一ノ瀬志希に花束を   作:hatibe

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ラストノート

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 イマジナリーフレンド。

 知能の正規分布から外れてしまった少女は、天才児のご多分に漏れず、大人すら引くような夥しい量の書物と、空想上の女の子が友達だった。

 艶やかな金髪で、キラキラと輝くエメラルドグリーンの瞳をもった、可愛い可愛いお友達が。

 少女はその子のことをフレちゃんと名付けた。フレンドのフレちゃん。今思えば、なんとも安直な名付けだった。けれども、少なくともその名前は喜ばれたようだった。

 実体を持たない空想上の彼女は、いつも少女と一緒だった。ハイキングにお風呂、勉強をしてる時もいつも一緒。ママが作ったマドレーヌをこっそり食べた時も、パパの書斎に黙って忍び込んだ時も、ママのお葬式の日の時も、いつも一緒だった。

 けれども、ある日、ある時、脈絡なく彼女は少女の前から姿を消した。

 少女はわんわんと泣きながら、近所の公園や家を探し回った。

 けれども彼女はどこにもいなかった。

 それからずっと少女は……私は、彼女のことを探し続けていた。

 

「フレちゃん……フレちゃん!」

 私はフレちゃんに駆け寄ると、体を揺すった。反応がない。

 シャワーを止めて血の出どころを探す。

 出血箇所はすぐに見つかった。右手首。ああ、くそ。自傷でどうしてそこまで深く。

 手首からは今もなお黒くテラテラとした血が流れ出ていた。急いでタオルを被せると止血のために強く握った。

 正しい処置をしなければならない。ある種の確信を持って、そう言えた。

 私は止血を行いながら、救急へ電話する。

「はい、こちらは消防です。火事ですか、救急ですか」

「女の子が! 出血多量で瀕死の状態です!」

 救急への連絡は、確認作業に他ならない。

 住所の確認、容態の確認、意識の確認、呼吸の確認、緊急処置の確認。

 確認に次ぐ確認ののち、電話口からは「これから救急車が向かいます」との答えがあった。

 電話口から指示される内容に従って、止血作業を進める。

 作業を続けても、フレちゃんは目立った反応をしなかった。顔は真っ青で、恐ろしく冷たい。けれど、息はあった。

 なら大丈夫。大丈夫なはずだ。

「大丈夫……大丈夫……」

 自分に言い聞かせるようにそう呟いた。

 大丈夫だって? 何を根拠に?

 自身の掌をみやる。手が、フレちゃんの血で真っ赤に染まっていた。 

_______人は20%の血液を失うと失血死へのカウントダウンが始まる。

 頭の中で理論が自動的に組み上がっていく。いつ何のために仕入れたのかも分からない分断された知識が、タペストリーのように配列される。

 日本の救急は電話から約8分30秒後には現場に到着する。そして病院への収容時間は約40分。即ち、そこまでを繋ぎ止めておかなければならない。

 リストカットで死ぬ確率はそこまで高いものではない、というのは動脈を切らずに浅くカットした場合の定説だ。風呂場で血圧の高い状態で動脈を切った場合は死ぬ確率は飛躍的に上がる。真横に切れば、自動的に接合面が接着されて出血量は自然と減る。けれど、斜めに切った場合は話が別だ。

 人一倍臆病なのに、思い切りのいい子だった。動脈をすっぱりと切る程度には。

 

 電話口のオペレーターから、フレちゃんを必ず暖めて救急車の到着を待っておくようにと告げられ、私はフレちゃんを風呂場から引きずり出してベッドまで運んだ。

 フレちゃんの体を丁寧に拭いて、ありったけの毛布を持ってきて包み込む。

 そこまでしても、フレちゃんの体はまだ冷たかった。

 青ざめたフレちゃんの首筋に手をやる、脈は速く、そして浅く弱い。

 ____顔面蒼白、弱拍速脈。

 だから?

 ____呼吸不全に陥っており、浅く早い呼吸をしている。

 つまり?

