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ギフトという言葉は、二つの意味を持っていた。贈り物、そして毒。
旧約の神々は恣意的に人々を罰し、人々を救った。彼らに取って呪いと祝福は同義だった。
ギフテッド。
誰が呼び始めたのかは知らないけれど、とても本質をついた名前だと思う。
ギフテッドというのはしばしば天才と同義語で使われるけれど、その本質は全くもって異なっている。天才は当人の気分次第でその座から降りることができるけれど、ギフテッドには拒否権というものが最初から剥奪されているのだから。
贈り物というのは、誰も拒むことが出来ない。それを拒むということは、関係の断絶を意味する。かつてのクラ貿易と同じように。人は結局、構造主義の呪縛からまだ逃れられていない。
そして、贈り物を受け取った人物は、また別の誰かに贈り物をしなければならない。受け取ったものは誰かに与えないといけない。贈り物には贈り物を、返礼には返礼を。終わりなき贈与をいつまでもいつまでも繰り返すことで、世界は凍らずにいることができた。
ならば、ギフテッドにはどんな返礼を期待されているのだろうか?
パパの死は、なんの面白みのないものだった。
アメリカでは最もお手軽で、そして最も人気の高い手段、拳銃による自殺。
パパはいつ買ったのかも分からないガバメントを口にくわえて、脳天目掛けて一思いにトリガーを引いたのだという。死を確実にするために。
パパの遺体は棺に入れられて飛行機で日本に帰ってきた。
エンバーマーによって防腐処理されていたパパ。
魂というものがパパの体から抜け落ちた代わりに、体の中の血液という血液をホルムアルデヒドに置き換えられたパパの姿は、生前と変わらなく見えた。
ホルムアルデヒドの食欲増進効果によって、エンバーマーはパパの体の血液を防腐剤に置換する作業をしながら、冷蔵庫に入れているサンドウィッチを食べたいなとでも思ったのだろうか。
パパの願い通り、パパのお墓はママの横に据えられることになった。
宗教的シンボルマークのついていない、無味乾燥としたパパのお墓。
パパは無神論者だった。そのくせ、人は自分よりも上の存在がいることを願わずにいられるのだろうか?とたまに口をこぼしていた。
科学に人生の意義を求めるのは愚か者だと。科学は神様の見えざる手の軌跡をなぞることだけだと。
口癖のようにそう言っていたのは、もしかしたら自分に言い聞かせるためのものだったのかもしれない。
検死によってわかったのは、パパの海馬は著しく萎縮していたらしいということだ。どうでもいい話だ。
パパの死の知らせを受け取って早一週間が経った。
あの日以来、私は事務所に顔を出すことをやめた。仕事も全て放棄。ラジオも、テレビも、レッスンも、何もかもを放り投げた。
皆は怒っているだろうか。怒っているだろう、多分。何も言わずに事務所から立ち消えたのだから。
私以外誰もいない静かな自宅。時計が秒を刻む音だけが静寂の中で僅かに揺らめいていた。
ぶーん、ぶーん。とスマートフォンが震えた。
画面には、CALLINGという文字とともに城ヶ崎美嘉という名前が表示されていた。
あの日から、電話が鳴り止まない。
「ごめん、美嘉ちゃん……」
私は、スマホの電源を切った。
「あーあ……。天涯孤独になっちゃった」
私はソファに寝転がって、毛布に包まった。
目を閉じる。今は、ただただ眠っていたかった。
「パパー、どこなのー?」
家に帰ると誰もいなかった。いるはずのパパがどこにもいない。
私は焦燥感にかられながら、パパを探した。
リビングにベランダ、キッチンに書斎、納屋、そして屋根裏まで。
色んなところを探して探して探し尽くして。
そして、最後に探してないのは、バスルームだけになった。
「パパー?」
声をかけても返事がない。シャワーの音だけが無音を掻き消すように聞こえる。
私はバスルームのドアをそっと開ける。すると、そこには脳梁が壁にぶちまけられて血が天井からポタポタと垂れ落ち――
「――――――――」
声にならない声をあげて、私は目を覚ました。
まるで全力疾走した後のように、心臓はバクバクと音を立てる。
私は勢いよく身を起こして周囲を見渡し、自分がちゃんと自宅の寝室にいることを確認してほっと溜息をついた。
そして、乱れた呼吸を整えて速打つ鼓動が鎮まるのを待つと、寝汗でぐっしょりと濡れたシャツを脱ぎ捨てた。
「……シャワー浴びよ」
