くたくたで本日の労働を終え。
狭いワンルームの我が家に帰り、お風呂を出て、座椅子に腰を落ち着け、眼鏡をかけたまま、はやくもウトウトし始めた頃。
「たっだいま~!」
バーン! とドアを開け放ち、大声を出しながら誰かが乗り込んできた。僕は眠くなるまで手に持っていたらしいスマホを取り落とした。
仕事帰りらしい悠希さんがそこにいた。元気なことだ。お互い20代も後半という歳だけど、まだまだ学生のような体力を保持しているらしい。
いそいそと靴を脱いでいるその表情を見てみると、今日はなんだか機嫌がよさそうだった。
……ところで。
聞き違いでなければ、ただいま! などと言いながら入ってきたようだが。別にここは彼女の家ではない。こんな狭い部屋で同棲しているなんてこともない。その辺は今年中にいろいろと計画しているが、まあとにかくここは正確には悠希さんのおうちではない。
頭の中で、くどくどと厳密なただいまの定義が回転し、僕の居眠りを邪魔した悠希さんに向かって、喉元までそれがやってくる。そして、僕は、
「おかえり」
とだけ言った。結局。
悠希さんは、たかだかそれくらいの挨拶で、嬉しそうにした。
あーーーーーー。
僕の
内心そう思ったが、そういう気持ちがバレるとすぐ調子に乗られるため、無表情につとめた。
「お、眼鏡してるー。似合ってるぞメガネくん」
「そりゃどうも。……連絡もなしにどうしたの今日は。明日も平日だけど」
ちょっと批判的なトーンで言葉を投げてみる。彼女はもう完全に自分ちみたいに、買ってきたものを冷蔵庫に入れたり、上着をハンガーにかけたりとやっているが、とにかくここは僕んちである。
「なんだよ。オレがお前のところに帰ってきて、それの何がおかしい?」
などと、彼女は返してきた。ひと昔前の少女漫画の主人公のように、僕はキュンとしてしまった。いま口説かれてる? こいつイケメンだから人を口説きなれてる?
「……すごいのろけたこと言ってる自覚ある?」
「あるよ。いっひひ」
悠希さんは照れたような顔で笑いつつ、僕のすぐそばにやってきた。
そのまま座る、のかと思ったら。膝と手を床について、顔をずい、と近づけてくる。僕は思わずドキッとして体を引いた。
「な、なんじゃあワレ」
「なんかいつもクール気取ってるけどさぁ。お前ももう少し素直になれよ。じゃないと……よそにいっちゃうかもよ?」
上目遣いでこっちを見て、挑発的な表情をつくる悠希さん。なに、なになになに今日は。
他所、ってつまり。長峰悠希をほかの男に……!? 冗談じゃないよ。ていうか今になってこんな
「なっ、なんでそんなこというの」
「だって、ほら。恋人らしいことな~んにもしないじゃないですか? 自分が世界一幸運な男だって自覚ある?」
「恋人らしいことって……」
「こういうことだよ」
ガードのために前に出していた左手をそっと取られ、そのまま床に押さえつけられる。これでは逃げられない。
そのまま、悠希さんは、さらにぐっと身を乗り出してきた。ただでさえ近かった顔が、息を感じ取れるほどの距離にやってくる。正面から、顔と顔とを合わせて、ここまで近づかれたことなんて、今までにない。まさか……。
これ以上近づかれたらゼロになる。それって、あれじゃん。愛し合う男女がすなるといふアレじゃん。たしかに、付き合い始めてからもまだ友達の延長という感じでこういうことはしてなかったけど、それは悠希さんの内心を考えてそれがベストだと判断したわけで、僕たちの付き合い方には必要なかったはずじゃ……、わからないわからない。
