本当に吸血鬼になっちゃったライスちゃんのトレーナー 作:背水 陣
「うぅ……ォオオオオオオオ!!」
プリティな声が夜闇に響く。
人間を超越した身体能力を持った、身長195cm体重105kgの男が目の前にいるウマ娘二人に向かって、今まさに襲い掛かろうとしていた。
「お兄さま!」
「ライス君!」
逃げようとせず、未だ何か出来るわけでもないのに。……それでも、己の身を呈してトレーナーを止めようとするライスシャワー。
かたや状況が理解できているからこそ、それは不可能だと。無意味だとし、一時撤退を提案したアグネスタキオン。
(力
袖を引っ張るが、根を張ったように動かない。真っすぐ前を見るライスと、自意識を喪失した
ダメだ。もう間に合わない。
掴んでいた袖を離し、やや強引だが目くらましにも使えそうな薬品を懐から取り出そうとした時だった。
貞星の、吸血鬼の牙が腕に深く沈み込んだ。
……他の誰でもない、愛場貞星 本人の腕に。
「なっ……。トレーナー君……!?」
「ンフー……!! ブフゥ~~~ッ!!!」
「ふぇっ!? タキオンさん、何するの!?」
瞬間的に、タキオンはライスシャワーの大きな瞳を手で覆った。そして、震えている耳も片手で塞ぐ。抱きしめるような形にすることで、ライスシャワーが外的情報を少しでも受け取れないように制したのだ。
「……
朦朧とする意識の中、貞星は必死に考えていた。血に飢えた彼は、まともな制御が利かない。ありとあらゆる神経が、ただ餌を求めて動くようになってしまっている。人間では起こりえない、吸血鬼たる歴とした本能行動。
だが、それと同じくらい。愛場貞星の心を突き動かす、大志があった。
(僕がウマ娘を傷つけるようなことになってしまえば……今度こそ本当にガイドラインに違反してしまう。それだけは避けなくっちゃあならないッ! 何より、僕がそんなことをするだなんて……たとえ世界が一巡したとしても、あり得ないことだッ! ウマ娘は愛でるべき、尊敬する存在……いわば、神なのだから!!)
鋼の意志で、自我を取り戻した愛場は普段は切れる脳をフル稼働させて、逃げ道を探した。『血を吸う』という結果は、きっともう確定している。抗うことのできない運命だ。
ならば……。
即座に脳裏に浮かんだのは、アグネスタキオンが見せてくれた自分の細胞のデータ。
小さなライスシャワーが、細胞の中に入っている写真だ。
つまり!
(僕の身体にはライスちゃんがいる……だったら、自分の血を吸うことでも、ライスちゃんの血を吸っているのと同じことが出来るはずだ!!!)
赤い目を更に充血させながら、ようやく手に入った餌を貪るようにしゃぶりつくす。
そのあんまりな様相を、流石にライスシャワーの目に入れるのは毒だろう。そう判断してくれたタキオンの行動は、素晴らしい最善手だった。
小さな体のライスシャワーを細身のタキオンが抱きしめるような格好は、貞星にとって更なる刺激になり血圧を急上昇させたことで、吸血もスムーズに行えたのだから。
「……ぶはっ! ……ありがとうございます、アグネスタキオンさん。思う存分、
「なぁに、構わないさ。しかし、今ので本当に問題ないのかい? 顔色は悪いままだが」
「あくまで応急処置でしょう。確かに、極度の空腹は軽減されましたが……まだ、腹の奥から食欲が煮えたぎっているのを感じます。」
「そうか。足りないのは、やはり『血液』かい?」
「……おそらく。」
「……わかった。明朝までに何とかしてやろうじゃないか。それまで、耐えきれるかな?」
「耐え切れない場合は、素直に朝日に焼けます」
