本当に吸血鬼になっちゃったライスちゃんのトレーナー 作:背水 陣
「……うーん。ダメだ。」
活動時間の逆転した夜更けのトレーナー室。貞星は、液晶から目を離して遠くを見た。
日の落ちた時間のみ開くことのできるカーテン越しに、暗いトレセン学園が映っている。
そこから見えるターフには、既に誰もおらず。トレーニングの時間はとっくに終わったことを理解させる。
(……元気に走る、
窓に手を触れ、脳内で必死に妄想を張り巡らせる。今日、指導を言い渡したみんなのトレーニング結果は、ライスシャワーやアグネスタキオンが撮影してくれた映像越しにしか確認できていない。
自分という指導者がその場に居なくても、それぞれが考えたり工夫したりして研鑽している姿はさながら授業参観に来た親のような気分。
知らない間に成長してくれていた、チームメイト達に涙をしつつも同時に襲い掛かる強烈な寂寥感。
もっと、身近で彼女らを感じたい。変な意味ではなく、単純に一人のトレーナーとして。
まともな生体活動はほとんど行っていない癖に、身体は睡眠を求めてくるせいで日中は対応が難しい。昼間に起きて遠隔で指示をあげられれば良いのだけれど。そうなると、夜間の動ける時間がほとんど潰れてしまうことになるだろう。
どちらを取るかと言えば、問題解決に向けて融通の利く夜を、貞星は選ばざるを得なかったのだ。
とはいえ、先ほど小さく呟いたように戦果は芳しくない。日本だけではなく、海外のサイトをネット内で探してみたりもするが、この21世紀の今になって本気でオカルト的思考を信じている者がどれだけいようか。文献や検証をしているサイトは、当然あるにはあるが。その全てが眉唾物。そもそも本気で取り扱っておらず遊び半分だったり、辻褄の合わないフェイク情報だったり。
(真の歴史を、当事者以外は誰も知らない。もし仮にこの現象が、過去に実在していたとしても……きっともう、対処法を知る者は居ないんだろう。)
かつて、人類が撲滅に成功した感染症があるように。
この世界から、あった事実は存在しても目の当たりにし、正しく適応できる人間などいないように。
この吸血鬼化現象も、同様なのだろうか。
それとも……やはり、ファンタジーやメルヘンの世界の出来事でしかなく。自分自身が、この世で本当に吸血鬼になってしまった最初の人間なのだろうか。
「僕は……本当に人間に戻れるのかな……。」
冷たく重い空気を、大きく吐いた。窓ガラスすら曇らぬ息を見て、自身が非凡な人間であることをまざまざと実感する。
「……ん?」
スマートフォンが振動したので、ポケットから取り出す。LANEが一通届いており、差出人がライスシャワーであることを確認すると、ロックを解除した。
《お兄さま、トレーナー室にいる?》
《居ますよ。どうされました?》
既読が付き、少し待つ。
すると、遠慮がちなノックが部屋に響いた。誰と確認するまでもない。時計を目にし、まだ門限まで時間があることに安堵しながら扉を開けた。
「こんばんは。突然ごめんなさい……」
「いえ。構いませんよ。」
室内に入るよう促すと、おずおずと入ってくる。貞星はその小さな腕に抱かれている分厚い本に注視してから、すぐに応接用の椅子へ座るよう伝えた。
「……? ライスちゃん?」
しかし、ライスシャワーは動かない。ぎゅうっと腕の中の書物に力を込めてから、貞星へ中身が見えるように両手で開きつつ差しだした。
「こ、ここにね! 吸血鬼と昔戦ってた人の記録が残ってたの!」
「……小説ですか?」
「ううん、手記みたい」
「手記? ……なるほど。書物自体はレプリカですが……内容としてはかなり昔の出来事ですね。」
「イギリスのお話なんだけど……でも、ホントにあったことみたいだよ」
「失礼。」
受け取りながら、貞星は様々な思考を張り巡らせる。
今日のトレーニングにも、手を抜いた様子はなかった。むしろ、年末に備えてハードに行ったつもりだ。上がって良いと伝えた時は、泥だらけで今にも倒れそうなほど憔悴していたはず。
日が浅くなったことで、練習終了時間が早くなったと言えど……この一冊を探し出すのにどれほど苦労したのだろうか。
毎日毎日、苦労してきたことを顔にも出さず。ようやく掴んだ糸口を、ライスシャワーは持ってきてくれた。
「うぅ……っ!」
「ふぇ!? ど、どうしたのお兄様!? どこか痛いの!?」
「いえ……吸血鬼になってから痛みはほとんど感じておりません……が、胸の痛みだけはどうしようもない……。」
