アイドルマスター江戸川乱歩『人間椅子』(萩原雪歩) 作:木下望太郎
それからも私は椅子に入るようになりました。人目のないときやお休みの日に。レッスンやお仕事にはもちろん力を入れてはいましたけれど、それでもなかなか居場所ができるというわけにはいきません。テレビで取り上げられ、名前の売れ出した子たちもいましたし。そんなときでも椅子の中は本当に、別の世界のようでした。みんながすぐそばにいても、私だけがここにいる。真っ暗で、身動きもできない革張りの中の天地。
それは本当に不思議な世界でした。そこでは人間というものが、日頃目で見ているあの人間とは全然別な生き物として感じられます。誰もが声と、息と、足音と、衣擦れの音と、ぬくもりと。丸々とした弾力のある肉の塊に、私の上でぐねぐねと姿勢を変える骨格。そうしたものに過ぎないのです、誰もが。元気一杯に跳ね回るあの子も、歌うことに頑ななあの子も。おっとりとして落ち着いたあの人も、有名になり出したあの子も。私の苦手な、男の人も。
そのうちに私は事務所のみんなを、肌触りで区別できるようになりました。スタイルのいいあずささんの、沈み込むように柔らかな体。ダンスやスポーツが得意な真ちゃんはしなやかな、弾力のある肉体。でも、立ち上がるときや何かの拍子に力を入れたとき、太ももの筋肉がすごく固く締まります。歌にこだわりのある千早ちゃんの、真っすぐな背骨。その向こうを走る声は、背もたれを通じて私の所にまで響いてきます。双海亜美ちゃんと真美ちゃん、どちらも私の上でひどく跳ね回って、時々苦しいのですけれど。椅子の上に収まる小さなおしりと、たびたびもたれかかってくる、子猫のようにぐなぐなと柔らかな背骨。それらは心地いいものでした。そうだ、私、発見したんです。亜美ちゃんの声の方がほんの少し低く響くんです、外見では髪形の他、全然見分けがつきませんけど。ご存知でしたか?
そして、プロデューサー。あなたも何度も、私の上に座ってくれましたね。不思議でした、本当に自分で不思議でした。あんなにも怖かった、顔を見たり目を合わせることもまともにはできなかった、男の人というものと。同じ部屋に、同じ椅子に、いえ、それどころではなくわずかに革とクッションを隔てて肌のぬくもりを感じるほどに、触れ合っている。そしてあなたは何の不安もなくお茶を飲んだり、書類に目を通している、私の上で。そのことが本当に不思議でした。
あなたは私の上がお気に入りでしたね。休憩時間にお茶を飲むとき、夜に一人残って仕事をしているとき。わざわざあなたは、私の上にやってきました。私も最初はまだ怖くて、体がこわばってしまったのですけれど。そのうちあなたを、きちんと受け止めることができるようになりました。
あなたはいつも私たちのために、懸命に仕事をしていて下さいました。皆が帰ってしまった後も、夜遅くなっても。こんな私のことも分け隔てなく、一生懸命に考えていて下さいました。だから私もせめて、あなたを懸命に受け止められたらと、居心地よく感じてもらえたらと、思うようになったのです。
あなたがため息をついて私の上に座ったときには、ふわりと優しく受け止めるように心がけました。長い間ノートパソコンに向かっているときには、分からないほどにそろりそろりと膝を動かして、あなたが疲れないように体の位置を変えました。あなたが頭をかきむしって背もたれに身を投げ出したときには、胸で頬で、その背をしっかり受け止めました。
覚えていますか? 夜遅くなって、座ったまま眠り込んでしまったときのこと。あなたは小さく丸まって、胎児のように丸まって。私の胸に、頭を預けてきましたね。
私はなんだか笑っていました。あんなにも怖かった男の人がこんなにも小さくて、子供のようなのですから。私はかすかに膝を揺すりました。背もたれの向こうから、あなたをそっとなでました。揺りかごのようにあなたを包みました。あなたは小さくうめいた後、安らかに寝息を立て始めました。それで私も、目を閉じました。暗闇の中、あなたの背に頬を寄せて。
翌朝、空が白んできた頃。コンビニにでも行くのか、あなたが事務所を出た後、私も椅子から抜け出しました。そうしてモーニングコーヒーを飲みました、一人きりで、事務所の外の自販機で。
お気づきではないのでしょうね、そんな夜が幾度もありました。そして……それで、プロデューサー。私は身の程も知らない、大それた願いを抱くようになってしまいました。
プロデューサー、どうか失礼をお許し下さい。私はあなたと、椅子の外でお会いしたいと思うのです、プロデューサーと所属アイドルという関係ではなくて。
それはただ一日のことでも……一言でもいいのです。この貧相でちんちくりんで、おかしな私にプロデューサーの……いえ、あなたの、あなたご自身の言葉をおかけ下さい。それ以上は望みません、いえ、望む資格もきっとないのでしょう。
どうか、一生のお願いです。それだけで私は、死んでしまってもいいんです。椅子の中の恋、触覚と聴覚とわずかばかりの嗅覚、そしてぬくもりだけの恋。きっと分かってはいただけないでしょうけれど……私はそれを、生きてきたのです。それを、越えてみたいのです。
どうか、プロデューサー。私のこの、ぶしつけなお願いを聞き届けて下さるのなら。このノートを私に手渡して、読んだ、とおっしゃって下さい。そしてどうかお聞かせ下さい、あなたの言葉を、どうか。
初めて私に乗った人、初めて私が、夜を共にした人。
――萩原雪歩
――このノートを読んでいる途中、僕は席を移していた。アームチェアから自分のデスクへ。
何だろう。何だろう、これは。そう思いながら、アームチェアに目をやれなかった。
萩原雪歩。確かに引っ込み思案で、男性と犬が苦手だとかで。なかなか目を合わ
せてくれなかった子、未だ打ち解けられてはいない子。気弱過ぎる点を除けば、絶滅寸前の大和撫子。そう言ってもいい印象を受けた子。
僕は頭をかきむしった。何だこれ、何だろうこれ。どうしたらいいんだろう。確かにアームチェアで残業をしたことはある、眠ってしまったこともある。そこに、彼女がいた?
