‥‥堪えが■きを■え、□のび■□きを忍び‥‥‥‥
それより後は、砂嵐で分からなかった。
だが、「戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず」との文言があったこと、前日に沖縄への積極攻勢を控えるよう通達があったことを踏まえれば、何の話であったかくらいは容易に想像がつく。
そうだ、私は悟った。
日本は、この国は――
戦争に負けたのだ。
幕僚たちは、暫ししんとして動かなかった。
これが陛下の肉声かと、平時であればその感動に身を浸すこともできただろう。しかし今の状況下では、放送が終わった次の瞬間にはもう、敗戦の重みが足を地に埋めてしまっていた。
茫然自失。誰もの「我」が忘れられ、そこにはただ空虚な体が残されているだけに等しかった。
号令台の上のラジオは静かに砂嵐を吐き続けている。それ以外の音は何もなかった。
「‥‥何をしている?」
不意に宇垣の声が響いた。その空虚な空間に水滴を落とすかの如く。それは突如として現れ、固まりかけていた幕僚たちの脳を醒ました。
「停戦命令は未だ発せられていない。我々軍とは、陛下の御意思に従って行動するものだ。国民のことはもちろんだが、何より陛下の御意思を尊重しなければならん。しかし同時に、陛下の統帥権を侵してもならんのだ。停戦命令が出ていない以上、無断で作戦を取りやめるのもまた陛下を冒涜する行為だと考えるが、どうだ?」
宇垣は一同を見回した。
幕僚たちは俯いたままだ。その内の一人が顔を上げ、躊躇いがちに口を開く。
「お言葉ですが、司令官。これ以上の戦果拡大はもはや無意味です。この放送を行ったということは、陛下が翻意なさる可能性は極めて低いと思われます。本作戦の作戦目標は既に失われたとして中止にすべきです。むやみに戦死者を増やすべきではありません」
彼の語った理論は正論そのものだった。しかし宇垣の表情は一切変わらなかった。
「貴官の言う通りだ。むやみには死者を増やすべきではない。だから全員に参加しろとは言わん。参加したいものだけ私に続け。四時間やる。参加する決心のついた者は一六〇〇にここに再び集合しろ。いいな?」
「はい‥‥」
「解散!」
俯き加減に幕僚たちは自らの部屋へと戻っていく。その姿を追うように、宇垣もまた自室へと戻っていく。
未だつかぬ決心に方をつけるためか、或いは所持品の整理をするためか。
宇垣は日記帳の最後の一頁を開き、自らの思いをその上へと吐露すると、頁を閉じて元あったように机の上へと戻した。
一人約束の時を待つ号令台前。宇垣は手元の時計を確認する。時刻は一五時四三分。あと一七分。
あのような話をした後だ。誰も来なかったとしてもそれほど不思議はないが――
――それでも俺は行く。
しかしその決心もまた揺らいでしまうのではないかと、宇垣は何よりそれが恐ろしかった。
道連れが欲しいとか、決してそのようなことを思っているわけではない。自らの決心に他人を巻き込むなどは絶対に正道ではない。そんなことは長く人に上に立ってきた者として、当然分かっている。
(だが、俺の決心を誰も肯定しないとしたら‥‥)
果たして自分はその時でも自らの決心は正しいと胸を張って言えるのだろうか。誇りをもって貫き通せるだろうか。そう思わずにはいられなかった。
小さなため息をついて、もう一度時計を確認する。一五時五六分。まだ一六時にはならない。その時、
「全員、揃いました」
宇垣は振り返る。全員? まだ約束の時間には早いというのに? そんな疑問を覚えながら。
「‥‥!」
思わずして宇垣は言葉を失った。半歩右脚が後ろに引いた。辛うじて腰を抜かしはしなかったが、それでも驚きは隠せなかった。
数度瞬きを繰り返して自分の見間違いでないことを確認してから、宇垣は徐に口を開いた。
「‥‥結局、全員来たのか」
宇垣の前には、幕僚の全員が横一列に並んで立っていた。
「長官が行くというのに自分が行かないというのは、どうにも締まりませんから」
その内の一人がおずおずとそう述べる。宇垣の肩から力が抜けて、表情が緩むのも止まらず、その口元からは大きな息が漏れた。
「緊張しているな? 出撃前で硬くなっているのは分かるが、過度の緊張は逆効果でしかないぞ。全員少しこっちに来なさい」