まつげ長っ。目力すごい。肌白っ。人間これだけ拡大したら変なところのひとつも見えるはずなのに、この人にはそれがない。全部が好きなところだ。いきなり心拍数を上昇させるような真似をされ、立ち眩みじみた酩酊感すらおぼえる。健康に悪い。
そうだ、いままで考えたこともなかった。ユウキくん……悠希さんと……
「目……閉じてくれる? さすがに、恥ずかしい」
心の準備がまだだ。言われた通りにバチッと目を閉じたのは、ある意味逃避のようなものかもしれない。
でも、視覚を断つと他が鋭敏になる。鼻の先にいる彼女の気配が、吐息や体温、香りとして伝わってくる。
「心悟……」
彼女の両手が頬まで上がってきて、そっと眼鏡をはずされる。
僕はいよいよ覚悟して、おそらく気持ち悪い顔で息をのんだ。気配が、すぐそこまできて――、
「ふっ」
「ひゃうんっ」
耳に息を吹きかけられ、悲鳴を上げた。
ふっ、が悠希さんで、ひゃうんが僕の声である。
耳を押さえて相手を見ると、やつは眼鏡を弄びながら、にやにやと意地の悪い顔をしていた。
「うっそ~。童貞とはキスなんてしませーん。残念でした」
「ギィィイイッ」
人の心と眼鏡を弄びやがって……! 今に見てろよボケが。
「童貞いじりやめてくれマジで」
「おおっ? くらくらする……」
僕の眼鏡をかけて目を回している悠希さんは大変かわいいが、人の話を一切聞いていないのでイラっとした。
「さて。じゃ風呂入るから、着替え借りるよ」
ひととおり僕で遊んで満足したのか、彼女は立ち上がってそう言った。
「……えっ。着替え……何? もしかして泊まっていくの?」
「うん」
「な、なんで? 明日仕事だけど」
「いーっしょ別に」
悠希さんは、人の衣装ケースを遠慮なく開け、中を検めはじめた。
そう押されたら断れないというかまあ断る気もないが、どちらかの部屋に泊まるというのは、実はあまりなかったケースだ。どうしたんだろうか。
……それとも。別にこれくらい、自然なことなんだろうか。ちゃんと付き合っている恋人、っていうのは。
「いいけど、自分の服持ってきてないの」
「外行きはあるけど、部屋着はないなー」
「泊まるんならちゃんと持ってきなよ。……ていうか、もし頻繁に来るんだったら……」
この部屋に、いろいろ持ち込んで、置いてってくれてもいいのに。そうだよ、いつまでも赤の他人ってわけじゃないんだし……。
盗人のように服を漁っていた彼女が、こちらを振り向いた。
「んー? 何が言いたいのかな?」
「……こうやって泊まりにくるつもりなら、もう部屋着くらい置いてけば、って」
「ほほーう?」
僕にこんなことを言わせたのが嬉しいのかなんなのか、茶化すような反応だ。こっちは大人な話をしているつもりなのに、相手は子供のようないたずらっぽい顔。
「それもいいけどさ……おまえ、これが好きだろ」
にやっ。
擬音付きの笑顔で引っ張り出してきたのは、白いワイシャツだった。それを首から下にあてて見せてくる。
「彼シャツ。ふふ、なるほどいかにも童貞ウケしそうな……」
「カレシャツ? は? 何それ? 初めて知った概念」
「嘘つけ」
やかましい、それを好きでない男がいるか。童貞かどうかは関係ないだろ。
「思い出すなー。ほらぁ、高校生のとき……やむを得ない事情で服を貸してもらったあの日。興奮しきった心悟くんは、いやらしい目でわたしの全身を……」
「知らん知らん覚えてない」
もちろん鮮明に覚えている。あの日は雨だった。たしかにいやらしい目で見たし、それから悠希さんのけっこうガードが堅い態度にショックを受けたことも、昨日の出来事のように印象深い。
まさかあのときは、こうして悠希さんにおちょくられる日が来るとは思わなかった。それこそ、いやらしい目で見られるのは基本的に嫌っていたはず、と思うのだけど。
