――
糞みてぇな人生だった。
そう吐き捨ててしまえば、それで全部を片づけられる程度には。
幼い頃から
掴みかけたものは、いつもこの手から零れていった。
それでも、何もなかったわけではない。
血の繋がりなどなくとも
その大半を、もう失った。
ひしゃげた装甲の向こうから火花が降り注ぐ。潰れかけた操縦席には血と焼けた金属の臭いが充満し、警告音はとうに意味のある音ではなくなっていた。霞むモニターの中央で、怨敵の機体が逃れようともがいている。
逃がすものか。
脚が動かない。片腕も死んでいる。機体のどこが無事なのか、もう確かめる意味さえなかった。それでも残った腕は動いた。傷つき、砕け、満身創痍になりながら、愛機は最後まで自分の意思に応えた。
巨大な鋏が敵機を捕らえる。
『待て……! 私は――』
モニター越しに響く声を、アキヒロは最後まで聞かなかった。
「生きてりゃ、いいことあるもんだな」
口の端が、血に濡れたまま吊り上がる。
「てめぇを、この手で殺れるとは……!」
残る力のすべてを叩き込んだ。
鋼鉄が軋み、装甲が割れ、怨敵の断末魔が途切れる。それが確かに終わったことを見届けた瞬間、張りつめていたものが切れた。全身から力が抜け、背中が座席へ沈んでいく。
視界の隅で、夕暮れの空が燃えていた。
鉄華団の連中は、逃げ切れただろうか。
ラフタに会えたなら、何と言えばいい。
マサヒロには――。
そこまで考えたところで、遠い昔に聞いた弟の声が蘇った。
『……知ってる? 人間は死んでもね、魂が生まれ変わるって。嘘みたいな話――』
あの時は、そんな都合のいい話があるものかと思った。
だが、もし本当に先に逝った仲間たちが待っているのなら。手土産の一つも持たずに顔を出すよりは、この幕引きも悪くない。
アキヒロは目を閉じた。
最後まで機体を握っていた手から、静かに力が失われた。
P.D.325年。
アキヒロ・アルトランド、愛機ガンダム・グシオンと共に戦場へ沈む。
――――
隙間のない光に、一瞬だけ照らされた気がした。
終わりのない闇を、永遠に漂っていた気もする。
時間も、身体も、自分という輪郭さえ曖昧な世界だった。眠っているようで、眠る者すら存在していない。何も聞こえず、何も見えず、何も感じない。ただ、深く、静かな場所へ沈み続けていた。
その静寂を、不意に苦しさが引き裂いた。
息ができない。
空気を寄越せと身体が叫ぶ。口を開き、がむしゃらに肺へ取り込もうとする。周囲に複数の人間の気配があった。誰かが何かを言っていた。しかし言葉の意味を拾う余裕などない。
喉から迸ったのは、怒鳴り声にも似た泣き声だった。
「元気な男の子ですよ」
安堵した声が聞こえた。
柔らかな何かに包まれ、温かな腕に抱かれる。涙で滲んだ視界の向こうに、泣きながら笑う女の顔があった。
本当に生まれ変わるなどとは、思ってもいなかった。
自分が赤ん坊になっていると気づくまでには、しばらくかかった。
初めは、死にかけた自分を誰かが治療したのだと思っていた。だが、身体はまるで動かず、声を出そうとしても意味のない音しか出ない。以前なら並の大人より頭一つ大きかったはずなのに、視界に入る人間も家具も、何もかもが馬鹿みたいにでかい。
何より、目の前へ持ち上げた自分の手が、信じられないほど小さかった。
その事実を認めた後は、周囲を観察した。
幸いにも、考える力まで赤ん坊に戻ったわけではない。文字を読めるほど身体が育つと、新聞や本、テレビから少しずつ情報を集めた。
ここは地球だった。
ただし、自分が生きていた地球とは違う。
世界地図には覚えのない国境が引かれ、宇宙開発は月の周辺で足踏みしている。火星は人が暮らす土地ではなく、探査機がようやく地表を走った程度の遠い星だった。医療技術も工業技術も、前世の基準から見れば幾分か原始的に映る。
そして何より――あの忌まわしい
それを知った日、幼い身体でテレビの前に座りながら、アキヒロは小さく息を吐いた。胸を撫で下ろすという言葉を、文字どおりの動作で覚えたのも、その時だった。
戦争のない世界ではない。争いも、貧困も、理不尽も残っている。それでも、少なくともこの国では、空から杭が降ってくることも、道端で武装兵に攫われることもないらしい。
そして、この世界にも変わらないものがあった。
「アキヒロ。今日はお母さんとお出かけしましょうね」
自分の名前だった。
偶然にしては出来すぎている。そう思いながら見上げた母の顔は、前世で幼い自分を抱いていた母親と、記憶の中で重なるほどよく似ていた。父も同じだった。
だが、同じ人間ではない。
声も、仕草も、ふとした時に見せる表情も少しずつ違う。前世の両親を思わせる面影を持ちながら、二人はこの世界に生きる別の父と母だった。
初めのうちは、それが怖かった。
また奪われるのではないか。目を離した隙にいなくなるのではないか。幼い身体では二人を守れないことが、どうしようもなく恐ろしかった。
夜中に泣き出すたび、母は何度でも自分を抱き上げた。父は眠そうな顔で湯を沸かし、慣れない手つきで哺乳瓶を作った。誰もアキヒロに何かを要求しなかった。働けとも、戦えとも、役に立てとも言わなかった。
ただ、生きているだけで喜んでくれた。
そんな扱いに慣れるまでには、随分と時間が必要だった。
初めて家の外へ連れ出された日のことを、アキヒロはよく覚えている。
母に乳母車へ乗せられ、住宅街を抜けて商店街へ向かった。歩いているのは母だけだったが、アキヒロにとっては初めて自分の足で知らない土地へ踏み込むような緊張があった。
瞳に映るものすべてが新鮮だった。
道路を走るのはモビルワーカーではなく、小さな自動車。頭上を横切るのは巡航艇ではなく、電線に留まる鳥。街路樹の葉は排気や煤に汚れておらず、風が吹くたび鮮やかに揺れている。
何より、空気がうまかった。
