基準に満たなかったものは追加課題を行う、そう聞こえてきたのは結果発表の後だった。
「文句のつけ所がないくらいに、君には完敗だったな」
ーー投票1位、尾崎凛。一色は何度もその事実を噛み締めた。
昨夜の試作の時点で、フレンチではなく和食を選んだ時から彼の中ではそれがどう転ぶのか、楽しみだった。
一色は自分の汗を拭いて凛を見る。視線に気づいた凛は、首を傾げて見つめ返した。
「一色?」
「はは、こんなに楽しかったのは久しぶりだなぁ。…君の目指す先が気になるね」
「私の目指す先?」
凛はその言葉を繰り返した。
一色が頷くと、少し考えてから口を開く。
「……まだ、分からない」
「そうなのかい」
「作ってみたいものも、食べてみたいものも沢山あるし……一つ試すと、また増えるから」
困ったように言う割に、その声は楽しそうだった。
「でも、今やりたいことなら決まってる」
一色は汗を拭いていた手を下ろした。
「聞いても?」
「司先輩に、もう一度会いたいの」
その名前に、一色の表情がわずかに変わる。
凛はそれに気づき、言葉を足した。
「今度は、ちゃんと自分で完成させた料理を持って」
「……食べてもらうんだね」
「ええ。それから、先輩の料理も食べる」
一色は小さく息を吐いた。
あの調理室で、皿を前に立ち尽くしていた姿を覚えている。
その彼女が、自分からもう一度会いに行こうとしている。
「それは、いいね」
凛は頷いた。
けれど、話はそこで終わらなかった。
「だから食戟を申し込もうと思うの」
一色の手が止まる。
「……司先輩に?」
「ええ」
返事は静かだった。
久我に勝負を求められた時、彼女は受けなかった。
勝ち負けのために料理をしているわけではないと、そう言っていた。
その凛が、自分から。
「十傑の席を?」
「席はいらないわ。同じ食材で、一皿ずつ作ってみたいの」
凛は自分の手を見下ろした。
「また助言をもらいに行ったら、きっと答えを待ってしまう。でも今は、私が選んだものを食べてほしいから」
一色はしばらく黙っていた。
止める理由を探したわけではない。
ただ、凛の言葉を聞きながら、自分は何を賭けて彼女と向き合えるだろうと考えていた。
「……申し込む時は、僕にも教えてくれるかい」
凛が顔を上げる。
「寧々にも、同じことを言われた」
「おや。先を越されてしまったね」
一色は笑った。
「でも、応援するだけでは済まなくなりそうだ」
「どうして?」
今朝の順位を、もう一度思い出す。
投票2位。一色慧。
柄にもなく楽しくなって本気を出した今日。悔しくないわけがなかった。
「君の目指す先を、隣で見たいと思ってね」
凛は瞬きをした。
「ふ、貴方も作れば」
あまりにも当然のように返され、一色は一瞬黙った。
それから、ゆっくり頷く。
「うん。そうしよう」
◇
それからの数日は、目まぐるしく過ぎていった。
毎日朝から厨房へ立ち、課題を終えれば次の説明を聞く。
部屋へ戻る頃には、本を開く余力もない。あれだけ詰めてきた本の大半は、キャリーケースの中に収まったままだった。
「結局、持ってきただけじゃない」
「……帰りのバスで読むわ」
紀ノ国にそう返した翌日、宿泊研修は最終日を迎えた。
「終わった……」
最後の厨房を出たところで、凛は壁へ背を預けた。
隣の紀ノ国も、何も言わずに眼鏡を外す。
廊下には、同じ課題を終えた生徒たちがいた。
その場へしゃがみ込む者もいれば、友人と肩を叩き合う者もいる。
凛は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「凛」
「……何?」
「ちゃんと、二人とも残ったわね」
顔を向けると、紀ノ国がこちらを見ていた。
出発した日のことを思い出す。
一緒に帰りたいと言った。自分がなんとかするとも。
けれど結局、紀ノ国に手を貸す余裕など、ほとんどなかった。
それぞれの厨房で、それぞれが合格を掴んでここまで来た。
「ええ」
凛が笑うと、紀ノ国も少しだけ口元を緩めた。
「帰ったら、まず寝たいかも……」
「私も。今日はもう何も考えたくない……」
「本はどうするの?」
「明日読む」
紀ノ国が吹き出した。
その時、廊下の向こうから声がして会話が終わる。
「凛」
振り向くと、誠二が立っていた。
調理服の袖をまくり、片手に鍵を持っている。
「少し来い」
「今?」
「ああ。厨房、一つ借りてある」
凛は壁から背を離した。
「……また課題?」
