アラとのトレーニングを開始してから三週間、俺達は昼食を食べ、珈琲片手につかの間の休息を楽しんでいた。
「トレーナーの皆さん、来週のデビュー戦の出走表をお持ちしました!」
「川蝉秘書、ありがとうございます、どうです?珈琲を飲んでいきませんか?」
「それでは、お言葉に甘えて、頂戴致しますね」
川蝉秘書が出走表を持ってきてくれた、火喰が川蝉秘書にコーヒーを勧め、川蝉秘書もそれを了承する。
「川蝉秘書、どう思います?ランス達の世代は」
雁山が出走表を眺めながら川蝉秘書に聞いた。
「私も選抜レースを見ていた者の一人ですが、皆、将来有望なウマ娘達だと思いますよ」
川蝉秘書は、何故かいつも身につけているベレー帽を弄りながらそう答えた。
社交辞令なのか否か、俺には分からん。
だが、川蝉秘書が本気でウマ娘達を思っているのだということだけは、よく伝わってきた。
俺はアラのレースの出走表を見た。
1 | オートハイエース |
2 | ニコロウェーブ |
3 | カロラインシチー |
4 | ニシノプリースト |
5 | アラビアントレノ |
6 | スーパーシャーマン |
7 | ホローポイント |
8 | キングチーハー |
福山レース場の、ダート1800m…
そして、今回の相手はキングチーハー。
「慈鳥、勝負だな」
「ああ、負けんぞ」
「それはこっちのセリフだ」
闘志を燃やす俺達を見て、川蝉秘書は“あらあらあら〜”と言い、口に手を当てて笑っていた。
トレーニング後、私達はミーティングをする事になった。
「アラ、来週デビュー戦だ、場所はすぐ近くの福山レース場、ダートの1800m」
「…うん」
私が頷くと、トレーナーは、手に持っているバインダーに紙をはさみ、簡単なレース場の図を書き、私に見せた。
「福山レース場の1800mは、第2コーナー奥からスタートする、まずは向正面ストレートを走り、そこから第3第4コーナーのカーブを曲がる、そしてスタンド前のストレートを抜けて、もう一周してゴールだ。逃げ、先行ウマ娘が有利とされているが…」
「うん、私はその2つは適性が無い、だから、選抜レースのときと同じ差しで行かせて」
「わかった、基礎的な事は教えてある、後はお前を信じるぞ」
「…ありがとう」
私は選抜レースの時、差しの戦法を取っていた。まあ…ストレートが遅かったから追込に間違われたけれど。
でも、私は加速の遅さを補うために、トレーナーにカーレースの技術、“スリップストリーム”を教えてもらった。
あとは…一週間後の、デビュー戦に備えるだけ
『今日は大いなる夢への第一歩、デビュー戦、もうすぐ出走時刻です!』
アナウンスが鳴り響く、私達は控室で待機していた。
「いいか、今回のレースは第一レース、バ場は綺麗だ。だから、荒れたバ場によるウマ娘達の減速は期待できない。それは分かってるな?」
「分かってる」
「だから、どれだけ早くスリップストリームのポジションにつけるかが重要なんだ、よってスタートが肝心になる、スタート後にすぐに誰に付くか判断しろ」
「…分かった」
「あと一つ、カーレースの世界に携わっていた者として一言、大事な事を言わせてもらう、レースは一人で走るんじゃない、他のレーサーとの駆け引きだ。先頭、そして周りの状況には気を配れ、どこでスパートをかければ良いか考えつつ走るんだ。まあ、アレコレ言ってるけれども、最終的に……他の誰よりも先にゴールすれば良い」
「…わかった」
ガチャッ!
