「ねえ。本当に一緒に行かなくても大丈夫?」
「しつっこいわね。たかが内職の造花を納品に行くだけでしょ。一人で充分よ」
「でも、荷物も重そうだし」
十分ほど前から同じようなやり取りが二人の間に何度も繰り返されている。
午後二時。
貧乏長屋の玄関先に突っ立ったシンジは妻が両手に抱えた大きなダンボール箱を心配そうに見ていた。箱の中には一週間不眠とまではいかずとも、不休でふたりが頑張った仕事の成果が入っている。造花一本一本は大した価値でもないが、これがサードインパクトにより生活苦と借金を負った碇家の生活を支えているのだ。
──碇シンジはエヴァンゲリオン初号機の元パイロット、そしてその妻、碇・アスカ・ラングレーは同弐号機の元パイロット、この事実は天下に隠れもないものだ。サードインパクト時にさしたる活躍もしなかったシンジはともかく、弐号機のアスカと、零号機のレイは量産型エヴァを全滅させ、ゼーレの野望と世界の全壊を未然に防いだ、という点でまず英雄と言って良い。
しかし、その後ふたりの女性の境遇には天地の差があった。シンジがサードインパクト発動の一大責任により、世界中の崩壊建造物・施設等の賠償を負わされて自己破産してからというもの、その妻となったアスカや子どもたちともども、極貧の生活を強いられることなったのだ。
一方、綾波レイは事件後、ジャーナリストに身を転じた後、知名度を活かしてベンチャー企業をいくつも立ち上げ女性起業家として辣腕を振るっている。もっとも、アスカとレイは茶飲み友だち兼口喧嘩の好敵手として、お互いの家を行き来しあっているというから、顔を合わせるたびに面罵が始まるという表面上はともかく、その仲はそれほど悪いものではない。
このような事情から碇一家の家計は相変わらず苦しかったが、それでも一家離散といった悲惨な事態に陥ることがないのは、綾波レイが影ながらバックアップしているから、という事実については、シンジもアスカも全く知らない。レイもこの「お節介」については、つゆほども誇ることも驕ることもなく、ただ二人に気づかれることのないよう援助を続けていく事のみに力を注いでいた。
それはともかく、今のシンジの心配は箱の中身ではないようだった。その視線は明らかにアスカ自身に注がれている。アスカは呆れた。別に万里の波濤を越えて旅をするわけではないのだ。
「たった三つ先の駅じゃないの。あんたばかぁ?」
「そりゃそうなんだけど」
「そんなにこのアタシに付いて行きたいわけ? っとに、アンタはいつまでたっても、女房離れができないヒトね」
アスカはダンボール箱を脇の下駄箱の上に置くと、片手を腰にやって嘆息する。
「……ち、違うよ。僕はただ……アスカが心配だから」
赤くなって慌てて言い訳するシンジの鼻先に白い顔を突き付けて、アスカは意地の悪い目つきをする。
「はいはいはい。アンタの気持ちはよーっく、わかったから。出先で浮気なんかしやしないから、いい子にして待ってなさいな」
にやにやと邪悪な笑いを浮かべ、ぽんぽんと夫の肩を叩く。
「アスカはすぐにそうやって僕のことからかうんだから」
昼間のアスカはいつも真剣に彼の想いを受け止めてくれず、今回のように茶化すか顔を真っ赤にして怒鳴り散らすか、といった態度をとる。ゆうべも一つ布団で睦み合ったばかりだというのに、一体どういうことだろう。シンジは疲れたように大きなため息をついた。
「そんなことよりも、アタシがいない間にちゃんと次の内職進めておきなさいよ。それから子供たちが帰ってきたらちゃんと面倒見てあげるのよ!」
「わかってるよ。大丈夫」
子煩悩なシンジだけに、その点注意を促してはいるもののアスカに心配はない。
