極星寮に来て、と尾崎に言われたのは勝負を挑んだ日から1週間後のことだった。
食戟を断られ、尾崎の作った料理を食べるだけならと言われたあの日。久我はずっと考えていた。
「どうしたらオレと勝負してくれるんだ…」
食戟を受けないと言われただけなのに、あの日久我には食戟を"受けるまでもない"と言われたように聞こえた。
負けるのが怖いから断った、なんて都合のいい考えは浮かばなかった。
あの時の尾崎は、久我の実力を探ろうとすらしていなかったからだ。
それが、どうにも気に入らない。
「……ま、食えば分かるっしょ」
どれほどの料理を作るのか。
自分の舌で確かめてから、もう一度申し込めばいい。
そう考えながら、久我は目の前の建物を見上げた。
「ここが極星寮……?」
想像していたより、随分と年季が入っている。
本当にここなのかと玄関先で立ち止まっていると、内側から扉が開いた。
「来たの」
顔を出した尾崎は、制服の上からエプロンを着けていた。
「そりゃ来るでしょ。尾崎ちゃんからのお誘いだし?」
「……入って」
軽口には答えず、尾崎はさっさと廊下を歩いていく。
久我はその背中を追いかけた。
「やあ」
厨房へ入ろうとしたところで、声をかけられた。
振り向けば、一色が片手を上げている。
「……なんで一色がいんの?」
「僕の住んでいる寮だからね」
「いや、そーいうことじゃなくて」
一色はにこやかに笑うと、尾崎へ視線を向けた。
「今日は久我くんに料理を振る舞うんだって?」
「……一皿だけ」
「いいなあ。僕の分は?」
「ない」
即答されても、一色は気にした様子もなかった。そのまま二人と一緒に厨房へ入ってくる。
「一色ちん、暇なの?」
「少しね。見学しても?」
「オレに聞かれても。尾崎ちゃんが作るんだし」
尾崎は既に手を洗い始めていた。
二人の会話を聞いているのかいないのか、袖を上げながら短く答える。
「邪魔しないなら」
「だってさ」
一色は久我の隣に立ち、楽しそうに調理台を眺めた。
「……何ニヤニヤしてんの」
「いや。君が彼女の料理を食べたがっていると聞いてね」
「食戟断られたから、食うだけで我慢してやってんの」
そう答えると、一色は久我の顔を見た。
その笑みが、ほんの少し深くなる。
「そうか。それなら、今日はゆっくり味わえるね」
何か含みのある言い方だった。
久我が聞き返す前に、尾崎が冷蔵庫を閉める。
取り出した食材を調理台へ並べる彼女へ、一色の視線が移った。
「……ちゃんと食わせてもらうよ」
久我もその手元へ目を向けた。
食べ終わったあと、同じことが言えるのか。
そんな一色の考えまでは、知る由もなかった。
尾崎の作業は恐ろしく早く、そして丁寧だった。
あっという間に、まな板の上には切り分けられた魚。
小鍋からは、白ワインらしい酸味のある香りがする。
「魚?」
「真鯛。貴方、嫌いなものは」
「ないよ。何でも食べる」
「そう」
短い返事とともに、尾崎は魚の表面に布を当てた。
久我は厨房の隅に腰を下ろし、その手元を眺める。
塩を振る。フライパンを温める。皮目から魚を置く。
特別変わった工程ではない。
「丁寧、というか…綺麗だな」
特に普通の工程なのに、その手際に美しさを覚える。料理というか、芸術だ。久我はごくり、と唾を飲んだ。
「彼女の料理は、作る工程も含めて美しいんだ。僕はこれを見るのが好きでね」
「いつも邪魔なの」
一色が久我に言うのを聞き、尾崎は親指で一色を指さした。
そんな軽口を叩きながらも、尾崎は必要な時だけ魚に触れ、小鍋へ視線を移した。火を弱め、バターを少しずつ加えていく。
その間も魚を気にする様子はない。
けれど、久我がそろそろだと思った時には、もう尾崎の手が動いていた。
皿へソースを敷く。
魚を置き、付け合わせを添える。
「ーーどうぞ」
目の前に出されたのは、拍子抜けするほど端正な一皿だった。
「へえ……」
皮は薄く、均一に色づいている。
ナイフを入れると、軽い音を立てて割れた。その下の身はしっとりとして、刃に押されて潰れることもない。
ソースを絡め、口へ運ぶ。
久我の手が止まった。
「っ!?」
先に感じたのは、皮の香ばしさだった。
続いて、ほどけた身から鯛の甘みが広がる。そこへバターのコクが重なるのに、重くならない。酸味が次の一口を誘い、飲み込んだ後には魚の旨味が残った。
思わず、もう一度皿を見る。
バターも、白ワインも、使ったことのない食材ではない。
作っているところだって、最初から見ていた。
なのに、想像していた味とは違った。
「……何か、入れた?」
