宿泊研修。
それは、遠月で行われる厳しい選抜合宿である。
高等部一年生は全員参加。
連日課される課題をこなし、合格点に届かなければ即退学となる。
遠月に在籍していたという経歴だけでも、料理の世界では箔がつく。
それでも、ここで脱落するために入学してきた者などいない。
通称、地獄の合宿。
尾崎たちもまた、その出発の日を迎えていた。
「荷物、多くない?」
バスを待つ列の中、紀ノ国が尾崎の荷物を見て言った。
視線の先には、海外旅行にでも出かけるような大きなキャリーケースがある。
「……そう?」
「何をそんなに詰めてきたの」
尾崎は考える素振りをした後、一言だけ「着替えとか…」と言った。
「絶対嘘でしょ!!」
紀ノ国が言うと、尾崎はそっと視線を逸らした。
「着替えは入ってる」
「他には?」
「……本」
「何冊?」
「必要な分だけ」
「答えになってないわよ」
紀ノ国はため息をつき、改めてキャリーケースを見下ろした。
「持ち上げられるの、それ」
「ここまで持ってきたもの」
「転がしてきたんでしょう?」
ちょうどその時、列が動き始めた。
尾崎は前へ向き直ると、何事もなかったようにキャリーケースを引いた。
「バス、来たよ」
「話終わってないんだけど」
乗車口の脇では、荷物を積み込むために一色が鞄を下ろしていた。
「それも預けるのかい?」
「ええ。」
尾崎は荷物を預け、一色は頷いた。
そして、キャリーケースの取っ手を持ち上げかけた腕が、一度止まる。
「……尾崎くん」
「何」
「着替え以外には、何が入っているのかな」
紀ノ国が隣で頷いた。
「私も今、それを聞いていたところよ」
尾崎は視線をズラす。何も答えなかった。
聞くだけ無駄か。一色と紀ノ国は諦めてバスへと乗り込んだ。
それから、尾崎がバスの入口から乗り込んですぐ、奥の方から聞き覚えのある声がすぐに飛んできた。
「おーい!尾崎ちゃんこっちこっち!!」
視界に入ったのは、手招きして隣の席を叩く久我だった。
尾崎は首を傾げながらも近づいていく。
「なに?」
「ほら、隣空けといたから!」
久我がもう一度、座席を叩く。
尾崎はその席を見てから、後ろを振り返った。
「寧々」
唐突に呼ばれた名前に、紀ノ国はドキリとする。初めて名前で呼ばれた。いや、どうして突然?紀ノ国はいろんな考えが頭を巡る。
「……何?」
必死に出した言葉が少し掠れた。
「一緒に座ってもいい」
久我の笑顔が固まった。
「ちょ、尾崎ちゃん? 今オレが誘ってんだけど?」
「先に約束してたもの」
紀ノ国は一瞬目を丸くした。
確かに、バスの席順について乗り込む前に話してはいたが。それが約束なのかは分からなかった。
ただ、紀ノ国は尾崎の言葉が嬉しかった。断る理由なんてない。
「そうね。尾崎さん、こっち空いてるわ」
通路を挟んだ斜め後ろの席へ、紀ノ国が鞄を置く。
尾崎が座ろうとして、紀ノ国に顔を向けた。
「凛でいい」
「え?」
「呼んで、名前。」
尾崎が席に座って、改めて紀ノ国を見る。
なんだか恥ずかしくて、紀ノ国は照れた顔で凛の名前を呼んだ。
二人の光景を見た久我と一色は、自分たちの入る隙がないと思ったのか途端に大人しくなる。
「隣、いいかい?」
「……どーぞ」
久我が渋々鞄を足元へ下ろすと、一色は笑って腰を下ろした。
「残念だったね」
「うっさい。まだ合宿始まってないし」
紀ノ国の隣で、尾崎が早速本を取り出していた。
その厚みを見て、眉を寄せる。
「本?わざわざ持ってきたの」
「これはお父さんの本。勉強しとこうと思って」
「……そう」
尾崎の父は日本人初の三ツ星を獲得したフランス料理の天才だ。こんな分厚い本も出していたのか、と感心した。
「ねぇ、あなたの食戟を受ける受けないの基準ってなんなの?」
ふと、紀ノ国はずっと気になっていたことを聞いた。
この前一色から久我の件を聞かされた紀ノ国は、尾崎の食戟に対する感覚が一体どういう基準なのか知りたかった。
全く受けない訳でもないのに、久我に対して食戟はくだらないと、そう言い放った尾崎。