「あとは……そうねぇ。帰りに待ち合わせして、久しぶりに一緒に夕食のお買い物でもして行こうか」
「えっ、それって本当?」
突然の妻の申し出にキツネにつままれたような顔になる。
「アンタが寂しそうにしてるからね。シンちゃんはママが一緒じゃないと寂しくってさびしくってたまらないんでちゅよね?」
わざと赤ちゃん言葉を使ってシンジを母に追いすがる幼児に喩えたあと、アスカは優越感だか支配欲だか征服欲だか、恐らくそれら全てがない交ぜになった笑みをうふふと満面にたたえた。
「だって……寂しいっていうか、その……アスカは僕に夜だけしか優しくしてくれないから……なるべく一緒にいたくて」
「ス、ストップ! その話はまたややこしいことになりそうだから、やめとくわ。いいわね?」
話がどうも変な方向に逸れそうだった。度外れた鈍ちんのシンジと、さらに輪を掛けてひねくれた性格のアスカは、結婚後すでに十一年という歴史ある夫婦なのに気持ちのすれ違いがかなり多い。もっとも、そのわりには上は十一歳から下は八歳まで三人の娘をしっかり作っているのが、微笑ましいといえばいえるだろうか。
上からアイ、マイ、ミイというかなり個性的な性格の子どもたちだが、当然この時間はまだ小学校から帰っていない。長女のアイは十一歳で小学五年生。アスカ譲りの頭脳明晰で、黒髪のショートカットの少女だ。次女のマイは十歳で小学四年生。家庭的でシンジ直伝の料理の腕を振るう、栗色のポニーテールの少女だ。そして、三女のミイ、八歳で小学二年生。天真爛漫な性格で、アスカと同じ金髪を腰あたりまで伸ばしている。
シンジをきつく一睨みすると、アスカは慌ててその話題を封じた。しかし顔全体が羞恥の色に染まっている。まるで新婚夫婦のように、毎晩のように情を交わし合う──といっても、かなりアスカの方が積極的で主導権を握ることが多かったが──二人だが、昼間は小中学生なみのうぶさを発揮する。アスカは素直になれないひねくれた性格になってシンジをいじめたり、冷淡になったりするし、シンジはどうしてそんな態度をアスカが取るのか分からなくて、悩むというわけだ。
「で、どうするのよ。一緒に買い物付き合うの、やめるの?」
「い、行くよ。アスカと一緒にどこか行くの……久しぶりだし。今、一緒に連れて行ってくれないのは残念だけど」
「じゃ、決まりね。帰りにはちゃんと駅まで迎えに来るのよ。遅れたら承知しないんだからね」
「うん……電話くれたらすぐ直行するよ」
そうシンジと約束して、アスカは颯爽と長い髪をなびかせて出かけていった。
◆
背の低いビルの谷間に沈みかけた西日がアスカの髪を燃えるように彩り、空にはちょうど旬の鰯のような形をしたうろこ雲が浮かんでいた。納品先で検品に不手際があって延々と待たされ、つい予定より遅くなったが、十分ほど前にシンジに電話を掛けたところだ。四時ちょっと過ぎというところである。
「ねぇねぇカノジョぉ……」
髪だけをアスカと同じような色に染めつけた若者たちが掛けてくる声を、駅の改札前の柱にもたれかかりながらアスカは聞いた。無遠慮に三人の男の顔の上に視線をなでつける。見るからに軽そうな男たちだ。外見で人を判断するのはよくない、とは思うが、アスカに声を掛けて来たその行動で、この場合偏見ではないことを彼ら自身が証明してくれた。どうせ、次のセリフは判りきっている。
「もしかして、ガイジンさん? 日本語わかるかな?」
──ほらね。
アスカは心の中でうんざりしつつも自分の予想の正しさにうなずいていた。最初に「ガイジンさん?」と来て、次は「すごい美人だね」で、最後には「お茶しない?」でダメを押す。アスカに声を掛ける男は大抵決まってこのパターンだ。アスカにしてみれば、自分が「ガイジン」であることも「すごい美人」であることも別に他人にあらためて言われるまでもない事実なので、いい加減うんざりするのだ。
