卒業式の日。
後輩の深山さんからの告白は、思わぬ闖入者によってなかったことになった。女の子から告白されそうになったの、人生で初めてだったのに……。
走って行ってしまった深山さんの後ろ姿を放心状態で見送り、あれから何分経っただろうか。1分かもしれないし10分くらいかもしれない。まだ校舎のあちこちでは生徒たちが最後の思い出作りに励んでおり、ここからは見えないが、おそらく正門付近はまだ混雑しているだろう。
あそこに戻って同級生たちと談笑、という気分にもなれず。かといってここにボケっと立っているのもあまりに空しい行為であるので、僕はひとりで校内をブラブラすることにした。
知り合いと会えたら楽しく最後の挨拶でもする気だけど、しかしながらなんとなく、なるべく人気のなさそうなコースを選んで歩いていく。美術室の前とか。二階の渡り廊下とか。
教室とか。
校舎裏の、倉庫のあたりとか。
「……いないか」
校舎裏。このハレの日に、こんな暗がりに誰かがいるわけもない。いや、いちゃつく卒業生カップルとかならいるかもしれないが、まあ今はいない。
よく腰を下ろした日陰に座って、ぼうっと上を見る。あー。
しばらくそうしていた。しかし、どうやら僕は別に、ひとりでいることが好きというわけでもないようで、割とすぐに立ち上がったと思う。
もう1回、周りに誰かがいないか見回して。そして、その場を後にした。
次はどこに行こうか、と考えながら歩く。
「あ。おーい野原」
声に振り返ると、クラスメイトの佐藤くんが駆け寄ってきていた。彼は3年間のうち2年は同じクラスで、向こうがどう思っているかは知らないが、友人のひとりだと思ってもいいだろう。
「長峰さん知らないか? 記念に写真お願いしたいんだけど」
感動の別れの挨拶でもしてくれるのかと、実は期待したのだが。まぁ長峰のコバンザメみたいな野原への用事といったら、こういう話しかないらしい。
「さぁ。この辺では見てないよ」
「あっ、別に狙ってるとかじゃねーよ今更。あれだけの美少女だしさー、写真一枚くらいいいだろ? 許可くれ、彼氏」
「ゆるします」
「よっしゃ。で、どこにいるかな」
「さぁ……」
「なんだよ~、ほんとに知らなかったのかよ」
「もう帰っちゃったんじゃないの」
自分の口から出た言葉に対して、えっ、そうなのかな? などと思った。もう帰っちゃったんだろうか。
「もし見つけたら、みんなが探してたって言っといて。じゃ!」
「みんなって?」
「人気者なんだから、みんなはみんなだよ。とにかく色んなやつが探してる」
佐藤くんの回答は個人的にしっくりくるものだった。卒業式を終えてから、延々と誰かに囲まれていたのを遠くから見ていたけど、そのピークタイムはまだ過ぎていなかったらしい。さすがの人気だ、あの性根でこの人望を3年間保ち続けたのには心底尊敬する。
さて、用事は終わった。忙しそうな佐藤くんは、僕に背を向けてこの場を去る。
かと思ったら、少しの間振り向いて、言った。
「あっと。進学先別だけど、時間できたらまた遊ぼうな!」
「うん。じゃあね」
挨拶として手のひらを見せて、佐藤くんの背中を見送った。
散歩の続きを始める。何も考えないつもりで歩いていると、次に、僕は校舎の階段を上っていた。
2階を過ぎ、3階まできた。そこをぶらぶらしようと思ったけど、ひとつ気になることに思い当たり、さらに階段を上った。
屋上へ続く扉がある。鍵がかかっていることは誰もが知っていて、ゆえに触ろうともしないそのドアノブに、手をかけた。
……やっぱり。
鍵が、開いている。
僕は、この学校生活で何度も訪れた、立ち入り禁止の屋上広場へ入っていった。
屋上では、ひとりの女生徒がたそがれていた。
柵にもたれかかって空を見る、なんていう危険な禁止行為をやっていて。長い髪が風に流れている様子は、やっぱり絵になっていた。
「みんなが探している」。
そんな、さっき聞いた言葉を思い出した。だから……、
僕は、ここからの時間を独り占めしたくて、後ろ手にドアの鍵を閉めた。
「そこ、寄りかかったら危ないよ」
