「十傑には興味がないのかい」
極星寮のリビング。
黙々と本を読む尾崎に、一色が問いかけた。
遠月十傑。
学内評価の上位十名に与えられるその肩書きに、憧れる者は多い。
彼女なら、いずれ声がかかってもおかしくない。
一色はそう思いながら、向かいの席に座った。
「興味ない」
ぱたん、と本が閉じられる。
予想どおりの返事に、一色は笑った。
「そう言うと思ったよ」
「なら、どうして聞くの」
「君の口から聞いてみたかったのさ」
尾崎は一色を見たあと、テーブルのカップへ手を伸ばした。
「やること、増えるでしょう」
「まあ、そうだね」
「料理や本を読む時間が減る」
「それは困るねえ」
同意する声がどこか楽しそうで、尾崎は少し眉を寄せる。
「……貴方は?」
「僕?」
「十傑になりたいの」
一色はすぐには答えなかった。
尾崎が自分へ問いを返してきたことが、少し意外だった。
「なれたら、やってみたいことはあるよ」
「例えば」
「極星寮の畑を、もっと充実させるとかね。育ててみたい野菜もあるし、使ってみたい設備もある」
尾崎の視線が、一色へ戻った。
「……研究に使えるの?」
「十傑の権限や予算を、ということかい? 料理のためなら、随分とできることが増えるらしいね」
尾崎はカップを置いた。
それまでとは違う沈黙に、一色の口元が緩む。
「少し興味が湧いた?」
「……話を聞いてるだけ」
「うん。じゃあ、もう少し話そうか」
尾崎は返事をしなかった。
けれど、閉じた本を開き直すこともなかった。
一色はそれを確かめて、自分のカップを引き寄せた。
「……私が十傑になって、メリットが大きければ目指すかもしれないけど。肩書きや順位に意味があるとも思えないし」
「なるほど。じゃあ、肩書きに何がついてくるかは気になるんだね」
尾崎は否定しなかった。
「使える食材や設備が増えるなら、考える」
「君らしいね」
一色は頬杖をつき、閉じられた本へ目を落とした。
「ちなみに、今は何を試したいんだい?」
「……どうして?」
「さっきから、同じページを何度も読んでいただろう。何か気になることがあるのかと思って」
尾崎は手元の本を見た。
しばらく迷ったあと、もう一度開く。
一色にも見えるよう、向きを変えて差し出した。
「これ。材料が揃わなくて、まだ試せてないの」
「どれどれ」
一色が身を乗り出す。
尾崎は文章の一節を指で示し、説明を始めた。
先ほどまでの短い返事とは違い、今度は言葉が続く。
途中、一色が質問をすると、彼女は少し考えてから別のページを開いた。
「……ここにも、似た方法が載っていて」
一色は相槌を打ちながら、その指先を目で追った。
十傑の話をしていた時より、ずっと楽しそうだった。
「その材料なら、仕入れ先に聞いてみようか」
「手に入るの?」
「約束はできないけれど、聞くだけならね」
尾崎は一色を見た。
「……お願いしてもいい?」
「もちろん。その代わり、僕も試食に参加していいかい?」
「手伝ってくれるなら、最初からそのつもりだけど」
当然のように返され、一色は一瞬黙った。
それから、ゆっくり笑う。
「それは楽しみだ」
尾崎は小さく頷くと、試したい手順を説明し始めた。
一色も椅子を寄せ、二人で一冊の本を覗き込んだ。
△▽
翌日、放課後の調理室で試作をしていた尾崎は、何度目かの失敗で思わずため息をついた。
作りたいのはこれじゃない。そう思いつつも、肝心な食材が手元にないのだから上手くいくわけがない。
諦めようか、と思っていた時だった。
「……あ、ごめん。今、少しいいかな。そのキノコなんだけど」
後ろから声をかけられたことに、最初は気付かなかった。
尾崎は声の主を見た。白髪の、少し背の高い人。きっと先輩だ、とすぐ分かった。
「邪魔したかな」
「あ、いえ……」
尾崎が首を振ると、彼は調理台の上へ視線を落とした。
「そのキノコ、代わりに使ってるの?」
「……本当は、香茸を使いたくて」
「ああ、やっぱり。だったら、こっちの方が合うと思う」
差し出されたキノコを見て、尾崎は少し考えた。
