一ノ瀬志希に花束を   作:hatibe

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 それは、400mlの血液が入った塩化ビニルで出来た樹脂バッグだ。
 朝、目が覚めた後、寝汗をシャワーで洗い流すと、選りすぐったきっかり40粒の豆を電動ミルで挽いて志希ちゃんブレンドコーヒーを淹れる。
 飲み干した後、私は毎分5mlという速度で私の血液に自身の血液を投与する。

 自己血輸血は検知のし辛さと副作用の少なさから広く好まれているドーピングの一種だ。ある程度の知識と、医療機器を購入する術さえもっていれば誰でも出来てしまうお手軽ドーピング。
 血液を体内に戻すことによって一時的にヘモグロビンを増大させる禁断の術。
 私はライブ前、貧血で困ったことは一度もなかった。


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一ノ瀬志希に花束を

 

1/

 子供が「なぜ?」と質問をするようになるのは、おおよそ三歳になってからだそうだ。

 どうして?

 その言葉は、大人をしばしば困らせるものとなる。

 子供の無邪気な質問は、正しいから正しいというトートロジーを受け入れている大人にとって、自身の立っている足場を掘り返されるに等しい行為らしい。

 そういう意味では質問をしなくなるということが、大人になるための第一歩なのかもしれない。

 幼少期の私は、多くの子供たちと同じように、最も身近な人間に対してその言葉を大量に浴びせた。

 どうして?

 私がそう口にすると、あの人は……パパは、いつも嬉しそうな顔をした。

 パパは控えめに言って物知りで、聞いたらなんでも答えてくれた。

 空が青い理由も、夕焼けが赤い理由も、りんごが木から落ちる理由も、月が満ち欠ける理由も、どんなことでも教えてくれた。

「ねえパパ、宇宙ってどのくらい広いのかな」

「無限だよ」

 パパとママと三人で一緒に行ったハイキング。湖畔の前でテントを張って、天体望遠鏡を覗き込みながら聞いた時もそうだった。

「無限?」

「そうさ、無限さ。宇宙というのは呆れるほどに大きいんだ。しかもそれが、未だに膨張しているときたもんだ」

「ふうん? 膨らんでどうするの?」

「弾けるのさ。限界まで膨らんで、そして風船のようにパチンとね」

 パパは、説明する時にはよく比喩を用いた。比喩を使って頭の中にまずモデルを作るんだよ、志希。そしたら大抵うまくいくのさ。だって科学というのは、神々のチェス盤を覗き見ているようなものなんだからね、と。パパはよくそう言っていた。

 無神論者を標榜している割には、パパは神様という言葉を好んで使った。「じゃあどうしてパパは神様を信じてないの?」と私が聞くと、パパは決まって「もしも神様が本当にいるのだとしたら、世界はこうじゃないはずだろう?」と決まり文句のようにそう言った。もしかしたらパパはニヒリズムにでも被れていたのだろうか。

「どうして?」

 私は成長してからも、その言葉をパパに浴びせ続け、パパはそれに嫌な顔一つせず答え続けた。

 けれど、ある日私が発した一つの質問。それだけは、分からないとパパは口にした。

 どうして?

 どうしてママはいなくなっちゃったの?

 そう聞くとパパは、疲れたように項垂れて、ただ分からないと口にした。

 私は、ママが死んだ理由を未だに理解できていない。

 

 希望を志すと書いて、志希。

 そんな私の名前を決めたのは、ママだったという。ちなみにパパは、決定権どころか名前を挙げることすら許されなかったらしい。可哀想なパパ、名前を付けるのは学者の本懐だと言うのに。

 名前というのは、対象を明確に定義するためのツールだ。

 人は、名前をつけてその存在を明らかにする。

 例えば、とある病気は発見された当初、血液化膿症と呼ばれていた。血液中に白血球が大量発生する理由を発見当時の人々は正しく理解することができず、白血球が充満しているその様が感染症に対する人体の防御機構の激しい働きによるものと認識されていたからだ。白血球が異常増殖する血液のガン、そう認識されるようになったのは、病名が血液化膿症から白血病に変わった後の話だ。

 名は、体を表す。

 なら、ママが私に志希という名前をつけたのは、どんな理由からだったのだろうか。

 ママがどうして私にそんな名前をつけたのか、私には分からない。

 ママはよく言っていた、「志希ちゃんは私の希望なのよ」と。

 ママは、幸せだと言っていた。

 志希ちゃんといられて幸せだよ。これからもずっと一緒にいたいな。

 ママいつも、そう言っていた。私の頭を優しく撫でながら、私の名前を何度も何度も口にするママ。

 志希ちゃんは、ママの希望だから。

 残念なことに当時の私は、ママの希望がどんなものだったのか理解することができなかった。

 けれど少なくとも、カプランマイヤー生存曲線の端っこにいることはママの希望では無かったらしい。

 だってママを殺したのは、ママ自身の言葉だったからだ。

 