「じゃ、お風呂借りますよ。湯上り美人を楽しみにしておけ」
「ふん」
「おや、冷たいなぁ」
何が湯上り美人だ。そんなもん。
妄想が止まらない。ドキドキしてきた。風呂上りの長峰悠希か……。
風呂場に入っていく姿を思わず目で追うと、手に持っているのが着替えやタオルだけでないことに気が付く。なんか液体が入ったおしゃれなボトルだった。お高いシャンプーとかボディソープとかだと思う。あと、僕の持っているやつとはサイズが違う上等そうなドライヤーも。大荷物である。
そんなに準備万端なら着替えも持ってこいよ。
▽
風呂よりドライヤーで髪乾かしてる時間のほうが長かったように感じてしまう。悠希さんは、薄い扉の向こうでブオオオとやかましく、10分以上はやっていた。髪が長い人は気を遣うんだろうな。
しばらくして、彼女は脱衣所から出てきた。
「よう、お待たせ彼氏くん」
事前告知のとおり、悠希さんは、僕のシャツを着ていた。
サイズ自体は身長に対してやや大きめで、下は何も穿いてないみたいに見える。でも胸のところだけは余裕がなく、あろうことかボタンを2つは開けている。まさしく二次元でしか見たことのない、模範のような彼シャツであった。
なんてことを……なんてことをしてくれたんじゃ……。
「どう? 興奮した? してるな。ふふん」
「あまり近くに寄らないでほしい」
「そいつは聞けない相談だぜっ」
悠希さんはあられもない恰好のまま、肩をぶつけてくる勢いで僕のそばに座った。ていうかぶつけられた。痛い。風呂あがりなせいか、いい匂いと体温をいっそう感じる。髪はいつもに増してつやつやで、白い肌はほんのり桜色に見えるような気もする。
オレのそばに近寄るな!!! 今は!!!
「さて、お互いお風呂に入ったことだし」
悠希さんが膝を抱える。長い脚がきれいで、一瞬そちらに目が行った。
彼女はそのまま顔をひざに預け、流し目でこちらの目を覗き込んできた。脚を見たのはバレたと思う。
「ね、心悟。今日は夜通しふたりきりだよ。だから……ほら。わかるでしょ。わたしのしたいこと……」
「はっ? い、いや……なん……あっ、オッ……」
お互い風呂に入って……そんな恰好でそんなこと言って……。
うそだろ。悠希さん、こんな……ちょっと積極的すぎない? つまり、つまりは。
そういうつもりがあるってことなの?
い、いきなり? こんなことになるものなの? 童貞だから何もわからん。本気か? それって友達の一線を越えてないか。僕は悠希さんが好きで、悠希さんも僕を好きって言ってくれたけど、でも。
「しっ、したいこと、というと……?」
戸惑いと、それ以上の心臓の異常を抱えたまま口を開くと、気持ち悪い言葉が出てきた。あからさまに、そういうことを期待しつつ、相手に言わせようとしている。我ながら卑しい。
胸のどくどくが耳にきてしまうくらいの、たっぷりの間を置いて。妖しく笑う悠希さんの唇が、ついに動いた。
「ゲーム遊ばせて! ほら、あれ、最近流行ってるあの面白そうなやつ」
「どれだよ……」
「おいおい、露骨にがっかりしたなァ。あ、もしかしてムラムラさせちゃった? ん?」
またこちらの顔を覗き込むように背中を曲げる。シャツからこぼれそうになるそれ。こいつ、胸元をわざと強調していやがる……。
腹立たしい。ガン見したら1万円ね、とか言われるに違いない。
僕は首をよその方向に向けたが、意思に反して目がそこから離れなかったため、眼球が可動域を越えてひっくり返りそうになった。
「今おっぱい見たから5万円ね」
5倍……! 想定の……!