前世の地球や火星に染みついていた、機械油と錆と砂塵の臭いがない。深く息を吸っても胸が痛まず、青い空には軍艦もモビルスーツも浮かんでいなかった。
平和というものは、こんなにも静かなのか。
母は成長の早いアキヒロのためにベビー服を選び、店員と楽しそうに話していた。あれでもない、これでもないと服を胸元へ当てられる時間は、正直なところ退屈だった。だが、自分の服一枚を選ぶために誰かが迷ってくれるという事実は、どこかくすぐったかった。
赤子の体力は思いのほか頼りなく、途中から眠ってしまった。目を覚ました時には買い物の袋が増え、母は家路につこうとしていた。
ふと視線が合う。
どう反応すればいいのか迷った末、アキヒロは笑ってみせた。
「アキヒロはいい子ね。その笑顔を見てると、お母さん、何でもできちゃうわ」
母も笑った。アキヒロを抱き上げ、頬を寄せる。
そのまま何気なく、通りの向こうを指差した。
「ほら。お家の近くに模型屋さんができるんだって。大きくなったら、アキヒロもお父さんとガンプラバトルをするのかな?」
母に釣られて目を向けた。
建物の壁に、新装開店を知らせる大きな看板が掛かっていた。
そこに描かれたものを、忘れられるはずがなかった。
白を基調とした装甲。人の形をしながら、人ではあり得ない巨大な兵器。頭部に備わった二本の角。
外見に多少の違いがあろうと、一目でわかった。
かつて自分と戦場を駆けた相棒。
敵を殺し、仲間を殺し、持ち主さえ呑み込む殺戮機械。
厄祭戦の時代、人類が自ら作り上げた七十二体の悪魔。
――
視線が縫い止められた。
狭い操縦席。焼けた血の臭い。背骨へ突き刺さる痛み。砕ける装甲。マサヒロの声。ラフタの笑顔。次々と記憶が溢れ、現在と過去の境目が消えていく。
呼吸が浅く、速くなった。
小さな胸では抱えきれない感情が、出口を求めて暴れ回る。
そして、まだ言葉を話せない口から、慟哭となって噴き出した。
「どうしたの、アキヒロ? 怖かった? 大丈夫、大丈夫よ」
母が何度あやしても、その声は届かなかった。
アキヒロはただ、泣いた。
敵も味方もいない青空の下で、もう終わったはずの戦場に怯え、疲れ果てて声も出なくなるまで泣き続けた。
――――
それから、十数年が過ぎた。
アキヒロは中学校へ通う年齢になっていた。
この国では、すべての子供が少なくとも中学校を卒業するまで、国の制度によって教育を受けられる。金持ちや特権階級が肩書きを得るための場所ではない。子供が読み、書き、考え、自分の生き方を選ぶために学校がある。
その仕組みを理解した時、アキヒロは耳を疑った。
前世では、辛うじて文字を読めるだけでも恵まれている方だった。計算は弾薬や報酬を数えるため、機械の知識は命を繋ぐために覚えた。知らないことは恥ではなかったが、知らないままでいれば死ぬことがあった。
ここでは違う。
明日の命を心配せず、好きなだけ学べる。
国語も、数学も、歴史も、理科も面白かった。無秩序に見えた世界が、知識を得るたび少しずつ形を持っていく。機械が動く理屈を知り、材料の性質を知り、かつて身体で覚えるしかなかった現象に名前があることを知った。
アキヒロは、自分でも驚くほど勉強へのめり込んだ。
そして、この人生にはもう一つ、信じがたい贈り物があった。
「ただいまー。って、兄ちゃん、また勉強してんのかよ。よく飽きないよな」
弟が生まれた。
名前はマサヒロ。
自分が頼んだわけではない。両親が相談し、選んだ名だった。そして育つにつれ、その顔立ちも、笑った時の癖も、前世の弟に似ていった。
もはや疑う余地はない。
こいつは、弟の生まれ変わりだ。
自分より先に死んだはずの弟が、自分より後に生まれている。
それなら、死んだ順番と、この世界へ生まれ直す順番は繋がっていないのだろう。何年もの隔たりさえ、こちらでは意味を持たないのかもしれない。
ただし、マサヒロは前世を覚えていなかった。
幼い頃のアキヒロは、それを理解できなかったことがある。覚えたばかりの言葉で昔の出来事を尋ね、困惑する弟へ何度も「思い出せ」と迫った。両親は兄が弟へ妙な物語を押しつけていると思い、優しく諭した。
ようやくアキヒロにもわかった。
異常なのはマサヒロではなく、記憶を抱えたまま生まれた自分の方だ。
それからは、何も言わなかった。
前世のマサヒロではなく、今ここにいる弟を見ると決めた。
そう決めたはずなのだが――。
「マサヒロ。お前も遊んでばかりいないで、自由に勉強できる幸せを少しは考えろ」
「やだよ。兄ちゃんみたいなガリ勉筋肉になるくらいなら、ナナホシ模型でガンプラバトルしてた方がましだね」
今のマサヒロは、前世の弟とは違って、年相応に無邪気で、口が達者で、遠慮というものを知らない。
アキヒロが机へ向かっている横で、鞄から一体の模型を取り出し、これ見よがしに突き出してくる。丸みを帯びた緑色の機体だった。
「ほらほら。怖いガンダム様だぞ」
生まれた時は、もう一度会えたことがただ嬉しかった。だが、毎日のようにこれでは話が違う。日課のトレーニングがもたらした成果を、そろそろ兄として直接教えてやるべきかもしれない。
椅子を引きかけたところで、台所から母の声が飛んだ。
「こら、マサヒロ! お兄ちゃんが苦手なのを知ってて、どうして見せびらかすの!」
「違いますー。これはガンダムじゃなくてカプルですー」
「そういう問題じゃありません!」
空気が震えた。
さすがのマサヒロも母の逆鱗に触れたことを察し、模型と鞄を抱えて廊下へ逃げる。
「母さん、俺は別に――」
「マサヒロッ!」
「宿題やってきまーす!」
扉が閉まる音だけが、やけに元気よく響いた。
アキヒロはため息をつき、怒りの収まらない母をなだめる役へ回った。
「もう。人が嫌がることをわかっててやるんだから。お父さんにも話そうかしら」