 ママはいつも、お菓子の香りを漂わせていた。

 お菓子作りがママの趣味。ママに抱きつくといつも、小麦粉とバターの甘い香りが鼻腔を擽ったのを覚えている。

 ママは端的に言って何でも作れた。がぼちゃのプリンなんてお手の物、フロランタン、パルフェグラッセ、はたまたブッシュ・ド・ノエルまで。お願いすればどんなものでも作ってくれた。

 ちなみにパパは家では何も作らなかった。せいぜい出来たのは壊れた機械を直すことくらい。大学教授という肩書が社会でどのような評価を受けているのかは知らないけれど、少なくとも家庭内のヒエラルキーにおいては、なんちゃってパティシエの方が教授よりも上の地位を占めていた。

 ママは色んなお菓子を作ったけれど、その中でも私が一番好きだったのは、マドレーヌだった。これでもかと言うほどたっぷりとバターと砂糖の入った、ふっくらとして甘くてあまーいプチットマドレーヌ。

 私はいつもお昼の三時になると、餌を待つ子猫のようにキッチンの前でママがオーブンからマドレーヌを取り出すのを待ち構えていた。そして、ママがオーブンから取り出すと、獲物に飛びつく猫のようにママから出来立てのマドレーヌを掠め取ると、容赦無く紅茶にぶち込んだ。

 アールグレイに浸して食べるマドレーヌの味は格別で、私はそれをこよなく愛していた。ママはいつも、「行儀が悪いわよ」と困り顔をしながらも笑って私のことを窘めていた。
「全く、志希ちゃんったらプルーストみたいね」

 ママが丹精込めて作ったマドレーヌを紅茶で赤く染め上げる私を見て、ママはそう言って苦笑した。

「プルースト?」

 私が小首を傾げながらそう言うと、

「マルセル・プルーストの、失われた時を求めて。……あら、志希ちゃんはまだ読んでなかったかしら?」

 そう言って、本棚から分厚い本を取り出すママ。

 ママはお菓子作りと同じくらい、本を読むのが好きだった。私は濫読家なのよ、とよく言っていた。パパみたいに専門的なものを読むんじゃなくて、無計画に読むのが好きなのよ、と。

 そんなママは、私が寝付く前にいつも本を読み聞かせてくれた。ベオウルフにアイヴァンホー、タタール人の砂漠からストルガツキー、それからそれから。いわゆるハイカルチャーなものから愚にもつかない三文小説まで、色々な物をママは読み聞かせてくれた。もしかしたら私が専門分野でもない論分を無計画に貪るようになったのはママの遺伝だったのかもしれない。

 お菓子を食べ、ママの読み聞かせを聞いて、パパとお勉強をする。そんな日々。

 幼少期の私の周りは、パパとママの優しい香りで包まれていた。

 

 そして時は流れ行き、ある日からママは砂糖とバターの甘い香りの代わりに、消毒液の匂いを漂わせるようになった。

 ママとの記憶は、寝室の寝心地の良いフカフカのベッドから、病院のベッドで語らう日々へと移り変わる。

 希釈した漂白剤でピカピカにモップがけされた無菌の病室で、一人本を読んでいるママ。

 ここで出来ることってあまりないのよね。学生の頃に戻ったみたい、とママは笑っていた。

 ナースさんからは、よく注意されていた。「紙で手を切っただけでも、大変なことになるんですよ」と。それでもママはお構いなしに、減菌された本を読んでいた。お菓子のレシピ本に、3000ページにも及ぶ長編小説、それとジェームズ王欽定訳聖書。

 記憶の中のママは、病室の中でもいつも笑みを浮かべていた。

 そして、更に月日は流れ。ある日、ママはICUに運ばれた。

 長い手術の末、ICUから出てきたママに残されているものはあまり多くなかった。

 その時のママがどんなことを考えていたのか、私にはわからない。

 わかっているのは、ママが人工呼吸器を繋ぐかどうか選択することを求められたということ。そしてその時、ママがはっきりとそれを拒絶したということの二つだけだ。

 ママは人工呼吸器をつける代わりに、コンフォートケアを求めた。

 私がギフテッドだと判明したのは、ママが死んだ後のことだった。

 