「あっはっは! 良い意気込みだ。貴重なモルモットを易々と手放す私じゃあない。勝手にケージから逃げることは許されないからねぇ」
「すみません……。お願いいたします。」
「??」
状況が掴めないライスシャワーを脇に抱えて、アグネスタキオンは嬉しそうに去っていく。がっくりと膝を落とした貞星は、月を見上げながら思う。
(さっきのライスちゃんのお腹の音……録音しておけばよかったなぁ……)
あまりの悔しさに歯ぎしりする音が、更ける夜に響いた。
・・・。
「やあ、お待たせトレーナー君! ノックは割愛させてもらっ……何だいその格好?」
普段は寝起きの悪いタキオンだが、こと実験に関してだけは睡魔を凌駕する。一定の成果を得られた彼女は、朝日の入らないトレーナー寮のドアを開けた。そして、白衣をはためかせながら意気揚々としていた表情を、怪訝へ移り変えると。視線の先の風景を、しっかりと検めるのだった。
ピンク地に麻の葉文様の着物に市松柄の帯を締め、口には青々とした竹を咥えている愛場貞星。
涎を垂らしながらも、この暗い部屋で何とか自意識を保っていられたのか、室内は荒れた様子もなく綺麗なままだ。
バキィとけたたましい音を立てて、青竹を噛みちぎると貞星は、さも当然のように眼鏡をくいっと上げながらタキオンの前へ立った。
「おはようございます、アグネスタキオンさん。これは古来より伝わる、吸血鬼の衝動を抑え込むための儀式と祭具です。」
「明らかに、女性用の着物じゃないか。あと、なんだか危険な香りがするから、それ以上追及しないでくれるかな」
「具体的には大正時代の「止めたまえ」
「すみません、アグネスタキオンさん……。ですが、一つだけ。」
「……どうでもいいことだったら、帰らせてもらうよ。大体、私はツッコミ役でもなんでもないんだ。余計な労力を割かせないで欲しいね。タマモ君でも連れてくるべきだったか……」
「色合いだけで、この着物を女性用とひとくくりにするのは、時代錯誤かと。」
「帰る」
「あ、アグネスタキオンさんっ!」
己の非礼を謝罪し、どうにか耳を後ろに倒したタキオンを引き止める貞星の姿は余りにも情けなかった。
とはいえ、入室時には上機嫌だったのには間違いない。タキオンの懐から甘い匂いが漂っているのだから、それが彼女の齎してくれた『一定の成果』なのだろう。
「あの……もしかして、持ってきて頂けたのですか? 先ほどから、とても香しい匂いがするのですが……。」
「ほほぅ。気付くのか。やはり、君は十分に吸血鬼になってしまったようだね」
学徒モードに切り替わったタキオンが、得意げに笑う。
どうやって入っていたかわからないサイズの保冷箱が、彼女の白衣から飛び出してきた。密閉されたそれからは、いくら人間より五感の優れたウマ娘のタキオンですら、何も感じないのだが……。
「ちょうど良いタイミングで揃えられてね。残念だが、採血と呼べる量は確保できなかったが……。まあ、サンプルとしては十分だろう」
「おぉ……こ、これは……!」
細い試験管の中には、冷蔵された血液が入っていた。それも2本。
「こっちは、マチカネタンホイザ君から採取したものだ。おっと、当然だが非人道なことはしていないよ。彼女のことをご存じなら、トレーナー君もわかるだろう?」
「……マチカネタンホイザさんのことです、何かしらの理由で興奮しすぎたのでしょう。」
「ご名答。ちなみに原因はどこからでも開けられますと書かれた袋が開かず、強引に引っ張った際に血が上り鼻血を出してしまったというものだよ」
(可愛すぎか?)