ーー彼女の食戟に対する考えが、知りたい。
「…相手がしつこすぎる時に、そのまま研究で受ける時もある」
「研究?」
「試したかった料理がある時とか、暇つぶしがてらにそこで試したりしてる」
「……食戟を、試作の場にしてるってこと?」
「審査員がいるでしょう。自分以外の意見も聞けるし」
紀ノ国は少し黙った。
負ければ代償を払う勝負を、そんなふうに利用しているとは思わなかった。
「でも、それなら久我の時も受ければよかったんじゃない?」
「試したいものがなかったから」
「……それだけ?」
「後は本人にも言ったけど、戦うための料理をしてるわけじゃない。」
紀ノ国は何も言えなかった。料理の本質は確かにそこにある。遠月にいると、食戟のせいか勝負の為に料理を使っているが、"料理人"としての正解はきっとーー
「誰かが美味しいって言って笑って幸せになる。そのための私だから」
紀ノ国は、凛を見つめた。
食戟で相手を圧倒する姿や、普段の素っ気ない態度からは、想像しなかった答えだった。
「だから、あの日は食べるだけならいいって言ったのね」
「そう」
凛は本へ視線を落とした。
「食べてみたいって言われたから。それなら、作ろうと思った」
紀ノ国は、その横顔を眺めた。
知れば知るほど、尾崎凛という人間が少しずつ分かってくる気がした。
氷結の女王。
そんな呼び名とは裏腹に、彼女は料理にも、食べる人間にも無関心ではない。
美味しいと言われた言葉を覚えている。
また食べたいと言われれば、次に作る料理を考える。
それを知ると、膝の上にある分厚い本さえ、先ほどとは違って見えた。
才能があれば、授業に出なくてもいい。
初めて彼女を意識した時、自分はそんなことを考えていた。
紀ノ国は、そっと目を伏せる。
彼女が授業の外で何を学び、何を作っているのか。
知ろうともせず、才能の一言で片づけていた。
烏滸がましかったのは、勝とうと思うことではない。
相手のことを何も知らないまま、分かったつもりでいたことだ。
「私、今まで他人に興味なかった。けど、寧々となら仲良くできる気がしたの。……勝手に名前呼んでごめんなさいね」
紀ノ国は顔を上げた。
凛は本を開いたまま、こちらを見ていた。
さっき名前を呼んだ時には平然としていたのに、今は返事を待つように指先を揃えている。
「……謝ることじゃないでしょう」
少し、声が硬くなった。
紀ノ国は一度息をつき、言い直す。
「私も、凛って呼ぶし、それでお互い様よ」
「嫌じゃなかった?」
「嫌なら、最初に言ってるわ」
凛は微笑んで、頷いた。
◇
バスが着いたのは、遠月リゾートだった。
遠月茶寮料理學園 の中でも観光部門が運営する巨大リゾート施設だ。
その建物を見上げ、バスを降りた生徒たちが次々と声を上げる。
「……立派ね」
紀ノ国が呟いた。
凛も頷いたが、その視線は建物の入口へ向いていた。
制服姿の生徒たちを、ホテルの従業員が手際よく案内している。ここが今日の宿泊地なのだろうか。
「尾崎ちゃん、荷物それ?」
背後から声をかけられ、振り向く。
久我が凛のキャリーケースを見下ろしていた。
「何入れたらそんな大きさになんの?」
「……着替えとか」
「それ、もう聞いたわ」
紀ノ国に言われ、凛は口を閉じた。
「……山奥って聞いてたけど、ここで研修するのね」
凛はそびえ立つ高い建物たちを見上げた。
ホテル、旅館、アクティビティ施設、そして多数の観光客たち。
確かに、ここで実践出来ればかなり力になるだろう。だが……凛は不思議に思った。これで退学になるような事が起きるというのか、と。
料理を作り、客へ出す。
もちろん簡単な仕事ではない。けれど、それは凛にとって幼い頃から見て、経験してきたことでもあった。
「……何をしたら、退学になるのかしら」
呟くと、紀ノ国が顔を向けた。
「課題をこなせなければ、でしょう」
「それは分かるけど」
凛はロビーへ入っていく客たちを眺めた。
従業員に案内されながら、楽しそうに何かを話している。
その横を、自分たちと同じ制服の生徒が緊張した面持ちで通り過ぎた。