「で、そのゲームって、どんなの」
「あの~なんか、ペンキで色塗って戦う……? ファミリー向けの……」
「あれか」
「お、わかった?」
タイトルは確かにひとつ思い浮かんでいるが、あれがファミリー向けかどうかは怪しい。キャラクターやゲーム画面の雰囲気はそう見えるかもしれないが、ごりごりのオンライン対戦ゲームだし。2作目は遊んだことがあるが、対戦では何度ブチ切れたかわからないほどだ。
ついこの前発売された3作目は、これがまた売れているらしい。それこそ悠希さんが存在を知っているくらい。いわゆる覇権コンテンツ。
「あれね、まだ買ってないね」
「えー。じゃあ遊べないんか」
「ダウンロード版っていうのがあるから、今買おうか? 少し時間かかるけど」
「おっ。お願い! お金出すから」
「じゃあ割り勘ね」
ということで、少し落胆している自分を恥ずかしく思いながら、僕はゲームを購入したのだった。
適当な話をしているうちに、ゲームが遊べるようになる。
やはりファミリー向けに見えたのは幻でしかなく、前作に続き一人用のゲームだった。悠希さんに遊ばせつつ、ときどき操作を変わったり、あとは横から口を出したり。
で、時計の針が日付の線をまたぐ頃には、ついに肝心のオンライン対戦モードへの挑戦が始まった。
「すべてを理解した。」そう言って自信満々に戦場へ乗り込んでいった悠希さん。
「あっちょっ、まっ……なんっ……クソガキがぁーっ!! こんな時間にゲームするな! 死ね!!」
最初の戦いでブチ切れていた。堪忍袋の緒が細くて短い。
しかしなんと低レベルな暴言だろう。小中学生並みだ。ちょっと大人の女性になったと思っていたらこれである。悠希さんをキルした▽ゆうと君も、たった今爆散させた▽ゆうきが実は、いい歳したお清楚美人のお姉さんだとは思うまい。そしてそのお姉さんに口汚く罵られているなどとは……。
「あれっ? なんか動かな……あ!! ……ご、ごめん心悟、これ……」
キレ散らかした弾みに、常識外の指の力により、けっこう値段がするコントローラーが破壊されていた。
僕は静かに泣いた。
「ふわーあ」
かわいらしい声が耳に入ってくる。
他人があくびをしているのを見ると、自分も眠くなるもので。座椅子を譲り、ベッドに寝そべりながらゲーム画面と悠希さんを見ていた僕は、いよいよまぶたが重くなってきていた。
椅子に居座った彼女を後ろのほうから見ていると、いちいちリアクションが大きくて飽きない。眼鏡をとって目をこすっていると、ぼやけた視界の中では、悠希さんが昔の姿と重なって見えた。
ああ。こういうところ、全然変わってないんだ。
そういえば。一緒に家でテレビゲームなんて、よく考えたら久しぶりかもしれない。
はじめは小学生のとき。なんか無理やり友達にされて、家に上がられて、遊びまくられた。外にも連れていかれたし。
次は高校生だけど、悠希さんはものすごく綺麗で可愛い女の子(外見のみ)になっていて、戸惑ったりした。でも、ゲームやらせろって家に上がられて、それで……。
いろいろあったけど、そう。全部、楽しかった。
今みたいな、ただの友達のような時間。僕たちにとっては、けっこう大事なもののような気がする。壊してはいけないもの。
……だから……、あんまり、今日みたいに、変な挑発とかされると……、
眠気が最強の状態になると、なんだか変なことを考えてしまうな。いや、一瞬寝ていたのか、さっきまで何を考えていたのか忘れたのだが。
変な寝言を口にして、後でからかわれないといいんだけど。
▽
目が覚める。枕元からスマホを探し、いつものように時間を確認してみると、毎日に設定してあるアラームが鳴るのはまだ先だ。
「………。ウオッッッ!!??」
上半身を起こしてぼうっとしていると、自分のすぐそば、ベッドの上で何かがうごめいた。
それは女体であった。僕の布団のすべてを奪い取り、すうすうと安らかな寝息を立てている女性。悠希さんが、人の隣に潜り込んで寝ていた。なんかめちゃくちゃ寒いと思ったら。
眼鏡をかけてよく観察する。目の覚めるような美人という言い回しが今こそ使えるな、と思った。服装は、そもそもが破廉恥ではあるが、お互い昨日の状態から大きく乱れてはいない。
……ふう。どうやら記憶のないうちに一線を越えたわけではないらしい。
ていうかこの人、恋人になったら、シラフでこういうことしてくるんだ。油断ならんな。
「………」
寝ているのをいいことに、髪をさわってみる。おっ、すごい、なんだこれは。サラサラ……サラサラだ。とても。なんだこれは。すごい。
指で頬をつついてみる。おっ、すごい、なんだこの肌は。もちもち……もちもちじゃないか。すべすべでもある。美容の化身か何か?
