スリガオ海峡海戦について――
レイテ湾突入を目指す「捷一号作戦」では、目的地直前で起きた謎の反転「栗田ターン」で有名な栗田艦隊の他にも、レイテ湾突入を目指す部隊が複数存在した。そのうちの一隊が西村祥治率いる西村艦隊である。
西村は出発前、友人である伊藤整一と酒を交わし「今度こそ、俺は禎治のところへ行くんだぞッ、伊藤!」とフィリピンで戦死した息子の名前を繰り返し口にしていたという。
二隻の扶桑型戦艦、旗艦『山城』と『扶桑』を中心とする小規模な西村艦隊は、一〇月二二日、スリガオ海峡において戦艦六隻と多数の駆逐艦を擁するアメリカ艦隊の迎撃を受ける。圧倒的な兵力差により西村艦隊は満足に戦闘を行うことができず、早くも主戦力の『山城』をはじめ何隻もの軍艦がアメリカ駆逐艦の雷撃によって海に没していた。
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ワレ魚雷攻撃ヲウク、各艦ハワレヲカエリミズ前進シ、敵ヲ攻撃スベシ
パチパチと、かまどの中で薪が爆ぜる音が聞こえる。
夕日が射しこんで、橙色の柔らかな光が家の中を空と同じように床から壁まで柔らかに染め上げる。
そうだ、夕食時だ。
西村は思い出した。台所から料理の香りが立ち上って、畳の井草の香りと絡まり合いながら、小さな家を満たしている。
今では一人息子となってしまった禎治が、机の向こう側に座って俺に酒を注いでくれる。だから、笑いながら禎治にお茶を注ぎ返す。まだ酒が飲める年じゃない。
――少し想像してみなさい。いつかお前と一緒に飲める日が来るんだぞ。まだ早いかもしれんが、俺は今から楽しみで仕方ないよ。
そう、禎治に言った。それに答えて笑いながら禎治が口を開くが、その声は西村の耳には届かない。
――何だ? 何も聞こえないぞ、もっとはっきり言ってくれ。
だが、禎治の口は音を発することなく虚しく動き続けている。
耳鳴りがひどい。いやそんなもんじゃない。この耳障りな音だけが、この世界に氾濫している。そんな西村のことなど見えていないかのように、禎治は平然と口を動かし続けている。
耳鳴りとともに激しい痛みが西村を襲い、思わず目を伏せる。肌が熱い。炎の中に身を置いているかのようだ。何とかして目を開いて禎治に向けたすがるような視線も、禎治には見えていない。やがて視界が赤くぼやけ始め、遂には禎治の顔さえもが不明瞭になる。
そして視界は暗転した。
――です、司令官!!」
その声で視界が戻った。
「第二・第三砲塔は使用不可となりましたが、第一・第二砲塔で砲撃を続行します!」
篠田勝清艦長の声が響いていた。
夢か。被雷の衝撃で軽く脳震盪を起こしたのかも知れない。しかし現実に醒めても、なぜかパチパチと爆ぜる音は耳の中でなお響いている。陽だまりの中に響く心地よい音。俺はまだあそこにいたいと思っているのか? 禎治のいるあの柔らかな夢の中に?