シャワーを浴び、濡れた髪をそのままに部屋着に着替えると、冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫の中にはミネラルウォーターのペットボトルだけが大量に詰め込まれていた。一本取り出して飲み干し、そしてソファにまた倒れ込んだ。
…………。
どれくらい経っただろう。
ピンポーン、ピンポーン、というインターホンの音で目が覚める。
薄ら目を開けて、時計を見た。まだ寝てから一時間も経っていなかった。インターホンは丁重に無視することにした。
暫くすると、またピンポーンとインターホンが鳴り響く。無視。
ピンポーン。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
「うるっさ……」
どうやらロビーからではなく、玄関から直接チャイムを鳴らしているらしい。
モニターを見ると、カメラが何かで覆われていて真っ暗になっていて、誰がいるのか分からない。
重い足取りで玄関に向かい、覗き窓を覗き込むと……。
フレちゃんがいた。
「やっほー、シキちゃん!」
玄関を開けると、手をぶんぶんと振りながらフレちゃんが立っていた。
「……フレちゃん? どうしてここに?」
そこまで言った、そう言えばこの間フレちゃんに住所を教えていたな、とふと思い出した。
フレちゃんはニコニコと笑みを浮かべながら、
「きちゃった! 志希ちゃん……パジャマパーティーしよ?」
「………………」
この家に人を招き入れたのは、今日が初めてのことだと思う。
「わー、シキちゃんのお家、ホントにおっきいんだね〜。わっなにこの紙の山!」
フレちゃんは家に入ると目をまん丸と大きく開けて驚きの声をあげた。
何を隠そうシキちゃんハウスは既に部屋の大半が色々とダメになっているのであった。
一昨年の冬のことだ。アメリカの大学から日本に戻ると決めた時、パパが面倒な諸手続きを全部やってくれた。その手続きの中に含まれていたのが高校への編入学と、そして東京へのお引越しだった。
どういう背景があったのかは分からないけれど、当時研究が佳境に入りミリ秒すら無駄にできない忙しいご身分なのにも関わらず、引越しの手続きを何から何まで面倒を見てくれた。
パパはたまにやり過ぎてしまうきらいがあった。
例えば、変わった地名だからという理由でロシアの僻地まで足を運んでみたり、思考のリソースを割くのが勿体ないからという理由でどんな高待遇を提示されようとカルテクから離れなかったり、形が良いからという理由で聞きもしないのにLPを大量に収集してしまったり、一人娘のために2LDKのマンションを購入してしまったり。
いつか一緒に住むかもしれないからとは本人談。カルテクから一生出るつもりのない人間が、どうやったら日本で私と一緒に住むという将来像を描けるのか、甚だ疑問だった。今はもう、起こり得ない話だけれど。
そして、住み始めてから一年少しで、部屋の大半が機能不全に陥っているのだから、やっぱり私には一人暮らしは向いていないのだろう。
「シキちゃーん、この紙の山ってなーに?」
「ろんぶ〜ん」
「シキちゃーん、あそこの段ボール箱はなんのため〜?」
「前買った試薬だったかな?」
「シキちゃーん、この機械って献血の〜?」
「いぐざくとり〜」
「すっごーい、このキッチン。ひろびろー! そしてピッカピカ! まるで新品みたい!」
「広義で言えば新品だね」
文字通り、一度も使ったことがないキッチンだ。
「シキちゃん、もしかしてご飯作らないの?」
「つくらないよ?」
「ホントに作らないの?」
「つくらないかも」
「ホントのホントに作らない?」
「つくらな〜い」
「そっか〜」
そんなこんなでプチルームツアーをフレちゃんとやっている最中。
ふと、体から自由が消えた。
急に重力に逆らえなくなり、膝から崩れ落ちる。壁にもたれかかってなんとか転ける事は避けた。
「シキちゃん!?」
普段出さないような声色で、フレちゃんが悲鳴のような声を上げた。
ああ、馬鹿な事。
よくないところを見られてしまった。
立ち上がろうとするも、視界が暗転する。世界が真っ暗闇だ。
目が見えない、目の前が真っ暗になる。
頭もぐらぐらする、激しい立ちくらみのように。気持ちが悪い。
気持ち悪さを飲み込む。
落ち着け、落ち着け、落ち着け。まずは深呼吸だ。
「シキちゃん! シキちゃん!」
「大丈夫」
ぺたりと、フレちゃんが私の頬に手を触れた。