「んん……」
「あっ痛っ。いたぁ……ぁぁああぁアァァアアアイ!!」
つついていた指をつかまれ、握力で粉々に折られた。無意識下ですらこれほどの横暴を!?
「んん……。……心悟?」
「おはようございます」
顔を洗って、仕事に着ていく服を見繕っていると、悠希さんが起きてきた。
彼女がいるとしても、今日は平日なわけで。いま差し迫っているタスクはないものの、出勤する必要はある。
「何してんのぉ……?」
「労働に行く準備」
「ん~……仕事ぉ? 休めば、たまには」
「休みたいねぇほんと……」
「本気で言ってるんだけど」
「え?」
着替えを抱えて立っていたところに、とん、と後ろからぶつかられる。僕は持っていたものを取り落とした。
そのまま、腕が胴に回ってきて、ぎゅうと締め付けてくる。背中にあたっているものからは、どく、どく、と他人の鼓動が伝わってきていた。
「べつにちょっとくらい、いいだろ。ズル休み」
「で、も。ぜっ、全休なんか、とったことないし……」
「……? 別に全休にしろとまでは……ふ~ん?」
僕を締め付ける力が強くなって、背中にあれが押し付けられる。
「そんなにオレと一緒にいたいんだ? 今日一日」
「っ……」
揚げ足とりやがって。そんなの、いたいに決まってる。
どうしよう。悠希さんの顔は見えないけど、ずっとくっついたまま離れてくれない。からかい交じりだけど、これは愛情表現だと受け取った。
鼓動が速くなってきた。だんだん、それが後ろから伝わってくるものなのか、自分のものなのか、よくわからなくなってくる。もしかして悠希さんもドキドキしてくれているんだろうか。
えっと。しかし、どう応対すれば。とりあえず仕事は休もうかな、職場に連絡を……、
「うおおおお!!!」
「オアアアア!!?」
ぐん、と僕の足が床から浮いたと思ったら、それどころか全身が浮いた。
全身への衝撃とともに、気が付くと僕は、ベッドに倒されていた。さっきの胴体を異次元に持っていかれる感覚からすると、こう、抱え込んで投げ飛ばされたらしい。何しやがる!!
「いでえよお……うわっ!?」
「ふふーん。マウントとった」
ぎし、と一人用のベッドが軋む。あろうことか、悠希さんは僕の上に跨ってきた。今はまだ腰のほうにいてお腹に手を乗せてきてるけど、もう少し位置が上がったら……、
身動きできないまま好き放題タコ殴りにされる。怖い!