 ママの死が幼少期の私の人格形成にどれほどの影響を及ぼしたのか私にはわからないけれど、少なくとも家庭環境が一変したのは覚えている。

 ママがいなくなってから、私の世界は大きく変わった。

 ママが死んでから、パパは……ダッドは、研究にのめり込んだ。異常なまでに。

 家に帰ってくることは少なくなり、大学の研究室に泊まることも珍しくなかった。

 そしてある年、ダッドは論文を発表して、ぶっ飛んだ理論を打ち立てた。

 センセーショナルなその論文の内容は、数々の批判に晒されながらも、現代宇宙物理学の重要理論の一つとして、今もまだ尚、その分野の最前線に佇立している。

 そして私が中学校に入学した頃、ダッドは拠点を日本からアメリカに移した。

 ダッドが海外の大学に赴任したのは、その理論を打ち立てた翌年のことだった。

 そんなダッドを追いかけるように私もまたアメリカに移った。

 飛び級制度を駆使して、ダッドが教鞭を振るう大学に。

 そして、辿り着いた異郷の地で私は、ダッドと同じくらい研究に没頭した。

 研究対象は、正直なところなんでもよかった。ダッドと違う研究分野であれば、なんでも。

 だから、分子生物学を専攻に選んだのは、別に深い理由があったからではない。

 ケミカルがとっても性に合っていたから、そして人体の生化学プロセスに興味があったからそれを選んだ、それだけだ。他意はなかった、選んだときは少なくとも。いや、ホントのところはどうだろう。自己欺瞞かもしれない。

 研究対象を選んでからの私は、どこまでも冷徹に、ユーモアなんてものが入り込む余地がないほど冷たく冷たく研ぎ澄ませた脳みそで、研究に取り組んだ。

 フェローシップを勝ち獲って、たくさんたくさん論文を発表した。生命倫理のタブーを破り、ミクロとマクロの世界を横断し、ブロードマンの脳地図さえも塗り替えた。引用回数は50を超えて、今なおICHINOSE, SHIKIという名前は学会で名を轟かせていることだろう。

 けど。

 けれど。

 そこまでやっても、ダッドはずっと自分の研究にのめり込んだままだった。

 

「ねえママ、ママ……」

 ただただ真っ白で清潔な病室、壁には秒針が止まった壊れた時計が掛かっていて、そして部屋にはあの日死んだママがいた。

「ねえママ、ママはどうして死んじゃったの?」

 私はベッドに横たわるママに優しくそう語りかけた。

 私が問いかけてもママは何の返事をすることもなく、目を閉じたまま身動ぎ一つせず眠ったままだった。シューシューという人工呼吸器の作動音が耳障りで仕方がない。

 これは夢だ、起きたら忘れてしまう泡の時間。あの日、もしもママが生きることを望んだら起きていたであろう世界の結末。ライブ前はいつも、この夢を見る。

「……ママは何が嫌だったの?」

 動作主が自分じゃなくなっちゃって、見当識すらも失って、人工呼吸器によって強制的に賦活されられた心肺機能によってこの世に繋ぎ止められたママ。それでも、ママはここにいた。

 ママの頬に手を触れた、温かい。

 もしもママがいてくれたら、今の私の姿を見たら、ママは何て言うのかな。

「私の何が希望だったのかな」

 私がそう言った瞬間、ママの目蓋が一瞬ピクリと動いた。

 けれど、それからママは一切の反応を見せず、私はただただママの手を握っていた。

 

 

2/

 

「志希……志希。ねえ、志希ってば」

 体を揺り動かされて、意識が浮上する。

 酷く、懐かしい夢を見ていた気がする。

 人は起きた時、夢の内容をほとんど忘れている。

 30秒。それが、私たちが夢のなかから現実に持ち帰ってこれる記憶の総量だ。

 きっかり30秒、私たちは目覚める直前の30秒だけを夢の中から持ち出して、それ以外は全て心の深層にひっそりと仕舞い込む。大脳皮質のひだに隠されたその記憶を、目覚めた後に呼び起こすことはできない。

 目覚めの瞬間、大切なものを取り零してしまったというあの感覚。それだけを私の胸の内に残して、夢はいつも通り過ぎそして去っていく。

 だから目が覚めた時、自身の頬がいつも涙で濡れている理由を私は未だに理解できていない。

「起きてってば。ライブもう始まっちゃうよ」

 若干苛立ちと心配の入り混じった声を聞いて、私は身を起こした。視界に、ライブ衣装を着飾った城ヶ崎美美嘉と宮本フレデリカの両名が映り込む。起き抜けの寝ぼけた頭考える、ああそっか。今日はライブだっけか。出番はいつだっけ? 多分、もうすぐ。何の夢を見てたんだっけ? わかんない、覚えていない。