自分に異国の血が混じっていることも、さらに言えばその美貌の希少的価値でさえも、はっきり理解していないのではないか、と思えるぐらい普段から薄ぼんやりとしているシンジの顔が自然に浮かんで来た。
……無性に会いたくなる。
(おっそいなぁ、アイツ。まったく何やってんのよ、真性グズっ)
内心の怒りを言葉のつぶてに変換して、目の前の男に代わりにぶつける。
「うっさいわね。あっち行きなさいよ、しっしっ。人を待ってるんだから」
「あ、やっぱり日本語しゃべれるんじゃん。よかったぁ」
若者たちのうち、背が一番低く、赤茶けた髪をしたまだ童顔の少年が破顔した。そのはしゃぎ様から、悪ぶっている外見と裏腹の幼さが見て取れるものの、つきまとわれるアスカの不快感は拭いようもない。やっぱり黙ったままやりすごせばよかった、と後悔した。シンジの迎えが遅く気分がくさくさしていたので、つい相手になってしまった。といっても、日本語の分からない外国人のふりをしたまま、聞くに耐えない珍妙な英語と日本語のチャンポンで話し掛けられるよりはマシかもしれないが。
「なぁ、一緒にお茶しようぜ」
「……結構よ。別にお茶なんて飲みたくないの」
「そんなこと言わないでさぁ……頼むよ。あんたみたいな美人と一度でいいからお茶が飲んでみたいんだ」
真ん中の一番背の高いそばかす顔の若者は片目をつむってアスカを拝むような格好をして見せる。目尻をだらしなく下げ、下卑た笑みでうなずき合う男たちをアスカは無表情に眺め回すと、切り捨てるように言った。
「じゃあ聞くけど、お茶を一度飲んだだけで満足するの。アンタタチ」
「そりゃあ、もっと先までお近づきになりたいさ。なぁ」
男たちのねめつけるような視線がアスカの顔から足までを走査すると、まるで目で犯されたような不快な気分になった。
「フン。悪いけどお近づきにはなれないわね、お生憎さま。アタシにはちゃんと、愛しいいとしいダンナ様がいるのよ。それに三人の子どももね」
「またまたぁ……冗談ばっかり」
愛しいダンナ様というのは我ながら吹き出してしまいそうな台詞だ。もちろん、面と向かってシンジに言ったことなどない。さすがにちょっと恥ずかしいが、シンジのいない所でならスラスラと出てくるのは何故だろうか。
ナンパ男たちは瞬間ぎくりと顔面の神経を硬直させた後、彼らを追い払う方便とでも思ったのか顔を見合わせて笑い出した。目の前の女性はどうみてもせいぜい二十歳になったばかり、そして恐らくは十代後半、という風にしか見えなかったからだ。夫がいるというのはあり得る話としても、三人の子持ちにはとても見えない。若者たちが冗談と判断するゆえんだ。
そんな若者たちの当惑をことさら無視して、アスカは口を開いた。
「亭主が来たわ。……おーい、バカシンジ~!!」
よろよろと頼りなさそうなシンジの姿が、アスカが手を振った道の向こうにようやく現れたところだった。
◆
十五分ほどたって、二人は駅からの帰途にあった。
「ねえ、シンジ。今日の夕御飯、何にしよっか」
「何でもいいよ、アスカの好きなものにするから。……言って」
弾んだ声の妻の問いかけ。珍しくアスカはシンジの腕を取って歩いている。だが、シンジの腕の奮いどころの料理の話なのに、気の抜けた返事が帰ってきた。
「なによう。さっきから元気ないわね」
腕から手を離すと、アスカはつまらなさそうに頬を膨らまして立ち止まった。先刻、遅まきながらあらわれた夫の腕に手を回して見せつけるようにいちゃついて見せると、さすがに無粋なナンパ連中たちもそそくさとつまらなさそうに行ってしまった。不愉快な男たちから解放されて夫とふたりきり、アスカは心が何となく浮き立つようだった。