慈愛とも言えるほどの献身っぷりに感涙していると、涙で滲んた貞星の目にとある一文が入って来た。
「……これは。」
そこは、いくつもの栞が挟まれたとある一ページ。ライスシャワーが彼女なりに、使えそうだと判断したページの一つ。
「波紋の呼吸……?」
「あ、うん! そこね、ライス気になってたんだ」
ふいに貞星の手に広がった本を、少し引いて自分にも見えるようにする。幼子が覗き込むような姿になり、案の定、貞星は尊死しかけたが吸血鬼となり不死身になったことが幸いしたのだろう。眼鏡がパリンと割れるだけで済んだようだ。
「その……波紋? の呼吸で、太陽さんと同じ力をね、身体の中から作れば……ちっちゃいライスを、お兄さまの中から取り出せるんじゃないかな、って」
「……なるほど。確かに……。どうやら、その波紋とやらによって生み出される力をコントロールし、くっつく力と反発する力を同時に発動させることで、体内の吸血鬼の一部をはじき出すことに成功しているようですね。」
「うん! ど、どうかな……。やっぱり、こんなのおとぎ話だから意味……ないかな?」
「意味がある、ないを決めるのはこれからです。ライスちゃん、やりましょう! ありがとうございます!!」
「お兄さま……。ライスの方こそ、ありがとう……!」
小さな手を握り、貞星は恭しく礼をした。どんなことであろうと、自分の為に何とかしたい。その心遣いだけで、彼の胸は一杯になったのだから。
「して、どんな方法があるのですか?」
「えっとね」
「その方法については、私に任せてもらえるかな!」
「あ、あなたは……!」
「そう、ヤバい方のアグネスこと、アグネスタキオンさ!」
(ついに自分から言い出した……。)
扉を勢いよく開けながら誇らしげに入ってくるアグネスタキオン。手には、小さな箱を携えていた。
嬉しそうに貞星の前に歩いていくと、顎に人差し指を当てながら尋ねる。
「トレーナー君、嫌いな言葉はあるかい?」
「嫌いな言葉……ですか?」
「一番目に努力、二番目にガンバル……なんて言うようでは、中々厳しいことを強いてしまうのだが……。その心配は無用かな?」
「え、ええ。私は特に秀でた人間ではありませんから……1に努力、2に努力、3,4がなくて5に努力がモットーです。嫌いな言葉は、それに準じないもの全てです。」
(努力マンさんが好きなのかな、お兄さま……)
「では……失礼!」
「!?」
手にしていた箱を素早く開けると、アグネスタキオンは身長差約40cmという数字をまるで気にもならない速度で飛び掛かり、『何か』を貞星の口元に押し付けた。
いくら貞星の体格といえど、ウマ娘並の力を得た彼が簡単にたじろぐことはない。それでも、タキオンからの所作を受けたことにより、思わず彼は蹲ってしまった。
「んぐぅ!?」
「タキオンさん!?」
「慌てる必要はないさ、ライス君。別に攻撃を加えたわけじゃあない」
「でも、お兄さまが……」
「…………
「ふぇ!?」
「
口元に触れると、血流の悪い手に冷たく硬い感触が通っていく。
反射するガラス越しに自分の顔を検めると、そこには重たい金属製のマスクが装着されていたのだ!
「
「それは、波紋の呼吸をするためだけに製作された特別なマスクさ。何分資料が乏しいものだから、製作は難航したものだよ」
「
「そう、だからこその変声機構を盛り込ませてもらったのさ! 正しい波紋の呼吸で発声しない限り、トレーナー君は永遠に
「
「アッハッハッ! いやはや、さっきから君が何を言っているのかさっぱりわからないよ! 不便と感じるのであれば、見つけ出すんだね。波紋の呼吸法を……!」
「
「ちなみに、これが製作費用さ。いつものように領収書は君宛で切っているから、処理は頼んだよ」
「
「おぉ、早速呼吸が変わったようだ。その調子だ、精進したまえ。はっはっはっ!」
確かに、タキオンの研究費用などを肩代わりすることはよくあるのだが、それでも見たことのない金額に、結構呑気していた貞星も見たことのないゼロの数にはビビった。
しかし、愛するウマ娘が自らの為に何かをしようと動いてくれたことには、彼も愛を感じずにはいられない。
普段から、瞳に光の灯らないダウナー系のタキオンも、今日は目の下に隈までセットでついていた。彼女も、彼女なりに何かしようと献身してくれているのだ。
高笑いをしつつ、妙にふらついたまま退室したのは弱っていることを悟られないようにするためだろう。
(やり方はどうであれ……。これに応えなくては……僕は僕を許せないよなぁ……!)