「今はもう、見ただけで泣いたりはしない。あれくらいで父さんに叱られたら、あいつもたまらないだろ」
「でもねえ、アキヒロ。あの子、最近は外で遊んでばかりなの。少しはお兄ちゃんを見習ってほしいのよ」
何気ない一言だった。
母に悪意がないことはわかっている。アキヒロを褒め、マサヒロを案じただけだ。
それでも、閉じた扉の向こうで床板が小さく鳴った気がした。
アキヒロは何か言おうとしたが、適切な言葉を見つけられなかった。
結局、その日は何も言えないまま机へ戻った。
この世界に、本物のモビルスーツは存在しない。
この時代の技術では存在し得ない、と言った方が正確かもしれない。モビルスーツも、阿頼耶識も、厄祭戦も、この世界ではすべて画面の中にある架空の物語だった。
だが、その架空の物語は、アキヒロが想像していた以上に深く人々の生活へ根を下ろしていた。
ガンダムを知らない者の方が珍しい。店には模型が並び、街には広告が溢れ、大人も子供も好きな機体や好きな作品について語り合う。ガンプラバトルをはじめとした
自分にとって生き残るために選ばざるを得なかった戦いが、この世界では娯楽だった。
恐怖と弾圧と死の象徴だったモビルスーツが、ここでは夢と憧れの象徴だった。
頭では、それが悪いことではないとわかっている。
子供が笑いながら戦争の真似をできるのは、本当の戦争を知らずに済む世界だからだ。それはきっと、自分たちが命を懸けて手に入れようとしたものに近い。
だが、心は簡単に追いつかなかった。
ガンダムを見るたび、前世に置いてきたはずの傷が疼く。賑やかに語り合う同級生の輪へ入れば、口を開いた拍子に血と硝煙の臭いまで漏れ出してしまう気がした。
だからアキヒロは、周囲から距離を置いた。
元来、口数の多い方ではない。体格も年齢に不釣り合いなほど大きく、無意識に相手を値踏みするような目をしてしまう。友人と呼べる相手は、いつまで経ってもできなかった。
その代わりに勉強し、身体を鍛えた。
集中している間だけは、余計なことを考えずに済んだからだ。
過去から逃げているつもりはなかった。
ただ、振り返らないようにしていた。
その二つが同じことなのだと、アキヒロはまだ認めていなかった。
――――
数日後。
アキヒロは日課のトレーニングのため、近所の公園にいた。
鉄棒へ両脚を掛け、逆さになったまま上体を引き上げる。部活動へ所属しているわけではない。今の世界でこれほど身体を鍛える必要がないことも知っている。
それでも習慣は抜けなかった。
力があれば守れる。
そう信じていた頃の自分が、今も身体の奥に残っている。
何度目かの動作で上体を下ろした時、逆さになった視界の端を、見覚えのある姿が横切った。
道路を挟んだ向かい側にマサヒロがいる。
いつものように友人と模型店で遊んだ帰りかと思ったが、様子がおかしい。マサヒロの前には、自分より幾つか年上に見える少年が三人立っていた。一人が透明なケースを掲げ、マサヒロの手が届かないよう弄んでいる。
「――返せよ! 俺のガンプラ!」
その声だけは、はっきり聞こえた。
思考より先に身体が動いた。
腹筋の力だけで身体を跳ね上げ、鉄棒から両脚を外す。着地の反動を殺さず、そのまま地面を蹴った。車のないことを一瞥で確かめて道路を横切る。
次の瞬間には、ケースを持った少年の胸ぐらを掴み、その身体を持ち上げていた。
「……俺の弟に、何か用か?」
少年の靴底が地面から離れる。
取り巻きが二人いた。だが、数は問題にならない。身体の鍛え方が違う。潜り抜けてきた修羅場が違う。殺さず、後遺症も残さず、二度と弟へ近づけない程度に痛めつける方法が、頭の中でいくつも組み上がる。
「な、何だよ、てめぇ……!」
少年の顔から血の気が引いていた。
三人がかりで弱い者を囲む人間の言葉など、聞く必要はない。
掴んだ手へ力を込める。
「兄ちゃん、駄目だ!」
意外な方向から制止が飛んだ。
振り向くと、マサヒロが焦った顔でアキヒロの腕を掴んでいる。
意味がわからなかった。
弟を守るために動いただけだ。殺すつもりなどない。この世界の人間がどの程度で壊れるかも、今では理解している。
アキヒロが訝しげに見下ろすと、マサヒロは絞り出すように言った。
「今回は、アストンのガンプラも人質に取られてるんだ! それに兄ちゃんがそいつを殴ったら……推薦はどうするんだよ!」
握った拳が、止まった。
――――
俺は、兄を尊敬していた。
物心がついた時から、兄は大きかった。
身体が大きいというだけじゃない。勉強ができて、力が強くて、父さんと母さんを困らせることもない。口数は少ないけれど、俺が転べば真っ先に手を差し出し、誰かにいじめられれば必ず見つけ出して助けてくれた。
どんなに困ったことが起きても、兄ちゃんなら何とかしてくれる。
昔は、本気でそう思っていた。
大きくなったら兄ちゃんみたいになりたいと、何の疑いもなく言っていた。
いつからだろう。
追いかけていたその背中が、苦手になったのは。
「アキヒロは同じ頃には、もう一人でできたのに」
「お兄ちゃんを少し見習いなさい」
「マサヒロも、やればできるはずよ」
父さんも母さんも、俺を嫌っているわけじゃない。
そんなことはわかっている。むしろ大事にされている。欲しいものを買ってもらい、腹いっぱい飯を食べさせてもらい、学校にも通わせてもらっている。
だからこそ、何気ない比較が苦しかった。
俺だって何もしていないわけじゃない。勉強も運動も、友達の中ではよくできる方だ。それでも、同じ年齢だった頃の兄と比べられれば一段も二段も落ちる。
兄は俺を責めなかった。
それが余計に辛かった。
ぶっきらぼうな声で「無理するな」と言われるたび、隣に並べてもいない自分を慰められているような気がした。兄に悪気がないと知っているから、怒ることもできなかった。
