俺氏、ループ系TS聖女様をいつの間にかメス堕ちさせていた模様   作:弐目

51 / 120


老兵編はこれにて幕でございます。

どうしても分割したくなくて、一気に書き切ったら糞長くなった。
30000オーバーとか我ながらアホか……。





老兵の残照 母と娘

 

 

 

 北方のとある小さな村……いや、村であった場所にて。

 嘗ては小さなレンガ造りの家だった、焼け落ちた廃墟の中で少女は目を覚ます。

 この二ヵ月足らずの間で、こういった場所で夜を明かすことにもすっかり慣れてしまった。

 

 最初の内は鎧を使った反動で刻まれた全身の傷がズキズキと痛みを訴え、殆ど眠る事も出来なかったのだが……今は痛覚自体がひどく鈍化しているのもあり、そう気にならなくなっている。

 日が経つにつれ、どこか感覚が曖昧になっている自覚はあった。

 その代わりと言わんばかりに"誰か"の……自分と同じく魔鎧を使っていた人達の記憶が流れ込んで、それに同調する度に身体の奥に燻り続ける感情は薪を放り込まれた炎の様に燃え盛る。

 その結果、鎧との融合深度は加速し、日ごとに力を増していた。

 

 これなら、もっと戦える。わたし達から数えきれない位に奪った連中を――邪神とその信奉者達を、もっと。

 

 暗い意思を滾らせながら、半ば焦げて崩れ落ちた天井に向けて翳した掌を握りしめる。

 

 此処、彼女の故郷である村の跡地で眠る様になってはや数日。

 村の中に残っていた僅かな無事な物資を利用して、思ったよりはマシな状態で休息を摂れている。

 寝床代わりの藁に、毛布、罅の無い水瓶。

 井戸の水が呪詛に殆ど汚染されていないのも有難かった。この程度なら自分の《三曜》で問題無く散らせる。

 

 軋む身体を起こして、顔を洗おうと水瓶を覗き込んで……そこに映った自分に苦笑いが漏れた。

 

(……ひどい顔だな)

 

 少し瘦せた頬に、目の下には濃い隈。

 紅い瞳だけが、暗い熱を持ち続ける負の感情に熱された様に、爛々と光を放っている。

 伸ばしたまま手入れもせずに放置してある白い髪も手伝って、暗がりで見たら幽鬼の類に見える事だろう。

 

『せっかく珍しくて綺麗な髪をしているのに、なんでこんなに手入れが適当なんですの! アホか!? ブラン!』

『了解です、お嬢様。はい、ここに座って動かないで下さいねースノウさん。お手入れの道具持ってきますので』

 

 大切な友達とのやり取りが、ほんの数か月前なのに随分と昔の事のように感じる。

 あの二人に綺麗にしてもらった自分の白い髪は、今は薄汚れてみる影も無い。

 

(……いたい、な)

 

 殆ど機能しなくなった筈の痛覚が、不意に胸に痛みを伝えてきた気がした。

 

 それでも。

 

 それでも、これはわたしが、わたしの(憎悪)が望んだ事だ。

 

《魔王》と戦った直後は、彼女が夢を見るたび、憎しみの感情に一際強く胸を焦がされるたび、まるで熱を放つ様に切り裂かれた腕が痛みを持った。

 鈍くなった痛覚を無視するように、魔鎧の侵食に反応して発生するソレに。最初は煩わしさを覚えたが。

 この痛みがあれば、意識が霞むこと無く深く魔鎧に刻まれた記憶達と同調する事が出来る。そう気付いてからは、寧ろそれを利用した部分すらある。

 短期間での連続使用に加え、歴代の魔鎧の使い手――そのほぼ全ての記憶を夢という形で追体験する事で、限界まで融合深度は深まった。

 今の自分であれば、魔鎧の力をもっと引き出せる筈だ……多分、今までの誰よりも。

 

 自身と歴代の使い手達の憎悪。その両方に背を押され、或いは引きずられて。

 少女は嘗て師に導かれて手を伸ばした強さとは真逆の、無窮の暗闇を堕ちるが如き"力"を以て更なる領域に手をかけようとしていた。

 

 事実、直近で襲撃を行った戦場においても戦いを始めた当初と比べ、遥かに短い時間での殲滅が可能になっている。

 

 なら、あとはこの力で少しでも、一匹でも多く、邪神の軍勢を冥府に送ってやると、改めて決意する。()()の、そのときが来るまで。

 

 ……此処にはもう来ない。多分、来れない。

 だから、此処を出る前に村の共同墓地に埋葬されていた、祖父母や村の皆に会いに行こう、と。考えを巡らせる。

 もし手つかずのままであれば、自分がお墓を作ってあげないと――そんな風に思っていたのだが、教会の人達は村全体の浄化は無理でも、犠牲者の埋葬と墓地の浄化は優先して行ってくれた様だ。これに関しては素直に感謝しかない。

 

 顔を洗って、水を飲んで。魔鎧を纏わない状態ではひどく重く感じる様になった身体を引き摺るようにして村の端――共同墓地へと向かう。

 

 

 

 

 

 

 そして、ゆっくりと進んだ先。その途中で道を塞ぐように立ち塞がる人を見つけて、少女は立ち竦んだ。

 

「やはり、此処にいましたね」

 

 何時も聞いていた、凛とした声だ。

 知ってる。声の通りに厳しい人である事を。

 知っている。声の主が、厳しくて、だけどそれ以上に不器用で、とても優しい人だと。

 

 それは、多くを喪った彼女に残された、一番大切になった人だった。

 それは、彼女が一番に会いたくて――けれど、会えば自分の中の憎悪(ほのお)を弱めてしまう、会ってはいけない人だった。

 

 今の自分を見られたくなくて。

 それでも、何度振り切ってもこうやって追いかけて来てくれる事が、どうしようも無く嬉しくて。

 

 そんなグシャグシャに混乱した感情を抱く事すら、魔鎧を手に取る事を選んだ彼女には、自身と同じ嘗ての"誰か"への裏切りになるのではないかという思いがあった。

 

 その人は薄汚れた傷だらけの少女を見て、まるで自分が斬り付けられた様に苦し気に唇を嚙みしめて。

 けれど、瞳に浮かんだ様々な感情を全て意思で押さえつけて飲み込み、迷いの無い、強い口調で告げる。

 

「迎えに来ました――一緒に帰りましょう、スノウ」

「…………み、ら……」

 

 少女の師、ミラ=ヒッチンがそこにいた。

 

 

 

 

 

 

 正面から師弟が相対すると同時、周辺を囲む様に高度な結界が展開される。

 明らかにスノウをこの場から離脱させない為の代物であった。

 とはいえ、如何に優れた結界でも人外級の戦力が一点突破を狙えば苦も無く突き破られる。当然、《報復(ヴェンジェンス)》を扱う彼女にも突破は容易だ――それが通常の結界であるなら。

 鈍化した五感の代わりに魔力や生命力への探知・感知が異様に鋭敏化している少女には、展開された結界がとんでもない数の結界魔法を圧縮した多重構造である事が感じ取れた。

 この多重展開と……何より行使された魔力には覚えがある。

 

「やぁ、暫くぶりだねスノウ」

「…………!」

 

 少女の高まった探知能力を潜り抜ける精度の隠蔽の魔法を行使していたのか、ミラの背後の景色が揺らぎ――其処から現れたのは師の次に交流があった大人達だ。

 

「……随分と、ボロっちぃ(ナリ)になったな……飯は食えてるのか?」

 

 仏頂面を更に顰めて、不機嫌そうにスノウの姿を見回す傭兵のおじさん――ラック。

 

「……報告よりも傷が増えておりますな」

 

 何時もは快活に笑っている顔を沈痛の表情で陰らせ、言葉少なに聖印を切る助祭様――ガンテス。

 

「かの鎧の性質を考えれば、仕方ない事だよ――尤も、これ以上増えるのは看過出来ないけどね」

 

 そして、結界を展開した当人。こんな状況でも飄々とした態度の、運動嫌いの大司教様のヴェネディエ。

 

 聖教国、最高戦力の四英雄……その全員が、この場に集っていた。

 

 聖都から遠く離れた、こんな北方の小さな村の跡地にこの四人が揃う。

 それが如何におかしくて、難しいことかは少女にも分かる。

 

「ど……し、て……」

「……先程も言ったでしょう。貴女を迎えにきました」

 

 融合深度が深まり過ぎた弊害か、この半月足らずで不自由になった舌を苦労して動かす少女に、女傑が硬い口調で先程も述べた言葉を繰り返す。

 僅かなやり取りでも弟子の状態に気が付いたのか、己や魔鎧への激怒や心痛、嘆きを押し殺して能面の如き無表情となったミラの拳から、肉と骨が軋む音が漏れて血が滴った。

 

「彼らは、私の我儘に付き合ってくれた形です――それに甘える様ですが、この一件に関しては私も自重する事はやめました」

 

 始めに拒絶された事で迷い、躊躇い、その結果。

 スノウは、家族同然に思う様になった唯一の弟子は、こうして傷だらけになって独り、破滅同然の道を突き進み続けている。

 

 だから、ミラも腹を括ったのだ。

 己が為すべき道だと選んだ戦士としての使命も、教会の最高戦力などという過分な立場も。

 全部、一度放り投げる。後にやって来るであろう諸々の皺寄せの事はそのときになって考える。

 この我儘で何処かの戦線で被害が発生したというのなら――叱責も、処罰も、全て甘んじて受け入れよう。

 その上で、譲らない。

 各国上層部が不接触を命じて来ようが、当人であるスノウが拒絶しようが、己の我儘を通す――その為に此処迄やってきた。

 

 殊更に少女に向けて威嚇している訳ではないのだが、それでもミラが激情を堪えているのは察したのか、少しばかり腰が引けた様子のスノウに向けて常の通り……いや、何時もより遥かに強固な決意を漲らせた言葉を紡いだ。

 

「私は、私の弟子を呪いの魔鎧などにくれてやるつもりは無い――《報復(ヴェンジェンス)》は引き剥がして封印に叩き込み、貴女を取り戻す」

 

 宣言する様に告げると、何処か怯んだ様子だった少女の態度が目に見えて硬化する。

 だが、ミラにとってそれも想定の内だ。

 基本、邪神の軍勢以外には蓄積させた負の感情を向けない――言ってしまえば()は眼中に無い《報復(ヴェンジェンス)》とその使い手が、明確に人類種側へと牙を剥いた事例。

 資料にも残されている数少ないソレは、全て同じ理由だった。

 即ち、使い手と引き離す、封印処置を以て以降の主を見出せない様にするといった行動に対する反撃である。

 根幹である憎悪を向ける対象への報復――それを大きく妨げる相手には、当然の如く魔鎧も対処を行う、という事であろう。

 そしてそれは、魔鎧の精神侵食を著しく受けた使い手にも同じ事が言える。

 

「…………」

 

 無言の儘に、少女が半歩だけ後ろに退く。

 その紅い瞳には、動揺、哀しみ、微かな怒り――そして何より、強い拒絶があった。

 

 或いは、彼女が言葉に不自由する様になっていなければ、先ずは対話によるやり取りもあったのかもしれない。

 