「だが、『研究のために、血を分けて欲しい』なんて言うのは中々賛同を得られなくて困ったものだったよ。変に悪用しないことを、ライス君と共に懇願してよぉ~やく手に入ったのさ」
「そういえば、ライスちゃんは……?」
「ああ、彼女なら先ほど寝入ったばかりだ。そっとしておいてあげると良い」
「先ほど?」
時計を見ると、ようやく日が出始めたぐらいの時間だ。つまり、夜遅くまで何かをしていて入眠が後回しになってしまったということ。
「……ロブロイ君と、吸血鬼に纏わる資料を探してたそうだよ」
「え……?」
「当然、君を思っての行動だ。不摂生は私の専売特許だが……彼女を責める理由は無いだろう?」
「……ライスちゃん……。」
今この場に居ない、愛馬の寝顔を思って貞星は唇を噛む。元々赤い目から、涙が零れそうになる思いを胸に押し戻し、今やらなくてはならないことに順守すべく気合を入れる。
「では、アグネスタキオンさん。頂いても?」
「どうぞ。その為に持ってきたのだからね」
「……ところで、このもう一つの血液はどなたのですか?」
指の間に試験管を収めながら、当然の疑問を貞星が投げかけた。
「それは、
「え!? 樫本トレーナーの!?」
ふと脳裏によぎるのは、先ほど『非人道的なことはしていない』と言ったはずのタキオンだが……飽くまで、それはウマ娘に対してだ。
「……転んだのですか?」
「階段で転んで擦り剥いたあげく、手を貸したら勢いあまって壁に鼻骨を打ち付けていたよ」
「……道理で、マチカネタンホイザさんの分より血液量が多いわけですね……。」
樫本トレーナーは、その落ち着いた風貌からは信じられないほど運動音痴で、偶に日常生活すら危ういほどの行動を起していることすらある。今回も、実は特別な出来事でもなんでもない。割とよく見かける結果だ。
「手当は済んでるから、安心するといい。さあ、遠慮なく飲みたまえ!」
「では……。」
貞星はまずタンホイザの方の試験管の蓋を開いた。鼻に飛び込んでくる、天使のように純粋で恋のように甘い香りで一度貞星の意識は飛びかけた。
慌てて自我を取り戻した彼は、そのまま腰に手を当て一息に中身を飲み干す。
「……どうかな?」
「……あ……アグネスタキオンさん……離れて……!」
試験管を持つことも出来ないほど、手が震えていた。床には上質なカーペットを引いていたおかげか、割れることは避けられたが……。その振動で、樫本の血液が入った試験管が躍るほどの揺れを引き起こす貞星の状態は、明らかに異常だった。
身構えたまま、タキオンが数歩下がる。貞星は内に沸き起こるとてつもない衝動を、何とか抑えながら。広いリビングスペースまで、よたよたと移動し周囲の安全を確認すると。
その全てを解き放った。
「
とてつもない衝撃波が巻き起こり、貞星の上着がはじけ飛ぶ。普段から鍛えられている彼だが、それでもまるで鋼のような美しく雄々しい筋肉の鎧が繊維を破壊してしまったのだ。
「……どういう状態かな、それは」
耳を押さえても尚、貫通してくる裂帛の気合に不快感を示す表情をするタキオン。共に塵と化した眼鏡の代わりを、何ともない様子で手に取ると、腰を妙に曲げたポーズのまま貞星は答える。
「……どうやら……私の身体に、純粋なる血液が入って来たことで、代謝が一気に活発化したのでしょう」
「脈もほとんどない癖に……代謝?」
「そうとしか言いようがないのです。見てください、この丸太のような脚を。筋肉が喜んでいますよ。」
「普通に奇妙だから、見せつけるのはやめてくれるかな。私のウエストより太く見えるぞ」
嬉々として筋肉を見せつける貞星だが、軽くあしらわれたことに少しだけ肩を落とす。
それから、部屋着に着替えてからもう一つ残っていた血液に手を伸ばした。
「おや。まだ摂取が要るのかい?」