 ____15%以上の血液が既に体外へと流出している可能性が高い。

 止血はできた。完全とは言わないが、出血量は目に見えて減った。

 けれども体外に出たものを戻す事はできない。フレちゃんの体は未だに酸素を欲していて、浅い息を何度もしている。

 今、フレちゃんの体の中では出血をトリガーに死のトロッコが作られつつある。

 出血によって体内のヘモグロビンが減少すると体全体への酸素供給能力が著しく低下する。酸素がなくなれば、体内では酸素を利用する代謝ができなくなり、苦肉の策として酸素を使わない代謝が行われるようになる。それはつまり、乳酸が体内で蓄積することを意味する。乳酸は血液を酸性にし、そしてそれが止血を阻害する。止血がうまく行かないと、更に血液が体外に流れ出て、血液はより酸性に傾く。

 出血による体温の低下、酸性に傾いた血液、止血のために凝固因子を消費したことによって起こる凝固障害。

 ありとあらゆる現象が、フレちゃんの体を今まさに攻撃していた。

 死神の鎌は刻一刻と近づいていて、フレちゃんの首を刈り取るために磨き上げられている状態だった。

 

「遅い……!」

 既に、救急に連絡してから10分以上が経過していた。

 やれることはもう、無い。

 ただ、早く到着するよう祈ることしかできやしない。

 祈る? 何に?

 私は、窓の外を見た。 

「ありえない……」

 そこには、身も凍るような寒空と、異常としか言えない吹雪が荒れ巻いていた。

 救急がすぐ来ない理由をようやく悟る。

 大雪による交通網の麻痺。救急が来るのは気が遠くなるほど遅いだろう。

 じゃあどうすればいい? 担いで行く? 車ですら走れるか危ういこのこの雪の中で? 低体温で既に危ういフレちゃんを?

 手を拱いていれば、フレちゃんは時間の経過と共に死に近づく。死ななくても、重篤な障害が残る可能性が高い。

 最悪のシナリオが頭をよぎった瞬間、ふいに脳裏に映像が浮かび上がる。

『志希ちゃんは、私の希望だから』

 フラッシュバックする、こんな時に。

「もっともっと話したいことがあったのに……!」

 病室で、私に微笑んでくれたママ。

 あの日、車椅子に乗ってバスルームに一人向かったママの姿。

「もっともっと今の私を見て欲しかったのに……!」

『ああ、そうだ。綺麗だったよ、志希』

 電話越しに、優しい息遣いが伝わってきたパパ。

 あの日、拳銃を持って頭を撃ち抜いたパパの姿。

「どうしてみんな、そんな形で私の中に残ろうとするの……」

 やめてよ、そんな形で私の記憶に残ろうとなんてしないでよ。

「お願いだから、私の前で死なないでよ。私の記憶の中に、そんな形で残ろうとなんてしないでよ……!」

 私を置いて行かないでよ。

 辛いことを一人で抱えこまないでよ。苦しかったんだったらそう言ってよ。

 縋り付く。フレちゃんは私のことを認識すら出来ていないはずだ。

「世界のどこかにキミがいるってだけで、それだけで私はよかったのに」

 フレちゃんと出会ってから私は、孤独との付き合い方を忘れてしまった。

 孤独は私を傷つけなかったのに。

「嫌だよ……フレちゃんのいない世界は。私をもう、一人にしないで……」

 あの、孤独な荒野を彷徨う日々は、もうこりごりだ。

 

 涙を拭く。頬がフレちゃんの血でベットリとしたした。私の手はフレちゃんの血で真っ赤になっていた。まるで、自分の血のような。

「………………そうだ」

 ふと、気づく。

 それの存在に。

『シキちゃーん、あそこの段ボール箱はなんのため〜?』

『前買った試薬だったかな?』

『シキちゃーん、この機械って献血の〜?』

『いぐざくとり〜』

 私は転がるように物置部屋に走ると、目当てのものを探し出した。

 まだ、やれることが一つだけ残っていた。

 

 私には、誰にも言えていない秘密があった。プロデューサーにも、フレちゃんにも。

 誰にも言えていない私だけの秘密。

 自己血輸血。万年貧血状態の私が、レッスンすらままならない私が、万全の状態でステージに立つための唯一の方法。一ノ瀬志希という偶像を祭り上げるために、一つだけついた大きな嘘。

 私がみんなのことを謀った、偽りの証拠。

 みんながこのことを知ったら、私に幻滅するのかな。

 血液の抜き方も入れ方も知っている。散々やった。O型の全血輸血、異型輸血の中ではマシな部類だけど、リスクはある。

 でも、やらないと、きっと後悔することになると、私の中で何かが叫んでいた。後悔? 時系列がずれている。思考上のスクリプトエラーだ、無視。

 アルコールを腕に瓶ごとぶっかける。

「ごめんね、フレちゃん」

 私の全てを捧げても、無駄かもしれない。

 けれど、

「フレちゃんに何があったのかも、フレちゃんがどんな気持ちだったのかも、どんなに苦しいのかも、私には分からない」

 歪に強くなっちゃったから。

 辛いことがたくさんたくさん募っちゃったから。

「けどね、私はそれを許さない」

 私は、それを、実行した。

 

