大広間に戻ると、驚くことに人数が四分の一ほど減っていた。
空席は退学者なのか、それともまだ集まっていないだけなのか。
凛は入口で足を止め、室内を見渡した。
「あ、凛!」
紀ノ国がこちらに気づき、立ち上がった。
近づいてきた彼女は、凛と一色を順に見て、少し肩の力を抜く。
「二人とも合格したのね」
「ええ。寧々も?」
「何とかね」
そう言いながら、紀ノ国は空いた椅子へ目を向けた。
「私のところ、何人か戻ってこなかったわ」
「……そう」
凛もその視線を追った。
最初の課題を聞いてから、まだ二時間も経っていない。
その間に荷物をまとめ、ここを去った者がいる。
自分も食材の前で立ち尽くしていた。
一色に声をかけられなければ、何を出していただろう。
「尾崎ちゃん!」
考えかけたところへ、久我の声が飛んできた。
手を上げて近づいてきた彼は、凛の顔を見るなり足を緩める。
「……何かあった?」
「どうして?」
「来た時と顔違うじゃん!」
凛は自分の頬へ手を当てた。ぺたぺたと触るその隣で一色が笑った。
「美味しいものを食べたんだよね」
「……そうね」
「へー!何作ったの?」
凛が答えようとした時、入口の方で物音がした。
一人の生徒が、大きな鞄を肩にかけて廊下を歩いていく。
大広間には入ってこない。
久我がそちらを見た。
紀ノ国も、途中まで開きかけていた口を閉じた。
生徒の姿は、そのまま入口の向こうへ消えた。
「……座ろうか」
一色に促され、凛たちは空いている席へ向かった。
凛は腰を下ろしてから、もう一度入口を見る。
次に誰かが戻ってきたら、1つ席をズレて座ろうか、なんて話もした。
全員そう思って待っていたが、それから入口の扉が開くことはなかった。
◇
凛の大きなキャリーケースや、紀ノ国たちの荷物もここで全て回収され、どうやら係の人が部屋に置いてくれるらしい。とはいえ、自分たちの部屋がどこかも知らないのだが。
そして、大広間では次の課題が言い渡された。
壇上に立つ堂島が、「次の課題は二人一組で行ってもらう」と宣言した。
「組み合わせはこちらで指定する。掲示された名前を確認し、速やかに移動すること」
同時に、前方へ大きい掲示板が置かれる。残った生徒たちの名前がずらりと書かれる中、自分の名前を見つけ、その隣を読む。
ーー叡山枝津也
場所はこのホテルではなく、別の場所へバス移動するらしい。詳細が書かれていないので少し不安だ。
「叡山?よりにもよってなんで…」
凛の隣で紀ノ国が訝しんだ顔を向ける。
その反応で、ようやく朝ぶつかった人か、と気付いた。
「行ってくる。また後で」
凛は掲示板から紀ノ国へと視線を移した。
また後で。それはお互い必ず生き残ることが前提の言葉だった。
二人は軽い握手をしたあと、手を振って大広間を後にする。
ペアの叡山が一体どんな人間で、どんな料理を作るのかは分からないが。朝の様子を見るからに、あまりいい印象は持たなかった。
◇
バスに乗りこんで移動すること、十五分ほど。
到着したのは、先ほどのホテルよりも小さな建物だった。
入口の脇には、本日の昼食メニューが掲示されている。
窓の向こうにはテーブルが並び、従業員が食器を置いて回っていた。
「ここ、レストランなのね」
凛の独り言に、隣を歩く叡山は答えなかった。
バスの中でも、一言も話していない。
空いている席へ隣同士で座りはしたが、叡山は資料を眺め、凛は窓の外を見ていた。
建物を見る凛の隣で、叡山が手元の名簿から顔を上げる。
「尾崎凛……」
確かめるように名前を読み、凛を上から下まで眺めた。
それから、口の端を吊り上げる。
「お前が、あの“氷結の女王”か」
凛は返事をしなかった。
叡山は構わず、鼻で笑う。
「大層な呼び名の割に、今朝は随分あっさり転がってたな」
