6月の最後の日。図書室の窓からは、本格的な夏の到来を予感させる強い日差しが差し込んでいた。
放課後のこの時間、静寂に包まれた図書室の一角で、俺と椎名はいつものように隣り合って穏やかな時間を過ごしていた。
静かな空間の中に、周囲の生徒がたまにページをめくる微かな音だけが溶けていく。そんな中、俺が手にとっていたのは、いわゆるライトノベルと呼ばれる類の本だった。
内容は、異世界に転生した主人公が剣と魔法を駆使して無双する、王道のファンタジー系物語だ。非現実的な設定のオンパレードで、冷静に読めば少々ツッコミどころも多いのだが、純粋な娯楽として割り切って読む分には非常に小気味よく、面白い。「もし自分もこんな魔法が使えたら、退屈な授業を一瞬で終わらせられるのにな」などと、柄にもない妄想を抱いてしまう程度には没頭していた。
「今日で6月も終わりですね。明日の朝、私たちのクラスポイントはどれくらい増えているのでしょうか」
ふと、隣の椅子に座っていた椎名が心地よいソプラノの声で語りかけてきた。彼女の方へ目をやると、手元のアガサ・クリスティの文庫本をパタンと閉じたところだった。ちょうど今、一冊を読み終えたのだろう。
「どうだろうな。普段の学校生活を見る限り、劇的な変化はないと思うけど……。もし大きく変動するとしたら、坂上先生が前に言っていた、夏休みに行われるっていう『バカンス』が関係してくるんじゃないか?」
「ふふ、柊くんもそう考えているのですね。単なるご褒美の旅行というわけではなく、確実に何か裏がありそうです。そこでの成果次第で、ポイントが大きく増減するかもしれませんね」
椎名も俺と同じ懸念を抱いていたようだ。この高度育成高等学校は、普通の高校とは根本からシステムが違いすぎる。
生徒の価値を月ごとのポイントで数値化する『Sシステム』、徹底した実力主義の構造、そしてたった一科目でも赤点を取れば即座に『退学』処分となる非情なルール。俺の知る限り、日本の義務教育や一般的な高等教育の歴史において、これほど歪で過酷な学校は存在しない。
「……ところで、柊くん。一つ、私から小さなお願いがあるのですが、よろしいですか?」
「ん? 何だ?」
「もし、柊くんさえ良ければ……これからお互いに、苗字ではなく下の名前で呼び合いませんか?」
「名前、か。……俺は別に構わないぞ。ただ、急にどうしたんだ?」
「ええと……私が最近読んだ小説に、『本当に心を通わせた仲の良い者同士は、お互いを下の名前で呼び合うものだ』と書いてありまして。私は……これからも、柊くんとずっと仲良くしていきたいな、と思ったからです……やっぱり、駄目、ですか?」
心細そうに視線を泳がせながら、少し恥じらうように俯く椎名。白い頬がほんのりと桜色に染まっていくその姿は、客観的に見て過剰なほどに可愛らしかった。それと同時に、俺自身の心臓がドクンと大きな音を立てて跳ね上がり、急激に心拍数が上昇していくのを自覚する。
俺も椎名とのこの心地よい関係性を酷く気に入っているし、これからも彼女と特別な時間を共有していきたいと強く願っている。少し気恥ずかしさはあるものの、拒む理由など微塵もなかった。
「……わかった。いや、こちらこそ頼むよ。改めて、これからもよろしくな、ひより」
「っ……! ありがとうございます。ふふ、こちらこそよろしくお願いしますね、美輝くん」
満面の笑みでそう応えてくれたひよりと、初めて互いの下の名前を呼び合う。
口にした瞬間、胸の奥がキュッと締め付けられるような猛烈なドキドキ感と、底知れない幸福感が全身を駆け巡った。
今、俺は一体どんな顔をしているのだろうか。羞恥心で耳まで真っ赤に染まっているかもしれないし、あるいは締まりのない締まりのないニヤけた顔をしているかもしれない。
だが、目の前でまるで世界中の幸せをかき集めたかのような愛らしい微笑みを浮かべているひよりの表情を見ていると、そんな些細な羞恥心はどうでもよくなり、ただただ心が温かくなっていくのを感じた。
