殺人を強要されている内に快感を覚えてしまう清純乙女『風』 作:乙女竜
尋問室から隠し通路を通って礼拝堂に向かう途中、
少女は私が驚いている間に手に一冊の本を押し付けると、そのまま痕跡すら伴わず風のように姿を消した。渡される寸前まで違和感を察知できなかったのは決して老化の所為ではない。侵入者をその場で圧死させる秘匿の回廊は最後まで反応する事はなく、急いで振り返った私の視線の先にも、薄暗い道が続いているだけだった。
手元の本には、走り書きのメモが添えられていた。
『フィリアについて。今の私は自由に動けない。誰にも見つからない場所で読め』
気がつけば、一も二もなく鍵付きの部屋でその本を開こうとしていた。
忘れもしない、傷だらけの子供。
ホワイト・クロスがあんな組織だと知ったのは、デクタス暗殺の一件で内部分裂が加速してからだった。
彼女は人殺しを強いられている。
私はギルテを殴りつけて、フィリアを連れて逃げようとした。果たしてもぬけの殻だった廃墟同然の白布棟で、後をつけてきたギルテが口の端の傷を気にもせず『正しき教会の為だ』と言った。
おぞましい執念が瞳の内に渦巻いていた。
フィリアの本当の居場所は何者かのスキルで巧妙に隠されているのだろう、どれだけ探しても見つからなかった。毎月のように存在がなかった事になる聖職者や、忌み人であった事が発覚する市民の死体に彼女の苦しみを見た。磔で晒され石を投げられる子供を、彼女が手にかけているかもしれなかった。
誰も殺していないという可能性は薄い。差別の中に生きるだけでなく、殺人の咎まで負わせてしまった。今更、私にできることは無い。
突き落として、棄てて、のうのうと教義を説き、生きる。人の皮膚を刃物が破る感触を、誰も知らなくて良いような感触を、彼女に味わわせて、生きる。無力感に苛まれて、そうした偽善を心底嫌悪しながら生きて、年を過ごせばあの日から9年も経っていた。
今日、前触れもなく渡されたフィリアの情報。どんなものでも構わないと、そう思って本を開いた私は────
その内容に一切の言葉を失った。
────それは、ギルテの書いた『何か』に関する記述だった。
教会の腐敗と、再構成の必要性。魔獣の生命力の個体差と原因の分析。魔獣の持つ攻撃性とその攻撃対象の偏り。
忌み人の魔獣への変容。人間の攻撃本能。忌み人達の生前の活動記録。精神的負荷と攻撃性の相関。
忌み人を妻に持つ友人と、その双子の妊娠。
忌み人の男児の片割れと、発育不全の女児の片割れ。
36週。有り得ない『
瀕死の女児の急速な回復。
出産、安定。
忌み人の嗜虐性の発露と抑圧。忌避感と矛盾した殺人欲求。歪な精神の有り様。抑圧された攻撃本能が魔獣化の原因である可能性。
『実験が必要』。
第三教区にて地下室に忌み人を幽閉。殺害人数は順に0、3、14、98。
考察の通りに殺害人数の少ない個体から魔獣化。A-Bの間隔は3ヶ月。B-Cは8ヶ月。Dは攻撃性が強く『パペット』にて持続的に無力化、拘束。未だ魔獣化の兆候は見られない。
友人の娘の祝福。スキルの啓示。
《なし》
神の拒絶。祝福されなかった子供。その哀れさ。
約束。秘匿。
友人の家族が幸せに暮らせる世界を。大勢の民衆が幸せに暮らせる世界を。人がその内包する醜さを、捨て去る事が出来る世界を。
その為ならば、いかなる手段も選ばない。
観察対象Dの脱走。共鳴するように第三教区に多数の魔獣が侵入。潜伏していた内部の魔獣も活発化。一定の組織だった行動により被害は急速に拡大。
浄化隊が2週間をかけて全ての個体を討伐。死者308名。行方不明者55名。
友人一家の死亡を確認。
追悼。哀悼。
母親の死体を回収、解剖。のち魔獣化、地下室に幽閉。
共鳴の現象には注目する価値がある。
教会の再構成の為には、殺害人数が多くかつ殺人に忌避感の強い個体が必要。
友人の娘の生存、適性を確認。理由は不明だが忌み人の特徴が見られる。ホワイト・クロスで経過を観察し、問題がなければこれを採用。やや不適だが、予備には母親を用いる。
最後のページには手紙が挟まっていた。渡されたメモと同じ筆致で、ギルテの部屋から魔獣化の実験記録を発見したと。その過程で、魂の剥離か前頭葉白質切截術により、魔獣化の進行は停止させられる事が分かったと。
魂の剥離ならば精神の破壊を伴わない。私は、彼女がこのゴミのような世界で意思なき後も苦しむのが耐えられない。
貴女が、その消えない罪を少しでも雪ぎたいと思うのなら、どうか、私の言う通りにしてほしい。
そう括られた手紙の下には、フィリアの魔獣化を防ぐ手段と、半ば予言じみた行動指示が仔細に書かれていた。
────今、
細い、折れそうな手を引いて暗い路地裏を進んでいく。後ろから、小さい、辿たどしい足音が追従する。
繋いだ手は固く握られて、その身体は小刻みに震えている。遠くで小さな音が鳴ると急いで強く耳を塞ぎ、特に子供の笑い声に、酷く怯えていた。
「……」
掛けられる言葉がない。
掛けられる言葉が一つとしてない。
人を殺し、殺されるかもしれず、それでも自分は望んでいないと思えば内に獣が潜んでいた。
私の頭を殴る時、彼女は笑ってしまっていた。
その後の、あの顔は、一体何を恐れ、どこに逃げればなくなるのだろうか。
心はこんなに痛いのに、もはや誰一人傷つけたくなどないのに、顔に張り付いた笑みがその気持ちさえ歪めていくように、『死にたい』と『殺して』を同時に涙する笑みがどうすれば消えるのだろうか。
世界のどこに、これを救える神がいるのだろうか。
もはや、魔獣化を防ぐ行為に何の救いもない。何を与えても、何を施しても彼女の存在が白くならない。
ただ、これ以上は、もう。
私が耐えられないだけだ。
だからこれをするのだ。
「……ここだ」
『レフコ』と名乗った差出人が指定した場所に着き、隠された扉を開ける。
必要な神器も、薬も、装置も揃っている。魂を肉体から剥がして、別の器に保管する儀式を行う。精神も記憶も肉体に依存し、魂はただ行動の記録と運命だけを司る。彼女が生を終えた時、魂もまた天に昇る。この儀式が完遂されれば、この子は最期の時、人のまま土に還る事ができるだろう。
彼女の尊厳を守りたい。せめて死後の安寧だけは約束できるようにしたい。もう誰も殺させない。
一通りの説明をして彼女を椅子に座らせる。レフコの名前を出すと、悔やむような、けれど遠くの恋人を信頼するような顔で静かに頷いた。
痛みはない。苦しみもない。彼女がすべきことは一つだけだ。
フィリアにとっては却って辛いかもしれないが、ただ、眠って、幸せな夢を見るだけで良い。薬を飲ませて、肉体を無理やり深い眠りへと落とす。
ああ、
その寝顔は、まるで見た事がないほど無垢で美しく、朝露のように透きとおり、ああ、この子は、本当はこんな顔ができるのだと、私の頬を一筋の涙が流れ、
鋭い短剣が背中から私の胸を貫いたのは、その雫が床に落ちるのと殆ど同時だった。