「貴方がぶつかったからでしょう」
「邪魔な場所に突っ立ってっからだろ」
悪びれる様子はなかった。
凛はしばらく彼を見つめたあと、入口へ視線を移した。
案内の係が生徒たちを裏口からレストランへと案内する。更衣室で着替えを済ませたあと、中に入ると見た目よりも広いフロアと厨房、そして昼時だからか満杯のお客さんたち。
厨房からは、肉を焼く音と短い指示が絶え間なく聞こえてきた。
出来上がった皿を従業員が受け取り、入れ替わりに注文の伝票が差し込まれる。
凛はその動きを目で追った。
「こっちです。通路は空けてください」
案内されたのは、営業用の厨房に隣接した調理スペースだった。
並んだ調理台には、それぞれ二人分の器具が用意されている。
「時間がないので、すぐに説明します」
講師が用紙を配りながら言った。
「皆さんには、この後来店する五十名分の昼食を、一組ずつ担当してもらいます。主菜と付け合わせを一皿にまとめ、指定された時間に提供してください」
叡山は用紙を受け取ると、すぐに目を走らせた。
「使える食材と価格は、その一覧のとおり。予算内で必要な量を申告すること。申告後の変更は認めません」
「客は全員、同じものを食うんですか」
叡山が聞いた。
「ええ。今回は団体予約のお客様です。食物アレルギーなどの情報も用紙に記載しています。必ず確認してください」
凛も手元を見た。
料理を出す時刻まで、四十分。
その前に試食用の一皿を提出し、提供してよいか判断を受けるらしい。
「味、原価、提供までの段取りを審査します。二人とも合格とは限りませんので、自分が何を担当したか説明できるように」
隣の組で、小さく息を呑む音がした。
凛は厨房へ目を向けた。
自分たちの説明が続く間にも、料理は次々と運ばれていく。
客は、試験が終わるまで待ってくれない。
「では、始めてください」
声と同時に、叡山がペンを取った。
「鶏肉。付け合わせはジャガイモとニンジンでいく」
「調理法は?」
「来る時間に合わせてまとめてオープン。最後リソレ。ソースはまとめて仕込む」
凛が用紙を覗くと、既に分量と金額が書き込まれていた。
必要な数を計算する手が、一度も止まらない。
「……早いのね」
「こんなもんで時間使ってどうすんだよ」
叡山は答えながら、合計額へ線を引いた。
「お前は肉をやれ。焼くくらいできんだろ」
「ええ。皮を香ばしくしたいから、ソースは下に敷くか、別に添えたい」
「何でもいい。盛りつけに手間かけんなよ」
凛は一覧へ視線を落とした。
「レモンも使いたい」
「予算見ろ」
「見てるわ。だから、相談してるの」
叡山のペンが止まった。
凛は彼の書いた数字を指す。
「付け合わせの量は減らさずに、こっちの規格へ替えられない? 切って使うなら、形は揃ってなくてもいいでしょう」
叡山は一覧を見直した。
単価を確かめ、数字を一つ消す。
「……切り揃える分、仕込みは増えるぞ」
「間に合わせる」
「言ったな」
用紙が凛の方へ押し戻された。
「レモンは二個。それ以上は出ねえ」
「十分よ」
凛は用紙を受け取り、残りの予算を確かめた。
「貴方、こういう課題は得意なのね」
「今さら気づいたかよ」
「料理は?」
叡山が顔を上げた。
凛はまっすぐ彼を見ていた。
煽っている様子はない。それがかえって、癪に障った。
「……食えば分かんだろ」
凛の口元が、わずかに緩む。
「じゃあ、ソースはお願いしてもいい?」
叡山は彼女を一瞥し、ペンを置いた。
「肉、焦がすなよ。女王様」
「貴方こそ、味見はさせて」
二人はそれぞれ、食材を受け取りに向かった。
団体客とは言えど、提供される料理の味にばらつきが出てはいけない。基本的なレシピは守りつつ、どう美味しく作るか。そして、今回の課題で重要になったのは"原価"だった。