試すつもりのなかった種類だった。けれど、理由を聞けば納得できた。
「少し、使ってもいいですか」
「うん。どうぞ」
彼は尾崎の隣へ立った。
手を出すことはせず、調理を見ている。
キノコを変え、もう一度火を入れる。
先ほどまで気になっていた香りのぶつかり合いが、今度はなかった。
尾崎は少量をすくい、口へ運んだ。
「……美味しい」
思わず声が漏れた。
何度調整してもまとまらなかった味が、すんなりと舌に馴染む。
後味に残っていた重さも消えていた。
彼も味を確かめ、小さく頷く。
「うん。これなら、もう少しソースを軽くしてもよさそうだね」
「軽く……」
「キノコの香りが、もっと分かると思う。今のソースだと、このキノコの香りが少し隠れるから」
尾崎は鍋を見る。
確かに、今のキノコなら、その方がいい。
別の小鍋に取り分け、調整した。
今度はソースと合わせて食べる。
美味しかった。
さっきより、さらに。
「よかった。これでまとまったね」
尾崎が頷くのを見て、彼は少し表情を緩めた
まとまった。
それは間違いない。
けれど、自分はこんな料理を作ろうとしていたのだろうか。
もう一口食べる。
キノコの甘みがあり、香りがある。ソースはそのどちらも邪魔せず、口の中で綺麗にほどけた。言うなれば"キノコ"の味が際立った。
不満を挙げようとしても、出てこなかった。
「あの」
「うん?」
「私は、もう少し……」
言いかけて、尾崎は黙った。
何を残したかったのか。
最初に思い描いた味を探すのに、今食べた料理が邪魔をした。
「もう少し、香りを強くしたかった?」
「……はい」
「なら、こっちも試してみる?」
彼は別の食材へ手を伸ばした。
乾燥舞茸。確かに香茸に香りは似てるいるがーー尾崎の指が、箸の柄を強く握る。
きっと、それも美味しい。
今よりもっと、よくなるのだろう。
だが、その先に自分の作りたかったものがあるのか、分からなかった。
「……今日は、ここまでにします」
彼は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「そっか。ごめんね、色々言って」
「いえ。助かりました」
嘘ではなかった。
一人では辿り着けなかった味だ。
礼を言うと、彼はどこかほっとした様子で厨房を出ていった。
尾崎は残された皿を見る。
一口目には、あれほど驚いた。
それなのに今は、食べるのをためらっていた。
彼は一度も、包丁にも鍋にも触れていない。
作ったのは自分だ。
食材を切り、火を入れ、味を決めた。そのすべてを、自分の手で行った。
なのに、これは誰の料理なのだろう。
尾崎はスプーンを置いた。
——怖い。
もう一度会えば、また意見を聞きたくなる。
その答えを、自分はきっと試してしまう。
それが分かってしまったことが、何よりも怖かった。
「尾崎くん?」
呼ばれた瞬間、肩が跳ねた。
入口に立っていた一色が、足を止める。
手には小さな箱を抱えていた。
「……驚かせたかな」
「一色」
名前を口にして、ようやく息が吐けた。
一色は尾崎の顔を見てから、手元の箱へ視線を落とした。
「香茸が届いたんだ。まだ調理室にいるかと思って、あちこち探したよ」
尾崎は箱を見た。
昨日まで、あれほど待っていたものだった。
「……ありがとう」
「うん。ここへ置いても?」
頷くと、一色は調理台の空いた場所へ箱を下ろした。
すぐに蓋を開けることはせず、その隣に立つ。
尾崎は皿を片づけようとして、スプーンに指をぶつけた。
金属の触れ合う音が、やけに大きく響いた。
「何かあった?」
拾い上げたスプーンを握ったまま、尾崎は黙っていた。
何を話せばいいのだろう。
失敗していたところへ先輩が来て、助言をくれた。
そのとおりに作ったら、美味しくなった。
それだけのことだった。
◇
「……先輩が来て」
「先輩?」
「作ってるところを見て、教えてくれたの。キノコを変えた方がいいって」
一色は調理台の皿を見る。
それから、尾崎へ視線を戻した。
「どんな人だった?」