それなのに、さっきから元気がない様子の夫を見ていると、何だかくさくさした気分に逆戻りしてしまいそうだ。
やがて、シンジが再び重い口を開いた。
「ねえ、アスカ」
「何よ?」
待ち構えていたようにアスカも即座に尋ね返す。シンジの奥歯にものが挟まった言い方に、つい返事にも険しさがこもる。
「さっきの、ナンパっていうやつだよね……」
アスカはその言葉に敏感な反応を示して、片方の眉を上げた。
「そ、それがどうしたのよ! ちゃんと断ったじゃないのっ。何か、文句があるってーの!?」
「ううん、文句だなんて。それに、アスカは誰が見たって美人だから……しょうがないよね……」
シンジは寂しそうに首を横に振った。その煮え切らない様子に思わずアスカは苛立ちの声をあげた。視姦されたような不快感を味わった後だけに、理不尽な罪悪感もあって余計に言葉が尖るようでもある。
「言っておくけど、アンタが迎えに来るのが遅いから絡まれるのよっ。電話したらすぐに迎えに来なさいよ!」
「ごめん、ちょうど子供たちが帰ってきたもんだから……色々バタバタしちゃって……」
そしてまたとぼとぼと無言の歩みが続く。
「ははぁん、そういうことか。アンタさっきの光景見て嫉妬してるんだ? こりゃまたうちのダンナ様にしては、珍しいこと」
「そ、そんなんじゃないよ、嫉妬だなんて。そんなんじゃ」
アスカの嫌味っぽい返事に、シンジの言葉はどんどんか細くなり視線もうつむいていった。そんな夫を見ながら、彼女は唇を噛み締めた。嫉妬うんぬんより、シンジの情けない態度が無性に悔しい。
「はっきりしないわね! 言いたいことがあるならちゃんと言いなさいよっ」
「ホントにもういいって。この話しやめようよ。面白くもないし……」
「フン、いっちょまえに嫉妬しちゃって……しかもネクラにウジウジと」
「嫉妬なんてしてないって言ってるだろ!」
突然暴発したシンジの剣幕にアスカは鼻白む。刺激され、もちろんその気などないのだが、つい挑発性豊かな言葉が出る。
「じゃあ、お茶してこよっかなー、あいつらと」
「……」
「止めないの?」
「……」
「いくじなし」
「ごめん」
「反射的に謝らないでよ!」
「……ごめん」
埒のあかないやりとりに、アスカはシンジを責める矛先を転じた。
「あんた、アタシに嫉妬してること隠そうとしてるでしょ……どうしてよ?」
アスカにとって別にシンジの嫉妬は不快なものではない。普段、面と向かって愛情の表明を行うのが苦手な二人だから、いきおいお互いの気持を確認するのは屈折した感情の発露に頼ることになる。しかも内向的なことでは図抜けている夫シンジが、そういう感情を見せるのは希少なこととも言える。
だがアスカにとって不愉快なのは、その感情をシンジが認めようとしないばかりか、必死に押さえ込もうとしているかに映ることだ。
沈黙が二十メートル歩くあいだ続いた。アスカは大きく息を吸い込んで、シンジを一喝する。
「バカシンジっ! アンタまた間違えを繰り返すの、言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ!」
アスカは怒鳴った。いつもは自分の方がひねくれてシンジを傷つけることもある。しかし、この場合はシンジの方が一方的に悪い。サードインパクト前後のように、自分の気持ちをはっきり伝えないことで、お互い傷つけ合ったりすることはもう御免なのだ。
怒声に目をしばたかせていたシンジだが、やがて立ち止まると憑き物が落ちたように、ぽつりぽつりとだが言葉を発し始めた。