「大丈夫、じゃない。顔が真っ青……」
「大丈夫だから、平気。ただの……貧血」
本当だ。貧血のせいで脳に十分な酸素が供給されず、酸欠状態に陥っているだけだ。
座り込んで呼吸を整えさえすれば、暫くすれば治る。
「シキちゃん……」
「ごめん、お水、ちょうだい……。平気だから。暫くしたら、治るから……」
「ねえ、シキちゃん」
「なあに、フレちゃん」
二人、毛布にくるまってソファで一緒になっていた。
テレビ画面にはフレちゃんが持ってきた映画が流れている。
画面の中ではちょうど、トム・クルーズが演じるネオが差し出された錠剤二つの中から赤い錠剤を選択して飲み込むところだった。どうしてフレちゃんがこの映画を選んで持ってきたのかは謎だ。
フレちゃんはそうだよね〜、と映画に相槌を打った後、
「シキちゃん、さっきみたいなのって、よくなるの?」
「ううん? ほんとたま〜に」
「そっかぁ」
あの後、暫くして私の体調は元に戻った。
少しばかりの栄養不足。思えばあの日からまともにご飯を食べていなかったから、それが祟ったのだと思う。
私はフレちゃんが淹れてくれた温かいコーヒーに口をつけた後、フレちゃんの肩にもたれかかった。
フレちゃんはそんな私のことを見やった後、
「ねえ、シキちゃん……何かあった?」
「何もないよ〜?」
「嘘ばっかり言っちゃって〜」
私たちは、視線を合わせることもなく、ただただテレビ画面を見つめていた。
「辛いことがあったんだったら、言って欲しかったな」
フレちゃんが、ポツリと言った。
フレちゃんはいつもそうだ、余計なことを背負い込もうとする。
言うか否か、迷う。だって、口にしたらたぶん、止まらなくなってしまうから。
それでも、言った。
「パパがね、死んだんだ」
フレちゃんが息を飲んだ。
「ショックはないんだ。なんて言うか……わかっていたことだったし。いつかこうなるって」
そう、ママが死んだあの日から、いつかこうなる事は分かっていた。
パパは強い人だった。だからあの日、自分自身についた小さな嘘に縛られ続けた。
ありえない理論を打ち立てて、起こりもしない現象を起こると信じ続けて。
「ねえフレちゃん、私ってなんなのかな」
「……なにが?」
「パパが死んだって聞いたときにね……ああやっぱりって、そう思ったんだ」
「………………」
「化学に飽きたなんて嘘っぱち。逃げたんだ、パパから」
「……シキちゃん」
「見てられなかった……。パパが、研究に没頭していた理由がわかっていたから」
なまじ研究者としての才があったから、パパは止まれなかった。嘘の理論を信じ続けた。
そして、とうとう止まる日がやってきてしまった。それだけ。まるで、冷たい方程式だ。
「壊れてるのかな、やっぱ」
そう言って、掌を見つめた。
いつもと同じ、私の掌。熱い血潮が流れているはずなのに、こんなにひんやりとしているのは心が凍ってしまったからだろうか。
フレちゃんは私の髪をそっと撫でた。
「シキちゃんは……壊れてないよ。人の心を理解できないわけでも、人の心を支配したがる怖い心を持ってるわけでもないもん」
「……じゃあ、なんだっていうの」
「うーん、ジャンキー?」
流石に吹きだした。
「ジャンキーって」
「だってシキちゃんって……憧れてるでしょ?」
「何に?」
「普通に」
今度は、私が息を飲む番だった。
「シキちゃんは、普通に、焦がれてる」
「それは……」
「シュレディンガーの猫ちゃんの話をしたときのこと、覚えてる?」
「……うん」
「あの時ね、シキちゃんもそうなんじゃないかなって思ったんだ」
「私が?」
「飽きちゃったから、どこかに行っちゃう。みんなそう思っているけれど、本当なのかなって。本当は、開けて欲しくなくって、開けられるのが恐くって。それで、いなくなっちゃうんじゃないかなって。シキちゃんの失踪癖って、そういうものなんじゃないかなって。ずっと思ってたんだ」
「フレちゃん……」
「シキちゃん、一回も言ったことなかったもんね。辛いとか、苦しいとか」
カチンコチンに固めた心。一度解いて仕舞えば、無防備な私が晒される。
「シキちゃんっていっつもそうだったもんね。自由気ままなんて嘘。みんなのこと、ずっと考えて、そして一人で抱え込んでたもんね」
「ーーーーーーッ」
私は、フレちゃんに抱きついて、感情の制御を放棄した。
「志希ちゃんのパパは、どんな人だったの?」
涙で体がカラカラになっちゃうまで泣いた後、私はコップ一杯のお水を飲んで、そしてまたフレちゃんにもたれかかっていた。