 涙で濡れた頬をぐしぐしと拭いて、私は起きたよーと返事をした。

「あっこら、そんなことして。メイク落ちじゃうじゃない。時間ないってのに」

 美嘉ちゃんがちょこっと怒りながらは時計をちらと見た。後ろにいるフレちゃんがくすくすと笑う。

「シキちゃん猫ちゃんみたいだね、起き抜けの」

「じゃあ次は伸びをした方がいいかな? にゃーって」

「馬鹿なこと言ってないで、しゃんとして。……で、調子の方はどうなの?」

「もちろん、バッチシ」

 そう言いながら、頭の中で状況を整理した。

 今日はライブだ、いつもの如くレイジー・レイジーによるライブの出番前だというのに、調整を間違えてしまった結果、貧血でぶっ倒れた。目も霞んでいる。心と体の同期が取れていない、そんな感じ。そう、だから調子はいつもと一緒だ。

 だから、平気。

 過程をすっ飛ばして結論だけそう言った後、スンスンと鼻をひくつかせると、湿っぽい匂いがした。

「あー、雨の匂いがするね」

「あれ? 今日の天気予報晴れだったはずなのに」

 美嘉ちゃんはスマホを取り出すと、天気予報を調べたのだろう、ぎゃーすと呟いた。

「最近、天気変だからねえ。もう春だってのに、なんか雪が降ったし」

「アメリカだっけ? 急に竜巻がきたらしいし」

「どっかで蝶が羽ばたいたのかな」

「あ、フレちゃんそれ知ってるよ。シュレディンガーの猫ちゃんの話だ」

「ご明察!」

「いや、違うでしょ」

 呆れ顔でつっこむ美嘉ちゃん。

 シュレンディンガーの猫。コペンハーゲン解釈を守るために発表された、シュレディンガーの論文内にある可哀想な猫の一節。ミクロとマクロの世界の間に明確な境がなく、境界を作ることが不可能であることを示したその内容は、いつしか名前だけが先行して誤解されたまま人々に膾炙した。よくある話。モデル実験とは人に真実を見せるための嘘であると言ったのは誰だっけ、忘れてしまった。

 フレちゃんは梅干しを食べたかのような難しそうな顔をしながらバッと手を挙げた。

「シキシキ先生質問です!」

「はいシキシキです。何ですか、フレフレちゃん」

「フレフレちゃんって何よ」

 美嘉ちゃんを無視して、フレちゃんは答えた。

「猫ちゃんは箱を開けて欲しいと思っているのでしょーか?」

「……どゆこと?」

 私が小首を傾げるとフレちゃんは、

「シュレディンガーの猫ちゃんは、箱を開けられなかったら生きているか死んでいるかわかんないでしょ? だったら、そのままそっとしておいて欲しいって、思わないのかな」

「どうして?」

「だって、箱を開けて、もしも猫ちゃんが死んじゃっていたら、その瞬間に猫ちゃんはみんなの記憶の中の思い出という名前の箱に入っちゃうけど。開けなかったら猫ちゃんが生きているのか死んでいるのか分からないから、みんなの頭の中でまだ生きていられるでしょ?」

「ペットの猫ちゃんが死際に、飼い主の元から姿をくらますのと同じように?」

「そう」

 違うのかな?

 そんな目で、フレちゃんは私をまっすぐ見つめてきた。

 私はそのキラキラと輝くエメラルドリーンの瞳から目を離せずにいた。

 フレちゃんは私と一緒にいる時たまに、ユーモアのかけらも探せないような発言をすることがあった。皆に天使の羽が平等に生えているって本当かな? 天国への門って本当に万人に開かれてるのかな? とかとか。そんな感じのことを、ライブ前は特に口にした。

「はいはい、禅問答はそのくらいにして。アタシはもうスタンバイ入るけど、アンタらも遅れるんじゃないわよ。あと、志希はステージに出る前にメイク直すこと」

「はーい」

 話を打ち切るように、美嘉ちゃんがそう言って部屋から出て行った。

「あ、じゃあフレちゃんも先行ってるから、シキちゃんも遅れず忘れずにきてね?」

 じゃあねー、あでゅー。

 そう言うとフレちゃんは美嘉ちゃんを追いかけるように部屋から飛び出して行った。

 