 脈が異常な速度で速打っている。

 二つ目の血液バッグを点滴スタンドに吊り下げ、フレちゃんへの輸血を再開した後、私はふらりとベッドに倒れ込んだ。危うくフレちゃんを潰しそうになった。危ない危ない。

 体から血液が大量に消失したことにより、体全体が酸素不足に陥っていてろくに機能していない。心臓がポンプの機能を果たそうと狂ったように速打っている。少し、うるさいなって思った。

 汗も異常なまでに流れている。

 フレちゃんを見る。フレちゃんは未だ青ざめてはいたけれど、さっきと比べたら少しはマシになっていた。

 

 良かった。

 気が抜けた瞬間、意識を手放しそうになる。堪える。

 フレちゃんが横にいた。頬を撫でる、温かい。

「ねえフレちゃん、私ね? キミと、もっと遊んでいたい」

「トップアイドル、二人で張り続けていたい」

「他愛のない話で、笑い転げていたい」

 キミと、キミと、キミと、キミと。

 たくさんたくさん、いろんなことをやってみたい。 

 ああ、畜生。

 なんで今更、こんなことに気づいてしまったんだろう。

 一ノ瀬志希という少女は、心なんて持たなければよかった。他者を必要としない、別の何かに生まれるべきだった。そうすれば、こんな気持ちにならなくて済んだのに。

 昔は、生まれ変わったら、猫になりたいなって思ってた。にゃーにゃーと鳴いて、ご飯を食べて、外に出たくなったら家からふっといなくなって、外に飽きたらまた家に戻る。そんな猫。きらくでしょ?

 けど、最近は、人間がいいかなって思えるようになった。

 目眩と、目眩と。

 朦朧とする意識。

 そして、次第に、視界がゆっくりと暗くなっていく。目蓋が重い。

「フレちゃん、今度は、世界を二人占めしようよ」

 今の言葉、ちゃんと口に出せてたのかな。わからない。聞こえない。

 意識が薄くなっていく。

 ぼんやりとした意識の中、私は。

 フレちゃんに、手を、。

「あ__________」

 

 

 

6/

 

 ピッピッピッピ。

 規則正しい電子音が耳を打つ。

 その音で、彼女は目を覚ました。

 彼女はゆっくりと身を起こそうとし、身体に痛みが走り起きるのをやめた。

 ここはどこだろうか。

 彼女は周囲を見渡し、そこが病室であることを知った。

「ああ……」

 そして彼女は、宮本フレデリカは目を覚ました。

 

「美嘉ちゃん、奏ちゃん……」

 目を覚まして数日が経った。検査に次ぐ検査が行われ、ようやく解放され一人になったフレデリカのもとに、二名の見舞い客がやってきた。

 城ヶ崎美嘉と、速水奏だった。

 何かを言おうとしたフレデリカを制するように、つかつかと歩み寄ると城ヶ崎美嘉は宮本フレデリカの胸ぐらを掴んだ。

「ちょっと、美嘉!」

 奏の制止を無視して、美嘉は表情を変えずに淡々と告げた。

「その様子だたとアンタ、あの日何が起きたか、まだ誰からも聞いてないでしょ?」

 教えてあげる、感情を押し殺して、美嘉は告げた。

 

「今から17日前、一人の少女から救急に対して連絡があった。出血多量による瀕死の少女が一名いる、と」

 フレデリカが目を白黒とさせる中、美嘉は再び口を開いた。

 機械のように、声のトーンが一定だった。

「雪の日だった。記録的な、季節外れの大雪の日。停電と、吹雪と、交通網の乱れ。条件は最悪だった。救急隊員が現場に駆けつけたのは、連絡からおよそ53分後のことだった」

 美嘉の説明は事務的で、淡々としていた。まるで彼女自身が、その説明を何度も何度も聞いたかのように。

「現場に駆けつけた救急隊員は二人の少女を発見した。二人とも、意識はなかった。

 一人の少女は右手首に裂傷があり、脈拍が低かったことからリストカットを試みたと判断された。

 そして、もう一人の少女には目立った外傷がなく、けれども脈拍低下と意識不明が確認された。

 机上には抗うつ剤を大量に使用した形跡があったことから、大量服薬による急性中毒と推定された。

 ……奇妙な点があるとすれば、リストカットした少女には既に輸血が施されていたということ」

「え……」

「二人の少女はその後病院へと搬送された。

 リストカットを行った出血多量の少女は救急車両内でクロスマッチを行い、B型であることがわかった。

 そして、出所不明の血液バッグも同様に検査され、中身はO型の全血であることがわかった。

 リストカットをした少女は搬送された病院で緊急輸血を施され、奇跡的に命を取り留めた。そして、二週間後に目を覚ました」

 その言葉が、自身のことを差していることを察したフレデリカは、乾いた口で次の言葉を紡いだ。

「……二人って、どういうこと」

「言葉通り、二人いたの」

「じゃあもう一人の……女の子は」

「もう一人の少女は急性中毒と判断後、医師による血液検査が行われたけど結果は全てポジティブ。原因不明の重体とされた。けれど、医師はすぐに、少女の左腕に注射痕があることを発見した」