その兄にも、一つだけ苦手なものがあった。
ガンダムだ。
嫌いなのか、怖いのか、その理由は知らない。
ただ、兄は生まれてから一度も、ガンダムと名のつくものへ自分から触れようとしなかったらしい。母さんによれば、赤ん坊の頃は名前を聞いただけで泣き出し、モビルスーツの絵が印刷された服や玩具、テレビ番組、果ては短いCMにまで怯えたという。
俺が小さい頃には、家へガンダムを持ち込むこと自体が禁じられていた。
友達の家にある玩具を羨ましいと思っても、兄が泣くから駄目だと言われた。
今では兄も騒いだりしない。けれど、自分から見ようとはしない。誰かが話題にすれば、何も言わずその場を離れる。
ガンプラバトルをしない人間なら珍しくない。操縦が苦手だから。作った模型を傷つけたくないから。興味がないから。理由はいくらでもある。
だが、この世界で生きていれば、一度くらいはガンダムに触れる。
触れたうえで好きになるか、嫌いになるかを決める。
兄は違った。
まるで、触れれば何かを思い出してしまうように、最初から避け続けていた。
だから俺はガンプラを始めた。
兄が絶対に入ってこない場所だったからだ。
家の近くにナナホシ模型ができたのは好都合だった。作って、戦わせて、壊されれば直す。そこでなら、俺は誰かの弟ではなく、一人のファイターでいられた。
鬱憤をぶつけるような戦い方だったと思う。
相手の武器を折り、腕を飛ばし、動けなくなるまで徹底的に叩く。ガンプラバトルは互いの機体をぶつけ合う競技なのだから、壊すこと自体は悪くない。店長も「思い切りがいい」と笑って受け止めてくれた。
けれど、壊された側が同じように笑ってくれるとは限らなかった。
今回の連中も、その一つだった。
再戦を持ちかけられ、負けた方のガンプラを預けるという条件を呑んだ。自分なら勝てると、意地になった。
そして負けた。
取り返そうとしてもう一度戦い、今度はアストンまで巻き込んだ。
兄には、絶対に知られたくなかった。
なのに、こういう時だけは必ず来る。
俺がどれだけ遠ざかろうとしても、兄は昔と変わらず、俺を守るために駆けつけてしまう。
――――
マサヒロの言葉で、頭へ昇っていた血が僅かに下がった。
高校受験を間近に控えたアキヒロには、成績と運動能力を評価した特待生の推薦が来ている。ここで暴力事件を起こせば、それを失う可能性は高い。
それ以上に聞き逃せない言葉があった。
「
マサヒロが目を逸らした。
アストンというのは、弟が模型店で知り合った友人の名だ。弟だけでなく、その友人のガンプラまで奪われている。そして今回という言葉は、同じことが以前にもあったという意味だ。
浮き上がった血管が、こめかみで脈打った。
怒りは消えない。
だが、向ける先を間違えれば、傷つくのはマサヒロだ。
数瞬の間に考えを巡らせていると、胸ぐらを掴まれた少年が、震える声で割り込んできた。
「ま、まあ、落ち着けって。あんた、こいつの兄貴なんだろ? 暴力は……まずいよな?」
腹は立つが、言わんとすることはわかる。
何より、弟たちが時間をかけて作ったものが相手の手にある。
アキヒロは模型の作り方を知らない。それでも、苦労して作り上げたものを失う悔しさなら知っていた。一度壊れたものは、直したところで同じ形には戻らないことも。
掴んでいた手を緩め、少年を地面へ下ろす。
「……どうすれば返す」
少年は乱れた襟元を直しながら、背後の二人と目配せした。恐怖が残っているくせに、こちらが殴れないとわかった途端、口元へ下卑た笑みを戻す。
「俺はガンプラバトルでこいつに勝って、正々堂々そいつを預かったんだ。返してほしけりゃ、あんたも俺と戦え」
マサヒロの顔から血の気が引いた。
「こいつ、家じゃ優秀な兄貴の話ばっかりされるらしいじゃん? そんな立派な兄貴なら、弟の尻拭いくらい簡単だろ」
なるほど、とアキヒロは思った。
こいつはマサヒロから自分のことを聞いている。あるいは、マサヒロが周囲と話す言葉の端々から拾ったのだろう。ガンダムへ触れようともしない兄が、弟を助けるために何をするか。初めから見世物にするつもりなのだ。
「まあ、ガンプラバトルができればの話だけどな!」
取り巻きが笑った。
安い挑発だった。
だが、弟の背後に隠れているだけでは、守れるものも守れない。
「わかった」
「兄ちゃん!」
「俺が勝ったら、マサヒロとアストンのガンプラを返せ。それだけじゃない。お前らが今まで同じやり方で奪った分も、全部だ」
漏れ出した怒気に、三人が僅かに後ずさった。
それでも先頭の少年は、虚勢を張るように顎を上げた。
「あんた、初心者なんだろ。準備する時間くらいはやるよ。一か月後、ナナホシ模型で試合だ」
「一か月だな」
アキヒロは相手の目を見据えた。
「逃げるなよ」
少年は返事をせず、仲間と共に立ち去った。
姿が角の向こうへ消えるまで見届けてから、アキヒロは深く息を吐く。
「面倒くせぇことになったな」
「め、面倒くせぇじゃないだろ! どうすんだよ! 兄ちゃん、ガンダム駄目じゃんか!」
緊張が切れたのか、マサヒロが怒濤の勢いで詰め寄ってくる。
言っていることは正しい。
アキヒロにガンプラバトルの経験はない。ガンプラを作ったことさえない。自分が負ければ、マサヒロだけでなくアストンの機体まで戻らない。
頭に昇った血が冷めるにつれ、状況が芳しくないことはよくわかった。
それでも、不思議と後悔はなかった。
弟を助けるためだけではない。
いつかは向き合わなければならないと、ずっと知っていた。
ガンダムを見るたび、過去の傷が開くと思っていた。だから、触れず、見ず、考えずに済む場所へ逃げ込んだ。勉強と鍛錬を言い訳にして、周囲と自分の間へ壁を築いた。
その壁が、いつの間にかマサヒロまで遠ざけていた。
今の弟を守るつもりでいながら、自分は前世の弟の影ばかりを見ていたのかもしれない。
