その事件が起きたのは、休日の夜だ。
正確に言うなら、休日が始まる前の夜。いわゆる華の金曜日か。互いに二日以上の休みが取れるとき、悠希さんは僕の住んでいる部屋へとやってくる。一人部屋なので狭いのだが。
何をするのかというと、お酒を飲んだり、仕事の愚痴を叫んだり、ゲームしたり。時には今後のことを話し合うこともある。
その日は、彼女は、動画配信サービスで見られる洋画をぼうっと眺めていた。ちなみにこいつ、僕が契約しているものをタダ見している。
僕には興味のない内容だったので、座椅子の背後に位置するベッドへ寝そべりながらウトウトしていた。たまに悠希さんの顔をちらりと見るくらい。
なお、座椅子はわざと、僕がベッドに横になったときに、座っている人間の顔が見える位置に置いている。
「ん」
悠希さんの小さい声がしたので、スマホから目を離しテレビのほうを見てみる。
顔のいい外国人の俳優たちが、やたらと濃厚なキスをしているところだった。
気まずいな。洋画のラブシーンによるお茶の間冷え冷え現象は、日本のどの家庭でも起こり得る。が、今の自分は子どもでもないし、ここには親も、しっかりリアクションしてしまうアホの妹もいない。いちいち気にすることではない……。
ないよな?
ちら。
気配を殺して悠希さんの様子を見る。
……特にどうといった様子もない。彼女は無表情で、つまんだスナック菓子をぼりぼり食べて、指を行儀悪く舐めた。
唇と、そこから小さく覗く赤い舌に、思わず目がいく。
「……!」
悠希さんは顔の向きを変えず、流し目で僕を見た。つまり、目が合った。なんにも悪いことはしていないのに、どき、と心臓がホップする。
こいつ、視線を察知する能力を身に着けているのか? 身に着けてそう。
「何?」
「い、いや。別に」
「……ああ~、はいはい。オレらも接吻する?」
「うん……えっなんて? せっぷ?」
「ぴっぴっと」
悠希さんは洋画を一時停止し、座椅子から立ち上がった。
咄嗟に危機感を覚える。こちらも体を起こし、立ち上がろうとすると、たくましい握力でしっかり両肩を掴まれ、阻止された。
「んー」
そして悠希さんは目を閉じ、顔面を近づけてきた。
「ナッハッ、ハァン!?」
美女の顔が近づいてくる。なんだこれは。
いいにおいがする。睫毛が長い。少しすぼめた唇は、触れ合うとどんな感触がするのか気になる。あと数秒でそれがわかってしまう。
そう、僕は悠希さんとキスなどしたことがない。正式に恋人になってからもだ。いくら彼女が女性としての人生を受け入れていても、元は男友達だった僕と唇を合わせるなんてのは嫌なはず。そう考えて避けていたのだが。
なぜ向こうから!? 酔っているようでもないし、きっかけもないし。
戸惑っているうちに、ついに、互いの鼻先が触れた。
「ま……待って」
「待たないよ」
「ぼ、僕初めて……初めてなのに! もっとロマンチックなのがいい!!」
などと、突然のことに慌てた僕は、わけのわからないことを口走った。
途端、悠希さんは目を開け、眉根を寄せたイヤそうな顔になった。
至近距離の体温が離れていく。
「何キモいこと言ってんだよ……相変わらず人を萎えさせる天才だな」
「す、すいやせん」
「ていうか別に初めてじゃないだろ」
「え?」
「え?」
…………。
沈黙ができる。
初めてじゃない? キスが? どういうことだ。僕にはそんなことをした記憶は……。
悠希さんはわかりやすい疑問顔で、僕をじっと見ている。
「……あるだろ? 我々、チューしたこと」
「ないが……?」
「……あっ、あ! あ~~~、ハハ。なかったっけね。アハハ」
そして不意に笑顔に変わった。あからさまに、何か不都合な事実をごまかすような笑い方だ。目つきがニチャっとしている。
それに悠希さんのあの、チューに持っていく流れの手慣れた感じ。ファーストキスの人間ができることではない。まるで既に経験しているかのようなチャラさ、あざとさ。
そんな、まさか。嘘だろ?