「白い髪で……少し、前屈みで。話し方は静かだった」
一色の表情が、わずかに止まった。
「……司先輩かな」
「司?」
「司瑛士。僕らの一つ上の先輩だよ」
尾崎は小さく頷いた。
名前に聞き覚えはあるらしい。けれど、それ以上は何も言わなかった。
一色はもう一度、皿へ目を向ける。
——司先輩か。
尾崎が誰かの料理に刺激を受けることは、悪いことではない。
むしろ、彼女にはそういう相手がいた方がいいと思っていた。
だが、今のこの顔は。
「食べてもいいかい?」
尾崎がスプーンを差し出す。
受け取った一色は、残っていたソースを絡めた。
一口食べ、ゆっくり飲み込む。
「……美味しいね」
「うん」
返事が沈んでいた。
「先輩の言うとおりにしたら、美味しくなった。自分で作ってた時より、ずっと」
一色はスプーンを置いた。
「でも?」
「……違うの」
尾崎の視線が皿へ落ちる。
「私、香茸を使いたかったでしょう」
「うん。そのために、取り寄せたんだよね」
「それがなくても、こんなに美味しくなるなら……」
そこで言葉が途切れた。
一色は何も言わず、続きを待った。
「何を残して、何を変えたらいいのか、分からなくなった。ひとつ分かるのは、私の作りたいのはこれじゃない」
声が震えたことに気づいたのか、尾崎は口を閉じた。
一色は隣の椅子を引いた。
「少し座ろうか」
司に悪意があったとは思わない。
上手くいかずにいた後輩を見つけ、手を貸した。それだけだろう。
ただ、彼女が何を作りたかったのかを話す前に、皿が完成してしまった。
その味を理解できる尾崎だからこそ、なおさら厄介だった。
自分の選びたかったものより、示された答えの方が優れている。そう感じたままでは、次もその答えを頼りたくなる。
一色は、持ってきた箱を彼女の前へ寄せた。
「香茸、見てみない?」
「……今?」
「届いたばかりだからね。状態を確かめたいんだ」
尾崎はためらいながら、箱の蓋へ手をかけた。
開いた隙間から香りが立つ。
「いい香り……」
彼女の指が止まった。
一色はその横顔を見て、ようやく少し息をついた。
「昨日、これをどう使いたいって話してくれたっけ」
尾崎が箱を見つめる。
「……ソテーにしたくて」
「うん」
「でも、香りを残したままだと、ソースやバターの量とか加減が難しいから」
一色は頷いた。
今は、司の料理を解説する必要はない。
彼女の考えを聞く方が先だった。
「それで?」
「……二通り、試そうと思ってた」
尾崎が、ようやく一色を見る。
「付き合ってくれる?」
「そのつもりで探していたんだよ」
一色が笑うと、尾崎は小さく頷いた。
調理台には、まだ司の助言で完成した皿がある。
一色はそれを片づけず、試作のための場所を空けた。
「正直、びっくりしたの。私の味がなくなることがあるんだって」
一色は、調理台に残された皿を見た。
「そうだろうね。君の料理が、誰かの助言でそこまで変わることは滅多にないだろうから」
「そうね……だからこそ分かった。あの人は只者じゃない」
尾崎は一色へ顔を向けた。
「何者なの?」
「司瑛士先輩。十傑の一人だよ」
尾崎は黙った。
それから、確かめるようにその名前を繰り返す。
「司、瑛士……」
「もし君が、この学園の頂点を目指すなら。いつか、勝負をする相手になるかもしれないね」
今度は、興味がないとは言わなかった。
尾崎は皿へ視線を戻す。
あの人にとっては、後輩へのちょっとした助言だったのだろう。自分がこんなにも考え込んでいることさえ、知らないはずだ。
「……次は」
「うん?」
「私の料理を食べてもらいたい。直してもらう前の、ちゃんと完成させたものを」
一色は彼女を見た。
先ほどまでの怯えは、まだ少し残っている。
けれど、その目はもう伏せられていなかった。
「じゃあ、まずはこれを試そうか」
香茸の箱へ手を添えると、尾崎は頷いた。
「ええ。今度は、最後まで自分で決めたい」
一色は笑って、隣の作業台を空けた。
彼女が司に興味を持ったことには、少し気がかりがある。
ただ、それを理由に止める言葉は持ちたくなかった。