「絶食状態でしたので……正直な話、足りておりません。」
「通常の食事は摂れないのかな?」
「残念ながら……。サンドイッチを口にしたのですが、パンは無味無臭のスポンジみたいでレタスは鼻の奥まで青臭く「ギリギリを攻めないと死ぬ体質なのか君は」
「とにかく、今まで食べていたものには全く食欲が沸きません。」
そう言いながら試験管の蓋を外して、内容物を喉に流し込んだ。
「……ッ!?」
「どうした」
「ばっ……バカな……こんな……!?」
「トレーナー君!?」
「う……が……あぁあああ!!!」
苦しそうな悲鳴を上げる貞星は、頭を抱え込みながら蹲る。体中から先ほどアルコールを飛ばした時のように、湯気が排出されており異常事態が起こっているのは目に見えて明らかだった。
警戒しながら、事の顛末を見守っていると……。
「これが……私……!?」
3~4人にタックルされても、怯むことなく動けそうな肉体を持っていた貞星の身体が縮んでいた。
比喩ではなく、文字通りに身長すら低くなり、反比例して声は高く。丸太のような脚はタキオンの細足と同じ程度になってしまっている。
年齢も、見た目は10ほど若返っているのだろうか。満22歳の愛場貞星は、すっかり少年に戻ってしまったかのようだ。
「……ふぅン。もしや、摂取した血液の内容によって君の身体にも変化が起きる……のだろうか? 樫本トレーナーは、まあ健康的ではあるが身体的にはかなり貧弱だからね。タンホイザ君の場合と真逆の効能が見られたことから察するに……だがね」
「サンプルが少ないのでわかりません。ですが、可能性は大いにあるかと。」
(しかし声小さいな)
頭部のサイズも落ちたことでずり落ちた眼鏡を拾い、ダボダボに緩んだ衣服を引きずりながら椅子に座る。
「ううむ……困りましたね。多少の食欲はこれで緩和できましたが……。継続するとなると、やはり血液は必須。また自我を失ってしまいかねません。」
「かといって、不特定多数から摂取となると相当に人を選ばないといけないだろうね。君、私の血を飲んでみたいかい? 実験のためなら、喜んで差しだしても良いんだが」
「……いえ。すみません。
」
「アッハッハ! 一応の理性的判断は出来るようになっていて安心したよ」
微妙に引っかかる物言いを気にせず、タキオンは笑った。
「だがまあ、副作用があったとはいえ暴走の危険は一時避けられたわけだ。もうしばらく、考える時間を貰うよ」
「はい。ありがとうございます。私も夜になれば出来うる限りの活動は行いますので。」
「ああ。それまでに、その小鹿のような様相が戻ってくれていることを祈るよ」
「ご迷惑おかけします。」
「なぁに。早く君が元通りになって世話をしてくれないと、カフェに身の回りのことで小言を言われそうだからね。私の為でもあるんだ。気にしないでくれ」
「すみません。」
いつも見上げていた体躯が、小さく見えるのは視覚からの情報だけではないだろう。
トレーナーとして、そして彼自身の趣向として。この状態は非常に良くない。肉体としては人間を越えているが、むしろ衰弱しているようにすら感じる。
責任感の強さも相まって、旋毛を見せて深々と礼を言う貞星をタキオンも、それなりに気をかけていた。
(くっ……ダメだ。やっぱり、全然足りない)
その夜、記録媒体を手に担当のトレーニングを見ていた貞星がクラリとバランスを崩して膝をついてしまった。
夜間でしか活動できないことに加え、ウマ娘達には寮の門限もある。少ない時間で、より密度のあるトレーニングを。
そう思い、彼なりに工夫してみたのだが成果は思うように振るわなかった。
ライトに照らされているとはいえ『よく見えない』というのは想像以上に厳しい環境だ。吸血鬼なので、普段と明暗の判定が逆になっているのも不快になっている。