そう言って手招きした。幕僚たちは顔を見合わせたが、それでも宇賀kが手招きするので若干の困惑を覚えながらも宇垣に従って歩いた。その先には、人数分の盃が用意されていた。
「司令官、これは‥‥?」
「別杯だ。こんな時勢だからな、量はそんなにはない。それでもできる限りいい酒を用意したつもりだ」
そう言って盃を手に取ると、一人ひとりに手渡して回った。
「飲めよ」
そう勧めながら、宇垣自身も最後の一つを手に取って、喉の奥へと酒を流し込む。
「折角用意したんだ。そんな複雑そうな顔などしてないで、もっと気楽に味わいたまえ」
宇垣は自分以外誰も口をつけていないのを見てそう言った。
「美味い酒だからな」
そう言って宇垣の瞳は幕僚たちを向いて止まり、暫しの沈黙が流れる。
やがて一人が口をつけた。また一人、さらに一人とそれに続く。
「‥‥確かにこれは美味い酒ですな」
「全くです」
幕僚たちは手の甲で唇をなぞるようにして口元を拭き、盃を宇垣へと返した。
兵舎の方を見ていた宇垣は振り返ってそれを受け取り、そして口を開いた。
「行くか」
飛行場に到着すると、その異変に宇垣はすぐに気が付いた。いや、命令を理解しているものなら誰もが気付いただろう。
直ちに指揮官の中津留達雄大尉を呼び出して問い詰めた。
「私は『彗星』五機の出撃を命じたはずだが、どうしてそれ以上の機体が出撃準備に入っているのだ?」
すると大尉は何やら憤慨した様子でこう言い返してきた。
「私は五機出動を命じたのですが、部下が命令を聞かないのであります」
決して私に命令に背く意図があるわけではありませんと、そう言いたいのが見るからに伝わってきた。
大尉の主張によると、所属する飛行兵たちが「長官が出撃するというのに出撃を五機に絞るのはおかしい、出撃可能な全機を出撃させるべきだ」と、そう主張して聞かないらしい。あまつさえ、これが聞き入れられないなら命令違反を承知で宇垣についていくとまで主張しているそうだ。
宇垣と幕僚たちは、思わず顔を見合わせた。幕僚たちの目は困惑に揺らいでいる。ここは自分が決断しなくてはいけないようだ。そう悟った宇垣は大尉に向き直ってこう告げた。
「よろしい。では、命令を変更する。彗星艦爆十一機をもって、只今より沖縄の敵艦隊を攻撃する」
するといつからいたのか大尉のすぐ後ろの飛行兵が拳を上げて、「聞いたか? 全機出撃だ!」と叫びながら滑走路へと駆けていった。それに応えるように、出撃準備を整えていく『彗星』たちの周囲から、歓声交じりの力強い勝鬨が上がった。
その勝鬨の輪に加わろうとする大尉を宇垣は呼び止めた。背後からで表情は見えないが、引き攣った笑みをしているのが空気感だけで分かる。
「大尉」
「‥‥何でしょう?」
大尉はびくりと体を震わせて止まる。宇垣はその肩へと手を置いた。
「演技はもっと上手くやりたまえ」
宇垣は硬直する大尉を置き去りに、活気満ちる飛行兵たちの中へと溶けていった。だから、大尉の目に湛えられた一抹の涙に宇垣が気付くことは無かった。
「長官、お写真を撮っておきましょう」
兵の一人が写真機を掲げて宇垣に呼びかける。
「ああ、少し準備する。待ってくれ」
そう答えた宇垣は慣習に従って階級章を軍服から外し、その代わりに敬愛するかつての直属の上官山本五十六から遺贈された短刀を手に写真機の前に立った。
「後ろの兵が映ってしまいますが、よろしいですか?」
写真機を持つ兵が、一度それから顔を離して訊いた。
振り返ると、兵たちが背後の『彗星』の出撃準備作業を進めている。確かにこれでは写真に彼らが映りこんでしまう。
「場所を変えるか、彼らを離させますが」
「‥‥いや、それには及ばないよ。私が乗る機体と一緒に映りたいし、それに、彼らあっての私だからな。是非彼らも映してくれ」
「分かりました」
そう答えると、兵は再びレンズを覗き込み、そしてシャッターを切った。
それから一時間。準備を整えた『彗星』一一機は、滑走路の土を蹴って離陸した。
宇垣の乗る予定だった『彗星』の偵察員席に関して遠藤飛曹長が交代に応じず、結局二人乗りの『彗星』に、宇垣、飛曹長、そして操縦手の大尉で無理くり三人乗りすることでひと段落した。