 控室に取り残された私は、早々にメイクを直し終えるとフレちゃん達の待つ舞台裏へ足早に移動した。ヒールの床を叩く音が廊下で反響し、頭が自然とクリアになる。歩いていると、ちょうど向こうのほうからプロデューサーがやってきた。

 声をかけようと思ったけれど、漂ってくる匂いがそれを拒否した。

 嫌な匂いだった、そしてその匂いを一度だけ嗅いだことがある気がした。

 はてさて、どこで嗅いだんだっけ。

 プロデューサーはすれ違い様に私に一言、「頑張れよ」と言った後、どこかに去っていった。

 

 私が舞台裏に辿り着くと、既にフレちゃんがスタンバっていた。 

「おっまったっせー」

 暗闇が支配する世界。舞台裏。舞台上では既に美嘉ちゃんが上がっているのだろう、ファンたちの歓声が響いてくる。

 私はその声を聞いて、一つ深呼吸をした。

 目を閉じる。じんわりと汗ばむ掌。

 逃避・闘争反応の結果、闘争反応が勝利しアドレナリンの急激な分泌によって心肺機能が強化される。

 万年貧血状態の私の体内では、数少ないヘモグロビンが必死になって全身の各細胞へ酸素の供給を行っている。

 バクバクと心臓がうるさいほど高鳴っていて、それが今この瞬間私がここで生きていることを証明してくれている。

 今日の私は、完璧にこなせる。人生で一番のパフォーマンスを出せる。

 何故だか、不思議とその自信があった。

 フレちゃんはどうなんだろう。

 そう思って彼女のことを見ると、いつもと変わらない様子でニコニコと笑っていた。フレちゃんらしい。

 

「レイジー・レイジー。カウント入ります。リフトアップ10秒前」

 スタッフからそう言われ、私はフレちゃんと共にポップアップにしゃがみ込んだ。

「9、8、7……」

 スタッフの秒読みが進む。

「6、5、4……」

 顔を見合わせると、フレちゃんがにっこりと笑った。

 フレちゃんの手をぎゅっと握りしめると、フレちゃんからも力強く握り返された。

「ねえ、シキちゃん」

「なあに、フレちゃん」

 フレちゃんは、いつもと同じ声色で口を開いた。

 今日の晩ご飯を決めるかのような適当さで。

「ユニット、今日で解散にしよ?」

 その言葉と共に、リフトが上昇する。

 ああ、そういえば。

 さっきの匂い、あの日のママと同じ香りだったな。

 そんなことを、ふと思い出した。

 

 

3/

 フランスでは、毎年一万二千人もの人々が蒸発しているんだそうだ。

 不思議だろう? あんな小さな国で、こんなにたくさんの人がいなくなるなんて。

 ライブの前日、プロデューサーはそんなことを言っていた。

 

 アメリカでのダッドとの二人暮らしは、憂鬱でもなければ退屈でもなかった。人並みに仲の良い家族だったと思う。

 とは言っても、別にべったり一緒にいたわけじゃなかった。

 ダッドは基本的に大学の研究室にいたし、それ以上に私の方がラボに篭っていた。寒天培地のシャーレのお守りをするために、寝袋に潜り込んで大学で一夜を明かすなんてことはよくあることだった。

 ともあれ、みんながどう思っているかは知らないけれど、この体も人並みに疲れたりするし、栄養も必要だし、社会性だって求める。

 そんなわけで、たまの休みの日にはダッドと二人で家で過ごすこともあった。

 ダッドは暇さえあればいつも机に向かっていた。家でも、そして大学でも。そんな研究バカなダッドだったけど、たまに新奇な趣味を見つけてハマることがあった。ママが生きていた頃はジャグリングにハマっていた(ちなみに私の方が早くジャグリングをマスターした)。私がアメリカにいた時はボンゴにハマっていた(ちなみにこれも私の方が早くマスターした)。ダッドは研究に煮詰まるとボンゴを叩くものだから、煩いったらありはしなかった。

 そして月日は流れ、別にボンゴの音に嫌気がさしたわけではないけれど、私はダッドのもとから去った。

 日本への帰国と、それに伴う高校への編入学。呆れるほどに退屈な試験をパスして、私は日本の高校に舞い戻った。一度辞めたガクセーセイカツというものへ戻ることに何の意味があるのか、正直なところ今でもわかっていない。当たり前の青春とやらに殉じたかったのだろうか。はたまた。

 私がフレちゃんと出会ったのは、そんな新生活に嫌気が差し始めていた頃のことだった。

 