財布のダメージを奮起に変え、貞星は立ち上がる。
「あ、あのね。お兄さま」
力強く拳を握り立ち上がった貞星の服が、控えめに引っ張られる。
視線を落とすと、遠慮しがちに上目遣いをするライスシャワーが細く小さな手で裾を掴んでいた。
貞星は意図的に心臓を一時的停止させ興奮による反射行動を押さえつつ、震える指でスマートフォンを操作して尋ねた。
【どうしました?】
「ら、ライスもね……。やろうと……思ってるんだけど……トレーニング」
【そうですね。とはいえ、今日は流石にもう遅いですから解散にしましょう。
菊花賞の走りが維持できれば、ライスちゃんならば有馬記念もきっと制覇できますよ。】
「そ、そうじゃなくって!」
「?」
意図を掴めずに首を傾げる。言葉を待っていると、おずおずとしたままライスシャワーは意を決して言った。
「波紋の呼吸……ライスも、覚える!」
「
皐月賞から始まったクラシックロード。8着というスタートから、ダービーに菊花賞トライアルのセントライト記念。京都新聞杯でも、勝ちきれなかったミホノブルボンから、ようやく栄冠を掴み取ったのは無敗の三冠が期待されていた菊花賞だった。
そこに至るまで、健気に献身的に。貞星の言うことをしっかり聞き、苦しく辛いトレーニングでも弱音を吐かずにライスシャワーはついてきてくれた。
トレセン学園の生徒である以上、学業も疎かにできない。初のグランプリレースに向けて、新しくウイニングライブの練習も熟さなくてはならない。とてもじゃないが、少なくとも今はスケジューリングとして、他のことに割ける時間などない。
それなのに……。
(……。僕は。)
貞星は、見上げてくる大きな瞳に慈愛以外の感情を受け取った。
――――覚悟。
レースに勝ちたい。それと同じくらい。貞星のことを案じ、力になりたいという意志。
(無碍にするほど、僕は愚かな人間じゃあない……!)
眼鏡の山を押さえて一度くいっと持ち上げた貞星は、すぐさまスマホを起動させ、少し待つようにライスシャワーへ指示をする。
それから仕事机に向かうと、恐ろしい速度でタイピングとクリックを繰り返してタスクを熟す。右手の動きと左手の動きが交差し、歯車的砂嵐の小宇宙が誕生したことで、密室のはずの室内に大いなる風が舞い起こった。(特に作業効率が良くなったわけではない)
風圧で飛んでしまいそうでやや不安に思い、ライスシャワーが普段から付けている小さな帽子へ手を伸ばす。
だが、その行動をする前に大きく冷たい手が彼女のお気に入りを優しく支えた。
そして、もう片方の手に持つスマートフォンに映し出されたのは、『ライスちゃん育成計画(トレーナーを添えて)』という、妙にホラーな書体で生み出されたものだった。
「Wrrry……KUA!!!」(やりましょう、ライスちゃん!)
「……うん! ライス、がんばる!」
共に苦楽を歩むという黄金の精神。お互いの気持ちを通じ合わせた貞星とライスシャワーは、時間の許す限り特訓に励んだ。
とにかく資料が少ないため、訓練の内容から特に困り果てた。文献によればナチュラルボーン波紋使いも いたようだが、源流を辿れば誰かに教わってから会得した子孫が無意識に使えていただけのこと。
だが、逆を言うのであれば後天的に会得する術は確かにあるはず。
とにかく「呼吸」なのだ。
過酷に肺を使用して、根本的に身体を鍛えることに焦点を置きトレーニングに励んだ。
1秒間に10回の呼吸が出来るように! 10分間息を吸い続けそしてそれを10分間吐き続け! 一定のリズムを刻んだまま、遠泳を行い!! 四六時中、体の中に流れる奇妙なエネルギーを徐々に徐々に蓄え続けたのだ!!!
そして……!!!
夜のグラウンドに、二人が立っている。
漆黒の髪を靡かせ、長い耳をピンと張る小さな背中。
今まではどこか、あどけなく……そして不安と気弱さが見てとれた彼女は今。
隣に立つトレーナーの体躯に見劣りしないほど、堂々とした佇まいでターフに立っていた。
「……」
【準備はいいですか、ライスちゃん】
貞星がスマホで合図を送る。
ライスシャワーがそれを受け取ると、見た目に恥じない凛とした返事をした。
「うん。いいよ、お兄さま!」
目を閉じ、意識を集中する……。自らの中にある「それ」を、共に生み出した「力」を内側から吐き出す様に……「呼吸」に乗せて作り出す……!!