お互いを下の名前で呼び合うようになったことで、彼女との心の距離が一気に縮まったような気がして、たまらなく嬉しかった。ひよりも同じように感じてくれていればいいのだが。
翌朝、7月1日の木曜日。
いつものように登校し、Cクラスの教室のドアを開けた瞬間、俺は室内に漂うただならぬ違和感を察知した。
大半のクラスメイトたちが席についたまま、自分の携帯端末の画面を凝視して浮き足立ち、何やらソワソワと落ち着かない様子で私語を交わしているのだ。
そういえば、俺も今朝ベッドの中でプライベートポイントの残高を確認した際、今月分のポイントが1ポイントも支給されていなかった。クラスポイントが『0』になったわけではないのだから、通常であれば必ず振り込まれているはずだ。学校側のシステムトラブルか何かなのだろうか。
周囲に勘付かれないよう、さりげなくクラスの面々の様子を観察してみる。すると、教室の後方に座る石崎、小宮、近藤の3人の顔や腕に、痛々しい打撲痕や擦り傷があるのが目に入った。
そしてそのさらに奥、クラスの特等席で椅子の背もたれに深く身体を預けている龍園翔へと視線を向けると、彼は手元の端末を弄りながら、酷く冷涼で不気味な笑みをニヤリと浮かべていた。
確証こそないが、龍園の命令によって動いた石崎たちが、昨日の放課後にでも他クラスの生徒と何らかの深刻な物理的トラブルを起こしたのだと推測できた。
「おはようございます、美輝くん」
「おはよう、ひより……今朝、予定されていたポイントが振り込まれていなかったが、ひよりも同じか?」
「はい。先ほど金田くんたちにも確認したのですが、やはり皆さん振り込まれていないみたいです。他所のクラスの生徒さんも同様だとか……一体、どのようなトラブルが起きてしまったのでしょうか」
ひよりとそんな奇妙なポイント遅延の件について小声で言葉を交わしていると、ガラリと前方のドアが開き、担任の坂上先生が入室してきた。同時に、朝のホームルームの開始を告げるチャイムが響き渡る。
「諸君、おはよう。朝のホームルームを始める」
「先生! 今朝、ポイントの残高を確認したんですけど、1ポイントも振り込まれていませんでした! これって何か学校側で問題でもあったんですか?」
山脇が辛抱たまらんといった様子で挙手し、疑問を投げかける。坂上先生は眼鏡の位置を指先で直しながら、淡々とした口調で応じた。
「あぁ、その件か。実は現在、特定のトラブルが発生した影響により、1年生全体へのポイント支給手続きが一時的に遅れている。諸君らには不便をかけるが、問題が解消され次第、速やかに振り込まれる手はずになっている。安心して授業に臨んでほしい」
何らかの事件が原因で全体の支給がストップしているようだ。運営側の審議が終われば、ポイントは無事に手に入るだろう。
それはさて置き、現時点での我がCクラスの正確なクラスポイントの立ち位置はどうなっているのか。
そう思っていると、坂上先生はホワイトボードの前に立ち、今月分の各クラスの保有ポイントを上から順に書き出し始めた。
Aクラス 1004cp
Bクラス 650cp
Cクラス 600cp
Dクラス 87cp
我がCクラスは先月の490cpから、一気に110cpも数値を上昇させていた。上位2クラスも順調に数字を伸ばしているが、特筆すべきはDクラスだろう。初期の0ポイントから、中間テストの健闘によってようやく87cpまで這い上がってきたようだ。
こうして朝のホームルームが終了し、いつも通りの退屈で淡々とした授業が始まっては過ぎ去り、やがて放課後を迎えた。
終わりのチャイムが鳴り響いた後、俺は荷物をまとめ、隣の席のひよりと他愛のない雑談を交わしながら一緒に教室を出た。彼女はこの後、所属している茶道部の定例集会があるとのことで、中央階段の踊り場付近でお別れすることになった。
「美輝くん、私はこれで失礼しますね。では、また明日」
「ああ、また明日な」