 だが、碌に話せなくなっている自分では、会話で師を翻意させる事は出来ないと判断したのか。

 これまでそうしてきた様に、魔鎧の機動力を用いた離脱を考えるスノウだが……それを行うにはヴェネディエが展開している多重の結界が邪魔をしている。

 今の彼女であれば、突破自体は不可能では無い。

 無いが、多少なりとも時間が掛かる。背を向けて結界をこじ開けようとすれば、当然無防備になった処を師や他の大人達は見逃さないだろう。

 

 既に先手を打たれて逃亡を封じられた状況だ。それでも師の告げた言葉に抵抗しようというのなら……どうしたって力尽くにならざるを得ない。

 

(……それは、ダメ)

 

 過去にそうであった様に、魔鎧は使い手から引き剥がそうとする者達への敵意を表す。

 その感情が流入してくる感覚にスノウは胸元に掌を当て、それを押さえ込んだ。

 

 ミラを、この場にいる人達を傷つける。

 

 それは少女にとって最も忌避すべき行為だ。

 だがこのまま何もせずにいれば、心底本気の眼をしている師はそのまま《報復(ヴェンジェンス)》をスノウから引っぺがし、二度と現世に顕現出来ない様に厳重な封印を施してしまうだろう。

 

 どうしよう。

 どうすればいいの。

 皆を、ミラを傷つけたくない。

 でも、鎧を手放すなんて事はもっと出来ない。

 もう、もう放っておいてよ。わたしは。

 わたしは、選んだんだから。

 ミラの傍で護られ続ける事を拒んで、自分の中の憎悪を燃やす事を選んだんだから。

 

 混ざり合い、絡まり、混沌とした胸の裡をさりとて言葉にも出来ず。

 魔鎧を手に取って以降、常にその精神侵食を拒む事無く同調すらしていたスノウの精神は、此処に来て初めて鎧との齟齬を見せた。

 自身の感情と魔鎧の防衛反応の齎す敵意に板挟みになり、更に思考は千々に乱れてゆく。

 

 今にも泣きだしそうな表情で顔を歪める少女に、既に覚悟の決まりきった師の静かな声が掛けられた。

 

「スノウ。この場で貴女がどんな選択をしても、それは貴女のせいではありません」

「――ッ」

「再三言うようですが、これは私情、私の我儘です」

 

 師の言葉が切欠、という訳でも無いだろうが。

 必死に自身の胸を掴んで、何かを押さえつける様な素振りを見せていた少女から空気が焦げ付く様な魔力の胎動を感じ取り、師弟の会話を黙して聞いていたガンテス達が後に訪れる展開を察したのか、静かに身構える。

 

「貴女が悩み、苦しみ、その末に。今までの全てを振り切って報復の為の力を求めたのだとしても」

 

 正面からその強烈な攻性を伴った魔力の波動に炙られながら、それでも一切怯むこと無く、ミラは続ける。

 彼女の言う我儘を――想いを、目の前の少女に伝える為に。

 

「貴女がそんな自身の選択に巻き込まない様にと、私を拒絶したのだとしても」

「――ぅ、ぁっ」

 

 よろよろと、覚束ない足取りで後退り、距離を取る少女の瞳には既に涙の粒が溢れんばかりに溜まっていた。

 放射されている魔力は更に膨れ上がり、爆発寸前の炸薬を思わせる危険な圧を発している。

 

 正と負。両方の感情が精神の臨界まで満ち、苦し気に呻くスノウへ。もう一度だけ、告げた。

 

 

 

「――それでも、私は貴女と一緒にいたい。師としての責務ではなく、私がそうしたいと望み、それを為す為に此処に来たのです」

 

 

 

 真っ直ぐに、迷いなく断言された言葉を受け。

 

「――――――ぁ」

 

 涙が限界を越えて頬をつたい、同時に溢れた魔力も決壊を迎えた。

 

「ぅ、あぁぁぁぁぁぁAAAAAAAAAAAッ!!!」

 

 溢れ出す。

 憎悪で蓋をしていた筈の、憎悪以外の感情が。

 憎しみに灼かれたスノウという少女の心に、それでも確かに在り続けたそれらは哀切であり、郷愁であり、歓びであり、親愛でもあった。

 師と相対し、そして言葉を交わせばこうなってしまうと。

 どうしようも無く、閉じ込めた感情が暴れ出してしまうと。

 或いは無意識にでも、少女は理解していたのかもしれない。

 

 そして、それらを振り切る様に、目を逸らす様に。

 憎悪で焼き付いた筈の心に染み入ろうとするその感情達を、叫びと共に吐き出そうとする。

 

 それはまるで、癇癪を起こした赤子の泣き声の様な。

 帰る場所も分らずに、泣きじゃくる幼子の様な。

 壊れてしまった宝物の欠片を大切にしまって――けれどそれが二度と元に戻る事が無いのだと泣き叫ぶ少女の慟哭だった。

 

 悲鳴の様な叫びが小さな村の跡地に響き、感情を暴発させた主に応える様に魔鎧が起動する。

 

 爆発的に膨れ上がった魔力が漆黒の装甲の形を取り、少女の全身を覆って。

 その全身を深紅の魔力導線が奔り抜け、最後に頭部装甲の頬の部分に、涙の跡を思わせる新たな線が刻まれる。

 

 血涙を思わせるソレを睨み据え……ミラは背に負っていた鋼棍を手に取り、一振りした。

 

「スノウは魔鎧(お前)には渡さない――私の弟子を返してもらうぞ、《報復(ヴェンジェンス)》」

 

 

 

 

 

 

 起動した《報復(ヴェンジェンス)》は、以前ミラが《魔王》との戦いに割って入った際に見た物とは姿を変えていた。

 全身鎧としては細身な印象はそのままに、手足の装甲がより重厚に――だが獣の爪牙を思わせる鋭利さを宿し。

 肩部は肥大化し、新たな装甲が追加されていた。

 そして何より、脊椎から枝分かれして伸びる、長い鋼の尾。

 背から覗く、ゆらりと揺れるソレは威嚇するかの様に尖った先端で地を抉る。

 

 推測になるが、歴代の所有者達が最期に至った果ての力――それらを発現させた物であると、ミラは判断した。

 やや前傾姿勢のまま、凶悪さを増した手足の装甲を軋ませて此方を伺うそれは、魔鎧というよりは、獣。

 大戦の黎明より受け継がれる憎悪の炎で鍛造された、漆黒に深紅を宿した鋼の"獣"だった。

 

 その"獣"が、地を揺さぶり、天を突く様な咆哮を上げる。

 

 負の感情を叫びに変えたソレに、使い手である少女の理性は感じ取る事が出来ない。

 だがミラは動じなかった。スノウの意識があろうと無かろうと、やる事は変わらない。

 

 文字通り、獣の如く低い姿勢で漆黒の鎧が弾丸の如く飛び出した。

 

 突撃の速度を載せた鉤手の形に開いた掌が女傑の身に届く前に、割って入る様に飛び出した人物が正面からそれを受け止める。

 

「――師弟の拳の語らいにて無粋を失礼。ですが、スノウ嬢をミラ殿のもとへと返すのが我らの今回の目的ですからな!」

 

 両の腕を用いてがっちり魔鎧と組み合ってみせたのはガンテスだ。

 その桁外れの膂力を生かし、"獣"の動きを止めようと試みる。

 

 ――だが、驚嘆すべき事に"獣"は同じく膂力で以てそれに拮抗した。

 

「ぬぅっ!?」

 

 予想を遥かに超える手応えに、口を真一文字に引き結んだ巨漢が唸り声を洩らす。

 単純なパワーという点では、おそらく彼の方が上だ。

 だが、"獣"は装甲の各部に備わっている魔力噴射を用いて、静止状態からの爆発的な瞬発力を発揮する。

 怯まず押し返さんと、ガンテスの両腕が力瘤で盛り上がり、その単純な膂力同士の鬩ぎ合いに耐え切れずに両者の足元の大地が陥没し、亀裂が生じた。

 

 剛力の極点の如き力同士の拮抗は、数瞬。

 

 崩されたのはガンテスであった。

 全力を振り絞った互いの四肢――其処に、彼には無い代物が差し込まれる。

 "獣"の背の陰から凄まじい速度で振るわれたのは、鋼の靭尾。

 無数の節が連なったそれは鞭の様にしなり、同時に刃の鋭さを以て巨漢の肩口を狙う。

 膂力も然ることながら、人外の領域に至った戦士の中でも桁外れの耐久と防御を誇る修道僧の筋肉を、"獣"の尾は浅くではあるが切り裂いた。

 僅かに身体をぐらつかせたガンテスに向け、翻った尾の先端が音速を越えて突き込まれる。

 

 それを手にした長剣で撃ち落としたのはラックだ。

 可視化する程の魔力強化を施した剣は、ガンテスの頑強さを貫く程の一撃を危なげなく防ぎ切る。

 

「……重いな」

 

 大型の魔獣による突撃を受け止めた様な感覚に、傭兵は巌を思わせる面を歪めた。

 高硬度の金属同士が擦れ合い、甲高い音と火花を散らす。

 巨漢と傭兵によって四肢と尾――五体の動きを止められた"獣"の横腹に、するりと伸びた棍の先端が軽く当てられ。

 

「――《命結》」

 

 短く呟かれたミラの一言と共に、魔鎧の表面を練り上げた魔力が走り抜ける。

 打点を中心として装甲に亀裂が走り、衝撃で弾かれた"獣"が飛び退る様に背後へと跳躍した。

 

 油断無く距離を詰めようとする三人へと、再び咆哮する。

 今度は只の叫びでは無かった。

 

 "獣"の背後――その上空に、数えるのも馬鹿らしくなる程の無数の魔力弾が一瞬で形成される。

 細長く、先端を尖らせたシンプルな形状のそれは、弾というよりは針か、錐の先端に近い。

 脚を止め、瞬時に迎撃の態勢へと切り替えたミラ達に、豪雨の如き魔力の錐が降り注ぐ。

 

「それは()()()()よ」

 

 それが彼女達へと届く前に対応してみせたのは、これまで沈黙を保っていたヴェネディエだ。

 刹那の間に、障壁が魔力錐と三人を分かつように展開される。

 高い貫通力と圧倒的な物量で魔力障壁が破壊される僅かな間に、直線的な錐の射線に対して斜めに受ける角度で追加展開した障壁が、爆撃じみた魔力の雨を凌ぎ切った。

 

「……助かりました、ヴェティ」

「まぁ、これ位はね。とはいえ、スノウがこの場から離脱するのを防ぐ為にも多重結界は切れない。悪いけど、いつもみたいな支援は出来ないと思ってくれ」

 

 魔力錐を降り注がせる間に破損した装甲を復元させた"獣"から視線は切らぬまま、ミラが友人へと礼を述べると、その当人は普段の飄々とした態度を潜めた真剣な声色で応じる。

 

「流石に特級呪物扱いされるだけの事はあるな……まだ伏せた札も持ってそうだ」

「然り。先のミラ殿の一撃を容易く復元させた回復力も考慮すれば、やはり拙僧とラック殿が動きを止める役割に注力すべきかと」

 

 互いの得物――長剣と岩塊の如き拳をそれぞれ構えて"獣"の眼前へと進み出るラックとガンテス。

 