「で、何があったの?」

 コーヒーカップをソーサーに静かに置いた後、気怠げに頬杖をつくと美嘉ちゃんはそう口を開いた。

 プロダクション内にあるカフェテリアはいつもは人で賑わっていると言うのに、今日に限っては閑散としていて、美嘉ちゃんの声がクリアに届いた。

「何って、何?」

「黄金コンビの解散宣言。なに、喧嘩でもした?」

 私は答えることなく、天井をぼうっと見上げた。天井についているサーキュレーターがくるくると回っていた。くるくる、くるくる。

 業を煮やしたのか、美嘉ちゃんは少し嫌味を込めて、

「ライブを大成功に収め、アタシを含めてあの日に出演したアイドル全てを圧倒するパフォーマンスでライブ会場を圧巻させた後で解散宣言なんて、前時代のアイドルでもやらないんじゃない?」

「予測不可能なはちゃめちゃコンビはいつも無軌道に動くのだから、この解散もまた起こり得る可能性の一つなのでした〜」

「こーゆー時は茶化さないの」

 そう言って、美嘉ちゃんは重いため息をついた。

 あの日、ライブが終わった後、私とフレちゃんはユニットの解散を宣言した。

 宣言した、と言っても何もライブ上でファンのみんなの前で公言するようなトンチキなことはせず、あくまでプロダクション内で打診した、というだけだ。私達らしく無いといったら、そうかもしれない。

「何があったのよ、言い出したのってフレデリカの方からなんでしょ?」

「……わかんない」

「……そっか」

 アンタが分からないんだったら、誰にもわかんないだろうね。と額に手をやって美嘉ちゃんは小さく首を振った。

 そういえば美嘉ちゃんが私のことをアンタと呼ぶ様になったのはいつからだっけ? 最初は志希ちゃんって呼んでくれていた気がする。それがいつしか志希になり、そして今ではアンタ呼ばわりに成り下がった。何が美嘉ちゃんをこんな風にしてしまったのだろうか。

 美嘉ちゃんは、あーあと呟いた後、コーヒーカップの縁を指でなぞりながら言った。

「こんな時、プロデューサーがいてくれたらな……」

「ね〜、私のプロデューサーらしいでしょ?」

「別にアンタだけのプロデューサーじゃないっての」

 何処行っちゃったんだろうなあ、と美嘉ちゃんは寂しそうにポツリとそう呟いた。

 

 私には、失踪癖というものがあった。あった、というか今もある。

 いつ、誰とも知れずにふといなくなりたくなる瞬間。ある時はレッスンの最中に、ある時は退屈な授業を受けている最中に、はたまたある時はライブの直前で。

 そんな時はいつも、みんなの前から姿を消した。誰にも言わずに、こっそりと。

 構って欲しかったわけじゃない。止めて欲しかったわけでもない。

 ただ、誰もいないところに行きたい気持ちになることが、たまにあるのだ。

 当て所なく彷徨って、意味もなくふらふらと歩いて、そして彷徨うことにも飽きた頃合いになると決まっていつもプロデューサーが迎えに来てくれた。

 そんなプロデューサーが失踪したのは、笑い話になるのだろうか。それとも。

 プロデューサー。

 彼は、プロデューサーだった。

 そんな彼がいなくなったのは、奇しくも私とフレちゃんの解散宣言と同じ日のこと。

 ライブが終わったその日、プロデューサーはふっとその姿を消した。何の前触れもなく。

 プロダクション内では大騒ぎとなった。私とフレちゃんのユニットはもちろんのこと、美嘉ちゃん、周子ちゃんと沢山のアイドルの面倒を見ていた人が消えたのだから、当然だ。

 幸いというべきか、彼のデスクには引き継ぎ資料なるものと整理されたディスクが置いてあったため、引き継いだアシスタントプロデューサーが暫定的に現場を回している状態だ。

 もしかしたら、彼はもう帰ってこないのかもしれない。

 もしもそうだとしたら、ちょっと寂しい。

 

「あ、シキちゃん」

 美嘉ちゃんとの会話を終えた私を待っていたのは、フレちゃんだった。

 フレちゃんは物いっぱい詰め込んだボストンバッグを抱えていた。

「フレちゃん……すんごい荷物だけど、どこかにいくの?」

「ううん、どこにも行かないよ?」

「そうなの?」

「どこか行けるところがあったら良かったんだけどねえ」

 そう言ってあははとフレちゃんは笑った。フレちゃんは、プロデューサーのことをどう思っていたのだろうか。

 私がそんなことを考えて黙りこくっていると、フレちゃんが口を開いた。

「ねえ、シキちゃん」

「なあに?」

「今週ね……お家に遊びに行っても良い……かな?」

「いいけど。どしたの?」

「やりたいことがあるんだ〜」

「なになに?」

「ええとね? パジャマパーティー」

「……パジャマ買っとかないと」

「えっ、シキちゃんパジャマないの?」

「ないけど?」

「えっ、じゃあじゃあ、ネグリジェは?」

「あるけど?」

「わ〜扇情的」

「フレちゃんこそパジャマはあるの?」

「ないよ?」

 