ひよりの後ろ姿を見送り、俺が1階の生徒玄関まで降りてローファーに履き替えたその瞬間、背後の柱の影からぬっと不気味な人影が現れた。龍園だ。偶然出会くわしたというよりも、明らかに最初からここで俺が降りてくるのを待ち伏せていたのだろう。
「よう柊。悪いが、ちょっとツラ貸せや。一緒に帰ろうじゃねえか」
あの龍園から直々に下校の誘いを受けるとはな。
断ったところで余計に執拗につきまとわれるだけだし、拒否する明確な理由もない。俺は静かに頷き、彼と並んで学生寮へと続く一本道を歩き始めた。
「言わなくても分かっているとは思うが、お前に一つ、高額な『仕事』を頼みたい」
「仕事、ね。それで具体的な内容は?」
ポイントの支給が遅れている原因、そして石崎たちの怪我の理由。そのすべてのパズルが、これから龍園の口から語られるのだろう。
龍園が淡々と語った計画の内容は、実に狡猾で卑劣なものだった。
昨日、龍園は石崎、小宮、近藤の3人に対し、Dクラスの須藤健を社会的に陥れるための罠を仕掛けるよう指示を出したのだという。
小宮と近藤、そして須藤の3人は同じバスケットボール部に所属しており、昨日の部活の練習が終了した後、小宮たちは須藤を人気のない特別棟へと呼び出した。そこで事前に待ち伏せていた石崎と共に、須藤に対して執拗な言葉の挑発を行い、わざと先に手を出させたのだという。
彼らが負っていた痛々しい怪我は、須藤の圧倒的な暴力を無抵抗で受け止め、「一方的な被害者である」という動かぬ証拠を作るために自傷も含めてあえて負ったものだった。
学校側に須藤から理不尽な暴行を受けたと訴え出ることで、須藤を確実に長期の停学、あるいは退学処分へと追い込み、同時にDクラスが必死に稼いだクラスポイントを再び奈落の底へ叩き落とすのが目的だそうだ。
俺は龍園の手段を選ばない陰湿なやり口に、内心で呆れ果て、思わず深い不快感混じりのため息をこぼした。
今回の依頼内容は、近々学校側で開かれるであろう両クラスの合同審議において、石崎たちの証言の信憑性を極限まで高め、確実にこちらの勝利(=須藤の有罪)を確定させるためのバックアップおよび調査を行うことだった。
ここで無下に断れば、執念深い龍園のことだ、今後を見据えてたら面倒なことになるのは火を見るより明らかだ。そしてDクラスがどのような方法で臨んでくるか、少々気になるところだ。
「依頼の大枠は理解した。……それで、肝心の報酬額はいくらだ?」
「ククッ、ポッキリ5万でどうだ?」
「……いや、足りんな。リスクと労力を考えれば6万ポイントだ。それなら受けてやる」
「チッ……相変わらずがめつい野郎だ。いいぜ、6万で手を打ってやる。だがなぁ柊、絶対に失敗するなよ? もしお前のミスで審議がひっくり返ってみろ、その時はお前も同罪だ。容赦なく制裁の対象にするからな」
龍園は不機嫌そうに激しく舌打ちをし、脅しつけるように蛇のような鋭い眼光で俺を睨みつけてきた。
失敗すれば俺も制裁の対象、か。
この依頼を遂行してDクラスの須藤を嵌めることに罪悪感は全くないと言えば噓になるが、その分こちらが背負うリスクも膨大だ。
もし審議の場でこちら側の狂言が完全に露呈して敗北した場合、石崎たちは当然ながら虚偽申告による重い停学処分を食らい、Cクラスのポイントも大打撃を受ける。
審議の責任者として名前を連ねる以上、それ相応の対価を要求するのは至極当然の権利だ。
「了解だ。その依頼、正式に受注させてもらう。無事に達成した暁には、お前の口座からきっちり6万ポイントを徴収させてもらうからな」
「ククッ、期待してるぜ」
「あぁ。ただし、調査や事態の進め方に関しては、俺のやり方で自由にやらせてもらうぞ。余計な口出しはするなよ」
「好きにしろ。俺は仕事を完璧にこなす奴のプロセスに興味はねえ。過程がどれだけ汚かろうが綺麗だろうがどうだっていい、欲しいのは結果だけだ。その方がお前だって動きやすいだろ?」
俺は小さく頷き、彼と別れて自分の寮の部屋へと帰宅した。