あっという間にある推測にたどり着き、僕はわなわなと震えた。
「まさか、他の男と……あるいは女と……?」
「はああああ~~? んなわけっ」
「イテッ」
べん、と体を押され、ごんと部屋の壁に頭をぶつける。死。僕はそのままベッドに横たわり、放心状態になった。
天井を見つめる。たまに視界に悠希さんの髪とかが入ってくる。
「ならば、どういうことなのだ一体……?」
「もういいじゃんその話は。覚えてないんだろ」
「覚え……何? なんて?」
ちょっと待って、その言い方はつまり……。
「あ~、うるさいうるさい。この話終わり。オワオワオワオワオワオワ終わり」
悠希さんは拳のラッシュで、ベッドに横たわる僕の全身を破壊した。雑なごまかしだった。
だがこんなことには屈さない。彼女は何かを隠している。必ず真相を暴いてやる。
「いま『真相を暴いてやる』とか考えただろ。無駄だぞ。暴かれるような真実などないのだから……」
ツンとした目つきで僕を見下ろした悠希さんは、いちいちさらりと髪をなびかせて映画っぽい言い回しをした。そして座椅子に戻り、映画を再生し始める。
「あれ? どこからだっけ」などと言いながら巻き戻している。
そしてそのせいで、また例の濃厚なキスシーンが始まった。
気まずい!
▽~ここから回想~▽
「うへえ」
画面にキスシーンが流れて、つい声が出る。
あまり映画やドラマというものを見ないからか、こういうのはどうにも慣れない。
それとこの前、大学の女友達がしていた話も頭をよぎる。
わたしは、胸の中にある何かが浮いているような気分になって、それを解消したくて、後ろにいるはずの誰かに話しかけてみる。
「……あー、アメリカ? の、こういうの? 苦手なんだよなァ」
話しかけてみる、といっても、出たのは独り言のようなもの。それでも何か返してくれるだろう。あわよくば、何か失言をしてくれれば、揚げ足を取っていじってやるつもりだ。
けれど、何も返ってこなかった。
ベッドを見る。狭い学生賃貸の部屋では、オレが座椅子を陣取ったときは、そこがあいつの席だからだ。
心悟は、寝ていた。
「……寝るなよ。つまんな」
同じ部屋にいるときにあっさり眠られるのは、それくらいには『友達』なんだろう、という嬉しさはある。
けれどやっぱり、起きて、話して、こっちを見てくれなきゃ。オレは別に、この映画をひとりで見たかったわけじゃない。
腹が立ってきた。
何かいたずらでもしてやるべきだろう。二度と居眠りできなくなるようなキツいものも候補にいれる。
立ち上がり、ベッドに手をついて、顔を覗き込んでやる。長い髪でくすぐらないように、それを耳にかける。
うん。見事に目を閉じ、ぐーすか寝ている。
鼻でもつまむか。顔に落書きでもするか。いやもっと斬新なものを。部屋の模様替えでもするか? それか、寝ている間にこいつをベッドごと外に出してしまう。
想像し、思わず笑う。でもちょっと難しいかな。あと風邪ひいたら可哀想だし。
……こんなのはどうだろう。ズボンを脱がせて、こっちも薄着になって、横で寝る。そして朝になったら、「ワタシにあんなことをするなんて……」と泣いてみせる。
さすがにやめとくか、それは。男と同じベッドに一晩寝るなんて、嫌だしな、そんなの。ああ嫌だ。
ともかく。
この間抜け面を見ていると、あまりに隙だらけで、なんでもできそうだ。
「………」
モニターに目をやると、適当に一時停止していた映画は、まだキスシーン。
大学の女友達がしていた話を、少し思い出す。彼氏とキスしたとか、ナニするところまでいったとか。明け透けなタイプの子が話していて、箱入りっぽい子が興味深げに聞いていた。どうにも苦手な、くだらない話で、適当に聞き流したけど。
……ただ。気になりはする。
“それ”は、どんな感触なんだろう。たかだか唇同士触れ合わせるのが、そんなにいいものなのか。そんなに何回も、長いこと繰り返すくらいに?