「ごめんホントは……さっき、あんな奴等がアスカに話し掛けるの……見ただけで何だか悔しくって……」
「あんな奴らって……声を掛けられただけじゃないのよ」
「わかってるよ……でも」
「ヤキモチを妬いたのね。だったら素直になればいいじゃないの」
「……だって」
シンジはずっとうつむいたままだ。まさかとは思うが影になった顔は泣きそうな表情をしているのかもしれない。
「はぁ……。アタシは身も心もアンタに全部捧げてるっていうのに。どうしてアンタは自信が持てないのかしらねぇ……」
アスカはそう長嘆息した。とはいえ、自信満々のシンジが「アスカは俺の女だ」という態度に出るような情景もぞっとしない想像である。シンジに持って欲しいのは、ほんのちょっと、ほんのちょっとの、勇気だけでいいのに。
「ねえ、アンタ。百円玉持ってる?」
「そりゃいくら貧乏だからって、百円ぐらいは持ってるけど……」
「じゃあ、何枚かちょうだい」
アスカはぶっきらぼうに手を突き出したが、声のトーンは無邪気な少女のようだった。
「う、うん」
シンジは不思議そうにズボンのポケットから財布をとりだし、中から百円硬貨を四、五枚ほど取り出すとアスカに渡した。アスカはそれを受けとって近くの自販機に投入し、ボタンを二連続で押す。
「ちっ。また値上げで百八十円か。物価高にもホント頭がくるわねっ」
「……アスカ?」
妻の意図がよく理解できないのか、口を開けたり閉めたりしてシンジは尋ね返す。返事はない。代わりに、返ってきたのはアスカのこんな言葉だ。
「一緒にお茶しよーよ、シンジ」
「え……お茶……?」
自販機の取り出し口から二本の紅茶缶を両手に取ると、一本をシンジに放り投げ、目の前の小さな公園を指差した。
◆
「今日はいい天気ねえ、爽やかな秋晴れってやつね……うーん」
公園の隅のベンチを二人で陣取ると、アスカは大きく伸びをしてみせる。
「ねえ、アスカ。どうしたっていうの急に……」
「あらイケないの? アタシだって、羽を伸ばしたい時ぐらいあるわよ。誰かさんのお蔭で毎日息をつく暇もないほどお仕事が大変ですからね」
「……ごめん」
シンジは無言でベンチから立ちあがった。
「やっぱり僕だけ先に帰って仕事しておくよ。アスカは独りで買い物してきて……」
だが、アスカはシンジの行動などお見通しなのか、すばやく腕を掴んだ。しっかりと捕らえて離そうとしないばかりか、ぎゅっと引っ張ってシンジをベンチに引き戻した。
「だーめ。アンタはここでアタシとお茶するの、いいわね?」
「でも」
蒼い瞳がシンジを引きこむような魔力を持って、シンジを見つめている。
「妻に付き合うのも、夫の大切な仕事の一つよ。そうでしょ? アタシは今息抜きがしたいの。それには男がいたほうが気が休まるの。つまりアンタのことよ。分かるわね?」
噛んで含めるような物言いに、多少シンジも反撥心を刺激されたようだ。
「な、何だよ……勝手なことばかり言っちゃって。出掛ける時、僕のこと一緒に連れて行ってくれなかったくせに……」
拗ねた言葉を投げて、うつむいたシンジの両の拳が膝の上でぎゅっと握り締められている。アスカはにっこりと微笑んだ。
「やっぱり昼間のこと、拗ねていたんだ?」
アスカはくすりと笑いを漏らす。やっと、シンジの本音が聞けた。それが無性に嬉しかった。シンジは自分の心のうちを中々さらけ出してくれず、それがアスカとの間に結婚前も後も幾つものすれ違いを生んできたのだが、シンジの本心が見えてさえくれば、その内向的な自己表現も可愛くさえ映じる。
「だって僕たち夫婦だから、アスカと……僕のお嫁さんと一緒にいたかったんだ……。出かけるなら一緒に行きたかったんだ……それなのに」