「待って」

「そしてそのあと、輸血バッグに入っている血液とその少女の血液が一致することがわかった。

このことから、少女による緊急輸血が行われたと判断された」

「待って!」

 遮るように、宮本フレデリカは大きな声を発した。

「志希ちゃんは……どこ」

 乾いた口で、その言葉を紡ぐ。

 美嘉は目を閉じた。それが自身の感情を押し殺しているのか、あるいは何かを想起しているのか。

 美嘉は、暫くしたあと口を開いた。

「いないよ。……もういないの、あの子は」

 全身から、力が抜けた。

「アンタがいつからそうだったのか、アタシには興味がないし、知らないし知りたくもない」

 けど、と前置きをして、美嘉は言った。

「……次やったら、その時はアンタを一生許さない」

 

 奏と美嘉が病室を出ていった後、残された宮本フレデリカは一人、ベッドの上で身を起こし窓の外をぼんやりと眺めていた。満開の桜が咲く、窓の外を。

 

 幸いなことに、出血性ショックによる後遺症は、何一つなかった。異型輸血による副作用も感染症もなかった。

 輸血速度は通常の倍近くでされていたと想定され、溶血により重篤な後遺症が起きてもおかしくはなかった、と医師は言う。

 けれども、せいぜい残った傷といえば、深く切り込んだ手首の傷痕のみ。

 まるで奇跡だ、と医師は言った。

 それから、何日も過ぎた。

 フレデリカは毎日、病室のドアを見ていた。

 一ノ瀬志希という少女は、「いやー、びっくりびっくり! お互い死に損なっちゃったね~!」なんて言いながら、病室のドアを開けるのだ。そういう女の子のはずだ。

 なのに、なのに。

 何日待っても、何日待っても。

 一ノ瀬志希は現れなかった。

 

 夜、宮本フレデリカは一人、病院を抜け出し街を駆けた。

 走る、走る、走る。

 志希がいた場所を走る。

――レッスンルーム。彼女はよくそこにいた。練習なんてつまんないと言いながら、影でよくやっていた。でも、もうそこにはいない。

 走る。完治していない右手首がズキズキと痛んだ。

 それでも、宮本フレデリカは走る。

――事務所の屋上。彼女は嫌なことがあるとよくレッスン抜け出して屋上にいた。空を見上げ、何をするでもなく。あの時、志希は何を考えていたのだろうか?

 心臓が痛い。呼吸をする度に体中が痛む。それでも、走る。止まったら、砕けてしまいそうだから。

――公園。彼女は通りすがりの公園でよく子供たちの輪に入って遊んでいた。子供と遊ぶ姿は、とても楽しそうで。まるで、志希自身が子供になったかのようで。

 

 部屋は、埃を被っていた。

 病院を抜け出した宮本フレデリカは、最後に志希の家を訪れた。

 警察が以前来ていたのだろう、黄色いテープの貼り後がドアの縁に残っていた。

 部屋の中はガランとしていた。

 誰もいない。家主のいない家。志希の家は、ついこの間まで温かかった。けれど、今は物音一つしない無音の世界、時が止まったかのようで。冷え切っていた。

 冷蔵庫を開けると、飲みかけのコーヒーが置いてあった。カビがコロニーを形成している。

 フレデリカは部屋を歩き回った。何か痕跡があると信じて。

 親族が片付けたのだろうか、部屋は綺麗に片付いていた。志希の痕跡らしきものは、何も残っていなかった。

 それでもフレデリカは探して探して、探し尽くして。

 そして、見つけた。

「……あ」

 CDラックに見覚えのないCDケースが置いてあった。

 開けてみると、紙切れが一枚落ちる。

 フレちゃんへ。ただ、それだけが書かれていた。

 震える手で、宮本フレデリカはCDを取り出した。

 CDの表面には、プルーストエフェクトとだけ書かれていた。

 簡単な伴奏。レコーディングはこの家でやったのだろう。まともな機材で収録していないから、音質も良くはなかった。

 身動ぎ一つせず、宮本フレデリカはその曲に耳を傾けた。

 そして、曲は終わり宮本フレデリカは、一人泣き崩れた。

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