女の子の柔らかそうなやつが相手なら、したくなる気持ちもなんとなくわかるけど。あんな風に、男なんかと……。
あ。
微妙な気分になった。女性のほうに感情移入している自分に気付いたからだ。……なにも別に、悪いことじゃないはずだけど。
「……はぁ」
こうやっていくら考えたって、つまらない想像にふけることしかできない。
だったら、いっそのこと……。
「おーい。起きないと、さ……」
最後通牒、といった気分で話しかける。でもどうしてだろう、相手を起こそうとしていない、ひどく小さな声が出た。
いや。人間、これくらいでも起きるさ。だから、悪いのはこいつなんだ。起きないおまえが悪いんだ。
爆発しそうになっている胸の音が、相手を起こさないように。
わたしは、慎重に、慎重に。
いたずらをした。
「………」
立ち上がる。
眠っている間抜け面を見下ろしながら、うるさい胸を押さえる。胸を押さえた手は勝手に上がってきて、自分の唇を触る。
そこに残っている感触は――。
「忘れよう。帰ろ。……ふんっ!」
帰り際、部屋の壁に頭突きをしたので、わたしはすべてを忘れることに成功した。
▽
「ウワァッ!? 何これ!!??」
悠希さんが遊びに来ていた翌朝。起床して外出の準備をしていたら、部屋の壁にひび割れができているのを発見した。いったいなにが。
敷金が……。
▽
「あ!! 悠希さん、見つけたぞこら、この野郎」
「へ?」
大学の帰り、ちょうど自分の部屋の前で鍵を開けようとしているとき、心悟に呼び止められた。
らしくない勢いでズンズン歩いてくる。近づいてくる。身長も体格ももうオレより大きい。走ってきたのだろうか、荒い息をしている。
「っ……!」
ずい、と顔を覗き込まれる。男友達にしては、距離が近い。
目を見返すと、少し怒っているように見えた。どうして。
……どうしてもなにも。
バレたんだ。“いたずら”が。
「悠希さん」
「は、はい」
わたしは、何かが怖くて、あるいは何かを期待して、目をぎゅっと閉じる。
相手の息遣いを感じて、その姿を想像する。心悟は、口を開いて――。
「壁にひび入れたでしょ。まったくもう!」
と言った。
「あ……」
…………。
なんだ。
そっちか。
「前から破壊神だとは思ってたけど、まさかここまでやるとは。酔っぱらってたんじゃないの」
「ご、ごめん。てぇ、誰が破壊神だって?」
「そっ、そういうところが……」
少し落ち着いてきたら、今度はヘンなことを考えさせられてしまったことへの怒りがわいてきた。
拳をつくってシュッシュとやると、心悟はおびえる。他愛のないやつめが。二度とオレに逆らうなよ。
おしおきに、このままデコピンの一発でも。そう思って、手を伸ばした。
すると、そのまま。
「手とか怪我してない? 悠希さんとはいえ、あんなに強くぶつけたらさ」
心悟は、まるで少女漫画か古いラブロマンス映画みたいに、そっとこの手を取ってきた。
「えっ……と。いや、だ、だいじょぶ」
オレは手を引いて、後ろに隠した。今度は簡単にとられないように。熱を悟られないように。
今日はなんだ。ちょっと、おかしい。こいつ、こんなキザというか、チャラいやつだっけ。人の心臓を攻撃してくるようなやつだっけ。
……もしかして。
おかしいのは、わたしのほうか。
▽
また、夜がきた。
「………」
講義のせいか、アルバイトのせいか知らないが、今日も心悟は、一緒にいる途中で寝てしまった。
その、あまりに隙だらけな寝顔を見ていると。
心悟が起きて、こっちを見て、くだらない話をしてくれないと。
オレは、わたしになってしまう。なってもいいってことに、なってしまう。
………確めたい。もう一回。もう一回だけ。
男相手に――なんて、絶対にごめんだというオレが。こいつが相手なら、なんだってできてしまうのか、どうか。
そのときの感触が、いいものなのか。いやなものなのか。
「ごめん、心悟……。その。あと、一回だけだから」
わたしはまた、落下していく。
▽
「あと一回だけ……」
▽
「あと、一回……」
▽
「心悟……あっ」
どき、と。悪事がばれたみたいに、心臓が飛び跳ねた。いや、まさしく悪事がばれたんだ。
心悟は目を開けていた。触れ合って、顔を離してすぐに、目を開けたのだ。
――起きた。あるいは、起きていた。何をしていたか、知られた。
ああ、駄目だ、駄目だ。
もしかしたらバレてもいいかな、なんて思ってたから、このいたずらを何回もした。
でも、やっぱり、バレちゃだめだったんだ。だっていま、こんなに怖くて、こんなに胸が締め付けられているんだから。
薄く開けられた目は、何を考えているかわからない。胸が、つめたいものに貫かれているかのようで、このあとの言葉によっては、泣いてしまいそうだ。
「悠希……さん……」
「……あ、の。心悟。ごめん、オレ……わたし……」
「………の、胸。ふともも……」
「は?」
たわごとを口にしながら、心悟は目を閉じていった。
………。
寝ている。
「そんなに触りたきゃ触れよ、もう……」
寝ているやつの腕を取り、ふにふにと脂肪の塊にあててやる。
「おお……おおう……おほぉう……」
眠りながら気持ち悪い声をあげる心悟。
かなりむなしくなった。
そして、さすがに懲りた。もう、寝ている心悟をどうこうするのはやめよう。
暴走しすぎた。本当に起きてたら、きっともう、“オレ”と心悟は……終わってしまった、かもしれない。
それは、やっぱり、怖い。
だから、もう、しばらくは……。
この、心地いい関係のままで、いたい。
▽~回想ここまで~▽
「なんだその顔は? さっきからしつこいなぁ、もう。言っておくが、オレには不都合な隠し事などない」
怪しい……。
怪しすぎる……。
僕の勘は言っている。「こいつはやっている」と。何を? 知らん。
ちょっとカマかけてみるか。
「いや、待てよ。そういえば高校生のとき……」
「………」
「じゃなくて、就職したあと……」
「………」
「ではなく、大学生のとき……」
「過ぎ去った日々のことなど振り返るんじゃない、小僧」
大学生のとき、彼女にキスに関する何かがあったようだ。
この調子で突き詰めていけば、何かボロを出すかも。
「大学生のときの話なんだけど」
「うるさい、だまれ。だまれだまれ」
「ガァァァアッ」
あごのあたりを掴まれ、ぎりぎりと万力のごとく締め付けられた。これ真剣にドメスティックバイオレンスでしょ。
と思ったら、そのまま指であごをつままれ、くい、と上げさせられる。視線の先には悠希さんの美しいお顔が。
「よし、わかった。……するぞ」
「あん?」
「kissを……する」
「………kiss……を……!?」
えっ、唇で黙らせる的な……?