コォオオオオオ……!
耳慣れない音が、口から漏れている!
呼応するように、足元に青々と伸びた芝たちが、まるでミステリーサークルを形成するかのように、たなびいている! その姿はまさに、水面に衝撃を与えた時に生じる「波紋」そのもの!
そう、たゆまぬ努力と諦めない心が遂に! 細い糸を紡ぎ、現代においておそらく唯一! 「波紋の呼吸」を会得したのだ!!!
「W、Wryyyy!!! WRRRYYYYY!!!!」(や、やりましたね! ライスちゃん!)
「うん! ライス、できたよ!!!」
……ライスシャワーが!
「それでは意味がないだろう!」
至極当然のツッコミが横から飛んできた。
「WryWryy、WrrryWryy!」
「ヤバイ方のアグネスのくだりは不要だと言ったはずだよ」
呆れ気味に、やや息を切らせながらアグネスタキオンが袖のダボついた白衣のまま歩いてくる。
「トレーナー君、波紋の呼吸は君が会得するんじゃあなかったのかい?」
「Wry……Wryyy……WRYYYAA……」
「ついトレーナーとしての癖で、ライス君を指導してしまった? 全く、根が真面目過ぎるというか……。そもそも、君自身の問題だろうに」
「Wry……」
「謝るぐらいなら、前に進む努力をしたまえ」
(どうしてタキオンさん、お兄さまの言ってることわかるんだろう……)
当たり前にやりとりしていることにライスシャワーが困惑していると、しゅんとした貞星の背にタキオンが手をかける。
「まあ、どうせそんなこととは思っていたさ。教育に順守するあまり、君はすぐに自分のことをないがしろにする。トレーナーとしては優秀だが、今置かれている立場を鑑みると愚かとしか言いようがないねぇ」
「た、タキオンさん……!」
言い過ぎだ、と咎めるより先にタキオンはトレーナーを正面に向かせる。大きな体がライスシャワーとの間に入り、おのずと言動が遮られた。
「Wry?」
「君も修練しなかったわけではないのだろう? だが、出来なかった。それは何故か……。おそらく、如何に吸血鬼と化したとはいえトレーナー君の肺や心臓は人間のもの。とりわけ、天性のステイヤーであるライス君のような特別な体躯でもあるまい。……で、あれば!」
袖をまくり、小指だけを立てる。
「パゥ!」
「URYッ!!???」
そして、胸元を思い切り突いた!
ずぶずぶとタキオンの細指が蟻地獄の仕掛けた罠に飲まれるアリん子のごとく、衣服の上から丸ごと貞星の身体へ埋まっていく!
「タキオンさん、何を!?」
「WRy……! KU……ッハァ……!?」
「そう、そのままだ。息を吸わず、ただひたすらに吐き続けるんだ。1ccも残らず絞り出すんだよ」
大きな背中が悲痛な叫びと共に再び丸くなり、慌てるライスシャワー。動じずに、タキオンは真っすぐと青ざめていく貞星を見つめる。
「……どうだい。古式……いや、もともと古典でしかないが。強引に波紋の呼吸へと促す手法らしいが……効いたかな?」
掠れる声すら聞こえなくなるのを確認すると、指を引き抜く。
異変以降、青白い顔は更に白くなり、冷や汗を流している。
だが。
「……あれ?」
鋼鉄越しのくぐもった声が聞こえる。
若干の聞こえづらさはあるものの、それは間違いなく貞星の声そのもの。
特殊な構造により、何を話しても別の言葉に変換される機構を通しているのにも関わらず。
「普通に……話せる!?」
「え、本当!?」
喉元を過ぎた途端に発声が奇妙に変換される様子もない。
愛場貞星の、いつもの野太くも爽やかな発声が戻って来たのだ。
「ふむ。横隔膜付近を刺激して、強引に呼吸をゼロから整えれば理論的には可能……とは書いてあったが。やれやれ、まさか本当にできるとはね。何事も試してみるものだ」
「ありがとうございます、アグネスタキオンさん!」
発声することを苦に思わなくなり、貞星は付けられていたマスクを外した。鍵もなく、いつでも取ることはできたのに、律義に言いつけに従っていたのは彼の誠実さが成させたものだ。
もう無用の物となったその重たい金属の塊も、捨てたり壊したりせず大事に取っておくつもりだったのだろう。トレーナー机に置こうと手を伸ばそうとした時だった。
ガシャァン、と甲高い音が室内に鳴り響く。
突然の大音に敏感なウマ娘二名は尻尾を立てて驚いていた。
「……え……?」