店で提供する以上、料理は商品であり、原価は経営するにおいて最も大事だ。金がなければ食材も買えない。
だが、安く済ませるだけなら誰にでもできる。
この値段で、また食べたいと思わせるものを出す。そのために、どこへ金と手間をかけるのか。
叡山は、迷わず数字を並べていた。
凛は受け取った野菜を調理台へ置く。
大きさも形も揃っていない。けれど、切ってしまえば同じことだ。
包丁を入れ、火の通りが揃う厚さに切り分ける。
その傍らで、叡山が鍋を火にかけた。
「切り落とし、こっちに寄越せ」
「ソースに使うの?」
「ああ。皮だけ厚く剥いて捨てんなよ」
「分かってる」
凛は使える部分を小さな容器へまとめ、彼の側へ押し出した。
肉の下処理へ移る。筋を切り、一枚ずつ状態を確かめた後、厚さを揃えていく。
叡山の手が、一瞬止まった。
先ほどまで山になっていた野菜が、もうバットへ収まっている。
切り口を見れば、雑に急いだわけでもない。
「……早えな」
「時間、ないでしょう」
凛は顔を上げずに答えた。
叡山は時計を見て、自分の作業へ戻った。
彼女が肉と野菜の準備を進める間に、ソースを仕上げる。そこまでは予定どおりだ。
ただ、凛は一度も作業の順番を聞いてこなかった。
必要な場所を空け、使い終えた器具はすぐに下げる。
叡山が鍋を移そうとした時には、既に鍋敷きが置かれていた。
「厨房には慣れてんのか」
「幼い頃から立っていたもの」
「親父の店か」
「ええ」
短い返事のあと、凛が鼻先をわずかに動かす。
「……そろそろ?」
「何が」
「ソース。味見してもいい?」
叡山は鍋を見る。
ちょうど、煮詰める火を弱めようとしていたところだった。
無言で小皿へ取り分け、差し出す。
凛は少量を口へ運んだ。
もう一度、鍋へ目を向ける。
「ん、美味しい」
叡山は返事をしなかった。
「でも、肉と合わせてから味を決めたい。もう少しバルサミコ酢使える?」
「そのつもりだ」
「そう。よかった」
凛は小皿を置き、レモンを手に取った。
「皮はここに入れたいの。全部じゃなくて、最後に少し」
「酸味は?」
「付け合わせに。肉を食べたあと、もう一口欲しくなるように」
叡山は、彼女の用意したバットを見た。
見栄えのために欲しがったのだと思っていた。
だが、二個のレモンには、既に使い道が決まっている。
「……先に言えよ」
「聞いてくれなかったでしょう」
凛はそう返し、肉の状態を確かめた。
叡山は舌打ちしたが、今度は背を向けなかった。
「仕上げ、どう回すつもりだ」
凛が顔を上げる。
二人の間へ、手順を書いた用紙が置かれた。
「なるべく差が出ないようにレシピの通りやるつもり。でも…美味しすぎて出せないかもね」
凛は冗談ぽく笑う。その顔を見て、叡山は手が止まった。
「…お前、冗談とか言うんだな」
「ごめん、ちょっと楽しくて」
叡山は凛を見たまま、眉を寄せた。
「遊びに来てんじゃねえぞ」
「分かってる。ちゃんと五十人分、出すわ」
凛は用紙へ視線を戻した。
「私が肉を仕上げるから、貴方に盛りつけをお願いしたい。付け合わせとソースを先に用意して、肉が焼けた順に渡す」
「一度に全部仕上げんなよ。出せねえ分が冷める」
「ええ。客席の様子を見て、何皿ずつ出すか教えて」
「……分かった」
叡山が用紙へ書き足す。
凛はその間に、試食用の皿を温め始めた。
さっき笑っていた顔は、もう調理へ向いている。
けれど、口元にはまだ少し笑みが残っていた。
「何がそんなに楽しいんだよ」
聞いてから、余計なことを言ったと思った。
凛は肉から目を離さず、答える。
「貴方のソース、美味しかったから」
「……は?」
「これと合わせたらどうなるか、早く食べてみたい」