突然のことに頭が整理できないでいると、悠希さんは本当にベッドに上がり込んできて、身体に触れてくる。
このように触れ合うこと自体は初めてではないが、正面から目と目を合わせ、顔を近づけてくるとなると、これはもうたまらない。
「……心悟。目、閉じて……ううん。あけてて」
甘いささやき声が脳に染みる。
というか、何もかもを振り出しに戻された。悠希さんは、顔がいいことを自覚しているので、結局はこの一撃で、すべてをうやむやにできることをわかっているのだ。
くっ。だめだ、やはり顔が良すぎる。色気と可愛げがありすぎる。これではもう、僕は彼女を問い詰めることはできない。
悠希さんとキス……したい!! そうだ、実はしたかったのだ。だって悠希さんのことが好きなんだもの。
だが……ちょっと……ちょっ……!!
「待ってっ、だめっ……! は、歯磨きしてから……!」
そして、僕が乙女のような声を上げると、悠希さんは一瞬ですべての性欲を失った顔になった。
▽
お互い、狭い洗面所の中を行き交う。
僕は歯を磨くとき、洗面台の鏡に向かうが、悠希さんは磨きながらあちこちウロウロする場合がある。今みたいに同時に歯を磨き始めると、まあ確実にそうなる。
「あいあいあい、うしろ通るよ」
尻でっっか。
すれ違う際、互いの尻が部屋着ごしに擦れ合った。
剣士同士の戦いでは、一度斬り結んだのみで相手の実力を察することがあるという。いま、長峰の尻と一瞬対峙した僕の尻は、ただそれだけで敗北を認めていた。存在感が、厚みが、重みが違う。尻相撲でもしようものなら、ただの一撃で別の惑星まで吹き飛ばされてしまうだろう。
と、どうでもいいことを考えながら歯ブラシを動かしていた。
「やがやが、はーか」
やがて、歯磨き粉まみれの口で後ろから話しかけられる。「邪魔邪魔、はやく」とでも言ったのかなと思う。
急かされながら、口をゆすいだ。
▽
ついに、準備が整った。
僕たちは、なぜか正座の姿勢で対面している。
出会いは男同士、友達同士だった僕と悠希さんは、いま、ついに何かの一線を越えるのではないか。そんなふうに思ったりもする。
そして何より、悠希さんの唇はどんな感触がするのか。いわゆるキスの味というのはどういうものなのか。気になる。いい歳してこんなふうに興奮できるもんなんだ、というちょっとした気恥ずかしさもある。でも、対面の悠希さんも意外とこう、その、かわいい表情をしていて、そんな顔をしてくれるんだ、って思うとにやけてしまいそうだ。
「じゃ、じゃあ……」
「……おう」
僕たちは、互いに触れ、優しく、しかし離さないようにつかんで。
まだ学生であるみたいに、たぶん子どもっぽく、短いのか長いのかわからないくらいの時間、
唇同士をくっつけてみた。
………!!!
こ、これは!!!
顔を離す。ちゅ、と少しいやらしい音がした気がする。確かな感覚と温度が、そこには残っている。
一番好きなひととの甘いひととき、通過儀礼のひとつを終え。
きっとより深い絆で結ばれた僕と悠希さんは、同時につぶやいた。
『歯磨き粉の味しかしない……』