「な、何する気……?」
「なにって。……………」
びくびくしながら聞く。すると彼女は無言で、僕の上を這いあがってきた。
そしてそのまま、顔を覗き込まれる。見上げた先から、カーテンのように、滝のように、長い髪が落ちてくる。
お互い、見つめ合ったまま、無言が続いた。
「……えっ……と」
「……心悟。……本当にわかんない? オレが、何考えてるか」
そんなことを言いながら、彼女は僕の鎖骨を指でなぞった。いつの間にか、友達としてふざけ合うときの雰囲気が、今の彼女からは消えていた。悠希さんは、何かを待っている気がする。期待されている気がする。仕事を休んで、ベッドにふたりで入って。それは、つまり……。
今までこういう状況になってもスルーしてきたけど、僕たちはもう恋人だ。……だったら。
「悠希さん。ちょっと、起きてもいい?」
ひとつ決心して。相手をまっすぐ見て声をかけると、彼女は、こくん、と頷いた。
向かい合って座る形になる。僕は、ほんとにそうしていいのか迷って、でも勇気をだして、彼女の両肩をつかんだ。
ぴく、と震えが伝わってくる。悠希さんはしっかりした体型の人だと思っていたけど、こうしてみると、肩は細く思えて。
彼女のことが、初めて自分より繊細で弱弱しく見えて。ものすごく、いとおしかった。
……それで。ここからどうしよう。
そうだ。さっき、童貞とキスなんてしません、とからかわれた。なんとも腹が立った。だから、その仕返しがしたい。悠希さんの、もっと弱った顔が見たい。
自分から行くのは、顔から火が出るくらい恥ずかしかったけど。相手もそういう顔をしているのがわかったので、頑張って、こっちから顔を近づけていく。
このほんの一瞬でお互い、ありえないくらい顔が赤くなっていて、体温が熱くなっていて。それは距離に反比例してどんどん高まっていって。この距離がゼロになったら、僕たちはどうなるんだろう。
悠希さんはこんなふうになっても、きれいだしかわいい。潤んできたその目をぎゅっと閉じたのを見て、こっちもそれに倣った。鼻先が触れ合って、相手の息が唇にかかって。
それで、僕たちは――。
「わあぁあっ!! やっぱちょっと待ってっ!!」
ゴン、と殺人級の頭突きをされ、死んだ。いまあの世から悠希さんを見てるとこ。
介抱してもらったあとは、とりあえず会社を休んで作った時間で、僕はふてくされてゲームをしていた。
「なー、ごめんって」「へたれだと笑ってくれ」「女の側はしんどいって言うじゃん」「おい童貞」などと後ろから声を投げられるが、別に怒ったりはしていない。僕も奥手さでいったら似たようなものだ。ただ、ならば人の純潔をバカにするのをやめろと言いたい。自分だって童貞だろ絶対。
…………。なんて。
実のところ、こうしてふてくされているのも演技だ。結構いいところまでいきそうになったせいで、少し血圧が上がっている。僕はいま、自分を落ち着ける時間を作っているだけだ。
次に同じことがあったらいよいよ理性をかなぐり捨てるだろう。さっきの悠希さん、かわいかったな。過去10年で最高と言われた高校2年生を上回るかわいさ(ボジョレーヌーボー)
ともかく、そのときのために、気持ちを大人の自分へと確実に切り替えようと、いまは準備をしているのだ。
逃げているとも言う。
しばらく没頭していると、隣に誰かが座った。それが誰かというのは自明のことで、彼女は僕に寄りかかって、その重さを預けてきた。
すり、と体を擦りつけてくるのが猫みたい。しっぽの付け根でもとんとんしたら喜ぶだろうか。
「な、童貞。……童貞であってるよな? 変なとこいって捨てたりした?」
「セクハラ」
「……いいじゃん。オレも……オレも、そうだよ。同じ」
「そうでしょうね、女の子になったの小学生のときだし」
「違う、そっちの意味じゃなくてさ」
ひとつ間があく。わざとよそ見をしていても、ほとんど距離のないところにいる彼女がすぅはぁと深呼吸をしているのは、簡単に伝わってしまう。
「あ、あのさ。心悟だったら、オレ……わたしは……」
大人になってからわかってきた、長峰悠希の一人称の使い方。“ユウキくんじゃないほう”のそれを使うときは……。
「普段はまぁ気ィ遣ってくれてるの嬉しいんだけど……たまにだったら。……ホント、たまにだったらな? ……その」
言いにくいセリフを言おうとしているようだった。ゲームを遊ぶ手はとっくに止まっていて、耳に全神経を集中してしまっている自分がいた。
悠希さんの、熱い吐息が耳にかかる。それから、
本当の本当に初めて聞く、脳みそが溶けるくらいに、甘ったるい声がした。
「女扱いされても、いいよ」