飲ませている。あそこまでやられたらすぐに起きるだろう。
相手の行動を伺っていると、コンッ……と乾いた物がぶつかったような音が壁から響いた。やがて、その音が次第に大きく、重たくなり、壁自体が揺れて小さな石が欠けて落ち始める。
いくらこの手のホラー要素も遺跡冒険の醍醐味だとは言っても、実際に直面するとロマンだなんだなんて言っていられない。さっきの死ぬかも知れないという恐怖が蘇る。
キョウヘイ先生が帰ってくるまで最速でも3~4時間。どうやって持たせよう。
――意識が横に逸れたその瞬間、一際大きく重たい音と共に壁が破壊され、真っ赤な目で黒い包帯を全身に巻いたナニカがその影を縫うように踏み込み、御神木様へ一気に距離を詰めた。
「クッ!」
御神木様が咄嗟に【ステルスロック 鎧】を展開して正面からの拳に対して防御体制をとる。炎が轟々と燃え盛る拳が岩の鎧に直撃――
「サー……!」
――しようとした瞬間、するりと燃える拳が岩の鎧をすり抜ける。
「クギュッ!?」
そのまま手が見えなくなったと思えば、岩の鎧の内側から破裂するような勢いで御神木様が真横に殴り飛ばされた。勢いを殺さずにゴロゴロと床を転がった御神木様は、受身のような事をしてすぐに起き上がる。何とかギリギリのところで踏みとどまったようだけれども、これ以上攻撃を受けたら戦闘不能になってしまうだろう。
ここでようやく相手の全貌が見えた。真っ赤な一つ目で全身に漆黒の包帯を巻いたミイラのような姿。全身を包む漆黒の包帯から、時たま青白いような光が漏れている。その両手は空中に浮いていて、腕のようなものは見当たらず、足も着地しているはずなのに重量感がないように見える。
総じて現実感がない。
どこかで似たような姿を見た覚えが……ああ、そうだ。以前、キョウヘイ先生が持ってきた、対戦時に要注意すべきポケモンの一覧という、現実ではほとんど見ないレアポケモンの情報を集めたようなプリントの中に入っていたはず。たしか――
「……サマ……ヨール?」
でもこんなに攻撃力のあるポケモンだなんて聞いてはいない。こんなに禍々しいだなんて聞いてはいない。こんなに死を体現したようなポケモンだなんて聞いてない!
いくらゴーストタイプのポケモンだからと言っても限度がある。少なくとも、昔お父さんの研究所で見たゴーストタイプのポケモンは、ここまで凄まじい存在ではなかった。そんな異様なサマヨールが、手に濃い紫色の光を灯しながら、先ほどの手だけだった時以上の威圧と共にこちらと対峙している。
ごめん、キョウヘイ先生。ちょっとこれは拠点防衛するの難しいかも……