「そろそろ、向き合うべきだと思ったんだ」
アキヒロは、はっきりと口にした。
「――『ガンダム』とな」
マサヒロが目を見開いた。
「兄ちゃん……」
「一か月ある。考えてるだけなら短いが、動くには十分だ。まずは練習するぞ」
「今から?」
「当たり前だ。ほら、突っ立ってないで案内しろ。
歩き出したアキヒロの背中へ、マサヒロの呆れた声が追いついた。
「……兄ちゃん。その前に、シャツくらい着てくれ」
トレーニング中だったため、上半身が裸であることを完全に失念していた。
――――
一度家へ戻り、シャツを着た。
母には近所を走ってくるとだけ告げた。マサヒロが何か言いたそうにしていたが、今は余計な説明をして話を大きくする必要もない。一か月後、きちんと取り返してから話せばいい。
そうして訪れたナナホシ模型の前で、アキヒロは足を止めた。
赤ん坊の頃、看板を見ただけで泣き叫んだ店だった。
何度も前を通っている。避けて遠回りしたことも、一度や二度ではない。マサヒロが通い始めてからは、店の場所を意識しないふりをすることの方が難しかった。
入口のガラス戸には、色とりどりのモビルスーツが描かれている。
昔のように呼吸が乱れることはなかった。
それでも、胸の奥に硬いものが引っかかった。
「……入らないのか?」
先に扉へ手を掛けたマサヒロが、こちらを窺っている。心配しているのか、試しているのか。その両方なのかもしれない。
「入る」
短く答え、アキヒロは自分の手で扉を開いた。
軽快なベルの音が鳴る。
最初に鼻へ届いたのは、紙と塗料と樹脂の臭いだった。
次に、色彩の洪水が目へ飛び込んできた。
右を向いても、左を向いてもモビルスーツ。壁一面に積み上げられた箱には、様々な姿の機体が描かれている。白いもの、黒いもの、巨大な翼を持つもの。武骨な量産機もあれば、装飾過多にしか見えない機体もある。完成品を収めたガラスケースは店の奥まで続き、頭上からは宇宙を飛ぶ姿勢で固定された模型がこちらを見下ろしていた。
これほど多くのモビルスーツに囲まれながら、誰も怯えていない。
子供は棚の前で目を輝かせ、大人は真剣な顔で塗料の瓶を選んでいる。聞こえるのは悲鳴でも警報でもなく、どの機体が強い、どの改造が格好いいという楽しげな会話だった。
異様な光景だった。
同時に、少しだけ羨ましいとも思った。
「兄ちゃん、顔が怖い」
「元からだ」
「それもそうか」
「殴るぞ」
「推薦」
アキヒロは黙った。
調子を取り戻した弟を横目に、店内を見渡す。何から手をつければいいのか、本当にわからない。
「マサヒロ。試合ってのは、どこでやるんだ?」
「はあ? 兄ちゃん、まさかGPベースも知らないのか?」
マサヒロは大袈裟に頭を抱え、それから店の奥を指差した。
少し広く取られた空間に、六角形の台が複数並んでいる。今は一台だけが起動しており、青白い光の粒が薄い膜のように盤面を覆っていた。その中央で、一体の模型が生き物のように動いている。
「あれがバトルシステム。作ったガンプラと、自分の情報を入れたGPベースをセットする。そうすれば、プラフスキー粒子がガンプラを動かして、フィールドの中で戦えるんだ」
「あの光る粒が?」
「詳しい理屈は俺も知らない。けど、作り方と操縦で本当に性能が変わる。ここはそのためにできたって言ってもいい店なんだ。この辺じゃ一番でかいバトルシステムがあるんだぜ。な、店長!」
マサヒロが声を掛けると、光の向こうに立っていた男がこちらを向いた。
背が高い。
アキヒロと並んでも、ほとんど差がないだろう。金色の髪を流した端整な顔立ちと、独特な緑の瞳。身なりも立ち居振る舞いも、この町の模型店主という言葉から想像する姿とは幾分かけ離れている。
そして何より、その顔は忘れようにも忘れられない男に似ていた。
マクギリス・ファリド。
一瞬、身体が強張った。
しかし、よく見れば似ているだけだ。
顔立ちは驚くほど似ているが、纏う空気はまるで違う。目の前の店長は、白く塗装した模型を子供のように愉快そうな顔で動かしていた。その視線には策略も野心もなく、ただ好きなガンプラを動かせる喜びしか浮かんでいない。
「やあ、マサヒロ君。今日はもう帰ったものだと思っていたが、随分と珍しい人を連れてきたようだね」
柔らかな口調だった。
「うん。まあ、いろいろあってさ。前に話してた兄ちゃんが、ガンプラバトルをすることになったんだ」
「なるほど。では、君が例のガンダム嫌いのお兄さんか」
初対面の人間にまで、そんな紹介をされていたらしい。
「……嫌いってわけじゃねぇ。…ないです。少し、触れてこなかっただけで」
「それは失礼した」
店長は悪びれることなく微笑んだ。
「君がなぜガンダムを避けてきたのかは、私にはわからない。事情を聞き出すつもりもないよ。ただ、今日ここへ来たということは、避け続けるつもりもないのだろう?」
「はい」
「ならば歓迎しよう。もっとも、マサヒロ君の様子を見るに、楽しいだけの事情ではなさそうだが」
マサヒロが気まずそうに目を逸らす。
店長は深く追及せず、アキヒロの身体つきと手を観察した。値踏みというより、新しいガンプラを前にした時と同じ、好奇心を隠しきれない視線だった。
「君がどのような人間なのか、まずは知りたい。よければ私と一度、手合わせをしてくれないか」
「今からか。……ですか?」
「もちろん。機体なら店頭サンプルを貸そう。素組みだが、基本工作は済ませてある。好きなものを選ぶといい」
店長はポケットから鍵を取り出し、ガラスケースを開いた。
話が早い。
ガンプラをどう操るのか確かめるには丁度いい。アキヒロは、整然と並べられた機体を端から見ていった。
白い角を持つ機体が、何十、何百と並んでいる。
その中から、無意識に一つの姿を探していた。