「研究ばっかりしてる、研究馬鹿だったよ。あと、ママにデレデレ。私にもデレデレ」
「研究? どんなこと?」
「……むかーしね、有名な物理学者がこんなことを発表したの。『世界は巻き戻る』って」
「巻き戻る……?」
フレちゃんはキョトンとした顔で、私が言った言葉を反芻するように繰り返した。
「そう。巻き戻る。フレちゃん、知ってる? 宇宙って膨張してるの」
「聞いたことあるよ、ゆっくり膨らんでるんでしょ?」
「そう。宇宙はゆーっくりだけど膨張してるの」
「発酵している生地みたいだね〜」
「そうだね。でもね人に寿命があるように、宇宙にも限界があるの」
「限界?」
「そう、限界。膨らんで膨らんで膨らみ続けると、ある時パチンと弾けるの。膨らみすぎた風船のように」
そこまで言って、私はフレちゃんを見やった。
フレちゃんのエメラルドグリーンの瞳がこれでもかというほど大きく拡大されていた。それは、興味と集中を意味する身体シグナル。人は好きな物を見るときに瞳孔が大きくなり、みたくない物を見る時は瞳孔が小さくなる。どれだけ訓練しようとも、この作用を変える事はできない。
フレちゃんは言葉を選ぶように言った。
「弾けちゃったらどうなるの……?」
「元に全部戻るの」
フレちゃんがハッとした。
パパが追い求めていた理論、サイクリック宇宙論。ビッグバンとビッグクランチ 、始まりと終わりが永遠に繰り返される宇宙論。
「破裂した宇宙は、力が働いて、初期の状態に戻るんだ。全部戻る、元あった状態に。まるで、時間の向きが逆転したみたいに、時間が巻戻るの」
「ロマンチックだねえ」
「そうだね。ま、その説は否定されちゃったんだけどね」
「……そっかぁ」
追い求めた果てに得た答え、それがパパに終止符を打った。
私は卓上に置いていた雑誌に手を伸ばした。
パパの遺した論文。
あの日から、ずっと目を背けていた。
手にとって眺めみる。
「あれ……」
パパらしい無駄のない文章だった。オッカムの剃刀のように、洗練された内容。
結論に至るまでの内容、何一つおかしい部分はない。
だというのに、なぜか違和感を感じた。
何か変だ。
しこりのようなものを覚える。この感覚を私は覚えている。研究していた頃、幾度となく感じた事があるトリガー。
「違う、これ……」
「シキちゃん……?」
口をついて出た言葉。
そう、この内容は何かがおかしい。この論文は致命的な何かを有している。
けれども通しで何度読んでも、その違和感の原因を掴み取れない。
私は書斎に移動すると、机にノートを開いた。
それは、私の癖のようなモノだ。昔からそうだった。
証明した内容を、頭から全部手計算でやり直す。
そうするとたまに、何かが起こる。
私はパパの論文と睨めっこしながら、ノートに数式を書き殴った。
「わっ、こんな時間……」
気づけば、翌朝になっていた。
ふと机の上を見ると、いつ置いてあったか分からないけれど、おうどんが置いてあった。ちょっと冷めている。
お腹が空いていたのでササっと啜った。
「うーん、わっかんない」
暫く経って、また計算に躓いた。長らく数式から離れていた私の頭には、少し難しいらしい。でもパパが使っている計算パラメータに間違いがない事は確信できた。では、何が?
煮えた頭を冷やすがてら、arXivで関連資料を漁る。そういえばパパの論文はAltmetricでハイスコアを叩き出しているようだった。
気づくと卓上にスダチうどんが置いてあったので啜る。
「あー、無理無理もう無理」
開いていた学術書を閉じて本棚に押し込んだ。本棚は雑然としている、読めるのであれば言語毎に整列させる必要はない。
ペンをくるりと回して、もう一度数式と睨めっこをする。
カボスうどんがあったので啜る。
「ダメー、やっぱダメー」
ずっと、数式をなぞっていた。
柚子うどんがあったので啜る。
「あ〜〜〜〜〜〜」
カボスうどんがまたあったので啜った。
「おうどんになっちゃう! 体が!」
叫びながら部屋を飛び出すと、小麦粉をよいしょよいしょと捏ねるフレちゃんがいた。
「なにしてるの?」
「あ、シキちゃん久しぶりー。おうどん作ってるんだー」
一仕事終えたと言わんばかりに、ふ〜と息を吐いてフレちゃんは和かに笑った。
「ありがと、フレちゃん。おいしかったよ。でももう、おうどんはいいかな……」
「え〜、そう? じゃあこれはパンにしちゃおっかなあ」
うどんのために作っていた生地をパンに流用ってできるのかな?