 今回の目的は、魔鎧の打倒ではなくあくまで使い手であるスノウの保護。

 極力彼女を傷付けず、魔鎧を一時的に休眠状態にさせる為の大破を狙うには、装甲の防御を貫く威力とそれを内部に伝えない繊細な技量の両立が求められる。

報復(ヴェンジェンス)》を相手にそれを行うのは、四英雄と称された彼らでも容易では無い。

 安定して魔鎧()()に損耗を与える事が可能なのは、こと技量という一点においては人類種の上澄みの中でも更に突出しているミラだけであった。

 

 故に、この布陣だ。

 

 前衛に二名、壁役として最前列にガンテス。そのフォローとしてラック。

 後衛にヴェネディエ――結界にリソースを割いている彼は、魔法による支援より未来視の加護を用いた危険な攻撃の察知と対処を主とし。

 遊撃……目的達成の主力としてミラ。彼女は《三曜》を用いた技で早々に魔鎧を停止状態に追い込む火力役だ。

 元より、教会の最高戦力などと呼ばれ始める前はこの四人で様々な局面を打破して来た。言葉や打ち合わせが無くとも、ある程度の連携は自然と熟せる。

 

 互いに完全に態勢を整え直した四名と"獣"は、改めて対峙する。

 動きの無い時間は五秒か、十秒か。

 張り詰めた空気が空間を軋ませて音すら立てる様であった。

 

 先に動いたのは、漆黒の鎧姿だ。

 魔力噴射による超加速で、一瞬と掛からずに己の影すら振り切る速度に達する。

 狙いは最後列のヴェネディエ。

 五指に凶悪なまでの力を漲らせ、小柄な青年を引き裂こうと鉤型に開かれた指先が天に振り上げられる。

 

「――させません」

 

 圧倒的な速力にものをいわせて前衛を振り切ろうとした"獣"は、しかし差し込まれた鋼棍により絶妙なタイミングで脛を払われ、斜め前方へと吹き飛ぶ様に宙を舞った。

 しかし空中で再度魔力を噴射。身を丸めて回転すると瞬時に体勢を立て直し、大地に爪を立てて削りながら減速を行う。

 

「ぬん!!」

 

 四肢を使って着地を終えた"獣"が顔を上げると、間髪入れずに追撃に入っていたガンテスの剛腕が振り下ろされる。

 咄嗟に両腕を交差させ、"獣"は鉄槌の如き拳を受け止めるが、それは悪手であった。

 スノウに打撃の威力が通らぬ様に加減された一撃ではあったが、それでもその威力を受け止めきれぬ大地が悲鳴を上げ、周囲の地面ごと大きく陥没すると踏みしめていた脚が深く地へとめり込む。

 

 立て直そうとする"獣"の知覚に、高速で左から飛び込んでくるラックの姿が認識された。

 鋼の尾が持ち上がり、意思を持った個別の生き物の如く迎撃を行う。

 最初の激突と同じく、長剣と尾が打ち合わされて火花を散らした。

 

「厄介だな」

 

 瞬時に弧を描いて右、返しの左薙ぎ、弾かれてからの正面への突き。

 瞬きより短い間に剣と尾が交差し、残像を残して鋼の軌跡が虚空に描かれる。

 一際大きく打ち合い、鍔迫り合いに近い状態になるとラックは不敵に笑った。

 

「――だが、尾一本で止めようなんざ、幾ら何でも俺を舐めすぎだ」

 

 剣の柄が軋む程に握り込まれると、既に高密度の魔力が通っていた刀身が淡く輝き、更に強化される。

 高く、何処か涼やかですらある音が鳴り、"獣"の尾が半ばから斬り飛ばされた。

 

「チビスケに尻尾は生えてないからな。中身が無いってんなら遠慮なく斬れる」

 

 質は良いものの数打ちの鋼で呪いの魔装を断ち切ってみせた剣技は凄まじいものがあったが、やはり武器への負荷は大きい。

 背後へと跳躍して距離を取りながら刀身に罅の入った剣を打ち捨てると、背に負った短槍を握って構え直す。

 

 入れ替わるように間合いに踏み込んだのは、充分に魔力を練り上げたミラだ。

 尾を落とされ、更にはガンテスに上から抑え込まれた状況を"獣"は強引に魔力噴射で突破しようとする。

 その漆黒の鎧姿が加速される前に、棍の鋭い横薙ぎが背を打った。

 

 そして、再度叩き込まれる《三曜》の一撃。

 

 衝撃がさざ波の様に伝わり、背面の装甲に蜘蛛の巣状の罅が走る。

 一瞬遅れ、魔力噴射によって魔鎧が一気に間合いを離す。砕けた装甲の破片が宙を舞った。

 両手両足を使って四足の獣の如き動作で地に着地するその背から、ベキベキと鈍い音が響く。

 既に尾と装甲の復元が始まっているが――破損した状態で強引な加速を行った事もあり、装甲の回復には相当な魔力を消費するだろう。

 このまま消耗させていけば、一時的にだが機能停止に追い込む事が出来る筈であった。

 

 人外級の戦士四人を相手に、単騎でこれ程に食い下がる――邪神戦役の負の遺産とまで呼ばれるその力に偽り無し、といった処だが……それでも戦いはミラ達に優位に進んでいる。

 それも当然と言えば当然の話ではあった。単純な戦力比で見ても差は明確だが、この場にいる四人が四人とも、油断や慢心とは縁遠い気質である。連携も取れている以上、相対する者は勝機への僅かな綻びを見つける事も難しい。

 

 だが、これで終わる様ならば永きに渡って邪神の軍勢を鏖殺せんとする『災害』、等と称されはしない。

 

 変化は幾度目かの激突にて表れた。

 ガンテスが繰り出した打撃が、"獣"の掌で無造作に捌かれる。

 

「――ぬ!?」

 

 覚えのある手応えに巨漢が咄嗟に足腰に力を入れて踏ん張り、上体が泳ぐのを堪えた。

 受け流しの動作から流れる様に肘が撃ち込まれ、自身の骨肉を貫いて身体の奥にある氣脈を打ち抜かんとする一撃に、巨漢はたたらを踏む。

 

(これは、スノウ嬢の《三曜》……よもやこれ程の練度に達しているとは……!)

 

 即座に圧縮した魔力を氣脈に押し通し、"獣"によって打ち込まれた《命結》の打効を相殺する。

 全身から魔力噴射を行った鎧姿がかき消え、次の瞬間にはガンテスの背後に現れた。

 振り向き様に大気に穴を穿ちながら放たれる裏拳を先程と同じく《流天》で受け流すと、"獣"はそのまま丸太の如き腕を取り、関節を極めながら背負い投げを打つ。

 ガンテスの巨躯が宙を舞い、破城槌を地面に打ち込んだ様な衝撃を撒き散らしながら地に叩きつけられた。

 

 追撃を加えようとする"獣"に向け、ミラとラックが前後からの挟撃を行おうと間合いを詰める。

 対して、"獣"は後方のミラへと振り向く事もせずに先に見せた魔力の錐を生成・展開した。

 咆哮すらない完全な無詠唱であった為か、先程の半分以下の数ではあったが……それでも人ひとりに向ける魔法としては圧倒的と評して良い物量の錐が女傑へと殺到する。

 近距離で一斉に放たれたソレをヴェネディエが展開した障壁が阻み――秒に届くかどうかの時間で砕かれた。

 だが、その刹那の間に迎撃の態勢をとったミラが、《流天》と手にした棍を用いて魔力錐の雨を悉く叩き落とす。

 

 その間にも、叩きつけたガンテスの手首と肩を極めたままの魔鎧は靭尾を振るい、ラックと切り結ぶ。

 一呼吸の間に十は突き込んだ短槍の穂先が全て尾の側面で捌かれ、そこに武器を強化した魔力ごと力の流れを変えられた感触を感じ取り、傭兵は舌打ちした。

 

「尾でも《流天》を使ってくるかよ!」

 

 二人が攻めあぐねていると、地に大穴を開けてめり込んでいたガンテスが動いた。

 

「ふんぬっ!」

 

 関節を極められた腕とは逆の腕で大地をブン殴り、地中を拳で抉りながらその体躯が寝返りを打つ様に一回転する。

 地面を掘り抜いて飛び出した拳が開かれ、"獣"の足首をむんずと掴むとそのまま畑の野菜を引っこ抜くように空に放り投げた。

 宙に放られ、あっさりと姿勢を制御して地に着地する"獣"。だが、巨漢の方も全身のバネを使って一瞬で跳ね起きている。

 

 土まみれになった身体を払う巨漢の傍にミラとラックが並び、ヴェネディエが後衛の位置取りを保持して後方に着いた。

 

「……無事ですか、ガンテス?」

「問題ありませんぞ。余程特異な例を除き、拙僧に投げの技は通りませぬ故」

「関節も効いて無いだろうが。マジで人間なのか疑わしいなお前」

「まぁ、鉄の塊を土に叩きつけた処で傷む筈も無いっていうのは道理だよね……関節の方はもう僕には意味分からないけど」

 

 大体筋肉でなんとかしたらしい人型肉弾戦車に、呆れた友人達の視線が突き刺さる。

 眼前の"獣"にスノウの意識が残っているのかは疑わしいが……それでも、極めた腕をへし折ろうとしたら、継ぎ目の無い鋼の柱を抱え込んだ様な感触が返って来た事には困惑したことだろう。

 

 将来、とある霊獣から種族誤認を受けそうな漢の事はさておき。

 

 "獣"が今の主の技能である《三曜の拳》を扱いだした事で、優性だった戦いはやや膠着気味になりつつあった。

 だが厳密にはそれだけが理由では無い。

 従来からの圧倒的な性能と、嘗て無く拡張された機能を用いて邪神の軍勢を蹴散らしていた今代の魔鎧は、それ故にその全てを使いこなす局面に遭遇せず、必要にも駆られなかった。

 だが、その能力を十全に振るわねばならない相手が現れた事で、急速に力の扱い方を学習しつつある。

 これが《報復(ヴェンジェンス)》の持つ学習能力なのか、それとも担い手たる少女の才覚(センス)によるものなのか迄は判別が付かないが……より厄介になった事だけは確かであった。

 

 長引かせればそれだけ脅威は高まる。

 

 ミラ達は誰が言う迄も無くそれを察し、視線だけを交じり合わせると頷く。

 早々に決着をつけるべく、各々十分に身体に魔力を巡らせると眼前の魔鎧へと向けて地を蹴った。

 "獣"も応じるように咆哮し、野を駆ける四足の如き低い姿勢で疾走を開始する。

 

 そして、何度目かの両者の激突が始まった。

 

 剛腕が地を割り、それを捌いた"獣"が爪牙となる四肢を振るい。

 漆黒の鎧の加速を止めんと、槍が影すら置き去りにする高速機動を正確に捉えて突き込まれた。

 仲間の窮地に絶妙のタイミングで差し込まれる魔力障壁が、"獣"の四肢や尾から繰り出される致命の痛打を受け止め。

 多彩な猛攻を全て潜り抜けて捻じ込まれる鋼の棍が装甲を砕き、細かな破片を舞い散らせる。

 目まぐるしく一瞬で変わる立ち位置。息も付かせぬ攻防。

 飛び交う豪打剛撃、超速と精緻の極みの応酬。それに時折魔法の光が混じり、戦いは更に加速してゆく。

 

 その最中、ミラは気付いた。

 

 ――"獣"の振るう《三曜》の精度が向上している。

 気のせいでは無い。

 ミラの一撃をその身に受ける度。或いは彼女が"獣"の攻撃を捌き、受け流す度に。

 まるで見取り稽古の様に、"獣"の技が洗練されてゆく。

 構えも型もあったものではない、文字通り人型の獣が爪を振るうが如き動きであるにも関わらず。

 天地に、自身に在る魔力の流れ。

 それを掌握する速度はより速く、五体と地に巡らせるはより滑らかに、体内で撓め、結ぶのはより強固に力強く。

 

 先にも述べた通り、今の《報復(ヴェンジェンス)》にスノウのしっかりとした意識があるかは疑わしい。

 精神侵食を強く受けた影響で、防衛反応に引き摺られる形で一時的に魔鎧に呑まれている可能性の方が余程高かった。

 

 それでも、魔鎧の主は白い少女であり、依り代となるその身は彼女のものだ。

 

 ミラが見出した、珠玉の才。

 長ずれば開祖たる《半龍姫》の領域へと歴史上最も近付くであろう天才は、この状況下にあってもその才覚を曇らせることは欠片も無く。

 本気の師と、師に並ぶ強者。それらと相対する事で、少女は師によって磨かれていた才を開花させようとしていた。

 

(――ッ、なんという……! スノウ、これが貴女の……!)