更にそこへ栄養不足が祟り、貞星は心身ともに限界を迎えていたのだ。また、縮んだ身体が元に戻る際にも大きくエネルギーを消費したので、じっとしていた昨日の夜よりずっと状態は悪い。
「お兄さま、大丈夫!?」
青ざめた様子で、汗を流したままのライスシャワーが駆け寄ろうとする。その健気な姿に、深く歓喜するものの貞星は持ち前の強固な意志で制した。
「大丈夫です。ライスちゃんはクールダウンへ戻ってください。」
「でも……!」
拒絶をした理由は空元気でもあるが、純粋に欲している血液の水袋のような存在が近づいてきては、理性が崩壊してしまうかもしれないからだ。現に、ライスシャワーとの距離は十数歩あるはずなのに、貞星の口は堪えきれないほどの涎が溢れてきてしまっていた。
「……お兄さま、ライスのこと……嫌い……なの?」
「? 何を言って……?」
微塵にも思ったことも、態度に表した記憶もない想いを告げられて貞星は思わず顔を上げた。
少し離れた場所で、遠慮がちに胸元に手を握りしめたライスシャワーが……涙ぐんでいる。
「ライスが頼りないから。ライスが……あんないたずらしちゃったから……だから、ライスのこと……避けるんでしょ……?」
「ご、誤解です!! 確かに、避けていることは事実です。ですが、それはあなた達に不要な危害を加えないため! 昨日の晩のことを思い出してください!」
冷や汗を散らしながら、必死に弁明をする。ライスシャワーは、思い込みも激しい性格。一度悪い方向に気持ちが向いてしまうと、そちらにばかり思考が偏りがちになってしまう。十分に承知している貞星は、懸命に言い訳をした。
「飢餓状態に陥った私は、自己制御が出来ません。そうなったのなら、見境なしにあなたを襲うでしょう。それを防ぐために、常に一定の距離を保っておくことが今は大事。トレーニング前に、そう伝えたでしょう!?」
「でも……。お兄さまが、そんな辛い思いをしないといけないの……ライスのせいだから……。本当は……ライスのこと……きっと……」
「くっ……!!」
想いが届かないというのは、こんなにも歯がゆいものなのか。貞星は拳を握りしめて、血が出るのも厭わずに悔いる。
「わ……僕は……君たちを……ウマ娘を支えるためだけに生きてきました。今はこんな姿ですが……それでも。僕は! あの日、スカウトしたあの日から。絶対に、ライスちゃんを『不幸を与えるウマ娘になんてしない!』 そう誓ったんです! だから!」
「だったら……だったら、ライスにも、お兄さまを助けさせてよ!」
「ッ!!」
泣き叫ぶ以外で、聞いたこともない大きな声でライスシャワーが叫んだ。
たじろぐ貞星に、考える隙も与えないよう続ける。
「お兄さま、いっつもライス達のことばっかり。遅くまで残って、いっぱいお仕事して。今も大変なはずなのに……まだ、ライスのこと考えてるんだもん。少しぐらい、ライスだって……ライスだって、お兄さまに何かを返したいの!」
「ライス……ちゃん……!」
「ライスの血で、お兄さまが少しでも救われるなら……ライス、良いよ。お兄さまに、血をあげる。ううん、あげたいの」
デビューする前の頃、レースに出ることすら怖くて逃げだしてしまったライスシャワー。そんな彼女を、友人のハルウララと共に励まし、そして光の道へ連れ出した貞星。
それから、幾度も困難を共に越えてきた。しかし、それは常に後ろをついてくるライスシャワーの背中を押す形で成したもの。
今まで、自分から提案することは少なく。どこか遠慮がちで。ここまで、自分の意思を強固に伝えることはなかった。
「……ぐすっ……う゛ぅ~~……!」
貞星は号泣していた。娘の成長を実感した父親のような心境になり、堪えきれない感情で胸が一杯になる。