‥‥違う、『山城』が燃えているんだ。被弾箇所は艦橋直下、その音が聞こえている。
既に魚雷を一本当てられ、『山城』の機動力は大幅に落ちている。米戦艦六隻に丁字――日本海海戦で東郷平八郎率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊相手に築いた最強の砲撃布陣を描かれているから、状況は数の差以上に不利だ。もっとも、丁字戦法の最大の強みは敵に後部砲塔を使わせないことにあるわけで、既に後部砲塔の一切が使用不能となった今の『山城』にとっては、丁字を描かれているという不利がなくなったとも取れる。
不意に聴覚が澄み渡る。ようやく耳鳴りから完全に解き放たれたらしい。
西村は艦長の報告に「ああ、そうしてくれ」と答える。そして少し考えてから、こう付け加えた。
「『扶桑』に負けないようにな」
そう、西村は『山城』の同型艦の名前を持ち出した。不利な状況だと言うのに艦長は笑みを浮かべて答えた。
「ウチの砲術員は優秀です。『扶桑』の連中には負けません。砲術、砲撃続行!」
艦長が伝声管へと声を吹き込む。金属管が声に震え、それが小原四雄砲術長へと届く。
『山城』の主砲塔は、三八センチ連装砲塔六基。うち四番砲塔までの四基が前方に砲撃可能で、第三・第四砲塔は米戦艦の砲撃によって破壊されたが、まだ第一・第二砲塔の二基四門が残っている。砲撃を止める理由など、何一つなかった。『扶桑』は『山城』の後方を付き従って航行している。『長門』や『大和』に負けるならまだしも、姉妹艦に負けるわけにはいかない。西村の言葉で、艦長の腹に新たな決心が生まれた。
「左舷側、駆三接近!」
「副砲で対処せよ!」
西村が何か考えるより早く艦長が指示を出す。素早い上に、その指示は的確だ。この男になら任せて大丈夫だと、西村は艦長を頼もしく覚えた。
――しかし、志摩はまだか?
志摩清英中将の率いる志摩艦隊は、本来西村の艦隊とともにスリガオ海峡に突入する手筈だった。これは二隻の重巡の那智・足柄を含む有力な艦隊で、西村とともに突入すれば、戦況が好転する可能性は十分にある。
――なぜ来ない?
主に駆逐艦の小口径弾によって、『山城』の艦体は一秒毎に確実にすり減らされている。一発一発の威力は決して大きくはないが、無数に浴び続ければいずれ限界が訪れる。もう『山城』には時間がないのだ。そんな焦燥に駆られながら、西村は後方の海を振り返り、次いで視界の遥か先にあるはずのレイテを睨んだ。
そんな折に不吉な報せが届く。
「米駆逐艦、反転!」
それが意味することはただ一つ。魚雷が発射されたのだ。
「艦長、回避行動を!」
「取舵一杯!」
西村の声に覆いかぶさるようにして、艦長が回避を命じた。艦首と魚雷を正対させ、投影面積を最小にして被雷確率を下げるためだ。
だが、既に被雷して速力を大きく減じていた『山城』には、回避など望むべくもない希望でしかなかった。
駆逐艦はかなりの至近距離で魚雷を放った。魚雷はすぐに『山城』に到達するだろう。
「総員、衝撃に備えろ!」
不吉な予感を覚えて艦長がそう言い放つと同時に、直下から凄まじい殴打が『山城』を襲い、西村の体は衝撃に浮かび上がった。
被雷した。衝撃の感じからして艦体中央部。あまりの衝撃に西村は口を開くことが出来ない。
「‥‥っ第三・第四砲塔注水急げ!」
艦長が、血の滲む声を絞り出すようにして命じた。万が一火災が発生して弾火薬庫に引火すれば、たちまち誘爆を起こして『山城』は内部から爆散してしまう。火薬庫注水はそれを防ぐための措置だ。一度注水をした砲塔は以後砲撃が出来なくなるが、元より火災のせいで砲撃できなくなっていた砲塔だ。艦の保全のためなら惜しくない。
弾火薬庫誘爆はこれで避けられたはずだ。これならまだ戦える。西村がそう思った矢先、無慈悲にも希望はさらに打ち砕かれる。
「機関浸水のため、速力五ノットが限界です!」