「研修の課題は終わりだ」
誠二は答え、鍵を指にかけ直した。
「合宿が終わって生き残れたら、もう一度食わせろって言っただろ」
凛の表情が変わった。
紀ノ国を振り返る。
彼女は眼鏡をかけ直し、小さく頷いた。
「先に戻ってるわ」
「……ありがとう」
凛は父のもとへ歩いていった。
「何作るか、決まってんのか」
並んで歩きながら尋ねられ、頷く。
「お楽しみ」
今度は、迷わなかった。
厨房へついてからは早かった。予め用意された食材を見ながら迷わず手に取る。
誠二は腕を組みながらそれを見た。
迷いのない動作は、以前極星寮で見た凛の姿とはまるで別人だった。
「……もう、何も迷いはないんだな」
誠二の言葉に、凛はふっ、と笑う。
「ええ、ちゃんと自分の料理が分かったから」
凛は誠二を見ない。見るのは自身の手元だけ。
食材に向き合う姿を見て、誠二は目を細める
「お前、十傑は目指さねえのか」
「またそれ?」
凛は呆れたように言う、もう散々聞いた言葉だった。
十傑。肩書きに興味はない、そう言い続けてきた。
「将来どんな料理人になりたいか、考えてるか」
「お父さんのお店で働きたいと思ってる、お父さんみたいなシェフになりたい」
「そうだな……」
誠二は一度言葉を止めてから、ゆっくり続けた。
「2日目の朝、四宮小次郎が来た。お前の料理を食ったあと、俺に言ったんだよ。凛が欲しいって」
四宮小次郎。名前だけは凛も知らないはずがなかった。フレンチをやっていればいやでも耳に入る名前。
あの課題の列の中、いたのだ。まだ会ったことは無いが、その彼が食べて、うちに欲しいと言った。それがどれだけ大きなことか。
「私の実力を認めてくれたんだ」
「俺はそれを聞いて、絶対やらんぞって思ったんだけどよ……」
誠二はまた言葉を止める。自分の中でどう言おうか迷っているようだった。
「この宿泊研修の中で成長するお前を見てたら、それすらももったいないんじゃないかって思った」
「お父さん」
もっと広い世界を見てほしい。誠二はそう言った。
ずっと父の背中だけを追い続けてきた凛にとって、それはどうしたらいいか分からなかった。目標であった父が、ここをゴールにするなと、そういったのだ。
「自分の料理を見つけたお前なら、その先にも行けるはずだ。俺はお前が羽ばたく姿を見たい」
凛は火を止めた。丁度完成した料理を盛り付けていく。
誠二の言葉に返事はしなかった。
「……これは」
少しして、凛が皿を誠二の前に置くと、料理を一瞥したあと見上げる。
凛が提供したのは、研修前に誠二へ出したものと同じ鴨肉のコンフィだった。
「仕込みの時間もない中でどうやってこれを」
「ここについてすぐ鴨肉を漬け込んだ。ジップロックにいれることで時短になるし、ジップロックのまま低温で茹でることで、先に火を通すことで肉は柔らかく、味は染み込んで短時間でできる」
誠二は笑った。それはバカにする笑いじゃなく、思わず溢れ出た笑いだった。
時短、か。誠二は目を瞑る。
「いただこう」
研修が終わったらもう一度食べさせてみろ。あの時からどれだけ変わったのか、誠二はゆっくりナイフを当てる。
ぱり、と音を立てて皮が割れる。その後から肉汁が少し漏れ出て食欲を唆る。
まずはソースをつけずに一口。
「ッッッ!!!」
口に入れた瞬間に広がるのは天使のように羽ばたく鴨たち。
どうしてなのか、涙が流れる。
誠二は凛を見て、やっとの思いで口を開いた。
「……俺の背中を追いかけ続けるのはもうやめろ」
「え?」
凛は誠二を見た。困惑した表情だった。
「……お父さんみたいになりたかったの」
小さく言った声が、悲しそうに聞こえた。
誠二は頷く。
「知ってる。嬉しかったよ」
もう一切れ、鴨肉を切り分ける。
「でも、俺と同じになったら、俺がまだ食ったことのねえ料理は誰が作ってくれるんだ」
凛は父を見た。
誠二は笑っていた。
幼い頃、料理を食べて美味しいと言った時と、同じ顔だ。
「お前の料理が食いたいんだよ、凛」
凛はしばらく、言葉が出なかった。
「……お前自身がどうしたいか、答えはここに出てる。そんな料理だな」
そして最後に、美味いよ。素直に一言そう言った。
「……うん」
凛は考えた後に返事をした。
きっと、凛自身はまだ分かっていないんだろう。だが、出されたものを食べた瞬間誠二には分かった。
肩書きには興味がない、勝ち負けにも興味がない、そんな娘が今何を思い何を夢に見ているのか_____