「何を?」
「ソースに」
舌に残る、微かな刺激。
久我は眉を寄せ、もう一度ソースを舐めた。
覚えのある香りだった。
けれど、その名前を口にするより先に、尾崎が答えた。
「花椒。よく知ってると思うけど」
「は、花椒?なんでソースに…」
知っている。
何度も使ってきた。香りも、舌に残る痺れも。
それなのに、すぐには分からなかった
「少し刺激が欲しかったの。貴方が中華を得意にしてるのも聞いたから。それで」
久我が顔を上げた。
「……オレに合わせたってこと?」
「苦手ではないと思って」
それだけ言うと、尾崎は使い終えた器具を片づけ始めた。
久我は皿へ視線を戻す。
今度は花椒が入っていると分かったうえで、魚にソースを絡めた。
確かに、ある。
爽やかな香りと、舌の端をくすぐるような痺れ。
けれど、それを追いかけているうちに、また鯛の甘みを味わっていた。
花椒を利かせた料理なら、いくらでも作れる。
もっと鮮烈に香らせることも、強く痺れさせることも。
だが、この皿には、そのどちらも必要なかった。
これ以上加えれば、魚の味を邪魔する。
減らせば、今感じた余韻にはならない。
自分なら、ここで手を止められただろうか。
「……これ、何回試したの」
尾崎が手を止める。
「このソース?」
「そ。花椒の量とか」
「今日のは、今合わせたけど」
久我は黙った。
先ほど見ていた、迷いのない手つきが頭をよぎる。
味を確かめたあと、尾崎は何度も調整を繰り返したりしなかった。そのまま魚を焼き上げ、皿に盛った。
「……久我くん?」
一色の声に、ようやく顔を上げた。
何か言おうとした。
いつものように笑って、軽く返すつもりだった。
けれど、言葉が出てこない。
久我はもう一度、目の前の料理を見た。
自分がよく知る食材を使っている。
そのことが、さっきまでよりずっと重く感じられた。
「天才だ、なんて思っているんだろうね」
黙り込む久我に、一色が声をかける。
図星だった。天才だと思った。
正直、噂で聞いていた尾崎のレベルが、ここまでだとは思わなかった。
「なんで、どうして食戟を受けてくれなかったんだ?オレのこと下に見てたのかよ」
悔しかった。久我は下を向いたまま拳を握りしめる。尾崎の顔が見れなかった。
「……貴方は何のために料理をするの?」
久我は顔を上げた。尾崎は理解不能という顔でこちらを見ていた。
「私は、誰かと戦う為に料理をしてるんじゃない。勝ち負けとか、そんなものの為にする料理が1番くだらないと思ってる。だから、しない。……それだけ」
尾崎はそう言うと、そのまま厨房を出ていった。
ーー完敗だった。
「久我くん、君に見せたいものがある」
「見せたいもの?」
食べ終わった食器を洗った一色が、厨房を片しながら久我に声をかけた。
久我は言われるがままに一色へ着いていくことにした。
△▽
一色が連れてきたのは極星寮の中にある、小さな部屋だった。倉庫、とも言えるその部屋のドアを一色があけると、大きな本棚が置いてあった。
「ここは……」
どこを見ても本、本、本。料理の本から栄養、味覚、野菜、様々なジャンルが置いてあった。
一色はゆっくり歩きながら部屋を見渡した。
「ここは、尾崎くんの書斎……になってしまった部屋だよ」
「なってしまったって、これ全部尾崎のなのか!?!?」
一色が頷く。
久我は手近な棚へ目を向けた。
フランス料理だけではない。中華、和食、菓子。食材や栄養についての本まで並んでいる。
その中の一冊に、目が留まった。
久我も読んだことのある、香辛料の本だった。
「見てもいい?」
「構わないよ。戻す場所だけ間違えないでね」
取り出して開くと、ページの間から紙が滑り出した。
慌てて受け止め、何気なく目を落とす。
小さな字で、日付と料理名が書かれていた。
その下には材料の分量と、短い感想が続いている。
『香りが強すぎる。魚の甘みが分からない』
『量を減らす。痺れは弱まったが、香りも足りない』
『加えるタイミングを変える』
久我の指が止まった。
今日、食べたソースを思い出す。
知っているはずの花椒に、すぐには気づけなかった。けれど、入っていると分かれば、あの皿に必要だったことまで分かった。
もう一枚、挟まっていた。
今度は違う魚。同じ花椒を使っているのに、分量には別の数字が記されていた。
「……あいつ、今日初めて合わせたって」
「今日の鯛には、そうだったんじゃないかな」
一色は隣の棚から、端の擦れたノートを取り出した。
「気になったことは、試さずにいられないらしいよ。僕も時々、味見を頼まれるんだ」