大分基地から目標の沖縄沖までは、約三時間かかる。これは、この二地点間の距離が非常に長いせいも勿論あるが、それ以外に通常の五〇番爆弾よりも重い八〇番爆弾を搭載したせいもあった。
「飛曹長、きつくはないか?」
「いえ、そんなことは全く。別に長官はそのようなことをお気になさらなくても‥‥」
「いやそうはいかんよ」
そんな会話を続けている間にも眼下の陸地は高速で流れ去り、一時間ほどの飛行の後、それは黄昏に赤く輝く海へと変わった。
この高度からでも、うねる波濤が金銀に煌めいていのが判る。生まれては消えるその波濤たちから、宇垣は目を離すことができなかった。
「飛曹長、第五航空艦隊宛て打電。『訣別電ヲ送信セヨ』」
「第五航空艦隊宛て『訣別電ヲ送信セヨ』、打電します」
復唱を返した飛曹長が電信機に取り掛かる。暗号電文ではあるが、元の文が非常に短いために、打電はすぐに完了した。
「打電、完了しました」
「‥‥ご苦労」
宇垣は後ろを振り返った。見えるはずのない電文の行方を追うかのように。しかし宇垣の瞳には、その半分を夜の闇に包まれた黒い海しか映らなかった。
「じき行けますから。今は前を向いていてください」
飛曹長は脇目も振らず、ただ前方の空を見つめている。焦点の合うものなどないだろうに、その眼差しは不思議と空を捉えている。
「‥‥そうだな」
そこからさらに一時間飛び続けた。
「もう少しで敵艦隊のはずです」
不意に大尉が告げた。
「長官も、索敵にご協力願います」
「了解した」
目を凝らす宇垣。だが飛行兵としての訓練など受けたことのない宇垣の目にとって、陽の沈んだ空は一面の宵闇でしかない。日没からだいぶ時間が経って少しずつ夜目が効いてきたとは言え、それは所詮一般人の目に過ぎなかったのである。
「大尉、長官、敵艦隊ですぞ」
低く押し下げた声で飛曹長が告げる。
ハッとして宇垣は振り向いた。彼の指差す先へ。
海は白銀を戴き、煌々と輝いていた。むしろ闇夜の方が、黒い海とともにその背景として消え入ってしまうほどに。
「‥‥まだこちらには、気付いていないようだな」
「攻撃は、あっても薄暮までと考えているんでしょう」
「最後の最後にこんな良運に恵まれるとはな」
宇垣は伏し目がちになる。
「感傷に浸る暇はありませんぞ、長官。折角の良運をふいにしてしまいます」
大尉がそう言った。言外に催促の意が含まれているのは容易に分かった。
宇垣はフッと小さく笑う。
「そうだな。飛曹長、『ワレ奇襲に成功セリ。ワレ今ヨリ突入ス』」
「『ワレ奇襲に成功セリ。ワレ今ヨリ突入ス』、打電します」
飛曹長が電信に取り掛かる。その完了を待たずして宇垣はさらに言葉を放つ。
「大尉」
「はい」
「突入だ」
大尉からの返事は無かった。代わりに機体がぐんと増速した。
「打電完了!」
「飛曹長、無電貸せ」
言いながら飛曹長から無電の操作を奪い、「ツー」の長符、突入電を放った。
「大尉、好きに狙え!」
「了解です!」
なおも宇垣は突入電を切らさない。長符は未だ放たれ続けている。
『彗星』の高度が急速に下がっていく。
海上の煌めきの粒が一つ一つ鮮明になり、少しずつその艦容が露わになっていく。光を受けて光るその姿は、黒鉄の不夜城をさえ想起させる。
バンバンと砲声が響く。遂に米軍がこちらの存在に気付いたのである。赤い弾道が『彗星』の周囲を貫いて、一瞬の内に後方へと駆け抜けていく。
空間が飽和していく。少なくとも宇垣の脳にとってはそうであった。全てを埋め尽くす砲声は、むしろ自身の決意を鼓舞しているようにさえ宇垣には感じられた。
不意に後方で爆音が響く。ともに出撃してきた一機が撃墜されたのかも知れない。しかし、胸が痛む暇さえなかった。胸の内で手を合わせることもなかった。
高度はさらに降下していく。敵艦の影が急速に膨れ上がる。
くたばれ。そうとさえ思っていない。高揚しきった脳裏には、敵艦の姿は映らなかった。
その時、機首からの衝撃が『彗星』を揺るがした。衝撃は翼、胴体にも連続して襲い掛かる。無数の裂創が『彗星』を急速に刻み込んでいく。宇垣はそれを全身の神経で感じ取っていた。
――見える。
宇垣は右手を前へと伸ばした。
――靖国の鳥居が。この手の届くすぐそこに。
やがて一発が風防を打ち砕いてその中へと飛び込んだ。同時に、まっさらな閃光が宇垣の意識を包み込んだ。