そう考えて背筋を震えが走った、そのとき。事務所の外に、階段を上ってくる足音を聞いた。足早だけれど小さな靴、女の子の足音。ちょうど、雪歩と同じくらいの。
僕は唾を飲み込んでいた。足がわずかに床の上を後ずさる。目は無意識に事務所の中を見回す、隠れ場所を探すように。その視線が長椅子の上で止まって――バカな、何を考えてるんだ僕は――
心の準備ができるより早く、事務所のドアは開かれた。
「たっだいまー! ……あれ、どしたんですプロデューサー?」
勢いよく入ってきたのは菊地真。萩原雪歩と同い年のアイドル、ショートカットがよく似合う、ボーイッシュな女の子。
それを確認できてから、何度も彼女の顔を見てから、ようやく僕は言うことができた。
「ああ……お帰り、菊地さん」
不審げに、あるいは不満げに彼女は眉を寄せる。
「ちょっと、何なんですプロデューサー? キャッピキャピなアイドルであるこのボクが帰ってきたってのに、お化けでも見たみたいな顔して」
「あ、ああすまん。急に入ってきたから」
キャッピキャピとか言ってしまうセンスはいかがなものかと、いつもながらに思ったが。それを注意している余裕はなかった。
僕が知る限り、萩原雪歩と特に仲がいいのは彼女だったはずだ。この子に聞けば何か――
「あーっ!」
考えがまとまるより先に、彼女は指を差していた。僕が持っていたままのノートへ。
「ちょっとプロデューサー。それ、雪歩のノートじゃないですか?」
「え? あ、ああ……」
僕が口ごもっているうちにも彼女は喋った。とがめるような目つきをして。
「やっぱり、前に雪歩が持ってたのと同じですよ。まさか……中、見てないですよね?」
突き刺すみたいな視線を前に、僕はまたも口ごもる。
「や、あ、いや……」
引ったくるようにノートを取り、裏表の表紙を確かめてから。やっと彼女は表情を緩めた。
「間違いないや、雪歩のポエムノートだ。雪歩ってば、ボクにも見せてくれないんですよねー……最近は小説も書き始めたとか言ってたけど」
小説? ポエム? ――そういえば事務所の公式プロフィールで見た覚えがある。萩原雪歩の趣味、詩を書くこと。
僕は口を開けていた。そこから長く、息が漏れる。息を吐ききって少し笑い、胸の底まで息を吸った。肩を揺らしてまた笑う。
なんだ、そうか。なんだ。詩を書いちゃうような夢見がちな女の子の、小説。自分と身近な人とを題材にしてみた、親友にも見せられないような恥ずかしい妄想。ただそれだけ。
もう一度息をついた。それにそうだ、僕があの椅子をよく使っていたのなんて、事務所の人間なら誰でも知ってる。
菊地真がけげんそうな視線を向ける。それから意地悪く歯を見せて笑った。
「プロデューサー? ……ホントは中、見たんでしょ。どんなのでした?」
「何言ってるんだ? 見てなんかいないさ」
口元だけで笑ってそう答えると、彼女も同じ表情でうなずく。
「じゃ、そういうことにしておきますよ。ノートもボクから返しときます。あ、でも。なんだか急に甘いものが食べたくなったなー、なんて」
僕は苦笑してかぶりを振る。
「せめて給料日後にしてくれよ。……そうだ、萩原さんも一緒に呼ぼう。伝えといてくれないか」
考えてみればそう、思春期なんだ、彼女らは。あるいは人生で一番難しい時期、そこへこんな仕事をしている。ちょっとぐらい妙な感じになっても、それはそれで当たり前だ。 難しい子なのだろうけどもっと分かり合えたらいい、いやその必要がある。児童心理学の本とか探してみようかな、児童ってのはでも違うか? 帰ってネットで調べてみるか。
そう考えているとさっきまでの自分がおかしくて、小さく息がこぼれた。
菊地真は首をかしげたが、僕は帰り仕度を始めた。
「もう帰るけど。すぐ帰るなら、途中まで送ろうか」
「いえ、ちょっと片づけがあるんで。たまにはプロデューサーも、早めに帰って下さいよ」
苦笑してさよならを言い、僕は外へ出る。事務所の方を振り返り、息をついて。足音を立てて階段を下りる。
――静かになった事務所の中で、菊地真は息をつく。応接セットのアームチェアに、飛び込むように身を沈めた。ふかふかとその身が上下して、揺れが落ち着いた後。プロデューサーが残したままのコーヒーに口をつけてみる。
カップを置く。肘かけに、なでるように手をやった。青く夜の色に染まる、窓の外に目を向ける。
「雪歩、ねぇ……まったく。急過ぎるんだよ、言うにもさ」
つぶやいて立ち上がったその後。椅子が小さく、震える。
(了)
筆者自身は真P……あとやよい。でも一番好きな楽曲は断トツで雪歩の「コスモス・コスモス」。
それはそれとしてジュピターの三人も好きです。