本沢半三機関長の悲痛な叫びが、ここ艦橋の西村の耳に届いた。束の間、火災の炎さえ侵入をはばかられるほどの重い沈黙が艦橋を押し包んだ。
五ノット。止まっているのかと錯覚するほどの低速。敵からすれば今の『山城』は静止目標と変わらないだろう。それは即ち、被弾する確率がさらに増加したことを意味している。
その沈黙を破ったのは、西村であった。
「‥‥本艦はまだ止まったわけじゃないだろう。艦長、前進させてくれ」
俯いていた艦長の頬に、赤みが戻る。顔を上げた艦長の口元は、きつく結ばれていた。
「分かりました。機関長、可能な限り復旧に努めろ!」
「了解! 罐の復旧に努めます!」
「航海、前進全速!」
窓の外を流れる風景の過ぎ去る様はなんとも遅い。これで全速かと思うと、落胆をかくしえない。だが、まるでもどかしさはない。そうだ、『山城』はまだ止まっちゃいない。こうしている間にも、着実にレイテ湾へと近付いているんだ。その自覚が、彼らの原動力を支えている。
やがて――
「速力、一二ノットまで出せます!」
「よし、速力一二ノット! 一ノットたりとも落とすなァ!!」
機関長の報告に触発されるように、艦長が威勢よく命じた。一二ノットだって、決して早くはない。もともとの最大速力の半分程度に過ぎない。けれども、彼らにはこれで十分だった。なぜなら『山城』はまだ進んでいるのだから。
「左舷前方より米駆多数接近!」
「左舷前方の駆逐艦を狙え。砲撃目標の選定は砲術長に委ねる!」
『山城』はなお一層の猛りを見せた。全ての砲が果敢に吼え、敵駆を食い破らんとして砲弾を盛んに吐き出している。
だが、足りなかった。『山城』一隻だけでは、何も止められなかった。
せめて『山城』の通信能力がまだ生きていれば‥‥
「米駆反転!」
「取舵!」
鋭い声だ。演習のような落ち着きを持ちながら、実戦特有の緊迫感も含む声。しかし、声で艦は動かない。微々たる速度でしか動けない『山城』に、もはや助かる道などなかった。
右舷からの爆圧を受け、『山城』が左に傾いた。金属の軋む鳴動が、『山城』の悲鳴が、まるで自身の痛みのように感じられた。心臓のあたりが大きく食い破られたかのような空虚感が西村を襲う。
「機関浸水!」
「‥‥隔壁閉鎖、急げ!」
艦長が、悔しそうにその指示を吐き出した。
言われなくとも機関が打撃を被ったであろうことは、衝撃の位置と、急速に遅くなる艦の速力を考えれば、容易に想像がつく。
直後、再び衝撃が『山城』を襲う。今度は艦の前部。上から殴り潰されるかのような打撃。
「第二砲塔、電路切断!」
「くっ‥‥」
艦長が拳を握った。もはや残る主砲は第一砲塔しかない。
その時、今にも崩れ落ちそうな足取りで、まだ若い伝令兵が駆け込んだ。
「な、『那智』より入電! 『当隊攻撃終了、一応戦場離脱後図ヲ策ス』!」
「‥‥志摩の野郎ォ!」
思わず声を荒げ、海図台へと拳を振り下ろす艦長。バン、という音が艦橋に響く。
「艦長、それは違うな」
その艦長を、西村が制した。
「戦争はこの一戦で終わるわけじゃない。まだ幾つも海戦が残っているはずだ。艦艇の消費はできるだけ抑えなくてはならない。いまだ本艦と『扶桑』が戦闘可能だとは言え、我が隊の勝機は薄い。‥‥分かるな? それが志摩中将の決断だ」
艦長は気恥ずかしそうに視線を足元に泳がせ、ややあって口を開いた。
「‥‥申し訳ありません。我を忘れていました」
そう言いながら、艦長は西村の戒めの言葉に、諦めと安堵の入れ混じったものを感じた。これ以上の足掻きに疲れ果ててしまっている、そんな風に思った。
しかし、遂に彼らが『扶桑』の既に亡きことを知ることは無い。
「そんな顔するな艦長。第一砲塔を見ろ。彼らは、まだ諦めていないようだぞ」
見れば、最後にただ一基残った第一砲塔がまさに敵を射止めんと斉射に踏み切った瞬間だった。
「そう、ですね」