理解の追いつかない現実に対し、誰よりも冷静で淡白な反応をした貞星は床に落ちたマスクを見ていた。
それは彼にとっては奇妙な光景だった。なにせ、自らの半透明になった手の先にある状態だったのだから。
一呼吸するたびに、身体から感覚が薄れていく。息を吸っても、吐いても。その動作をしていない、切り替わりの一瞬だけ自身を形作る輪郭がハッキリ見える。
「……………………そうか。いや、考えてみれば当然のことだったか。私としたことが、その可能性を考慮していなかったとは……つくづく見通しの甘いウマ娘だよ」
事態が呑み込めずに呆然とするトレーナーより早く、学者気質のアグネスタキオンが状況から推察した結論を悔しそうに独り言ちた。
「た、タキオンさんどういうこと!? お日様にもあたってないのにお兄さま、どうして身体が……!?」
それを聞いたライスシャワーが縋るように質問する。眉間に皺をよせて顎に指を当てつつ俯いていたタキオンは、表情を変えないまま声に反応した。
「波紋の呼吸は太陽のエネルギーを生み出すもの、という代物だったね。てっきり、呼吸……吐息に何か付加価値が発生するものだとばかり思っていたんだが……どうやら、そんな単純な話ではなかったということさ」
「……はぁ……。ぜぇ……。」
苦しそうに息をするたび、明滅するように巨躯が景色に消えそうになっている。波紋の呼吸は一度沁みつくと、それが自然となるため元に戻すのは難しい。本来なら数多の修行を経て会得する術なのだが、貞星は才能があったようだ。タキオンの強引な呼吸改善方法を受けてから、身体がすっかり適応した呼吸法に馴染んでしまった。
「外的なものではなく、もっと内側から太陽の力は発生するようだねぇ。つまり、今のトレーナー君は息をするたび、自分の身体を痛めつけていることになる」
「……じゃ、じゃあ……このままだとお兄さまは……!?」
大きな瞳に涙を浮かべながら、しなれた耳を一生懸命タキオンへ向ける。
その様子をちらりと横目で見て、タキオンは一度口を開いてから。音ではなく吐息を漏らしてから噤み、再び決意を持った面持ちで言葉を発した。
「……自分の呼吸で、トレーナー君は消えてしまうかもしれない」
「…………そんな……!」
貞星とライスシャワーと、同じ言葉が同じトーンで発せられた。
何とか息を止めてみても、息苦しさが勝り吐息が溢れる。さっきまでは、まともな呼吸なんて必要なかったはずなのに。まるで、今の状態が自然なように不思議な息苦しさを覚えてしまうのだ。当然、その度に体に少しずつダメージが入っていく。
「…………」
「ど、どうしようタキオンさん……!」
掠れた声でタキオンへしがみつく。涙を隠そうともしないライスシャワーを気にも留めず、タキオンは思考を繰り返していた。何か打開策がないか、どうすれば元に戻せるのか。いや、そもそも戻すことは可能なのか。呼吸を発露させる方法は文献にあったが、止める方法に関しては見たことがない。
実験を繰り返して打開策を練るか? いや、そこまでの時間が残されているだろうか。
返事がないことに、どんどん不安を覚えるたびに目からぽろぽろと宝石のような涙が零れていく。
脂汗を流し、ただただ考え込むタキオンとその小動物のようなウマ娘、二人を見て愛場貞星は苦悶の表情を浮かべた。
(僕のせいで……二人を辛い目に合わせてしまっている……。)
本来の原因など、彼の頭にはなかった。ただ今起こっている事象が許せない。ウマ娘を溺愛し、尊敬しているからこそ。彼は己が理由に、彼女らを困らせることなどあってはならないのだ。
ゆっくりと立ち上がり、決意を固めていく。
このままではいけない。大きなレースも控えている。走ることの邪魔になるぐらいならば。
いっそ、自分が居なくなれば……!!
会得した呼吸を、存分に発揮しようと力を込めて立ち上がったと同時に耳をつんざくような声とけたたましい音を立てて、トレーナー室の扉が蹴り開けられた。
状況に相反するような明るく楽し気な表情で、飛び込んできたその人物は当然、人間ではなく。トレセン学園でも屈指の奇人と噂の葦毛のウマ娘である、黄金の不沈艦!
「よぉ、トレーナー! 一週間放置した海苔みてーにシケた面してんな!」
「ご、ゴールドシップさん……!」
彼の担当ウマ娘でもあるゴールドシップだった。