「おやおや。舌戦が繰り広げられてるから来てみれば……。なんだい、トレーナー君の方が先に泣いているとはね」
暗いコースに白い布がはためく。歪んだ視界を拭い、その人物が誰なのか特定すると。
「あ……あなたは……! ヤバイ方のアグ「それはもういい」
お決まりの文句を潰しながら、白衣姿のアグネスタキオンはツカツカとライスシャワーの方へ歩いていった。
「ライス君、疲労感以外で体調に支障は無いかな?」
「ふぇ? ……えっと……うん。大丈夫だよ」
「ならば問題ない。さあ、トレーナー君。ライス君に噛みつきたまえ」
「何を言ってるんですか、あなたは!?」
最後の力とでも言わんばかりに、強烈なツッコミが入る。気だるそうな表情のタキオンも、思わず嫌な顔をして耳を塞ぐ。小動物のように隣で怯えるライスシャワーの背中に触れながら、人差し指を空に向けつつ答えた。
「なに、簡単な話さ。君の吸血行為で、保血者の人格や身体的特徴が出てしまうというのならば。そもそもの原因であるライス君の血であるなら、影響は少ないと結論づけたのさ」
「……しかし。」
「一応、サンプルは少ないが実証もある。昨日、自らの血を吸って君は暴走行為を制した。君の血にはライス君の細胞が混じっていることから、抑制効果が働いたのだろう。副作用なしでね」
「……なるほど。確かに、合点はいきます。ですが……」
「悩んでいるほど、余裕があるのかい。今にも意識を失いかけているというのに」
そう。貞星の空腹は限界に達していた。タキオンも距離を置いてくれているとはいえ、それでも視界に映る二人のウマ娘。これ以上、今の状態で我慢を続ければ昨日の悲劇が起こることは必至。
再び自分に噛みつけば、その場しのぎは出来るかもしれない。だが、また明日、その次と続けられる確証もない。結局循環している以上、自分を騙しているだけなのだから。
……で、あるならば。
「……すみません、ライス……ちゃん……。」
ゆらりと表現するには大きすぎる巨体が、宵闇に浮かび上がる。コースの芝を、ゆっくり踏みしめながら前へ、前へ。
「うん。大丈夫。ライスは大丈夫だから……。ね?」
「ご厚意は大変嬉しいのですが、そこは
「え? あ……うん。わ、わかった!」
発動した✨鋼の意志で、どうにか貞星は差しだされたライスシャワーの首筋を噛むことを拒否出来た。序盤に詰まった際に発動するスキルでなければ、きっと差し切られていたに違いない。ありがとう、桐生院葵。
そして、貞星は浅い呼吸のまま跪いた。遠慮気味に伸ばした、細くしなやかなライスシャワーの指をそっと手に取る。まるでこれから
ゆっくり、ゆっくり。
貞星は、躊躇うことを諦めた様子で。だけど、乱暴にならないように。伸びた鋭い犬歯を、ほんの少しだけライスシャワーのぷっくりとした指の腹に突き立てた。
「……」
「……」
「……。」
他に誰も居ないターフの上を、風が優しく撫でていく。雲間に隠れた月明かりが、優しく二人を照らしていく。
しばらく流れる、穏やかで不思議な時間。
「……? どうしたんだい、トレーナー君?」
しかし、余りにも長く続いた硬直に違和感を覚えたタキオンが声を掛けた。
貞星はピクリとも動かない。ライスシャワーに目配せをするが、元々呼吸らしい呼吸をしていないので安否は不明。
「トレーナー君……!?」
そして、近づいて陰になり見えない顔を見てようやくタキオンは気付いた。
「こ……こいつ」
彼の、晴れ晴れとした……全てを成しえて力尽きたその表情から理解したのは。
「……死んでいる……!!」
20XX年 11月2日
愛場 貞星 尊死
「いや、死ぬなよ」
「あふっ!? こっ、ここは!? 僕は一体……!?」
タキオンの延髄を狙った、見逃しそうなほど恐ろしく速い手刀により、貞星は一命をとりとめたのだった。