「ここで働くわけじゃないからね」
一色が隣へ並ぶ。
「僕らは研修を受ける側だ。どんな条件で、何を求められるかは、まだ分からないよ」
「そうね…」
「尾崎ちゃんなら余裕っしょ!」
久我が軽い調子で口を挟んだ。
凛は返事をしかけて、やめた。
以前なら、そのまま頷いていたかもしれない。
今は、自分がどんな料理を出すのかさえ、上手く思い描けなかった。
握っていた持ち手を、握り直す。
「……そうだといいけど」
小さな返事に、一色が彼女を見た。
けれど何かを尋ねる前に、集合を促す声がロビーに響いた。
凛たちは急いで案内された大広間へと走っていく。
途中、後ろから来た生徒にぶつかられ、凛はそのまま体勢を崩して倒れ込んだ。
「チッ、でけぇ荷物なんか持って……邪魔なんだよ」
ぶつかった生徒は凛を一瞥したあと、吐き捨てるように去っていった。
すかさず紀ノ国や一色たちが凛を立ち上がらせてくれるが、凛は先程の生徒を目で追ったまま口を結ぶ。
「……大丈夫か?アイツ、確か叡山枝津也、だったよな」
久我が凛のキャリーケースを拾い、そう言った。
「気にしなくていいわよ。彼、元からああだから」
紀ノ国は凛の手を握った。その手には力が入っている。よっぽど凛にした事が苛立ったのだろう。
「ありがとう、私は大丈夫」
凛は三人を見た。
紀ノ国はまだ眉を寄せている。
久我は去っていった生徒の方を睨み、一色は凛の制服についた埃を軽く払ってくれた。
「手、痛くないかい?」
「……ええ」
凛には友達がいた事がない。だからどんなものかも分からなかったが、もし友達と呼べるなら、きっとこの3人をそう呼んだだろう。
◇
大広間に集められた生徒たちは、用意された椅子へ座る。椅子には紙が置いてあったが、まだ開くなと言われていた。
少ししてから、ステージ上で「試験は今から始める」と、そう言ったのは尾崎誠二だった。
凛は少しも驚かなかった。こうなる気がしていたからだ
誠二は理由がないと日本へ来ない。自分の為だけに一時帰国するわけが無い。凛はただじっと誠二の顔を見続けていた。
「これから適当に4つのグループに分ける。試験内容はそれぞれ違うが、こなせなければ即退学。説明はそれだけだ」
誠二はマイクを投げるように、近くにいた遠月リゾート総料理長ーー堂島銀へ渡した。
最初はあの有名シェフの"尾崎誠二"にどよめいた会場も、今は即退学。その言葉にザワついていた。
その中、誠二は壇上を降りた。
生徒たちへ目を向けることもなく、脇の扉から出ていく。
「……お父さん、来てたのね」
紀ノ国が小声で言った。
凛は扉が閉まるのを見届けてから、頷いた。
「知っていたの?」
「来るとは聞いてない。でも、そんな気はしてた」
凛は自身の手を握りしめた。
——合宿が終わって生き残れたら、もう一度食わせてみろ。
あの言葉を口にした時には、もう決まっていたのだ。
ここで、自分を審査するかもしれないことも。
「静粛に」
堂島の声が響き、周囲の会話が途切れた。
「各自、紙を開いて指定された研修室へ移動するように。担当講師から課題の説明を受けることになる」
案内に従って、生徒たちが席を立ち始める。
凛も立ち上がり、自分の割り当てを確かめた。
紀ノ国が隣から覗き込む。
「私は別ね」
「……そう」
凛はもう一度、紙に目を落とした。
担当講師の欄には、尾崎誠二と記されていた。
「尾崎くん」
顔を上げると、一色が自分の紙を示していた。
「僕も同じだ。一緒に行こうか」
凛は頷き、紙を閉じた。
△▽
指定された研修室へ入ると、誠二は既に調理台の前に立っていた。
入ってくる生徒を一人ずつ見て、凛と目が合っても何も言わない。
凛も会釈だけをして、空いた台へ向かった。
荷物置き場へ荷物を置き、姿勢を正す。
隣では一色が袖を整えていた。
全員が揃ったところで、誠二が時計を見る。
「始めるぞ」
先ほどまで残っていた話し声が止まる。
凛は顔を上げた。
ここにいるのは、家で料理を食べてくれた父ではない。
自分に合否をつける、講師だった。