「で、半日ぶりにアタシと再会できると楽しみに迎えに来て見たら、変な男たちに声掛けられているのを見ちゃったと。それで不機嫌なんだ」
シンジは恥ずかしそうにこくんとうなづいた。
「ばーか」
アスカはシンジの鼻の頭をピンと指先で弾いた。
「な、いきなり……何するんだよ」
「さて、ここでシンジくんにクイズの出題でーす」
「……?」
闊達な性格ゆえに行動が唐突でつかみにくいアスカだが、この時の行動もシンジには即座には理解ができなかった。
「だいいちもーん。アタシのファーストキスの相手は誰だったかなー?」
シンジは言葉を詰まらせる。もちろん答えを知っている彼は恥ずかしそうにうつむいた。追い討ちをかけるように、アスカはシンジの耳にこそばゆく息を吹きかける。
「第二問。アタシのヴァージンを奪ったのはだーれ?」
「アスカ、そんなこと、外で」
シンジはもじもじとうつむいた。顔が真っ赤になっている。このあたり、アスカもうぶなところがあるが、シンジはそれ以上だろう。経験値は等しくとも、夜の夫婦生活ではもっぱらアスカが主導権を握ることが多いせいかもしれない。
「ね、今更その辺の男に乗り換えたりするわけないでしょ? アンタとの間に可愛い娘たちだっているのにさ。」
こくんとシンジは無言でうなづいた。
「ごめんね、妙な嫉妬しちゃって」
「やっぱりアンタはバカシンジね」
「うん……」
「そうじゃないの。バカって言ったのは嫉妬をやめなさいってことじゃないのよ。貞操を疑われたり、無用な浮気の心配なんて御免被るけど、アンタはアタシに嫉妬してもいいんだから。世界で唯一その資格があるんだからね」
「でも、嫉妬なんて男らしくないよね……」
「それで嫉妬してないような振りをしてたわけ? っとに、バカシンジなんだから。アンタが男らしくないのは、今に始まったことじゃないでしょ。美人のお嫁さんを貰った宿命で、身を焦がすような煩悶にたまには悶え苦しみなさいな」
と言ってからからと笑ったから、シンジも何となくつられて笑い、その笑いを引き出せたことがアスカにはたまらなく嬉しい。
そう思ったらほっとしたのだろうか、急に睡魔が襲ってきた。考えてみると、昨夜眠りについたのは、深夜の三時を回っていたような気がする。
「シンジ」
「……何?アスカ」
「アタシ、何だか眠くなっちゃった……アンタの胸借りるわね……」
「え……ええっ」
狼狽したシンジが制止しようとする間もなく、アスカがシンジの胸に顔を埋めてきた。
「……ああ、ぽかぽかする。ねむぅい」
シンジの背中に両腕を回し、ぎゅっとしがみついた。夫の着古したセーターからは、柔らかな太陽の匂いがする。アスカはそれを胸いっぱいに吸い込むと、頬をすりすりとシンジの胸板に擦りつける。アスカ専用の即席ベッドというわけだ。
「仕事で疲れたの、アスカ?」
「ばか」
「え?」
「仕事じゃないわよ。ゆうべの……。もうっ……分かるでしょ? アンタの方が疲れてるはずじゃない……」
シンジの身体に押しつけられた妻の顔色を、鏡に映し込んだようにシンジも真っ赤になった。
「あ、あの、その……」
「うふふ……すごくよかったんだよ……シンジ」
「あ、ありがとう……」
「じゃ、アタシ少し寝るから……起こして……ね……」
「……うん」
体の全ての力を抜いてシンジに預けた。全てを任せきったような安らかな顔で目をつむる。
「……アスカ」
「なに……シンジ……」
「何でもないよ。アスカが……安心して休めるようにずっと僕が見てるから」
もうアスカの返事はなかった。シンジの胸の中ですーすーと寝息を立てていた。
「かわいい寝顔だな……」
とても二十九歳の女性とは思えない、あどけない寝顔だった。