作ったことが無かったので分からなかった。でもフレちゃんが出来ると言うなら出来るのだろう。
「シキちゃん、捗ってる?」
フレちゃんはよいしょよいしょと生地を捏ねながら聞いてきた。
「ううん、全然。あともうちょっとな気がするんだけどねえ」
「そっかぁ」
「パパとは分野が違ったからねえ」
「ノートとか取ってないの?」
「え?」
「シキちゃんのパパさんも学者サンでしょ? 何か記録とかないのかな〜って」
盲点だった。
なんでそのことを見落としていたんだろう。
そうだ、パパも私と同じように、最後には必ずノートで手計算をやっていた。もしもそれを辿れば……。
でも、そのためにはまずアメリカに行かないといけない。パパと私が住んでいた、あの家。パパがもういなくなってしまった、あの家に。
気づくと、手が震えていた。
そんな私の手を、フレちゃんはそっと優しく握って、
「いきなよ、シキちゃん」
やらないといけないことがあるんでしょ?
そう言って、私の背を押してくれた。
「はいはい、外は寒いよー。ちゃんと、いっぱい着込まないと」
「にゃはは」
昨日、早々に航空券を取った私は、すぐに旅立つ準備をした。と言っても、バックパックに必需品を突っ込んだだけなので準備というほどでも無かった。
マフラー、帽子、手袋、マフラー、ダウンコート、マフラー。
たくさんたくさん着込んでもこもこになった私は、フレちゃんと向き合った。
「シキちゃんがいない間は〜、フレちゃんにおっまかせ〜。帰ってくるまでに〜、シキちゃんのお家をレスキューしておきまーす!」
「えー? そんな言うほどだったかな?」
「え……?」
フレちゃんがドン引きしたのを見るのは初めてだった。どうやらそんな言うほどだったらしい。
「じゃあシキちゃん、行ってらっしゃい」
「はーい、行ってきまーす。またね、フレちゃん」
私は、そう言ってフレちゃんを残し、家を後にした。
外に出ると、雪が降っていた。いや、そんな生優しいものではない、吹雪だった。
春だというのに季節外れの記録的な大雪が降り始めたのは確か一週間そこいら前からのこと。最初は降ったり降らなかったりだったけれど、ここ数日は急に降雪量が多くなった。
あっという間に雪が降り積もり、雪の除雪も間に合っていないようで、道路はもとより交通機関も一部麻痺していた。
専門家も首を傾げ、先日のアメリカのハリケーンと相まって異常気象が起きているのではと毒にも薬にもならない見解を発表していた。
私は転けないよう気をつけながら最寄り駅まで移動する。
移動にも時間がかかり、駅に着く頃には体は凍えるほど冷えていた。
そしてようやくのことでたどり着いた後、駅の電光掲示板を見上げ、ああと嘆息する。
やはりというか、列車は一部見合わせ状態、駅で暫く待たないといけないようだった。
こんなことなら、日付をずらすべきだっただろうか。いや、でも1日でも早く家に行きたかった。
私は売店でコーヒーを買って啜りつつ時間を潰した。
どれだけ待っただろうか、一向に列車が動く気配はない。
そも、飛行機ももしかしたら飛んでないかもしれない。
そういえばと、私はスマートフォンの電源を入れた。
あの日から、ずっと電源を入れないまま放り投げていたスマートフォン、起動した途端、壊れたかのようにヴーンヴーンと唸りを上げた。
「わおっ」
夥しいほどの着信履歴が連なっていた。奏ちゃん、周子ちゃん、ちひろさん、それからそれから。数えるのも馬鹿らしくなるほどの履歴を見て、さしもの私もドキリとした拍子、ちょうど電話が掛かってきた。
電話の主は……美嘉ちゃんだった。
一瞬迷ったのち、画面をタップした。
「はーい、もしもし?」
「バカ! あんた、今どこほっつき歩いてんのよ!」
開口一番、耳が痛くなるほどの罵声を浴びせられた。
「すっごく、心配したんだから! はぁ……」
「ごめんごめん」
それから、美嘉ちゃんはこの世で形容できるありとあらゆる言葉を使って、私が美嘉ちゃんをどれだけ心配させたかを教えてくれた。
「だからごめんってばー」