開かれたページには、料理の簡単な図と、何本もの矢印があった。
一度書いた分量が線で消され、その横に新しい数字がある。さらにその数字も消されていた。
久我は黙ってページをめくった。
失敗の記録だった。
香りが出ない。身が硬い。後味が重い。
あの尾崎が作ったとは思えない言葉が、いくつも並んでいる。
それなのに、どのページもそこで終わっていなかった。
次に何を変えるのか。
何を確かめるのか。
必ず、その先が書いてあった。
「僕も、彼女は天才だと思うよ」
一色の声に、久我は顔を上げた。
「ただ、そう呼ぶと、彼女が最初から何でもできたように聞こえる時があるだろう?」
久我は手元のノートを見る。
厨房での尾崎に、迷いはなかった。
何も考えずにできるのだと思っていた。
違った。
自分が見ていたのは、何度も迷って、失敗して、その先まで確かめたあとの手つきだった。
「……知らなかった」
「うん。彼女、自分からは話さないからね」
一色は小さく笑った。
「だから時々、腹が立つんだ。天才だからできて当然だって、それで話が終わってしまうと」
それが尾崎のことだけじゃないように聞こえた。
久我は、挟まっていた紙を元のページへ戻した。
折れないように端を揃え、本を閉じる。
棚には、まだ何冊もノートがあった。
「……一色ちんは、これ見たことあんの」
「全部はないよ。今も増えているし」
久我はもう一度、棚を見上げた。
追いつくつもりなら、今日の料理を覚えて帰るだけでは足りない。
尾崎は明日も、何かを試すのだ。
「……好きだ」
「え?」
一色が顔を向ける。
久我は真剣な顔で本棚を眺めたまま、もう一度言った。
「尾崎凛、惚れた!」
一色は口を開きかけ、そのまま閉じた。
少しの間を置いて、ようやく聞き返す。
「えっと……料理に?」
「本人に!」
迷いのない返事だった。
「いやー、そっか。そりゃ勝てるなんて簡単に言っちゃダメだわ。あれだけやってんだもん」
久我は息を吐き、前髪をかき上げた。
悔しさは消えていない。さっきの皿を思い出せば、今でも腹の底が熱くなる。
けれど、もう一度会いたかった。
何を考えて作ったのか聞きたい。
次は何を試すつもりなのか、知りたい。
自分の料理を食べた時、あの顔がどう変わるのかも。
「……久我くん。念のため聞くけれど、それは尊敬とは別の話かい?」
「尊敬もしてるよ?めちゃくちゃ」
久我は一色へ顔を向け、にっと笑った。
「そのうえで、好き」
一色は目を瞬かせた。
今日は珍しいものを見られると思っていたが、予想していた展開とは随分違う。
「……それを僕に言われてもね」
「本人に言ってくる」
「今?」
止めるより早く、久我は扉へ向かっていた。
「あ、尾崎ちゃんどこ行った?」
「部屋だと思うけれど……久我くん、まずは――」
廊下へ顔を出した久我が、ちょうど通りかかった尾崎を見つける。
「あ、いた!」
「うわ……何」
振り向いた尾崎へ、久我は満面の笑みを向けた。
「尾崎ちゃん、オレ、アンタのこと好きになった!」
尾崎が止まった。
後ろから追いついた一色も、足を止める。
しばらく久我を見つめたあと、尾崎はゆっくり口を開いた。
「……料理の話?」
「ちげーよ!」
久我は笑ったあと、尾崎をまっすぐ見た。
「料理も好き。アンタのことも好き」
尾崎はますます眉を寄せた。
困っているというより、どうしてそうなったのか分からない、といった顔だった。
「……今日、料理を食べただけでしょう」
「うん。あと、本見せてもらった」
「本?」
尾崎の視線が一色へ移る。
「書斎を少しね」
「……散らかってたのに」
「気にするのそこ?」
思わず久我が笑う。
尾崎は不服そうに口を閉じた。
その顔を見ていたら、もう少し話していたくなった。
けれど、久我は一歩下がった。
「ま、今日んとこはごちそうさま。次はオレが作るから」
「それは、さっき聞いた」
「ちゃんと覚えててよ?」
尾崎が頷く。
久我はそれを確かめてから、ひらひらと手を振った。
「じゃあね、尾崎ちゃん。また来る!」
玄関へ向かう足音が遠ざかる。
尾崎はしばらくその背中を見送ったあと、一色へ顔を向けた。
「そんなに気に入ったのね…」
「うん。随分とね」
「次のために覚えとく」
一色は小さく吹き出した。
「次も作ってあげるんだ?」
「それが料理人の仕事だから」
尾崎はそう言って、自室へ戻っていった。
一色は笑みを残したまま、玄関の方を見る。
ーー久我くん。
とりあえず、また食べに来る理由はできたみたいだよ。
心の中でそっと呟いた。