艦長は静かに笑う。
「各員、被害拡大の抑止に努めろ! 砲撃を止めるな!」
その叫びに呼応するように、勝鬨にも似た砲声を第一砲塔が上げる。
それが『山城』の最後の雄叫びとなった。
「かはっ‥‥!!」
右舷からの最後の衝撃が、西村にその呻きを吐かせた。
一瞬左舷へと傾いた艦体が、直後に右舷側へと何者かの大きな力によって急速に引き戻される。
「先任参謀、機動部隊司令官に報告。『我レイテ湾ニ向ケ突撃、玉砕ス』」
「分かりました」
安藤憲栄先任参謀が頭を下げて通信室へと消えた。
「艦長、本艦はもう保つまい。‥‥構わないぞ」
艦長は、その省略を瞬時に理解した。
「総員退艦だ! 俺の声が聴こえた者は今すぐ艦を降りろ! 左舷側からだ! 急げ!」
あらん限りの大声で、喉が潰れるほど、肺の空気の僅かさえ残すまいとしているかのように艦長は叫んだ。最後の務めまで、彼は全力で果たそうとしていた。
誰もが全力で甲板へと駆ける。
伽藍洞となった艦橋で、徐ろに西村が口を開いた。
「艦長、君も降りろ」
「はい?」
艦長は、西村がまるで訳の分からないことを言ったかのように聞き返した。
「君はまだ若い。君の指揮を見ていたが、どこにも不足は見られなかった。とすれば『山城』喪失の責任は指揮官である私にある。だから、君は降りろ」
実際、西村には篠田以上の指揮が自分にできるとは思えなかった。少なくとも、帝国海軍の艦長としてそこに名を連ねるのに恥じない、いや、むしろ相応しいくらいの指揮だった。
真面目な顔で西村の話を聞いていた篠田は、突然口元を緩ませた。
「何を言っているんですか。軍艦を、それも戦艦を失った者の居場所なんて、ここの他にどこがあるんです?」
篠田は右手の人差し指で足元の、そのさらに下を指し示した。
「司令官も同じことをお考えでしょうが」
「私は惜しいよ、君のような人間を失うのが」
西村は哀しい顔をした。だが意外にも艦長は笑った。
「いずれにしても、もう、間に合いませんな」
気が付けば、体をかなり傾けなければ立てないほどに床は傾いている。これでは、甲板まで降りろというのが土台無理な話だ。篠田の説得は諦めるほかなかった。
その時、敵の砲弾が艦橋至近に落下し、艦橋が大きく揺れた。
崩れ落ちる視界の中で逃げ遅れた江崎寿人主計大尉が目撃したのは、篠田の傍らでただ凛然と佇む西村の姿であった。
「中村さん、こんなことしか話せんけど、大丈夫ですか?」
老人は不安と心配の入り混じった顔で聞いた。
あの日、スリガオ海峡の海を漂流した江崎主計大尉は、もう後期高齢者になる。この国から軍が消えて二十年。この老人を主計大尉と呼ぶのは適切ではないのだろう。しかしあの日のことを語る彼は、私の目には間違いなく「主計大尉」として映っていた。
――いえ、貴重なお話をお聞かせいただいて‥‥。本当にありがとうございました。
「でも、司令官が西村さんで良かったと私は思っているよ」
――と言うと?
「あの人が立派な司令官だったからだよ。愚直で、冷静で。そんな人の采配の結果だったら、まだ安らかに受け入れられるんだ。それに‥‥」
江崎さんは言葉に詰まった。
咄嗟に口を開いたが、私はその先を聞いていいものか少し悩んだ。誰しも人に言いたくないことはある。それは自らの羞恥心が故かも知れないし、どこかその言葉をタブー視しているからかも知れない。ただ今回は、江崎さんがその続きを言う最後の一押しを求めているような、そんな気がした。
――それに、何ですか?
伏し目がちになっていた江崎さんの目が開いて私の方へと視線が動き、目が合った。
「こんなこと言っていいのか分からないけどね、西村さん自身にとっても、それで良かったんじゃなかろうかって。あの人はどこか死に急いでいたんじゃないかって。この歳になって思い始めているんだよ」
そう言った江崎さんは、遠くの海を見つめるかのように再び視線を押し下げた。