「はー、もう……あんたもフレデリカも、いなくなって。アンタ達って、アンタ達って……! 本当に、人を心配させるのが得意なんだから……」
安堵の念の籠った言葉が美嘉ちゃんから吐き出された。ほぅというため息と共に。
けれど、引っかかるワードがあった。
「フレちゃんも?」
「そうよ、あんたとフレデリカ。二人とも、事務所には顔を出さないし、連絡つかないし……はぁぁぁぁぁ」
「フレちゃんに……連絡がつかなかった?」
「え? ……今、一緒にいるんじゃないの?」
「さっきまではいたけど……美嘉ちゃん、いつからフレちゃんに会ってないの?」
「あんたが来なくなった日と同じ日よ。それから連絡も一切つかなくて……だから、てっきりプロデューサーの件があったからって」
背筋がゾッとした。
ふと思い出す、フレちゃんの言動を。
フレちゃんは家にいる時、事務所のことを一言も発しなかった。
それどころか、自分のことを何一つ語ろうとはしなかった。常に、私の言葉を聞いていた。普段はあんなに饒舌に、自身のことを面白おかしく喋るのに。
自分のことに手一杯で、見落としていた要素がふいに浮上する。
そもそも何故ユニット解散をフレちゃんは言ってきた?
そして何故その日にプロデューサーは姿を消した?
どうしてフレちゃんは事務所に顔を出さなくなった?
散らばったピースがパチリパチリと、ジクソーパズルを組み上げるように折り重なっていく。
「志希? 志希……? ねえ志希、ちょっと聞いてんの? ちょっと志希!?」
胸の奥が、ひどくざわついた。
私は踵を返して帰路についた。雪はより激しくなり、移動するにも時間がかかった。
家にたどり着く。何故か、酷く心臓が速打っていた。
ドアを開けると、出た時同様にフレちゃんの靴がそこにあった。少なくともフレちゃんは家にいるらしい。
「ただいま〜、フレちゃん。ちょっと忘れ物しちゃったー」
わざとらしいほど高い声が自分の口から出た。
けれども、返事がない。
部屋は驚くほど冷え切っていて、そして静かだった。
「……フレちゃーん。どこいるの?」
リビングに行く。姿がない。
「ん……」
周囲を見渡す。朝飲みかけのコーヒーカップ、真っ暗なテレビ、読みかけのペーパーバック、焼かれることなく生地の状態で放ったらかしのマドレーヌ。何故か割れているワイン瓶。そして……。
机の上に、乱雑に置かれた薬の束があった。
楕円形の白い錠剤が無造作に卓上に置かれている。キャプトリクスと書かれている。少なくとも、これは私のものではない。
一錠だけが卓上に残っている。まるで飲もうとして、やめたような。
その横に、手紙のようなものが置いてあった。メッセージカードのようだ。
私は恐る恐る手にとると、それをゆっくりと開く。
そこには、慣れ親しんだ筆跡で、こう書かれていた。
「……Je hais les voyages et les explorateurs」
私は、旅と探検家が嫌いだ。
フランス語は専門外だけれども、訳が頭の中にふっと浮かんだ。筆跡は、よく知っている。でも、どうして……。だって、喋れないって言っていたじゃないか。
私が思考の海に潜っていると、ふと思考を遮るノイズが聞こえた。
ノイズが走っているかのように、さーっという音が聞こえる。雨音?
いや、これは雨ではない。
シャワーの音だ。
ああ、そうだ。この家の中で、まだ探していないところがあった。
「フレちゃーん?」
バスルームに向かうと、電気がついていた。
けれど、声をかけても返事がない。シャワーの音だけが無音を掻き消すように聞こえる。
ドアを開けようとしたその時、つん、と血の匂いが鼻をついた。
開けるなと、脳内で何かがガンガンと警鐘を鳴らした。
手が、震える。
いつだったか、フレちゃんが言ったあの言葉がリフレインする。
『シュレディンガーの猫ちゃんって、箱を開けて欲しいのかな?』
喉がカラカラになる。嫌な予感が、背筋を伝う。
私は一つ深呼吸をし、ドアに手をかけてそっと開けて、
「____やめてよ、そういうの」
手首から血をダクダクと流す、鮮血にまみれたフレちゃんが、そこにいた。