 

 "獣"の《地巡》による魔力補充……その妨害も難度を増して行き、つい先程まで余力を以て捌き切れていた筈の一撃が重く、鋭くなってゆく。

 攻防の難易度が上がっていると感じたのは、当然ミラだけでは無い。

 前衛役である二人は勿論の事、唯一の後衛であるヴェネディエも気付いたのか、その表情は険しい。

 

 ガンテスとラックが左右から同時に攻めかかった。

 小さな滝程度なら拳圧だけで両断してのける拳と、音の壁を容易く超える無数の刺突。

 相対するのが邪神の上位眷属であっても押し勝てるソレを、"獣"は両の腕と尾による《流天》で捌き切る。

 二人が本当の意味で本気を出せば、こうも容易く凌げはしないだろう。

 だが、少しでも加減を誤ればスノウに致命傷を与えかねない以上、前衛の二人はこれ以上の威力を伴った攻撃を撃ち込む事が出来ない。

 

 受け流されるのは承知の上。有効打を与えられるミラの為に隙を作らんと、巨漢と傭兵は更に速度と回転を上げ、手数で以て"獣"をその場に縛り付けようとする。

 面制圧も出来そうな拳の弾幕、手首や肘、膝、足首と可動箇所を狙いすました槍の刺突と薙ぎ払い。

 狙い通りに"獣"は脚を止めて迎撃に注力し、その間隙を狙わんと《命結》で魔力を練り上げたミラが一気に間合いを詰めた。

 

 ――それに違和感を覚えたのはヴェネディエだった。

 

 如何に《三曜》によって攻撃を受け流す事が可能だと言っても、強みである圧倒的な機動力を生かさず、足を止めての迎撃。

 今もそうだ。現状、ダメージ源になっているミラが間合いに踏み込もうとしているにも関わらず、迎え撃つのに適した魔法錐を展開すらしていない。

 違和感は予感に変わり、魔鎧の肩の装甲がバクン、と音を立てて開いた瞬間に確信に変わった。

 

 大気を呑み込む様な音を立てて、大量の空気が開いた装甲へと吸い込まれると同時――《視えた》光景に、ヴェネディエは総毛立つ。

 新たな機能を用いた攻撃が来る――そう判断して守りと迎撃の態勢に入ったミラ達に向けて、殆ど怒鳴る様に叫んだ。

 

「受けるな! 退け!!」

 

 その声に、ミラとラックは弾かれた様に後方へと跳躍し。

 魔鎧と至近距離にいたガンテスは、咄嗟に後退した二人をその背に隠すように立ち塞がり、文字通りその巨躯を壁とした。

 かろうじてヴェネディエの展開した魔力障壁が巨漢の眼前に広がり――。

 

 ――放たれたのは、音。

 

 開いた肩部より飛び出したのは、圧縮された大気と"獣"の咆哮に桁外れの増幅を掛けた音の槍だった。

 一瞬で魔力障壁が粉砕されると凄まじい轟音が響き渡り、北方の大地が震動で揺れる。

 指向性を以て放たれたそれは、距離を取ったミラとラック――更には有効射程の外にいたヴェネディエの鼓膜にまで衝撃を伝え、耳孔で乱反射した音に揺さぶられて視界が揺れた。

 

 一方、壁役を全うし、至近距離でその大半を受け止めたガンテスだが。

 物理的な衝撃を伴った音圧で上衣が引き裂かれ、圧縮空気の壁を叩きつけられた事で発生した摩擦熱によって全身が白煙を吹き上げていたが、煙の下の肉体そのものは無傷。

 だが、他の三名がそうであったように音を受け止めた鼓膜は無事では済まなかった。

 

「ぐ……ぉ……っ!!」

 

 ブシュ、という小さな音と共に、彼の両耳から血が噴き出る。

 耳孔だけでなく鼻腔や両の眼からも赤い筋を垂らした巨漢は、短い呻き声を上げながら身体を折り曲げ、片膝を付いた。

 

 そこに間髪入れずに"獣"による蹴撃が叩きこまれる。

 存分に《命結》を練り上げ、魔力噴射を併用して打ち出された突き蹴りはくずれ落ちたガンテスの鳩尾へと突き刺さり、その巨躯を水平に吹き飛ばした。

 

「ガンテス!!」

 

 壁となってくれた友人程では無いとはいえ、未だ轟音のダメージが残るミラが叫ぶ。

 

「……ちぃっ! ヴェティ、そこの筋肉馬鹿を!」

 

 舌打ち一つして、僅かに揺れの残る視界を叱咤し、ラックが治療の時間を稼ぐ為に"獣"へと突撃した。

 幾度目かの咆哮を"獣"が上げると、この戦闘における最大量と言ってよい魔力錐が展開される。

 もう一度舌打ちを重ね、ラックは右手で短槍を握り直すと左手で腰のショートソードを抜き放った。

 

 迎撃の手数を増やすために二つの武器を器用に駆使しながら、射出される錐を叩き落とす。

 降り注ぐ魔力の豪雨を前にも脚は止めず、多少の被弾は覚悟で尚も前に出る傭兵に対し、"獣"は脚を振り上げ、激烈な踏み込みで以て大地を震わせた。

 

「――まさか!?」

 

 知覚した魔力の動きに、ミラが驚愕の声を上げる。

 上空から直線的に撃ち出されていた錐の軌道が、弧を描く。

 その数ゆえに狙いの精度よりも攻撃範囲による制圧力を重視していた筈の魔力の雨は、大きな流れに絡め取られる様に曲線を描き、或いは旋回してその全てがラックに向けて殺到した。

 

「ッソがぁっ……容赦ねぇなチビスケ……!!」

 

 前後左右、視界一杯に広がる死すら予感させる光景に、凄絶な笑みを浮かべながら傭兵は武器を振るう。

 叩き落とす。肩を掠める。

 叩き落とす。左の二の腕に錐が突き立った。

 叩き落とす。右の腿と脇腹を抉られ、血が噴き出る。

 神速で奔る剣と槍の二閃は、だが単純な物量に押し潰されて圧殺されようとしていた。

 

 血に塗れたラックが針鼠になる直前、ミラの干渉が間に合う。

 

「《日昇》……!」

 

 螺旋を描く動作で翳された両の手掌が、錐の軌道を掌握して巻き取る。

 軌道を明後日の方向に逸らされた魔力錐の全てが地面に突き刺さると同時、限界を超えた様にラックの握る武器から魔力の輝きが喪われ、砕け散る。

 身体のあちこちから錐を生やして全身を朱に染めた傭兵は、息を切らしながら穂先の割れた槍を地に突き立て、折れそうになる膝を支えた。

 

 その眼前、一瞬で距離を潰した"獣"が腕を振り上げる。

 鋭利な装甲に包まれた五指がラックを引き裂こうとするが、割って入ったミラの棍によって爪撃は受け流され、警戒する様に"獣"は即座に間合いを離した。

 

「……悪い、助かった」

「動けますか? ヴェティの処まで下がって治療を受けて下さい」

 

 荒い息のまま、顔を顰めて礼を述べる友人に、ミラは"獣"から目を逸らす事なく硬い声で応じる。

 先程、魔鎧が自身の行使した魔法の軌道を操作してみせたのは、術の構成や魔法自体の精度によるものではない。

 あれは間違いなく《三曜》の技――完成したあの規模の魔法に対し、周囲の空間に満ちた魔力ごと干渉した事も鑑みれば、奥伝にも相当するであろう難度の技術であった。

 

「……チビスケ……いや、魔鎧のヤバさは想像以上だった。一人じゃ危険だぞ」

 

 躊躇いがちに呟かれる友人の言葉には、暗に撤退も視野にいれるべきだ、という意味も込められていた。

 

 それは、きっと正しい判断なのだろう。

 

 元より、此方がスノウと魔鎧を引き剥がそうとしているからこそ苛烈な反撃を行ってくるのだ。

 ヴェネディエに結界を解いてもらい、全員で速やかに退けば"獣"はおそらく追っては来ない。

 

 だが、正しい選択が必ずしも望む選択とは限らない。

 

「……申し訳ありません、私は退けない。此処で退けば――あの娘に向かった伸ばした手を引いてしまえば、二度と届かなくなる。手を伸ばす資格を失う」

 

 それは師として。

 そして、あの娘の……叶うなら家族として。

 どれほど愚かな答えなのだとしても、どれ程に困難な選択なのだとしても。

 退かない。退けない。

 あの娘に、独りぼっちで憎しみに身を焦がす事を選んだ意地っ張りの少女に届くまで、手を伸ばし続ける。

 そう、決めたのだ。

 

「先ずは傷を癒して下さい……私が倒れたら、直ぐに撤退に移れるように」

 

 前を向いて、"獣"を……その漆黒の装甲の奥に隠されたスノウを見つめて。

 

 ミラは一歩、踏み出した。

 後方からガンテスを支えたヴェネディエがやって来て、ラックに回復魔法を施す気配を感じ取りながら、振り向く事無く、前へ。

 魔鎧に向けてゆっくりと歩む途中、手にした棍を大地に突き刺し、無手となって進む。

 

 奇妙な事に、"獣"は緩やかに歩み寄る彼女に対して行動を起こすこと無く。寧ろ待ち受ける様に、静かにその場に留まり続けていた。

 そして両者の距離が一挙手一投足の間合いにまで縮まり、手を伸ばせば直ぐにでも触れ合う様な距離で、魔鎧と女傑――弟子と師は対峙する。

 

 力を込めた指先を音を立てて鳴らし。

 ミラは眉庇(バイザー)越しに己を見ている筈の紅い瞳を想起して、不敵に微笑んだ。

 

「さぁ、来なさいスノウ――何時かの稽古の続きをしましょう」

 

 

 

 

 

 

 静かに構えをとり、緩やかに伸ばした手に。

 やはり型も何も無い、前傾の姿勢から伸ばされた漆黒の装甲に包まれた指先が触れ、手の甲がそっと重なり合う。

 教えた筈の構えも、より集中を増す為の呼気も、目の前の強烈な威圧を放つ"獣"からは何一つ見いだせず、また感じ取れもしない。

 