丸みを帯びた重装甲。巨体に似合わぬ獰猛な動き。やがて装甲を換え、背中へ二本の副腕を備えた、緑色の機体。
弟を殺し、敵を殺し、最後には自分と運命を共にしたガンダム。
因縁や相棒という言葉だけでは、とても言い表せない。
「あの」
自分でも驚くほど自然に、その名前が口から出た。
「『グシオン』って機体は、ねぇのか?」
マサヒロが聞いたことのない名に首を傾げる。
店長は記憶を探るように僅かに目を細めたが、やがて首を横へ振った。
「いや。少なくとも、私が知るガンダムシリーズに、その名を持つ機体は存在しないな」
「……そうか」
予想していた答えだった。
この世界に、自分の戦ったガンダムはない。
寂しさに似た感情が胸を過ぎる。あれほど忌み嫌った機体を、存在しないと告げられて残念に思う自分が、アキヒロには少し可笑しかった。
「じゃあ、こいつを借りる。…ます」
目の前にあった機体を手に取る。
全身を厚い装甲で覆った、ずんぐりとした大型機だった。頭部こそ小さいが、胴体も脚も太く、何より腰の装甲が異様に大きい。
マサヒロが機体と兄の身体を見比べ、妙に納得した顔をした。
「ジ・Oか。似合いすぎだろ」
「どういう意味だ」
「いや、何でもない」
――――
ガンプラを所定の位置へ置き、借りたGPベースを差し込む。
アキヒロが操作盤の前へ立つと、周囲の空気が微かに震えた。
『Beginning Plavsky particle dispersal』
無機質な音声と共に、青い光の粒が盤面へ満ちていく。
『Field 2, Space』
光の内側に、暗い宇宙が生まれた。
小惑星が浮かび、遠い恒星が瞬いている。作り物だとわかっているのに、その奥行きはモニター越しに見た宇宙と変わらない。
『Please set your GUNPLA』
対面の店長が、一体の機体をセットした。
白く塗装されたモビルジン。量産機を基にしているようだが、全身へ細かなスラスターが増設され、腰には黄金色の剣を二振り装備している。
白い機体と、金の剣。
胸の奥を、説明しがたい既視感が掠めた。
「準備はいいかい?」
「いつでもいい。始めてくれ」
『Battle Start』
ジ・Oの足元から宇宙が広がった。
操縦桿を握ったわけでも、阿頼耶識を繋いだわけでもない。目の前へ展開された操作インターフェースへ手を置き、動かしたい方向を入力する。
それだけで、離れた場所にいる模型が動いた。
反応は思ったより鈍い。
機体の重さ、関節の抵抗、作り手の癖。情報が神経へ直接流れ込む阿頼耶識とは違い、操作と結果の間に薄い膜が一枚挟まっている。
だが、わからないほどではない。
右脚を踏み込み、機体を前へ出す。姿勢が僅かに崩れた。腰部の重量に上半身が振られている。ならば推進器の出力を左右でずらし、旋回へ重さを利用する。
二度、三度と動かすうち、ジ・Oの重心が手に取るようにわかってきた。
「ほう」
店長が小さく声を上げる。
直後、白いジンが動いた。
全身のスラスターが光を噴き、黒い宇宙へ白い軌跡を描く。加速は鋭い。正面から来ると見せかけ、小惑星の陰へ潜り、視界から消える。
警告音。
アキヒロは考えるより先にジ・Oを沈めた。
頭上を金色の刃が走る。
避けた先へ、もう一振りが待っていた。大型ビームライフルを盾代わりに差し込み、受ける。衝撃が機体の腕を伝い、操作盤を通して掌へ震動となって返ってきた。
痛みはない。
血も流れない。
それでも、自分の動きに合わせて巨大な機体が戦う感覚だけは、確かにあった。
「君はなかなか筋がいい。本当に初めてかい?」
問い掛けと同時に、ジンが刃を滑らせる。
力を正面から受ければ、速度で劣るジ・Oは崩される。アキヒロは接触面を僅かに傾け、斬撃を肩装甲の外へ逃がした。そのまま巨体を回転させ、背中からぶつける。
ジンは推進器を瞬かせ、衝突の直前に離脱した。
「ああ。ガンプラバトルは――初めてだ」
ジ・Oがライフルを撃つ。
光弾は回避された。だが、当てるためではない。回避先を限定し、小惑星帯へ追い込む。
「弟からもッ、…ほとんど聞いてねぇ」
「そうか。それは実に――素晴らしい!」
店長の声が弾んだ。
ジンは小惑星の隙間を縫い、舞うように飛ぶ。増設された推進器が一つずつ異なる光を放ち、機体を無理やり捻り上げる。直線の速さだけではない。上も下もない宇宙で、白い機体だけが重力から解き放たれているようだった。
速い。
だが、見失いはしない。
黒い宇宙では、白い装甲がよく目立つ。何より、推進光が次に進む方向を教えている。
ジンが距離を詰め、右の黄金剣を振りかぶった。
その肩が、直前に僅かに沈む。
フェイント。
アキヒロはライフルを向けながら、照準を機体ではなく左の空間へずらした。
予想どおり、ジンの姿が正面から掻き消える。
左側面に警告表示。
金色の一閃が走った。
ジ・Oの左腕では間に合わない。
それでもアキヒロは、反射的に「腕」を動かしていた。
腰部装甲が開く。
その内側から、格納されていた副腕が飛び出した。握られたビームサーベルが金色の剣を受け止め、閃光が宇宙を白く染める。
店内のあちこちから声が上がった。
「隠し腕を――!」
驚いたのは店長だけではない。
アキヒロ自身も、ジ・Oの腰から伸びた腕を見て目を見開いた。
機体の構造など知らない。副腕があることさえ知らなかった。
だが、四本目の腕を動かす感覚は、身体の奥へ最初から刻まれていたかのように自然だった。
「マジかよ。こいつも四本腕か」
口元が、知らず吊り上がる。
「らしくなってきたじゃねぇか!」
もう片方の腰部装甲も開く。
二本の主腕。二本の副腕。
四つの腕が、それぞれ別の意思を持つように動き始めた。
ビームサーベルを抜き、斬り上げる。ジンがかわした先へ副腕の刃を突き出す。受け止められれば反対の主腕で押し込み、残る腕のライフルで退路を塞ぐ。