「うーん……シンジぃ」
すでに寝言だった。シンジはアスカの栗色の長い髪を梳くように優しく撫でた。
◆
駅から十五分ほど、シンジとアスカの家からは二十分ほどの距離にあるスーパーマーケット。辺鄙な立地条件にあるが、競争力確保のためにアメリカ式の大規模・小サービスの販売法を取っていて、とにかく食料品や日用雑貨が安い。碇家の苦しい家計にとっては、天の助けのような店であった。
もっとも、このスーパーマーケットが綾波レイのベンチャー企業が買収した店舗であり、他の系列店に比べても格段に安い価格を取っていることまでは二人も知らない。ほとほとお節介好きなレイである。
「でもさホントに腹が立ったわよ。アスカ様ともあろう者が、あーんなアッパラパーどもの軽薄なナンパの標的にされるなんて。清らかな身が穢されたような気分ね」
芝居がかった調子で言いながら自分の全身をかばうように抱きしめる格好をする。そんなアスカを無視してシンジは日用雑貨を熱心に吟味している。財政上、値段以外の選択の余地はほとんどなく、悩んだ結果、常に一番安いものを買い物籠の中に入れていく。
「もててるんだから、アスカが腹を立てることないじゃない。……僕はいやだったけど」
アスカの愚痴に軽く応じながら、シンジは向こうの売り場に特売品があったと思って、足を向ける方向を変えた。もっとも先ほどまではその連中のことで死にそうな顔をしていたシンジだったのだが、今は心理的に余裕ができていた。
「バ~カ。私はレッキとした人妻なのよ。ナンパなんかされて嬉しいわけないでしょう?」
きゅっと眉を不機嫌そうにひそめたアスカだが、そんな表情でも十分に可憐である。
「そりゃあ、シンジ君は霧島さんみたいな美人にも相当おもてになるようですから、さぞ毎日楽しくてたまらないでしょうけどねえ」
「マ、マナさんとは別に……それに、それとこれとは」
「フンだ。同じことですよーだ!」
霧島マナとは、シンジが仕事先で出会ったそこそこ美人の女のことだ。どうもシンジに気があるらしい。むろん、それはマナからの一方的な想いだと思うのだが。
アスカは腹立ち紛れにシンジに向かってあかんべーをしてみせる。
「違うよ」
「何が違うのよ」
「アスカの方が、霧島さんより美人だよ。絶対」
「……ば、ばか、何いってんのよ、いまさら。そんな当たり前のこと言ったって何も出ないんだからねっ!」
普段、自ら美女だと吹聴しているアスカも、さすがに恥ずかしそうに赤面している。おそらくアスカの自信は、奥底では不安と表裏なのだろう。
この二人が結ばれたのは、どうにも勢いというものが大きかったし、一般的に言う「恋愛」の過程をすっ飛ばして「結婚」に至ってしまったようなところが多分にある。「恋人時代」に二人で愛を語り、睦み合ったということは一切なかったし、デートさえろくにしていなかったぐらいだ。
さらには、アスカも無論そうなのだが、シンジは実はそれほど面食いではない。シンジの心をつなぎ止めるのに、自分の美貌が決定的な要素ではない、という不安が無意識のうちに、かえって彼女を自分の容姿を語る際に雄弁にしていた。
それだけに夫に美人などと言われることに免疫がなく、アスカの心の振幅は大きい。
「でもナンパされただけで穢されただなんていくらなんでも大げさだよ」
「何よ、そのことであれだけ落ち込んでたくせに。さっきとは打って変わって安心しきってるわね。ほんと、現金なやつ」
「そうだね。ごめん……でも、お昼には冷たくされたから心配になっちゃったんだよ」
「アレは……別に冷たくしたわけじゃないよ。アンタとベタベタするのは夜中だけ、って決めてるだけ。夫婦だからってケジメは付けなくちゃいけないの。アタシの言っていること何か間違ってる?」