 だが、それでも。

 

 それでもミラは、魔鎧の向こうに白い少女の姿を、あの穏やかな日々を視た気がした。

 

 彼女と、彼女の弟子がいて。

 弟子の友人達が稽古に加わり、賑やかに――だが真剣に対峙し。研鑽を積み、共に過ごした時間は絆を深めて。

 初めての弟子に四苦八苦して、自身にとっても未知の体験や感覚を数多く知り。

 それに振り回される己を、昔からの付き合いである友人達が時たま揶揄いにやって来る。

 

 時間にして一年足らず。

 けれど大切な――暖かな日溜りの様なあのときを、感じた気がした。

 

 重なっていた手が離れ、両者は動き出す。

 

 "獣"の貫手が喉を狙って突き込まれ、身を傾けて躱す。

 その腕を取り、《流天》で体幹を崩そうとして、同じく《流天》で相殺され、だが掴んだ手首と肘を返して脚を払う。

 足元を刈られた"獣"が魔力噴射で瞬時に体勢を立て直し、お返しとばかりに低い軌道から蹴りが飛んだ。

 水平に振り抜かれる蹴り足を跳躍して避け――一瞬だけ振り抜かれた足へとつま先と乗せる。

 間を置かず跳ね上げたつま先は、"獣"の蹴りから半瞬遅れてやってきた鋼の尾の強襲を天へとカチ上げた。

 互いに半歩、踏み込む。

 至近距離でこめかみを狙って振り上げられた魔鎧の肘を手掌で受け流しながら、逆の手で掌底を捩じり込み。

 極一瞬の魔力噴射で拳一つ分だけ下がると、空いた隙間に掌が差し込まれ掌底が受け止められる。

 そのまま此方の手を握り潰さんと力を込める"獣"の手を引き寄せ、最速で練った《命結》を膝に載せて横腹に叩き込んだ。

 腹部の装甲に罅が入り、衝撃で漆黒の鎧姿が一歩、退がる。

 靭尾を地に突き刺し、強引に踏み止まった"獣"は下がった一歩を取り戻すように深く、踏み込んだ。

 それを見て取ったミラもまた、一歩、踏み込み。

 互いに振り上げられた脚が交差する間合いで、《地巡》を行使した震脚は大地を穿ち、揺らして、両者の足裏が沈み込む。

 

 同時に繰り出したのは、中段――胴への突きだった。

 

 ミラの一撃が魔鎧の腹腔に、魔鎧の一撃はミラの胸元に。

 地から巡った力を拳に結び、存分に練り上げて打った《三曜の拳》。

 この戦いで魔鎧の主の技は限りなく高まったとはいえ、純粋な技量では未だ師が半歩上をゆく。

 練った魔力の量も、質も、ミラが上回る。

 ほぼ密着距離での《三曜》を用いた打撃戦ならば、速さと膂力で上回る"獣"のアドバンテージも十全には生かせない筈であった。

 

 ――だが。

 

「――ゴ、ふッ……!」

 

 血を吐いて崩れ落ち、地に膝着いたのはミラであり。

 立っていたのは《報復(ヴェンジェンス)》だ。

 

《命結》を乗せた打撃を、互いに叩き込んだ瞬間。

 "獣"は自身の尾を用いて、同じく《命結》の打効を乗せた一撃を、自身の背に打ち込んでいた。

 狙ったのは、打撃の相殺――厳密には《三曜の拳》同士の同種の攻撃による、打効の減衰である。

 

 一歩……否、半歩間違えば減衰どころか相乗となり、大破する可能性もあった筈だ。

 だが、土壇場で打ったその手は成功した。成功させた。

 

「……み、ごとです、スノウ。私では思いもつかない……ゴホッ、実行しても成功させる自信はありません……」

 

 意識が、或いは理性が無くとも。

 過去に頭髪を用いた《三曜》の行使などという離れ業をやってのけた才覚(センス)と発想は、間違いなく今回のソレと同質のものだ。

 こんな状況だというのに、女傑の胸中にあったのは弟子への賞賛、そして師としての誇らしさであった。

 

 血に染まった口元を緩め、容赦なくとどめの拳を振り上げる魔鎧の姿を見上げ、微笑む。

 

 

 

「――それだけに、残念です。出来れば私の技を以て、貴女を止めたかった」

 

 

 

 漆黒の拳が、振り下ろされる。

 

 勝敗を確かなものとする、無造作に打ち下ろされた一撃がミラの頭部へと吸い込まれ――。

 

 ――瞬間、頭を振った女傑の編み込まれた髪が拳を受け止め、明後日の方向に"獣"の打撃は逸らされた。

 完全に予測の外であったのか、盛大に空振りした漆黒の鎧姿の上体が僅かに泳ぐ。

 

 彼女が行ったのは、頭髪によって発動させた《流天》による受け流し。

 魔鎧の一撃を受け流すには練度が不足していたのか、衝撃で纏めた髪は千切れ、半ばから弾けて舞い散る。バラけて広がる金灰の髪から、鋼線と共に編み込まれた小さな木札が数枚、零れ落ちた。

 

 空を切って振り抜かれた拳、微かに隙を晒す漆黒の鎧姿。

 金灰の髪毛が光を反射して宙に散る向こう、その光景を捉えた、刹那。

 

 ミラは片膝を着いた体勢から、渾身の力を以て跳ねる様に"獣"へと踏み込んだ。

 胸部から広がる激痛も、喉からせり上がる鉄の味も、全て意思一つで捻じ伏せ、己の最速で肩からぶつかる様に黒鎧の懐へと飛び込む。

 

 逃さぬ様に片腕を背に廻し、重なり合った姿はまるで師が弟子を抱擁する様で。

 反撃か離脱か。何れかを選ぶと思われた魔鎧は、何故か呆とした様を見せてそれを受け入れる。

 

 黒い装甲に覆われた腹部へと、そっと押し当てた拳に力が込められ。

 残った魔力も体力も、全てを注ぎ込み、紛れも無く人生最高の速度と精度を以て其れは練り上げられた。

 

「――《星辰》」

 

 静かに、いっそ優し気に囁かれた言葉が、"獣"の耳朶を打った瞬間。

 衝撃と魔力が漆黒の装甲、その全身を隈なく走り抜け、粉砕する。

 文字通り、魔鎧を頭部からつま先まで粉々に弾き飛ばした極撃は、しかし使い手たる少女に傷一つ付ける事は無く。

 

 意識を失って膝からくずれ落ちる白い少女を。

 師は今度こそ、その両腕で受け止め、抱きしめた。

 

 

 

 

 

 

 四英雄と呪いの魔鎧。

 その戦いは、前者の勝利という形で収束した。

 滅びた小さな村の跡地に響いていた闘争の喧噪は収まり、再び土地は静けさを取り戻す。

 

 魔鎧を一時的に停止させるのは成功したが、まだ気を抜くことは出来ない。

 

 ミラは意識の無いスノウをその場に寝かせ、尽きかけた魔力を絞り出して回復魔法を発動させた。

 此方の攻撃で一切ダメージを与えてなくとも、そもそもが使用するだけで肉体に著しい負担を齎す呪物だ。

 鎧を使った反動で新たに全身から出血している少女は、これまで各地を転々としながら戦いを続けていた負荷が溜り続けている筈。

 

 可能なら《地巡》で自身の魔力も補填したかったが、体力の方も限界に近い今、《三曜》を行使すれば意識が飛ぶかもしれない。

 何より、そんな時間すら惜しい。

 目を覚まさない少女の傷ついた身体を、丁寧に、そして迅速に魔法で癒してゆく。

 

「――ミラ」

 

 背後から掛けられた声に、振り向く事無く応える。

 

「ヴェティ、二人の治療は終わりましたか? なら申し訳ないですが此方も手伝って下さい」

 

 己の枯渇しかけた魔力では十分な治療は施せない。多重の結界を保持し続けていた友人に無理を言う様だが、単純な魔力量ならこの場で最も多いヴェネディエならばまだ幾らかは余力がある筈だ。

 

「……あぁ、二人とも無事だよ」

「ならば、お願いします。思ったより傷が多い。早急な手当が必要です」

 

 何か言いたげな青年の言葉を遮る様に言葉を被せると、魔力枯渇で酷く怠い身体を無視して、特に酷い裂傷のある左腕に回復魔法を集中させる。

 じりじりとではあるが、少女に刻まれた全身の傷は癒されている……だが、少女は目を覚まさない。

 

「ミラ」

 

 再び名を呼ばれるが、悪いがこれ以上は返答をする余裕も無い。ただ、無心になって魔力を注ぎ続ける。

 

「ミラ、もう分かってる筈だ」

 

 静かに掛けられる言葉に、らしくも無く苛立ちを覚える。

 今は問答をしている時間など無いのだ。話なら後で聞くので早く少女の治療に加わって欲しいというのが本音であった。

 少女は目を覚まさない。

 

「僕が見ただけで分かるんだ、君が気が付かない筈が無いだろう」

 

 言い募る言葉は、静かで、優し気で。けれど耳を塞ぎたくなる様な響きを伴っている。

 

「君も、戦闘中に最悪のケースの一つとして予想はしただろう」

 

 うるさい、聞きたくない。手伝う気が無いのならもう黙っていてくれ。

 ミラは返答も反応もせず、ヴェネディエの言葉を拒絶する様にひたすらに回復魔法の維持に注力した。

 少女は目を覚まさない。

 

「――遅すぎた……いや、スノウが()()()()んだ」

 

 それは、魔鎧が姿を変えて起動した際にほんの僅かだがミラの脳裏に過り。

 目を逸らして、気付かないフリをして頭から打ち消した可能性だった。

 

 

 

 侵食武装――それは、最終的には使い手の肉体・精神のみならず魂まで取り込む呪物の中でも特に忌まれる武具だ。

 本来ならば長い使用期間を経てゆっくりと血肉に喰い込み、融合し、最後に使い手の魂を喰らう。

 魔剣や妖刀などと呼ばれるものは、程度の差こそあるがこれに該当する物が多い。

 

 スノウが魔鎧を手にして精々が二ヵ月と少し。

 或いは、今代の主となった少女が歴代の使い手達と同等の資質であれば、()()()()()のであろう。

 

 だが、白い少女の資質――《報復(ヴェンジェンス)》の精神侵食を受け入れ、魔鎧の性能を引き出す適正・気質は、今までの主と比して群を抜いていた。

 

 それ故に、既に彼女はどうしようもなく心身を魔鎧に侵食されている。

 

 適正とは、相性では無くその精神性。

 自身を呑み込もうとする憎悪の呪い――その根源となる自身と同じく奪われた者達の慟哭の記憶。

 魂を侵されるその感覚に、無意識にでも拒絶を覚えていれば此処まで侵食が加速する事は無かったのだろう。

 だが、少女は拒絶よりも共感を覚えてしまった。

 喪われた者への嘆きに、手から零れた大切な存在への哀切に、一緒に行こう、この憎悪をぶつけてやろうと。そんな風に思ってしまった。

 

 それは、憎悪を象徴する存在に選ばれ、自身も憎悪に灼かれながらも――同じ境遇の、嘗ての誰かに向けた優しさが齎した想いだったのだ。

 

 

 

「……残念だ、ミラ」

 