「アラビアントレノさん!準備お願いします!」
トレーナーが言い終わった所で、係員が私を呼ぶ。
「わかりました……………トレーナー、行ってくる」
「ああ、気を付けてな」
「うん…」
ゼッケンがきちんとついているか確認し、私はパドックへ向かった。
パドック…それは出走前のウマ娘のお披露目場である。レース前のウマ娘達は、集会しながら準備運動をし、自分の名前が呼ばれるのを待っていた。
『5枠5番 アラビアントレノ 8番人気です』
『落ち着いていますね、冷静なレース運びが期待できそうです』
アラビアントレノは8番人気、評価としては最低だった。しかし、彼女はそのような事実にもめげず、深呼吸を行ない、その目をギラつかせていた。
ウマ娘は、通常の人間と比較して闘志が強いとされている、それ故、パドックとはそれが垣間見える場所でもあった。
『8枠8番 キングチーハー 1番人気です』
『仕上がりは上々ですね、今日の好走に期待したいところです』
一番人気のキングチーハーが登場し、会場は沸き立つ。
お披露目を終えたウマ娘達は、ゲートへと向かい、歩いていった。
「アラ、今日はお互いに頑張りましょう」
「うん、よろしく」
レース前、アラビアントレノとキングチーハーは、お互いの健闘を祈りあった、表情は柔らかいものの、溢れ出る闘志はそのままである。
そして、すぐに表情を戻し、ゲートインする。
『各ウマ娘、ゲートイン完了、デビュー戦、ダート1800m…今…』
ガッコン!
『スタートしました!全員きれいなスタートを切った!3番カロラインシチー、上手く抜け出て先頭へ、それに並ぶように7番ホローポイント、その後ろ、6番スーパーシャーマンと4番ニシノプリースト、8番キングチーハー、1番オートハイエースはその後ろ、の真後ろに5番のアラビアントレノ、そのすぐ横、内から2番ニコロウェーブです!』
「いよしっ!…良いぞ…」
スタートが成功し、観戦している慈鳥はガッツポーズをした。
アラビアントレノはリトルデイジーの真後ろにつけることに成功した。彼女の作戦は差しである、本来、ここ、福山レース場では、逃げ、先行が有利とされていた。しかし、デビュー戦では、本格的に逃げるウマ娘は少ない。
スリップストリームは、前方の相手の後ろにつくことによって、空気抵抗を低下させた状態で走ることを可能とする、レーステクニックの一つである。また、カーレースにおいて、スリップストリームはエンジンへの負担を低くする効果を持っているが、ウマ娘レースにおいては、これはウマ娘のエンジン的存在である脚部への負担軽減、つまりは末脚の温存の効果も存在していた。
『一つ目のカーブ、第3第4コーナーです。先頭3番カロラインシチー、続いて7番ホローポイント、他の娘たちもどんどんコーナーへ入っていきます』
(……ここで注意すべきは…横…!)
アラビアントレノは内側を走るオートハイエースを警戒した。
福山レース場のコースの特徴は『弁当箱』と形容されるきついコーナーである、当然、遠心力は強い。
更に遠心力は、物体の質量が重いほど強くなる。
アラビアントレノの身長は146cm、同世代のウマ娘達の中では、かなり小さめの部類に入る。それ故、かかる遠心力も小さく、コーナーが得意な事も相まって、アラビアントレノには周囲を確認する事は、他のウマ娘達と比べると容易であった。
(………ッ、やっぱりトレーニングコースより、キツイ…)
一方、キングチーハーは、コーナーが苦手な事もあり、かなり苦労しながらコーナーを曲がっていた。
(でも、スタミナは強化した……余裕はある…!)
キングチーハーはエアコンボハリアーとレースをした時の戦訓から、軽鴨と共にスタミナを強化するトレーニングを続けていた。無理に内側を走り、コーナーの遠心力に負けることは、走行ラインのズレ=事故の可能性を意味する、ウマ娘の速度による衝突時の衝撃による被害を考えると、その判断は的確であった。
『8人のウマ娘がスタンド前を通過していきます、先頭3番カロラインシチーから変わって7番ホローポイント、後続は変わらない!先頭から最後尾までは8バ身の差があります』
(よし、出よう)
『ここで5番アラビアントレノ、リトルデイジーを抜いて、キングチーハーの後ろについた!』
スリップストリームから脱出する際には、入っている状態で稼いだ速度や加速度を残したまま脱出する事が可能である。これは、通常ではストレートでの加速力が劣るアラビアントレノが、他のウマ娘に加速力で対等に立つための手段だった。
(恐らくニコは次のコーナーでアウトに寄せられる、悪いけどこれはレース、巻き込まれるのはゴメンだ)
『各ウマ娘、スタンド前を通過しまして、第1第2コーナーへと入っていきます!』
「おい慈鳥、なんでアラはチハの後ろについたんだ?」
「今に分かる」
『第1コーナーから第2コーナーへ入る直前、ここで、最後尾の2番ニコロウェーブが上がってくる、あーっと!1番オートハイエースと接触してしまった!』
「なるほど…アラはストレートが遅いから、他のウマ娘を風よけに使ってる、でも、そのウマ娘がふらついたり、ぶつかったりして前が塞がれると、共倒れになってしまう…つまりアラはチハの後ろにつくことで、それを回避したってことか」
「そうだ、そう言えば、チハも差しだろう?」
「ああ、対決は最後の200m…ってことか」
「そうなると…嬉しいんだがねぇ…」
慈鳥は向正面を駆け抜けるアラビアントレノらを見つめ、そう呟いた。
(最後の200メートル…最後の末脚、キングチーハーの名前の通り、120
コースを走るキングチーハーは最後の200メートルに備え、末脚を使う準備をした。
(チハが行くより先に…外から差す)
そして、アラビアントレノはキングチーハーが仕掛けるより先に外から仕掛ける準備をしていた。
『レースは終盤、最後のコーナー、第3第4コーナーです!先頭二人、厳しいか!?』
先頭二人は明らかにスタミナを消耗している、コーナーで欲張りすぎたか。
『もうすぐ第4コーナーカーブを抜ける、最後の直線、およそ200m!』
「駄目ぇ〜!」
「クッソ〜!」
………!