戦場で身につけた動きだった。
相手が避ける場所。攻撃へ移る前の一瞬の溜め。機体が限界へ近づいた時に発する僅かな軋み。そうしたものが、模型を通してもはっきりと見える。
ジンの二本の剣と、ジ・Oの三本の光刃が衝突する。
一撃ごとに粒子が弾け、宇宙を照らした。
アキヒロは気づいていなかった。
いつの間にか、周囲へ客が集まっていることに。
初めて見る少年が、四本の腕を完全に独立させ、店長を相手に一歩も退かず戦っている。誰もが作業の手を止め、青い光の向こうを見つめていた。
アキヒロの耳にも、歓声は届いていなかった。
楽しかった。
それを認めるまでに、時間はかからなかった。
誰も死なない。
装甲を斬られても血は流れず、操縦席を貫かれても遺体は残らない。それでも互いの技量をぶつけ合う緊張と、機体が意思へ応える高揚は本物だった。
こんな戦いがあるのか。
戦うことを、楽しいと思ってもいい場所が。
「すまない」
激しい斬撃を受け流しながら、店長が言った。
「私としては、もう少し君と遊んでいたいのだが――どうやら、時間切れだ」
白いジンの
次の瞬間、それまでの動きが児戯に思えるほどの加速を見せた。
速い、という認識さえ遅れてくる。
警告音が鳴った時には、ジンはジ・Oの背後へ回っていた。
黄金の剣が右から振り抜かれる。
アキヒロは主腕と副腕、二本のビーム・ソードを重ねて受けに回した。
刃が触れる――その寸前。
ジンの腕が止まった。
剣を振ったのではない。
振ると見せて、さらに深く振りかぶったのだ。
「何っ――」
左右の推進器が逆方向へ火を噴く。白い機体が軸を中心に反転し、二振りの黄金剣が、アキヒロの防御した側とは正反対から襲いかかった。
残る腕を回す。
間に合わない。
刃がジ・Oの腕を断ち、そのまま胴体を深々と斬り裂いた。
一瞬の静寂。
遅れて爆発が起こり、巨体が光の中へ消えた。
『Battle Ended』
システムの音声を合図に、店内が沸いた。
「やっぱり店長、強え!」
「でも、あっちの兄ちゃんも何者だよ!」
「初心者って言ってなかったか?」
「嘘だろ。俺より絶対強いぞ、あれ」
客たちの声が、今度ははっきり聞こえた。
アキヒロは操作盤へ手を置いたまま、荒くなった呼吸を整えた。額から汗が流れている。身体を動かしたわけではないのに、激しい訓練を終えたような疲労感があった。
そして胸の奥には、敗北への悔しさと、それ以上に強い熱が残っていた。
気分は、悪くなかった。
むしろ――。
「兄ちゃん」
横を見ると、マサヒロが呆然としていた。
「本当に、初めてなんだよな?」
「何度もそう言ってるだろ」
「じゃあ、あれ、どうやったんだよ。隠し腕を全部、自分で……」
「知らん。動かしたら動いた」
「そんな説明で納得できるか!」
いつもの調子で噛みついてくる弟の顔は、どこか嬉しそうに見えた。
粒子が薄れ、作り物の宇宙が消えていく。
向こう側から店長が歩み寄ってきた。
「試すような真似をして、申し訳なかった」
そう言って右手を差し出す。
「本当はもう少し続けたかったのだが、見てのとおり客人が増えてしまってね。だが、実に素晴らしい操縦だった。機体の知識も、ガンプラバトルの経験もない。それであれほど動かせるとは」
アキヒロはその手を見た。
戦場では、戦いの後に相手と握手することなどなかった。
勝った者が生き、負けた者が死ぬ。それだけだった。
目の前の男は自分を倒した。それでも、敵ではない。次に会った時、どちらかが死ぬまで殺し合う必要もない。
アキヒロは差し出された手を握り返した。
「……ああ。俺も楽しかった。……です、店長さん」
言ってから、相手が年上であることを思い出し、慣れない敬語を継ぎ足した。
店長は愉快そうに笑った。
「その感想が聞けただけでも、誘った甲斐があった。ぜひ、また手合わせを願いたい」
「次は負けねぇ。……ません」
「そうでなくては」
握手を解くと、店長はガラスケースと商品棚を示した。
「初めてのバトルを記念して、この店の商品を一つ進呈しよう。好きなものを選ぶといい」
「いいのか?」
「構わない。将来有望なファイターへの、店長としての先行投資だ」
隣でマサヒロの目が輝いた。
「兄ちゃん! あれ! あそこのPGユニコーン! でかいやつ!」
「お前が選ぶんじゃない」
「俺が組み立て方を教えるから! 実質二人のものみたいな――」
「ならない」
マサヒロを片手で押しのけ、アキヒロは商品棚へ向かった。
先ほど使ったジ・Oを選ぶ手もある。自分の動きに合っていたし、そのまま練習へ使える。強い機体が欲しいだけなら、店長やマサヒロに尋ねればいい。
だが、それでは駄目だった。
グシオンは、この世界に存在しない。
ならば――。
「そういえば、店長さんの機体は随分と手が加えられていました」
アキヒロは白いジンを見ながら尋ねた。
「ガンプラバトルでは、やっぱり改造した方がいいのか。……ですか?」
「もちろんだとも」
店長は待っていたとばかりに頷いた。
「ガンプラの性能は、作り手の技術と発想に大きく左右される。丁寧に組み、可動を確保し、目的に合った調整を施す。同じ機体を使っても、作る人間が違えば性能も戦い方も変わる。互いの操縦技術が同じなら、『戦いは始まる前に終わっている』ということさ」
「作った段階で決まるのか」
「そうだ。もっとも、今日の君のように、機体性能の差を操縦で食い破る例外もいるがね。だが、君が自分のために機体を作れば、さらに強くなる」
作り手によって、同じ機体でも違うものになる。
その言葉が、胸の奥へ落ちた。
以前の自分は、与えられた機体へ乗った。
整備を手伝うことはあっても、その姿を自分で選んだわけではない。戦うために必要な力として受け取り、生き残るために使った。
だが、この世界では違う。
自分の手で形を作り、自分が望む力を与えられる。