 沈痛さを押し殺した声と共に、ヴェネディエの手が肩に置かれ。

 それを振り払って、ミラはその言葉を否定して叫ぶ。

 

「――まだです、まだ間に合う筈だ! まだ……!!」

 

 体内に残った魔力の絞り滓を搔き集め、種火として生命力を燃やす。

 疑似的に魔力暴走(オーバーロード)を発生させて回復魔法の効果を増大させようとすると、少女に翳していた掌が弱々しく止められた。

 

「もういいよ、ミラ……いみ、ないから……」

「ッ、スノウ!」

 

 薄っすらと開かれた紅い瞳と目が合う。

 傷だらけのその手を取り、辛うじて意識を取り戻した弟子の身体を、師はそっと抱き起す。

 力無く握り返されるちいさな掌の感触に、思考を滅茶苦茶に乱されたミラは何も言葉に出来ずに沈黙する。

 暫しの沈黙が降りると、やがてスノウの唇から小さく、震える声で言葉が零れ落ちた。

 

「……ごめんなさい」

 

 堰を切った様に、溢れ出す。

 

「……ミラに怪我をさせちゃった……! 助祭様にも……おじさんにも……! ごめんなさい……っ」

 

 違う、と。ミラは言葉にならない声で即座にそれを否定した。

 これは私の我儘だ。皆は私情に付き合ってくれた――ならば責は私にある。貴女が謝る事など無い。

 直ぐにでもそう言ってやりたいのに、今だって伝えたい言葉は胸から溢れかえって止まらないというのに。

 喉が腫れ上がった様に鈍痛を訴え、それに塞がれたみたいに言葉がつかえて出てこなかった。

 

「……こんなに迷惑かけたのに……それなのに、わたしは邪神共(アイツら)が許せないままだ……! 今だって身体が動くなら、一匹でも多く殺してやりたいって思ってる……!」

 

 そんな事、この世界に生きる誰もが大なり小なり思っている。

 決して異常でも悪い事でも無い。やり方を少し間違えただけだ。

 幾ら思おうとも、ミラの口と舌は相変わらず仕事を放棄して役立たずの儘だ。

 

 懺悔する様に独白を続ける少女の瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。

 小さく咳き込むと、ゴボッと音を立ててその小さな口から血塊が吐き出される。

 それを見たミラの背筋が粟立ち、もう喋らない様にと、なんとか出てこない言葉を捻りだそうとして。

 今にも消えそうな、そっと握り返されている手に微かに力が籠った気がして、制止された様に再び舌が動かなくなる。

 

「……ブランの、ことだってそう、だ……わたしは、あの子にひどい嘘をついて……なのに、あの子は目を覚まさなくて……ゲホッ……なのにわたしは……ほんとのことを、教え無くて、すむって……どこかでおもってた……!!」

 

 ぼろぼろと、涙の粒が零れて傷だらけの頬をつたう。

 身体の痛みでは無い、もっと深くに刻まれたそれに顔を歪めてる少女の声色は、罪悪感と後悔で押し潰された者のソレだった。

 

「わたしが、居なければ……ミラだって、怪我をしなかった……! わたしが、出会わなければ……エーデルと、ブランだって……!」

 

 違う。

 違う、そんな訳が無い。

 

「……やっぱりわたしは、『不吉の子』だったんだ……!」

 

 違う――違う! 絶対に!

 

「――違う! 貴女は不吉の子などでは無い!!」

 

 胸にせり上がって来た熱が、ミラの喉に詰まった言葉を溶かして口へと押し出す。

 殆ど怒鳴り声の様になって放たれた叫びに、瞳を閉じて涙を流し続けていた少女が、驚いた様子で目を見開いた。

 その手を、抱き起した身体を、しっかりと己の腕で包み、腹の底から突き上がる衝動に任せて女傑は絶叫した。

 

「貴女を見出したのは私だ! 責があるとすれば私にだ! 貴女が――スノウが不吉であるなどと、言わせない! 誰にも、何にも!!」

 

 感情の儘に、そのちいさな身体を抱きすくめて。

 改めて宝石の様な紅い瞳を見つめて、言葉に出来なかった思いを、何時か言葉にしたかったものを。

 

「貴女は……! あなたは、私の……!!」

 

 詰まらせたその先を、必死に告げようとするミラに。

 少女は涙を零したまま、泣き笑いの表情で、少しだけ微笑んで。

 

「……ありが、とう、おかあ――」

 

 言葉の途中でもう一度、咳き込み――スノウはそのまま、動かなくなった。

 

「…………スノウ?」

 

 呆然と。

 何が起きたのか、分からない。そんな表情で、ミラは腕の中の少女に呼びかける。

 彼女は待った。白い少女が、返事をしてくれるのを。

 その美しい紅い瞳を、また自分に向けてくれるのを。

 

 待って、その薄く閉じられた瞳が、もう一度開くのを望んで、祈って。

 

「――――――――ぁ」

 

 やがて、どうしようもなく叩きつけられる現実に、打ちのめされる。

 

 嘗て、少女が育った彼女の故郷の地に。

 少女の『母』が、喉を涸らして叫ぶ慟哭が響き渡り、空に吸われて消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――数ヵ月後。

 

 ミラは再び、北方の村跡を訪れていた。

 既に土地の呪詛汚染、その浄化は完了し、損壊した建物の撤去が進められる其処は、将来的には北方にある教会の拠点の一つとして新たな村――場合によっては小さな街にもなるであろう計画が持ち上がっている。

 

「……! これは、ミラ様! 連絡頂ければ迎えの者をやりましたものを」

「お疲れ様です――今回は私用で顔を出したので、大仰なやりとりは必要ありません。此処の責任者(司祭殿)にも連絡は不要ですよ?」

 

 作業を行っていた人員が馬に揺られるミラに気付いて駆け寄り、頭を下げて来るのを掌で押し留め、彼女は馬を下りた。

 馬に載せていた荷――丁寧に包まれた花束を手に取ると、恐縮した様子の作業員に手綱を渡し、馬舎に繋いでくれる様に頼む。

 

 向かう先は村外れ……以前より少し拡張したらしき共同墓地だ。

 

 道の途中、激しい戦闘痕の残る場所に差し掛かり、彼女はそこで一旦歩みを止めた。

 飛び散った瓦礫などは片付けられているが、穿たれた大地などは未だに手つかずである周囲を見渡し……その中に、向かい合って強烈に踏み込んだ足跡を二つ見つけ、暫しの間それを眺める。

 

 僅かに細めた目に様々な感情が過ったようにも見えるが、やがて数秒、瞼を閉じると再び開き、歩き出す。

 辿り着いた墓地は、以前に訪れた時よりも手入れが行き届き、整然とした状態になっている。

 此処に派遣された教会の者達は、こうした死者を悼む場をきちんと整えるように心掛けている様だ。僧職に在る者としては非常に良い事である。

 

 定期的に掃除もされているのか、足を踏み入れた墓地はゴミ一つ落ちていない。

 この分なら、掃除用具を借りて来る必要は無さそうだ。そう判断して、ミラは目的の墓石を見つけるとその前に花を供え、黙して跪いた。

 嘗て、此処にあった村で最年長であった老夫婦が埋葬されているというその墓に向け、静かに手を組んで祈りを捧げる。

 

 もし存命であるなら、この下で眠っている夫婦には語りたい事、謝らなければならない事が山とあった。

 

 今も胸を締め付ける悔恨の情に、自然と祈りの時間も長くなる。

 どれ程そうしていたのか。

 微動だにしなかった女傑は、閉じていた眼を開くと音も無く立ち上がった。

 

 本来の目的である場所は別だ。無理を言って遠出の許可を貰ってきた以上、時間を掛け過ぎるのも宜しくない。

 拡張された墓地に、ここ数ヵ月で新たに作られた其処へと、目を向ける。

 

 石造りの、質素だが丁寧な作りの霊廟。

 地下を刳り貫き、掘り抜かれた後に石畳と石壁で整えられ作られた其処は、彼女の訪れた目的である呪物を封じた場所だった。

 

 

 

 

 

 

 あの日、スノウを取り戻す事が叶わなかった、あの場所で。

 

 動かなくなった少女を抱きかかえたまま、呆然としていたミラの前で、それは起きた。

 少女の胸元から突如として広がった漆黒の闇。

 それはあっと言う間に彼女の全身を覆い尽くし、ミラが何某かの反応を取る暇すら無く、魔鎧の形となって地へと顕現する。

 再起動した魔鎧は侵食し尽くした主の骸を即座に魂ごと取り込み、だが依り代を失った事で力を失い、その場に鎮座する事となったのだ。

 

『ふざけるなぁっ!! あの娘を、スノウを返せっ……!!』

 

 目の前で少女を失ったばかりか、その亡骸すら奪い取られたミラは、激昂のままに魔鎧を破壊しようとし。

 

『――なりませぬ、ミラ殿!』

 

 応急処置を終えたとはいえ、自身も未だに重症であったガンテスに抑え込まれる事となった。

 怒りの儘に荒れ狂うミラを必死に押さえつけ、巨漢は唇を噛みしめて『娘』を喪った友人へと諫めの言葉を掛ける。

 

『過去の記録からみても、此処で魔鎧を打ち壊した処で意味はありませぬ! 何れ時を経て別の主を見つけ、報復の牙を振るうでしょう! スノウ嬢と同じ結末を後の者にも辿らせるおつもりか!?』

『……ッ!』

 

 その言葉に、冷水を浴びせられた様に思考は冷えるものの、腸は煮えくり返った儘で。

 振り上げた拳を下ろすのに、多大な気力と時間を必要とした。

 最期の攻防で打たれた胸が、思い出したように痛みを訴え――ミラは力無く項垂れる。

 

『私は……どうすれば……』

『……先ずは、何は無くとも魔鎧の封印を行う必要がありますれば――ヴェネディエ殿、この土地の浄化計画とその後の予定を御存知で?』

『そうだね……人を廻して、可能なら此処を《報復(ヴェンジェンス)》の封印地とする様に、上に掛け合ってみよう』

 

 両膝を着いて、座り込んでしまったミラを気遣う様に、巨漢と金髪の青年が、消耗をおして今後の大まかな予定を口にする。

 それを少し離れた場所で聞いていた傭兵は、千切れて散った金灰の髪が散らばる場所に、小さな木板が落ちているのを見つけて拾い上げた。

 

『……クソったれが』

 

 手の中の板――少女の遺品になってしまった護り札を見つめ、やり切れない思いを抱えて。

 痛みを吐き出すに呟かれた一言が、その口から零れて大地に転がった。

 

 

 

 

 

 

「久しぶりですね、スノウ」

 

 霊廟の最奥、強固な封印処理の施された玄室にて。

 転移の阻害や、微弱だが継続的な浄化効果のある魔法陣が十重二十重に張り巡らされたその部屋に、幾重にも鎖で拘束された魔鎧は安置されていた。

 完全に封じられ、依り代を得たときの威圧感も完璧に抑え込まれているソレに向け、ミラは数ヵ月前の怒り狂った様子とは程遠い表情で、静かに声を掛ける。

 

 彼女が話しかけているのは正確には魔鎧では無く、その内にある彼女の弟子である少女だ。

 