近づきながら声をかける。
ゆっくり振り向いた彼女の表情は、なんだろう。なんだか眠たそうに、目を細めていた。
「よう」
「ボタン返してよ、ユウキくん」
ユウキくんは、きっちり着こなしたブレザーの袖で目のあたりを擦って、それから顔を上げた。
真顔であった。なんかこわい。
「なんで?」
「なんでって……」
自分のものの返却を要請するのに、理由は必要ないのでは。そう思ったけれど、ユウキくんは無表情ながらも圧迫感を発していて、僕は何も言えなくなった。
どうしたものか考えつつ、顔色をうかがっていると。彼女はやがてその表情を崩し、困り眉の、いわゆる苦笑いをした。
「そんなにあの子に渡したいか? まーそうだよな」
ポケットから何か取り出し、弄んでいる。陽光に鈍くきらめいているそれは、僕から蛮族のようにむしりとっていった学ランのボタンだろう。
ユウキくんは遊ぶのをやめ、それを右手に握りしめた。ゆっくりと歩いてきて、顔がはっきり見える距離になる。僕たちの、友達の距離だ。
今日の彼女には、なんだかほんの少し違和感がある。目の辺りだろうか。いつもより伏し目がちで、目線も泳いでいる。
「さすがに悪かったかなぁって、さっきまで思ってた。……ごめん」
「ユウキくんは……」
あの口からは滅多に聞くことができない謝罪の言葉を、僕は、無視して
返してよとは言ったものの、よく考えてみれば、別にもう着ない制服のボタンなんか全然いらない。かといって、高校も卒業する歳になって、なんでもかんでも取られっぱなしなのは、なんだかしゃくだった。
「ユウキくんはいつも僕から、ものを取ってばっかりだ。マンガとか、ゲームとか、筆記用具とか教科書とか。あとケーキ代とかラーメン代とか出店代とかアレとかアレとか」
「イヤお金はお前……おごってくれたはずじゃん。細かいなァ」
「だから」
言葉を考え、視線を右往左往させたあと、目が合った。性格の悪さと反比例して瞳はキレイなので、少し気圧される。
「だからたまには……その。よこせよ、そっちも何か。交換だ」
言えた。
ユウキくんは目を丸くして、きょとん、と間抜けな表情をした。
うーん。目じりが少し赤くなってる? ブレザーで擦りすぎたんだろうか。……あ! わかってしまった。女友達との感動的な別れに感化されて、泣いちゃったのでは。それでこんなところでおセンチに浸っていたんだろう。
ユウキくんの泣き顔、見たかった。惜しい。こいつも人の子であったか。
「――お、おう。まさかそんなこと言われるとは。それはいいけど……でも、何を?」
「え? えっと……」
言いたいことだけ言って、何も考えてなかった。
思わず、相手のあちこちに視線をさまよわせる。卒業式の日なんて、そもそも何も持ってないよな。ていうか胸でっかいなぁ。校則違反だろ。
ユウキくんが僕の目線を確認している。やばい。いまどこを見たかバレた。次の瞬間に来るだろう怒り顔を想像し、身体が固まる。
「……ボ、ボタン……とか?」
「えっ」
泣いた後だからか、赤らんで見える顔で。彼女は僕の目を、おそるおそるといったようすで見上げてきた。
――誰? このかわいい女子は。幻覚?
「……っ」
「ちょっ! 何もそこまで……」
思わず口に手を当て、はわわと言いそうになる。長峰さんは僕の目の前で、ヌギヌギとブレザーを脱ぎだした。
その光景だけで心臓が伸び縮み運動を始めたのだが、それがもっとすごいことになる。あろうことか、ユウキくんは自分の、大きく盛り上がったシャツの胸元に手をかけたのだ。
ボタンって、シャツの!?
「こ、交換って言ったのはそっちだろ。胸のボタンじゃないと意味ない」
「いやでも女子にこんなことさせるなんて」
「あっやばっ」
「!? ほげぇっ!?」
突然、顔面に、何か小さいものが弾丸のように飛んできた。そのことがわかったのは、そいつが僕の額を撃ち抜いたあとだ。たぶん脳を貫通したと思う。
ともかく、僕はひっくり返った。い、今のは……。
「まさか……ぼ、ボタン?」
「悪い、最近制服のサイズ危なくなってきてて……まあ今日卒業だから、セーフか」
アウトでは?