 フレちゃんとそんな約束をして数日がたったある日のこと。

 私はマンションの郵便受けに雑誌が投函されていることに気がついた。購読している物理学の学術雑誌だ。大学にいた頃はデータで読み放題だったけれど、今の身分ではポケットマネーを出さないといけないから世知辛い。

 手に取ってパラパラと捲る。今週は何か面白いものでも掲載されているだろうか。

 そう思って目を走らせていると、見知った名前が載っていた。ダッドの名前だ。

 今回は何を発表したのだろうか。ダッドの研究に進展でもあったのだろうか。

 そう思い、アブストラクトから最後までざっと読んで、そしてもう一度流し読みした。

「…………嘘」

 口を突いて言葉がでた。だって、そこに書いてある内容が本当ならば、ダッドは……。

 慌ててスマートフォンを取り出すと、久しく使われていない番号を呼び出した。+1から始まる国際番号、向こうは夜の11時くらいだ。

 10コールほどすると電話が通じ、息遣いが伝わった。

「もしもし、ダッド?」

「………………」

「……聞こえてる?」

「……ああ、志希。どうしたんだい、こんな時間に」

 久々に喋ったというのに、ダッドの声を聞いても懐かしいという感情は湧いてこなかった。代わりに、ダッドの息遣いから、哀愁が漂って来ていることを別にすれば。

「ダッドの論文、載ってたのを読んだの。それで……」

「ああ、そうか。もう掲載されていたんだった。忘れてたよ」

「ねえダッド、ホントなの? あの内容」

「……ああ、本当さ。査読に出してアクセプトされた。そのままだ」

「じゃあ……」

「反証がね、見つかったんだ」

「そっか」

「そうさ、ようやくこれで僕の研究は終わったんだ。自分が打ち立てた説の反証が見つかってしまった、という少しばかり不名誉な形だけどね」

 反証が見つかった。正確にいえば、自分で見つけた。

 自嘲気味に、ダッドはそう言った。

「星に寿命はあっても、宇宙に寿命なんてなかったんだ。ビッグ・クランチは起こらないし、世界は収縮しない。宇宙は狂ったように異常増殖する癌細胞のように、いつまでもいつまでもとめどなく膨張し続ける。時間の矢は逆転しないし、世界は元通りの形に戻ることもない。人類史が途切れたあとも、終わりなき膨張をいつまでもいつまでも続けるのさ」

 かける言葉が見当たらなかった。

 煎じ詰めれば、ダッドが言っていることは一つだ。

 ママが死んでから、ずっとずっと信じて研究してきた内容がボツになった。それだけ。

 それだけだ。

 現代科学に残っている問題は難しい問題しかない。簡単な問題は既に解き明かされてしまっている。テストで簡単な問題から潰していくように。

 だから今回のことだって、現代の科学者からしたらよくある話だった。

 ああ今回は残念だったね、それで次のテーマはもう決まったのかい?なんて風に。

 けれど、ダッドは……この研究だけに全てを捧げてきたのだから。

 私がへどもどしていたら、ダッドは今思い出したかのように口を開いた。

「ああ、そうだ。綺麗だったよ、志希」

「へ?」

「見に行ったのさ、志希のライブを」

「…………」

 嘘だ。

 すぐに思った。だって、ダッドは。ダッドは、パパは、今まで私に見向きもしなかったんだから。

 けど、パパの息遣いは、ほんとらしかった。

「ママにも見せてあげたかったな」

 そう言って、パパは黙り込んだ。

 ママ。パパの口からママの名前が出たのは、いつぶりだろうか。

 あの日以来、パパはママのことを口にするのを避け続けた。だから、多分。

「ねえパパ。パパにとって、ママってどんな人だったの?」

「どんなって?」

「ママって、普通の人だったんでしょ? なのにどうして、二人が一緒になったのかなって」

「なんだって!?」

「わっ」

 ダッドが大きな声をあげた。

「ママが普通? 誰がそんなことを!?」

「え? いや、誰ってわけじゃないけど……」

 私の記憶の中にいるママは、本を読んでお菓子を作る姿が印象的だった。パパとママがどう結びついたのか、想像することは難しかった。

 けど、パパは呆れたように答えた。

「ママはすごかったぞ。僕が散々頭をひねっていた計算をちょちょいのちょいとやってのけたからな」

「はい?」

「論文を書いていたら横から赤線を入れてくる、それがママだった。僕よりも多くを知っていた、博識だったよ。もしもママが普通にカテゴライズされるんだったら、世界はもう少しマシな形になってただろうさ」