 少女――スノウは、魔鎧の力を完全に引き出す代償として、その身と魂を取り込まれてしまった。

 死して後、その魂は創造主たる女神のもとへは還れない。白い少女は死後も尚、数多の憎悪の念、呪いと共に鎧へと縛られ続ける。

 

 あの娘が何をしたと言うのか。其処までの許されざる罪を犯したとでも言うのか。

 怒り、嘆き。答えなど帰ってくる筈の無い問いを、天上におわす女神に問いかけすらした。

 

 そうして、散々に悩んで……ようやっと出した結論がある。

 

 それを少女に伝える為の今回の来訪でもあった。

 

「……ブランは、未だ目を覚ます気配はありません……ですが、何年掛かっても介抱を続けます、いつか、彼女が目を覚ますまで」

 

 少女の友人――その容態を告げる声は、静かな決意に満ちていた。

 結局の処、どのように悩んでも、己は戦士だ。

 戦う事しか得手が無い以上、少女に報いる方法など、一つしか無いのだ。

 

「……私は、貴女と出会うべきでは無かったのかもしれません」

 

 少女は自身を不吉の子、などと卑下したが、ミラには自身との出会いこそが少女にとっての新たな不幸の始まりだったのでは無いか、という思いがあった。

 もし少女を弟子に取る事なく、彼女が村の生き残りと故郷の近隣へと移り住んでいれば……苦労や苦しみはあっても、命を落とすような結果にはならなかっただろう。

 また彼女の友人達も、戦士として初陣に出るのはもう少し遅れ、あの大攻勢に巻き込まれる事は無かっただろう。

 

 だが現実として彼女達は出会い、こうしてミラは少女を喪う事となった。

 

 事の元凶は邪神の軍勢とはいえ、切欠となったのが己であるというのなら。

 きっと、己は師などと名乗るべきでは無いのだろう。

 或いは、恨まれる事すら当然の事であると、そうミラは思っていた。

 

 だから、せめて。

 

「贖いにもなりませんが……せめて戦い続けましょう。貴女の様に優しい子が、一人でも多く救われる様に」

 

 いつかブランが目を覚まし、スノウが、彼女と同じく魔鎧に括られてしまった者達が、解放される事を祈って。

 戦い続けよう、己が出来る事を、出来る限り。

 そして、その先に戦場に倒れる日が来たとしても。

 或いは、戦う力を失い、戦場に出ることが出来なくなったとしても。

 命の限り、為すべきことを為すのだ。

 

「……今日は、それだけを伝えに来ました……機会があれば、また来ます」

 

 そうして、女傑は封じられた魔鎧へと背を向け、力強い足取りで歩き出す。

 あの日、あの場所で心と身体に刻まれた、消えない傷痕を、その痛みを――スノウという不世出の少女が居た確かな証であると。そんな風に思いを馳せて。

 

 振り向く事無く霊廟を後にすると、晴天の空の下を真っ直ぐに進みだしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 長い、長い――懐かしい夢の果てに、老兵は目を覚ます。

 

 目を開いた視界に映ったのは、見慣れた天井だった。

 

「……ふむ」

 

 昔から寝起きは良い方だ。

 若い頃から変わる事無く続く目覚めの良さなのだが……ここ最近は、ほんの少しであるが身体に重さを感じるようになった。

 とはいえ、己も良い年だ。昔散々に無茶をした事も省みれば、多少の怠さなどで済むのであれば御の字と言っても良いだろう。

 

 窓から差し込む光をみれば、夜が明けたばかり、といった処か。

 夢見が聊か特殊だった割には、何時もの時間に起床した様だ。そう判断して、寝台から身を起こす。

 

 窓を開け、朝の空気を部屋へ取り込んで。

 静かに深呼吸して、わずかに冷えてきた新鮮な朝露の香りを胸に吸い込む。

 

「――けほっ」

 

 胸に走った痛みに、少しばかり咳き込んだ。

 もう数十年にもなる付き合いなのだが、最近、朝方は強く主張してくる事が多くなった。

 まぁ、これも仕方の無い事だろう。先程も言ったが、この年まで色々と好きに生きて来たのだ。

 多くのものを取り零して――けれど、それ以上に手に入れ、或いは取り戻してもらった。今になって調子を崩す位、なんだと言うのか。

 

 桶に張った水で顔を手早く洗い、いつもの僧服をクローゼットから取り出して袖を通す。

 先ずは朝食。その後に歯を磨く為、ミラは歯刷子のセットを片手に部屋を出た。

 

 

 

 

 

 

「――げっ」

「朝から人の顔を見るなり『げっ』は無いでしょう」

 

 朝食と後の歯磨きを終え、聖殿中央区の廊下を歩いていると、銀髪をサイドで纏めた騎士服の少女と遭遇した。

 

「し、失礼しました。おはようございます、シスター・ヒッチン」

「はい、おはようございます……昨日の件でしたら御説教も終えましたし、もう気にする必要はありませんよ」

 

 先日、中庭で正座して行われた二時間の説教が尾を引いているのか、微妙に腰の引けた様子で挨拶をしてくる銀髪の少女――アンナに、ミラは苦笑しそうになる頬を引き締めて鉄面皮のまま挨拶を返す。

 既に怒ってはいない、そう告げるシスターの言葉に、帝国有数の騎士である少女は露骨に肩の力が抜けた様子を見せた。

 

「……長時間の御説教が嫌であれば、聖殿内で追いかけっこなどしなければよいでしょうに」

「いや、だって! あれはあの馬鹿が悪いじゃないですか! 司祭様のガチなブートキャンプに私まで巻き込まれるハメになったんですよ!?」

「干したばかりで落ちて踏みつけられ、泥だらけになったシーツが三枚と蹴り飛ばされて粉砕された鉢植えが四つ、後は参ノ院の司教殿のカツラが犠牲になったようですが」

「鉢植え二つと司教様のヅラは私です、本当にすみませんでした」

 

 若い二人の自重しない追いかけっこの末、紆余曲折を経て頭髪の隠蔽が暴かれた司教の哀しそうな顔を思い出したのか、アンナはその場に土下座せんばかりの勢いで腰を直角に折り曲げる。

 

「謝罪するならば当人に……と言いたい処ですが、繊細な話ですからね。騎士アンナ、貴女が司教殿と顔を会わせるのは暫く避けた方が良いでしょう」

 

 下手をしなくても死体に鞭打つ様な結果になりかねないので、当然の処置である。

 まぁ、それは兎も角として、だ。

 アンナの手にした、簡単な植物学に関する本に気付いたミラは、ちらりとそれに目を向けた。

 

「珍しい、と言って良いのでしょうか。貴女が本を抱えている姿は初めて見ますね」

「まぁ、あんまり自分で読む方じゃないですね。寝る前に眺めていると気持ちよく意識が飛ぶんで、定期的に書庫から適当な本を借りてるんです」

「……貸出品に涎など垂らす事の無いようになさい」

 

 堂々と睡眠導入代わりに使ってますと宣言する少女に、ミラは少々呆れた様子で最後にお小言を付け足す。

 

「察するに、本を返却しに行く最中でしたか。引き留めてしまいましたね」

「あ、いえ。貸出期限はまだ先なんですけど――アイツが朝から書庫に籠るって言ってたんですよ、なんかこの本も必要らしいんで、渡しにいってやろうかと」

 

 意外と言えば意外な言葉に、ミラは「ふむ?」と思案する様に鉄面皮の片眉を上げた。

 

「彼が書庫ですか……見た目より書物に眼を通す性質(たち)であるのは知っていますが……自室以外というのは珍しいですね」

「でしょ? ついでに様子でも見にいこうって事で書庫に向かってました」

 

 じゃ、行ってきます、と続けて軽く会釈をするアンナ。

 書庫に向かうその背を暫し見つめ……ミラはもう一度「ふむ」と呟くと、歩みを再開させ――少女の隣に並んだ。

 

「私も書庫に向かうとしましょう。彼には用があったのを思い出しました」

「あ、そうなんですか。それじゃ、二人であの馬鹿が苦労して調べものしてる顔を拝みに行きましょう」

 

 最初こそ怪訝そうに立ち止まったが、あっさりと納得して歩き出すアンナに、一つ頷く。

 

 実際には、特に彼に――弟弟子に用があるという訳でも無かった。

 だた、懐かしい夢をみたせいか……何となく、顔を見たくなったのだ。

 勿論、そんな本音はおくびにも出すことは無く。

 ミラは騎士の少女と連れ立って、書庫への道を歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 金色の聖女たるレティシアに連れられた、その黒髪の青年を初めて見たとき。

 ミラが感じたのは、何故か懐かしさを伴った既視感だった。

 転移者の知人が他にいない訳では無いが、青年だけに感じたその感覚に、訝しさを覚えたのは今でも記憶にある。

 

 その感覚が、強烈な拒否感と、そして怒りと哀しみに変わったのは、彼があの魔鎧の使い手であると知ったときだった。

 

 封じられたアレを、解放したのか。

 貴方の傍にはレティシア様とアリア様がいるだろう。それを置き去りにして、破滅の約束された報復の道を歩むのか。

 私に、またあのときの様な光景を見ろと、繰り返せと、そう言うのか。

 煮えくり返る感情と共に、事と次第によっては腕尽くで――今度こそ、己の命を賭けてでも魔鎧を取り上げようと、青年に詰め寄って。

 

 ――えぇ……アイツとその周りのモンをフォローする為に手に入れたのに、なんで離れる事になんの? ちょっと何言ってるか分からない。

 

 そんな風に、とぼけた、だが心底困惑している表情で応えるその姿に、唖然としたのを覚えている。

 そして、その言葉に偽りは無かった。

 青年は聖女の傍に在り続けた。

 後に《聖女の猟犬》と、畏怖と敬意を込めて呼ばれるようになった、その後も。

 憎悪や復讐では無く、彼女達の守護とより多くの人々を救う為に、呪われた魔鎧の力を振るい続けた。

 

 それでも、彼の扱うソレは、今までの全ての使用者に破滅を齎してきた特級の呪物だ。

 如何に精神の侵食を跳ねのけることが出来ようとも、その身に掛かる負担が変わらぬ以上、手放すべきだと、そう思っていた。

 

 だが、青年の戦う姿にミラは重ねてしまった。

 嘗て、己が見出した少女を。何れは彼と同じように多くの人々を護り、救う事が可能だったであろう、最愛の弟子を。

 

 だって、青年が振るう《三曜の拳》はあの娘の――スノウの拳だった。

 

 粗だらけで、不格好で、およそ才という物を到底感じられなくて。

 資質という点では、あらゆる面で正反対と言って良いのに、それでも、彼の拳は確かにスノウから受け継がれたものだったのだ。

 

 魔鎧の技能継承機能が齎したものだというのは、複雑処では無い感情を覚えたが。それでも。

 あの娘が磨いた技を、あの娘が生きた証を。

 何一つ報いてやれなかった己の代わりに、まるで青年が、人々の記憶に、歴史に、刻み込んでくれている様で。

 

 そう思ってしまった時点で、ミラには彼を――弟弟子の歩みを止める事など出来なくなっていた。

 

 人類種の総力戦となった戦線。

 大一番と言って良い戦いで、大功を以て人類側の大勝利をもぎ取って見せた青年を見て。

 誇らしさと感謝で満ち溢れたあのときの感情は、なんと表してよいのか未だに分からない。

 