シンジはアスカの大仰な屁理屈がおかしかったのか、苦笑する。
「よく言うよ。ただ、えっちが好きなだけのくせに……」
「何か言ったかしら?」
「いいえ、別に……。何でもないよ」
アスカが白眼を向けたので、シンジは慌てて口をつぐんだが、まだ噴出しそうな笑いをこらえるのに必死だった。しかつめらしい顔をしていたアスカもすぐにつられて吹き出す。スーパーの中で顔を見合わせて笑う二人に、周囲の客が数人なにごとかと振り向いたほどだ。
「もう、元気になった?」
アスカは笑いを収めると、目尻を下げたままシンジの茶色い虹彩をのぞき込んだ。
「うん……アスカの気持ちが一番重要なんだって分かったからね。誰かがアスカに横恋慕したとしても、もう平気」
「守りなさいよ、ちゃんと。……なんだかとっても不本意だけど、アタシはアンタのものなんだからね」
「必ず、守るよ。ホントに、ありがとう」
常に二言も三言も多いアスカの言葉にかえって暖かみを感じて、シンジは真剣に肯いた。その言葉は短かったが、それはたぶん二人にとって「神聖な誓い」なのだろう。
過去への贖罪などではなく、自分が「しなくちゃいけない」ことにようやく気づかせてくれた、この世で唯一の女性への感謝の言葉でもあるのだ。
「きっとよ」
アスカは右手を差し出して、白く細い小指を延ばした。シンジはそれに同じく小指を絡める。何だか最近こいつとは指切りばっかりしてる、そう思わず苦笑しつつも、夫の指から伝わってくるぬくもりをずっと感じていたくて、なかなか指を離せない。
「アスカ、行くよ」
「あっ」
いつまでも絡めた指を離そうとしないアスカの左手をごく自然にシンジは取った。手を繋いで歩くのは久しぶりかもしれない。アスカはうつむき加減で、シンジに引っ張られるようにして歩いている。
食品売り場に来ると、アスカに尋ねた。
「今日はちょっと奮発しよっか……アスカは今晩何食べたい?」
「脂っこいもの」
甘えるようにシンジにしなだれかかってアスカは言った。
「……太るよ」
「太らないもーん。シンジもたまにはギトギトに脂っぽいもの食べたら? アンタ淡泊すぎるんだから」
「そうかなぁ」
「そのせいで、夜の方だって淡泊なんでしょ」
「……どうして、外でそんなこと言うんだよ!」
うつむいたシンジの耳の先が熱くなった。
「うふふ、ジョーダン。シンジは結構頑張ってるよ」
アスカがちょっと首を傾げて蠱惑的に微笑んだ。
「ジョーダンでも、傷つくよ……」
とはいえ、シンジ自身もその点多少努力不足の自覚があるし、「下手くそ」だとか「根性なし」とか毎朝のように妻に叱られては身を縮めているほどだから、結構頑張ってるというのは上々の評価と言えるだろう。もっともアスカの普段の酷評は、他に比較対象があるわけでもなし、実を言えばいつもの照れ隠しなのだが、鈍感なシンジには理解できるはずもない。
「あら傷ついちゃった? 何だか女の子みたいでかわいいね、シンジ」
ちょっと背伸びしてシンジの黒い髪の上にアスカはぽんと手を置いた。それからゆっくりとシンジの頭を撫で始める。
「かわいいから、頭なでなでしてあげる。あっちが少しぐらい弱くっても気にしなくていいよ。ふたりはラヴラヴなんだから」
「ア、アスカ……またそうやってからかう……やめてって……」
もちろんアスカは単にからかっているわけではない。面白がっているところは多分にあるにしても、この夫に多々ある欠点と同じくらいかわいらしさを感じているというのは本当だった。
「今晩も
こくん、とシンジはうなずいた。さっきの誓い、を心の奥でもう一度つぶやきながら。小さく、ささやかな幸せだが、それをいつまでも守りたい、と。