 ガラガラガラガラガラ。

 私の頭の中で、ママ像が崩れ落ちる音がした。 

「今回の内容だって、ママがいたらもっと早くにこの結論にたどり着いていただろう。そしたら僕は余計な歳を取らずにすんで、代わりに世界のことをもうちょっと多く知ることができてただろうな」

「何それ、もしかしてパパ酔ってる?」

 そう言うと、パパは笑った。どうやら図星だったようだ。

「パパ、飲み過ぎはダメだよ。弱いんだから」

 

「志希、人は何かに縋らなければならない時があるんだ。それが信仰の対象であったり、あるいは人であったり、あるいは観念であったり。そしてはたまた樽の中で発酵した飲み物であったり」

「パパ、人はそれを逃避って呼ぶんだよ」

「あるいは希望と言うかもしれない」

「そんなの……希望なんかじゃない」

「……けど、何かに縋らないとダメな時もあるのさ」

 グラスを机に置く音が電話越しに聞こえた。

 そして、ああそうだとパパは言った。

「そういえば、前から聞いてみたかったことがあるんだ」

「なに?」

「なんで、分子生物学を専攻したんだ? もう少し化学寄りのものでも良かっただろう?」

「なんでって、それは……」

 口籠る。だってそれは、私のルーツだったから。

 今まで言語化してこなかった、ベールに隠した記憶。

 でも、今なら、

「……もしも、脳が本当に意識の座であるならば。たった1キログラム程度の臓器の中で起きている現象が、私と言うものを生み出しているのだとしたら。それを全て解き明かすことができたなら。全ての現象を記述することができたなら。いつか、たどり着けるんじゃないかなって思ってたんだ」

「何に?」

「ママに」

 聞いてみたかった、もう一度喋ってみたかった。

 ママに。

 私がそう言うと、パパはしばらく黙ったのち、大きな笑い声をあげた。

「何がおかしいの」

 私が怒気を込めて言うと、パパはすまんすまんと言いながら、咳払いをした。

「いや、カルテックであれだけ騒ぎを起こした志希にそんな想いがあったなんて、ってね」

「やめてよパパ、大学の話は。今はヒンコーホーセーで通ってるんだから」

「品行方正? 本当に?」

「そ。暇つぶしに金庫を破ったり、教授の部屋からドアを取っ払ったりした問題児の志希ちゃんはもういませ〜ん」

「なんだ、改心でもしたのかい?」

「だってパパ。私、これでも人の子だよ?」

「……そうさ。志希は人の子だよ。僕とママの、二人の子」

 パパはそう言うとカラカラと笑った。

「ああ、でも本当によかった」

「何が?」

「もしも志希がもっと高尚な物を求めていたらどうしようかと思っていたからね」

「高尚? 例えば?」

「そうだな……人生とは何か、とか。人はどこへ向かうのか、とかね」

「まさか、科学はそんな素敵な質問に回答を与えてはくれないよ」

「……そうだね」

 パパはそこで少し間を置いて、

「ああ、でも、叶うのならば……もう一度、僕の数式を正して欲しかった」

 全てを総括するかのように、静かにそう言った。

「……パパ」

「志希のおセンチにやられたのかもしれないな」

「そーゆー冷やかしはちょっとカチンとくるんだけどなぁ〜?」

「悪かった。……ちょっと疲れていたのかもしれないな」

「だったら今日はもう早く休んで、歳なんだし」

「まさか、研究者としては今が一番冴えてる時期だよ。でも……そうだな、ゆっくりしよう。少し疲れた、お休みを貰うとするさ」

「うん。そうした方がいいよ、パパ」

「ああ、そうさせて貰おう。志希も遅いんだから早く寝るんだぞ」

「パパ、こっちはまだ朝だよ」

「ああ、そうだった」

「じゃあおやすみ、パパ」

「ああ、じゃあまた。おやすみ、志希」

 そうやって、私は電話を切った。

 パパとの会話の名残、パパが証明してしまった論文のことを反芻しながら。

 

 そして翌日、私はパパの訃報を知らされた。

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