アキヒロは完成したガンプラが並ぶ棚を離れ、工作材料の一角へ向かった。
白いプラ板。太さの違う棒材。関節用のパーツ。造形用のパテ。工具。店長へ一つずつ用途を尋ね、必要になりそうなものを机の上へ並べていく。
マサヒロの顔が、選ぶたびに青ざめていった。
「兄ちゃん。まさか……」
「店長さん。商品一つってのは、どこまでが一つなんだ。……ですか」
「ふむ。そこまで見せられては、材料一式を一つと数えないわけにはいかないな」
「店長まで何言ってんだよ!」
マサヒロの悲鳴に、店内から笑いが起こる。
カウンターの奥にいた黒髪の従業員が、呆れたように店長へ声を掛けた。
「店長。また自分の給料から差し引くつもりですか。気に入ったファイターに商品を渡すのは、あまり公平とは言えませんよ」
「そう固いことを言うな、イスルギ。彼が初めて自分からガンダムへ触れた日なのだ。これくらいの祝いは許されるだろう」
「しかし、よりによって完成品ではなく、材料だけとは」
イスルギと呼ばれた男は、アキヒロの選んだ品を見下ろした。
「一か月後に試合があるのでしょう。素体もなしに、一から作るつもりですか?」
「そのつもりだ。……です」
アキヒロが答えると、イスルギは僅かに目を見開いた。
店長だけは、最初からわかっていたように微笑んでいる。
「いいだろう。材料だけでなく、必要な工具も貸そう。作業ブースは好きに使ってくれ。わからないことがあれば、私かイスルギへ聞くといい」
「随分と親切なんだな」
「私はただ、見てみたいのだよ」
緑色の瞳が、アキヒロを真っ直ぐに見つめる。
「今までガンダムへ触れようとしなかった君が、自らの手でどんなガンダムを作るのかを」
その目にあるのは、まだ見たことのないガンダムを誰より早く見たいという、模型好きとしての純粋な期待だけだった。
前世の男と同じ顔で、随分と無邪気なものだ。アキヒロは僅かに肩の力を抜いた。
「期待に添えるかは、わからねぇ。……わかりません」
アキヒロは積み上げられた材料へ手を置いた。
「でも、作るなら俺のガンダムにする」
――――
家へ戻るなり、アキヒロは机の上を片づけた。
教科書と参考書を端へ寄せ、代わりに方眼紙を広げる。鉛筆、定規、コンパスを並べ、ナナホシ模型の袋から材料を取り出した。
マサヒロは部屋の床へ仰向けに転がり、天井を見つめている。
「なあ、兄ちゃん。やっぱり今からでも店に戻って、変えてもらおうぜ」
「何をだ」
「全部だよ。普通のガンプラを一個選ぼう。悪いこと言わないから。店長なら今からでも交換してくれるって」
アキヒロは返事をせず、方眼紙へ一本目の線を引いた。
頭の中には、かつての機体の輪郭がある。
細部まですべて正確に覚えているわけではない。だが、操縦席から見えなかった部分も、整備を手伝う中で何度も目にした。装甲の厚み。肩と腕の接続。脚部が重量を受け止める構造。背中に収められた副腕の動き。
そして今は、それを形にするための知識がある。
数学で学んだ比率。技術科で引いた図面。理科で覚えた力点と重心。前世では生き残るために身体へ叩き込んだ機械の感覚。
これまで学んできたことが、一本の線へ繋がっていく。
「絶対、PGのユニコーンをもらった方がよかったって。売れば材料なんか何倍も買えたぞ」
「それはお前が欲しかっただけだろ」
「ちょっとはそうだけどさ!」
アキヒロは次の線を引いた。
輪郭は、まだ何にも見えない。
それでも自分には、完成した姿が見えていた。
「一か月しかないんだぞ。ガンプラを作ったこともないのに、プラ板とパテから全部作るなんて無茶だ。フルスクラッチなんか絶対に間に合わない!」
マサヒロの声には、呆れだけではなく焦りが混じっていた。
自分とアストンの機体が懸かっている。兄が負けるところを見たくないという気持ちも、僅かにはあるのかもしれない。
アキヒロは鉛筆を止めた。
「マサヒロ」
「何だよ」
「お前のガンプラを取り返すのは、俺が勝手に決めたことだ。だから、俺がやる」
「……うん」
「だが、作り方は知らねぇ。明日から教えろ」
マサヒロが起き上がった。
驚いた顔で兄を見る。
アキヒロは方眼紙へ視線を戻したまま続けた。
「お前は俺より長くガンプラをやってる。俺が知らないことを知ってる。だから力を貸せ」
言葉にすれば、それだけのことだった。
けれどアキヒロは、これまで弟へ何かを教えようとはしても、弟から教わろうとしたことがなかった。
しばらく返事がない。
聞こえなかったのかと思い、アキヒロが顔を上げる。
マサヒロは何とも言えない顔をしていた。笑いそうになった口元を、無理やり引き締めている。
「……仕方ないな。兄ちゃん、ニッパーの使い方も知らないもんな」
「馬鹿にしてんのか」
「事実だろ。最初から俺の言うこと聞けよ」
マサヒロは床から立ち上がると、机の横へ椅子を運んできた。
「まず、いきなり図面を引く前にさ――」
狭い机へ、兄弟二人が並んだ。
アキヒロはマサヒロの説明を聞きながら、再び鉛筆を動かした。
猶予は一か月。
長くはない。
だが、前の人生では与えられなかったものが、今の自分にはある。
学ぶ時間がある。
作るための手がある。
隣には、守るだけではなく、頼ることのできる弟がいる。
この世界にグシオンは存在しない。
ならば、自分でこの世界へ生み出せばいい。
かつてのガンダムを、そのまま蘇らせるためではない。
過去に蓋をして逃げ続けた自分を終わらせるために。
「安心しろ」
アキヒロは、まだ白い方眼紙を見据えた。
「
一本、また一本と、線が重なる。
それはまだ、誰にも名前を呼ばれていない機体だった。
同時に、今まで過去へ背を向けていたアキヒロ自身が、自らの手で選び直す新しい姿でもあった。
死んで、生まれ直しただけでは足りない。
ここからようやく、アキヒロ・アルトランドは本当の意味で――