『7番ホローポイント、3番カロラインシチー!後続にどんどん詰められている!』
……スタミナ切れなら、コーナーの出口でなってほしいのに…!
コーナーの途中で落ちてきたら…
『4番ニシノプリースト、6番スーパーシャーマン、どうするのかで一瞬迷った!バラけて若干後ろへ!』
まずい、外から差せなくなる!
でもまだ隙間が……今!
私は脚に力を込め、チハの横に出る。
バッ!
『ここでキングチーハー抜け出した、ゴールへ向かって
加速の差が…加速の差が……加速の差がっ……!
『キングチーハー!差し切ってゴール!!我慢の末、デビュー戦を制しました!!1番人気の期待に応え!夢への第一歩を今!踏み出しました!』
私は4着でゴールした。
敗因は…位置取りに気をつけるあまり、チハは他のウマ娘より加速が良い事を…忘れてしまったことだ
私は…また…勝てなかった…
悔しい…
掲示板を見上げ、私は拳を握りしめた。
地下バ道を進んでいくと、トレーナーが待っていた。
「アラ」
「ごめん…トレーナー、勝てなかった」
「良いんだ、山の天気のように、何が起こるか分からんもの、それがレースだ…って…おい…その手…」
「…?」
私はずっと握り込んでいた手を開く、自分の爪は皮膚に食い込み、手のひらは鮮血に染まっていた。
「私…こんなに…悔しかったんだ…」
「その気持ちだ、その気持ちで、お前さんはどんどん速くなる」
「……」
「……とりあえず、手をきれいにしてテーピングを巻くぞ、こっち来い」
「……うん」
私はトレーナーについていった。
俺はテーピングを巻いてやり、荷物をまとめて控室を出ようとしていた、だがアラは
「ごめん、ちょっとすぐ戻る」
と言ってどこかに行ってしまった。
コンコンコン
ドアをノックする音が聞こえる。
「居るぞ」
「よう、邪魔するぜ」
入ってきたのは軽鴨だった。
「軽鴨…まずは一勝、おめでとう」
「おう、ありがとう、アラは?」
「ケータイ持ってどっか行った、多分家族に電話してるんだろう」
「そうか、チハからアラへ伝言を預かってる“今日は良いレースをありがとう”とよ、アラに伝えてやってくれ」
「分かった」
「俺からも、一つ先で待ってるぜ、勝てよ…」
「軽鴨…」
「じゃあな」
軽鴨は帰っていった。
「お待たせ」
「ああ、チハから伝言だ“今日は良いレースをありがとう”だそうだ」
「そっか…」
そう答えるアラの顔はどこか嬉しそうに見えた。
帰り道は、レース場から出る車で軽く渋滞になっていた。
アラは助手席で眠っている、俺は今日のレースを振り返っていた。
……今日のレース…スリップストリームは成功したものの、反省点のたくさん残るレースだった。
俺がさっきアラに言ったように、レースとは山の天気のように、何が起こるか分からないもの……俺は、それを自らの死を持って知っていたはずなのに、俺自身がそれを忘れていた。
次は負ける訳には行かない、今回のアラの敗北は、俺の指導不足だ。
俺は前を見る、前の車のブレーキランプが、車内を照らす
この渋滞は、しばらく続くだろう。
つまり、考える時間はある。
俺は次のレースの作戦を練ることにした。