空を仰いで立ち上がれずにいると、ユウキくんは僕の顔のすぐそこにしゃがみこんだ。白い足首が視界の端に見えると、眼球が勝手にスカートの下の空間を求めて動いたが、見てはいかんと思って首を逆方向に向けた。
「ほら、これ」
長峰悠希は、僕の顔の上に手をかざした。ぽとりと何か落ちてきて、反射的に目をつぶる。顔にくっついた小さなそれを、指で拾い上げた。
「美少女のはじけた胸のボタン。キミの夜のお伴にどーぞ」
「そういうこと言わないでほしい、本当に」
美少女の制服のシャツの胸元のはじけ飛んだボタンを手に入れた。
ふん……こんなものはただのゴミだ。家に帰ったら捨てよう。
僕はポケットにそれを丁寧にしまった。
一連の無様な僕の様子を見て、ユウキくんは。僕の前では、今日初めて、笑った。
彼女が入り口にできた日陰に座ったので、その近くに座る。少しの肌寒さと、すぐ目の前に落ちている日差しのあたたかさを感じつつ、青い空を見上げる。卒業の日にふさわしい天気だった。
「心悟さー。おまえさー。ほんとにああいう女子がタイプなん?」
「ああいう女子とは?」
「さっきの後輩ちゃんだよ」
「めっちゃタイプ」
「そっかー。悪いことしたなぁ」
「ほんとだよ」
「オーケーしようとしてたもんなー。もしかして、好きだった?」
「んー。いや、そういうわけじゃ……」
「は?」
「おまえさぁ」
「だっ、だって、女子から告白されたの人生で初めてだし。嬉しかったし。一応いい子なのは知ってるし。あとタイプではあるし。そしたらもう、弾みで了承しちゃうと思いませんか」
「わぁ最低~。その気もないのに、相手の子かわいそうだろ」
「ウッ。……でもほら、先に恋人関係になってから芽生える恋愛感情とか、あるじゃんか」
「……………」
「それ、恋愛ゲームの受け売りだろ」
「はい」
「ばーか」
「なんだよ。あっ、ユウキくんは告白されたことないでしょ。男子からじゃないぞ、女子から」
「あるよーいっぱい」
「はあああ? い、いつ」
「小学生のとき何回もあったし、女になってからも何回かあった」
「バカな……」
「なぁ。女の子から告白されるの、そんなに良かった?」
「そりゃもう。よほどのことがないと忘れられないねっ」
「ふうん」
隣から、立ち上がる気配。そちらを見ると、ユウキくんは僕をクールな表情で見下ろしていた。なんだね。
手を差し出される。応じてこちらも手を出すと、いつもの筋力でそのまま引っ張り上げられる。
誘導に従って立ち上がる。そうしたら、思ったより、ユウキくんの顔が近くにあった。また無表情になっていて、思わずぎょっとする。
「!! な、なに」
「じゃあ今から、女の子が告白するから」
とん。僕の胸に、ユウキくんの手のひらが当てられていた。
「はっ?」
「心悟。…………わたしは――、」
深い一呼吸の後に彼女が吐き出した息は、ものすごく熱いものだった。長い睫毛が飾る目はまっすぐにこっちを見ていて、白いはずの頬は化粧をしたみたいに紅い。
周りには当然誰もいなくて、目の前の女の子は、何かを決意したような表情をつくっていた。
「わたしは、キミのことが……」
わたし。ユウキくんはそう言って、小さな唇をふるえさせる。
気が付くと僕の心臓は、好きな女の子が現れたときみたいに、普段の10倍の速さで動いている。でも、ここにいるのはユウキくんだ。そのはずなのに、僕は、こんなふうにドキドキしていいのか。女の子として見てしまって、友達を傷つけたりはしないのか。でも、そうさせているのは、当の友達で。
彼女の唇が次に何を言おうとしているのか、そこに全部の感覚を集中してしまう。やがて自分の心臓の音すらわからないくらいになって、相手のことしかわからなくなって。
そして。
「ぷふっ。……アッハハ!! ごめーん、学校一かわいい女子に告られると思っちゃった?」
どこかで聞いたことのあるセリフを吐かれた。
「また騙された。オレ相手にドキドキしすぎだろ、マジかおまえ」
「クソがーーー!!!」
「おっと」
僕はユウキくんの腕を振り払った。恥かかせやがって!!
いい性格してるし、いい演技力もしてる。わかってた、わかってたとも、頭では。しかしこいつの技にかかれば、僕の理性による防御などペラペラの紙みたいなものなのだ。
最後の最後に、実にこの人らしい嫌がらせだった。思い出には残った。残らされた。
「そろそろ降りようかな。おまえは……もう少ししてから降りてこいよ」
「なんでさ。別にいいけどさ」
「理由とかないよ。……じゃあ」
じゃあ、また。
高校生最後の日。
僕の友達の彼/彼女は、「また明日」のテンションで、あっさりと、さよならの挨拶をした。
階段を下りていく気配がなくなったら、思わず壁に背を預けて、そのまま座り込む。この3年間は色んな事があったから、なんだか体のどこかに大きな穴が開いたような気持ちで。僕はそのあとも、屋上でぼうっとしていた。
どうやらポケットの中にあるボタンだけが、僕たちの、友達の証だった。
「ユウキくん。……また」
なお、後に知ったことだが、同じ大学に合格していた。