 そして、浮かれた気分を突き落とす様に彼の訃報が届いたときの感情も。

 

 憎悪でも復讐でも無く。

 ただ只管に聖女の為に戦った青年は、己の意思を存分に貫き通して最後の最後に自身の全てを賭けて邪神へと挑み、遥か昔より続く悲劇の螺旋を断ち切った。

 

 喜ぶべきことなのだろう、戦士として敬意を以て称えるべき偉業なのだろう。

 

 だが、聖女の二人は勿論の事、他国に所属する彼と親交のあった少女達も。ミラも、ガンテスも、教皇の座がすっかり板についてしまったヴェネディエだって。

 皆、誰一人だって。心からそう思う事なんて、出来やしなかったのだ。

 

 だから、彼と深く関わった誰もが、渇望した筈の平和を心から享受出来ぬままに過ごして、二年。

 以前と変わらぬ、とぼけた様子で彼が帰って来たとき、肩に背負っていた全ての重荷が消えたような、そんな大きな安堵を感じて。

 そのときに漸く、ミラに――そしておそらく、レティシアとアリアにとっても、本当の意味での平和の時代が、始まったのだ。

 

 

 

 

 

 

 アンナとミラが並んで書庫に足を踏み入れると、其処には話の通り青年と――彼を挟んでやり取りする聖女姉妹の姿があった。

 

「はーい、これお願いされてた資料ね。ここに置いとくね、にぃちゃん」

 

 青年の調べ物に沿う書物を探していたらしき銀髪の聖女――アリアが、数冊の本を机の上に積み重ねる。

 おう、ありがとー。と、現在目を通している本の頁から顔を上げずに返答する青年を見て、彼の隣の席で頬杖を付く金糸の髪を持つ聖女――レティシアが、何処か面白く無さそうな表情で自身の髪を指先で弄んでいた。

 

「別にさー、今になってあの鎧に名前なんて付けなくても良いんじゃね? 今更だろ」

 

 いや、ラブリーマイバディへの命名は重要事項これ確定。と相変わらず頁から顔を上げずに即答する青年に、益々面白く無さそうに金色の聖女は唇を尖らせる。

 

「相棒はオレだろー……前から思ってたけど、無機物相手にラブリーだの愛しのだの持ち上げる位なら、もっと他に言うべき相手がいると思うぞ?」

「もー、いい加減諦めなよレティシア……あ、でも確かに言うべき相手が云々っていうのはボクも賛成かも」

 

「なー?」「ねー?」と、顔を見合わせて頷き合う姉妹に、なんで急に責められてんの俺。解せぬ。などと返して顰めっ面を晒す青年。

 

 和気藹々と軽口を交えて調べ物――どうやらかの魔鎧の銘名に関する資料集めをしているらしき三名に、アンナが借りていた本を片手に近付いてゆく。

 

「おーっす、おはよー。朝っぱらから美少女二人に挟まれて調べ物してるタラシ野郎の為に、アンナちゃんが本を持ってきてあげたわよー」

 

 人聞きィ!? と叫んで書庫の管理をしている司書に注意されている青年と、そんな彼を見て笑う少女達を見て。

 ミラはひどく穏やかな気持ちで目を閉じ、思いを馳せた。

 

 自分は、彼に――弟弟子に貰ってばかりだ。

 

 青年が霊峰から帰って来た後、事の経緯を聞いたミラは淡い期待と予感が現実となった歓びに、胸を押さえる事となった。

 魔鎧の変化――呪物としての在り方すら変えたソレは、憎悪の根源である仇敵……即ち邪神を、その手で討ち滅ぼした事による自己浄化に依るもの。

 

 それは、つまり……魔鎧に取り込まれた者達の思念や魂が、憎しみの呪縛から解放された事を意味している。

 

 当人にその自覚は無いだろうが、それでも。

 彼は――《聖女の猟犬》は、この世界だけでなく、自分達()()を、救ってくれたのだ。

 

「……感謝しています、心から」

 

 誰にも聞き取れぬであろう言葉を口の中でだけ転がして、ミラは再び目を開くと目の前に広がる騒がしくも尊い光景を見つめようとして――。

 

 

 

 ――青年の肩に乗って、楽し気に笑う紅い瞳の少女の姿に、息を呑んだ。

 

 

 

 ブラブラと足を揺らし、彼が読む本を肩の上から覗き込むその少女は、青年と同じような真っ黒な髪に、一房だけ真っ白な髪が混ざっていて。

 本と青年の顔を見比べて、本当に嬉しそうに、幸せそうに微笑むその顔と、紅い宝玉の様なその瞳は――。

 

「――ス、ノ……ッ!」

 

 思わず、一歩踏み出し。

 驚愕に固まった舌が、胸にしまった大切なその名を紡ごうとする。

 手を伸ばし……だが瞬き一つすると、まるで幻であったかの様に、その場にいた四人目の少女の姿は消えていた。

 

 あぁ……。

 どうやら、己もいよいよ耄碌して来ているらしい。

 これ以上無いくらいに、救われ、貰ったもので両の手は溢れかえっているというのに。

 この期に及んで、こんな――都合の良すぎる優しい幻を見るなど、本当に度し難い。

 

 苦笑いを零しながら、ミラはそっと伸ばした手を下ろした。

 

「――あれ? ヒッチンさん、どうしたんだこんなトコで?」

「あ、そういえばなんかコイツに用があるって言ってたっけ――あんた今度はなにやったの?」

 

 レティシアの疑問の声にアンナが思い出した様に手をポンと打ち。

 俺がやらかしたっていう前提やめてくれない!? と叫ぶ青年へと据わった目付きで笑顔を向ける司書に、申し訳なさそうに頭を下げるアリア。

 

 そんな四人に、ミラは珍しく相好を崩して微笑みかけ。

 青年から贈られた伊達眼鏡を軽く指先で押し上げると、彼らの傍に歩み寄る。

 

「見た処、貴方の相棒の名付けに関する話のようですね――よければ私も手伝いましょう」

 

 思わぬ申し出に、目を丸くする青年と少女達の姿に、吹き出しそうになりながら。

 僧服の下にある首から掛けた古ぼけた木札へと、そっと手を添えて。女傑は自身の意見を口にしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







ミラ=ヒッチン

鉄拳女傑。
初めての弟子に入れ込み過ぎて拗らせた結果、色々と抱え込む事になった人。
尚、抱え込んだ重みの大半は数十年後に現れる聖女様と変な駄犬によって大体解決する事になる。
ヒロインに該当する少女達とは違うベクトルで駄犬に糞程重い感情を抱いてるけど、本人はそれをおくびにも出さない。年の功という奴である。



ガンテス=グラッブス

若い頃から筋肉筋肉。でも今よりはちょっと細い。
具体的には昔は170~180キロだったが、今は余裕の200キロオーバー。当然体脂肪は据え置き。
更に過酷な鍛錬にて己を鍛え込むようになったのは、あの日の戦いで真っ先に倒れてしまったという自責の念も半分関係あったりする。残りの半分? 趣味だよ(白目
某最長老さんと関りが確定した人。面白愉快な再会劇が待たれる。



ラック=ライン

ツンデレの気がある傭兵。
引退した後は、聖都で冒険者酒場を経営するようになる。
元特級冒険者兼教会最高戦力の腕っぷしを存分に発揮した経営スタイルは、脳筋勢のリスペクトを得る事に成功。経営は今日に至るまでそこそこに順調の模様。
豊穣の日をある程度過ぎた季節になると、定期的に店を閉めて何処かに遠出する。
噂によれば、北方にいる別れた嫁さんの子供に会いにいってるとかなんとか。尚、適当な噂をばら撒いた冒険者は凹られたあと店の掃除をタダで二ヵ月やる羽目になった。



ヴェネディエ=フューチ

腹黒青年。昔は意外と浮名を流していた。大司教とは名ばかりの糞坊主。
後に魔鎧との戦闘であわや四英雄を失いかけた責任を問われ、のらりくらりと躱していた枢機卿の席へと最年少就任を決める。「普通降格しない?」が就任後の第一声。
そのまま流れる様に教皇の座を押し付けられたその顔は、諦観の混ざった虚無であった。
友人の長年の胸のつかえが取れたことに真っ先に気付いて、何気に喜んでいた人。



ブラン

意識不明の重体になってから聖女様が現れてシャ〇ク搭載広域ベホ〇ズンを聖殿でぶっぱするまで数十年単位で眠り続けていた。
半ば仮死状態に近かったのと、本人がエルフの血を引いている御蔭で肉体的な年齢は殆ど進んでいない。
目を覚まして、大きな時間と何より大切だった家族、(主観的には)最近できた友人まで喪っていた事に酷く消沈したが、過酷なリハビリを経て短期間で復帰。
後に邪神の信奉者達の頭をメイスで叩き割る修羅勢と化す。
戦争が終わった後は孤児院の経営に関わるようになった。
自身と同じように大戦で家族を失った子供達の面倒を見ながら、日々を頑張って過ごしている。
教会の御意見番とは今でも偶に茶飲み話をする仲。
当然、話す内容は彼女達にとって共通の大切な故人についてが多い。
あの日、優しい嘘をついた少女を彼女は始めから怒っても恨んでもいなかった。
その事を伝えられなかった事だけは、今も悔やんでいる。



エーデル=ヴァリアン

デコの眩しいドリルツインテールお嬢様。
口調は御嬢様言葉の割にどっか荒い子だけど、普通に優しくて良い子。
女傑の弟子と良い感じの友人関係を築けていたが、それ故に彼女が亡くなったとき、悲劇の連鎖が始まる切欠となった。
ちなみにヴァリアン家自体は終戦後にブランを当主として再興する話も皇帝から出たようだが、当人が固辞したせいで立ち消えとなっている。
全然関係ないが、駄犬が転移前に通っていた高校にはおでこの可愛いドリルツインの留学生がいたらしい。
尚、当然の様に校内カースト最上位な子なので駄犬と関わることは無かった。



魔鎧《報復(ヴェンジェンス)

ツンツンツンドラ特級呪物。通称鎧ちゃん。
憎悪に任せて邪神とその舎弟共をコロコロしちゃう全自動鏖殺マシーン。
悲劇を生みだした邪神とその眷属への報復を望むあまり、小さな悲劇を連続させていた哀しい武装。呪いの装備故、仕方なし。
女傑に粉微塵に粉砕されてからはギチギチに封印を施されてとある村の霊廟にて安置される事となる。

数十年後、ふらりとやってきた何か変な青年に封を解かれ、求められるままに次の主として認定――後に終生の主へと変わった。

本懐を遂げて大幅浄化された際、歴代の所有者達の意識や魂は統合され、過去の主の中で最も高い侵食・融合率に到達したある少女を主人格として再構成される事になる。



スノウ=カレンデュラ

白髪赤目のアルビノっ子、後に鎧ちゃん(真)と化す。

失くして、憎んで、暴れて、大切な人を傷つけて。
憎悪に焼かれた末、後悔と自己嫌悪の果てに閉じた復讐者の少女の生は、しかして終わった後に素っ頓狂なノリで報われ、救われる事となる。
御主人大好きっ子。わたしが一番だ、金銀もエ清楚も弁えろ(ドヤ顔



出会った事を後悔なんてしてない。
恨んでなんていない。ずっと、大好きだよ、おかあさん。




▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。