叡山は黙った。
凛は彼の反応を確かめることもなく、焼けた肉を取り出す。その姿が何故か輝いて見えた。
肉を少し休ませて切り分け、ソースと合わせた一口を小皿へ載せた。
「味見、お願い」
差し出された皿を受け取り、叡山は口へ運ぶ。
皮が軽く割れた。
香ばしさのあとから肉汁が広がり、自分が作ったソースと重なる。
塩は、これ以上足さなくていい。
鍋だけで味を決めていたら、少し強くしていたかもしれない。
「……これでいくぞ」
凛は自分でも一口食べ、頷いた。
そして試食用の一皿を仕上げていく。
叡山も隣で、提供に使う皿を数え始めた。
◇
試食審査と昼食の提供を終えた頃には
試食が提供できるレベルに達せず、帰らされた組が3組。
提供スピードが間に合わない組が2組。
そして6組中ーー合格、1組。
「最後の皿、出ます」
凛が声をかけると、叡山が皿の縁を確かめ、従業員へ渡した。
五十皿目だった。
空になった作業台を見て、凛は息を吐く。
隣では叡山が時計を確認していた。
「……間に合ったな」
「ええ」
途中、叡山は何度も客席の状況を確かめた。
皿を運べる人数と速さを見ながら、凛へ仕上げる数を伝える。
凛もその指示に合わせて手を動かした。
急かされても焼く時間は縮めず、代わりに別の作業を先へ回す。叡山が次の皿を用意する頃には、肉が仕上がっていた。
「二人とも、こちらへ」
講師に呼ばれ、凛と叡山は顔を上げた。
提出した原価表と作業記録が、机に並んでいる。
「予算内。提供時間も厳守。試食で確認した仕上がりを、最後まで維持できていました」
凛は隣を見た。
叡山は講師の言葉を聞いたまま、表情を変えない。
「尾崎さん。仕上げの判断は?」
「私です。提供する数と順番は、叡山くんに見てもらいました」
「叡山くんは、調理も担当しましたか」
「ソース。それと、肉を焼いてる間の付け合わせの仕上げです」
講師は記録へ目を落とし、頷いた。
「二人とも合格です」
この会場に集められた六組のうち、試食審査を通過できなかったのが三組。提供が間に合わなかったのが二組。
最後まで課題をこなしたのは、凛と叡山の一組だけだった。
凛の肩から、少し力が抜けた。
「ありがとうございます」
頭を下げてから客席を見ると、ちょうど最後に運んだ料理へナイフを入れる人がいた。
一口食べ、向かいの相手へ何か話しかける。
相手も頷き、自分の皿から肉を切り分けた。
凛はしばらく、その様子を見ていた。
「何してんだ。片づけんぞ」
叡山に言われ、厨房へ向き直る。
「ねぇ」
「あ?」
「謝ってくれない?」
叡山の手が止まった。
「何を」
「朝、ぶつかったこと。私が転んだあとも、邪魔だって言ったでしょう」
凛は淡々と言った。
それを今言うのか、と叡山は顔をしかめる。
「まだ根に持ってんのかよ」
「謝ってもらってないもの」
少しの間、二人とも動かなかった。
めんどくせぇ、と叡山は悪態をつく。
隣の厨房から、皿の触れ合う音が聞こえた。
「……試験は終わっただろ」
「試験の話はしてない」
凛は彼を見た。
「今日、一緒に料理できたのは楽しかったし、ソースも美味しかった。でも、それと朝のことは別でしょう」
叡山は口を開きかけ、閉じた。
褒めるなら褒める。
怒っているなら怒る。
どちらかにすればいいものを、凛は両方を同じ顔で言う。
「……悪かったよ」
凛が瞬きをした。
「聞こえたろ。二度も言わせんな」
「ええ。ありがとう」
あっさり頷かれ、叡山はかえって居心地が悪くなった。
凛はもう、使い終えた器具へ手を伸ばしている。
「そっちは私が洗う。調味料、戻してくれる?」
「……指図すんな」
「じゃあ、洗う方がいい?」
叡山は返事の代わりに、調味料の容器をまとめて持ち上げた。