龍園の言質は取った。ならば、遠慮なく俺のやり方で徹底的に盤面をコントロールさせてもらおう。
部屋着に着替え、ベッドの上に大の字になって寝転ぶ。
龍園の話では、今日中には石崎たちから学校側へ正式な被害届が提出される手はずになっている。おそらく、明日の朝のホームルームの段階で、全校生徒に向けて何らかの通達があるはずだ。
まずは明日、石崎たち3人を呼び出して個別に詳しい事情聴取を行い、その後事件の現場となった特別棟へ足を運んで現場検証を行うとするか。
確か、あの特別棟の校舎内には、予算の都合か学校側の意図的な死角か、監視カメラが一切設置されていないはずだ。しかし、念には念を入れなければならない。万が一にでも、その現場付近を通った第三者の目撃者などが存在していた場合、こちら側の狂言が一瞬で崩壊して不利な状況に立たされる可能性がある。Dクラス側が現在、この危機に対してどう動いているかも併せて探る必要があるだろう。
俺はベッドから起き上がり、デスクに向かってノートパソコンを起動した。
まず手始めに、今回の事件の元凶であるDクラスの須藤健の過去の経歴についてネットの海から情報をあぶり出す作業に入る。
龍園から聞いたあの極端に短い沸点と、この前図書室で見せた暴力的な初動の速さから推測するに、彼は間違いなく中学校時代にも同種の暴力事件や素行不良によるトラブルを起こしている可能性が極めて高い。
幸いなことに、須藤は入学直後からバスケットボール部の次期レギュラー候補として上級生からも注目されるほどの実力者であり、中学時代の体育連盟の記録やスポーツ関連の大会データから、彼が所属していた地元の中学校はすぐに特定することができた。
俺は特定した中学校の名称をフックに、当時の学校裏サイト、地域限定の匿名掲示板、当時の同級生のものと思われる過去のSNSの投稿などを片っ端から網羅的にクローリングし、画面に表示された須藤に関するネガティブな情報を、手際よくテキストファイルへとまとめ上げていった。
「ひとまず、これくらい集まれば十分か」
作業を開始してから約30分。デスクの画面には、須藤健という人間の本質を裏付けるに足りる、おおよその黒い経歴が浮かび上がっていた。
まとめ上げた膨大な書き込みの共通点を抜き出し、証拠として要約する。
【須藤健に関する調査メモ】
・中学時代、学内外での度重なる暴力沙汰により、複数回の警察による補導歴あり。
・所属していたバスケ部内において、意見の対立から上級生の先輩を殴打し、学校側から長期の停学処分を受けている。
・他校の不良グループとの揉め事も多々あり、地域では有名な問題児であった。
これにより、須藤がいかに日常的に暴力を振るう人間であるかという客観的なキャラクター付けのデータが揃った。この前の図書室での一件を鑑みても、これらの情報の信憑性は極めて高い。これを審議の場に参考資料として提出すれば、学校側の心象をこちらに有利へと大きく傾かせることができるだろう。
「次は……この情報の信憑性をさらに補強するために、現在の校内で須藤の過去の素行を知っている人間、あるいは今回の事件に関する有力な情報を持っている人間を探すか」
そして、サーバー(VPNやプロキシ)を経由して一定以上の匿名性を維持し、須藤に関する過去のトラブルや今回の事件についての情報提供を呼びかけるスレッドを匿名で立ち上げる。当然、ただ呼びかけるだけでは誰もリスクを冒さない。有力な情報をもたらした生徒には、内容に応じて相応のプライベートポイントを謝礼として支払う、という一文を付け加えるのを忘れなかった。
ここで発生する情報収集のための必要経費については、後で龍園の口座に全額ツケとして請求すればいいだけの話だ。
「これでネットを使った下準備は完了だ。残るタスクは、明日以降の石崎たちからの詳細な事情聴取と、現場検証、そしてDクラスの不穏な動向の把握だな」
俺はノートパソコンをスリーブさせ、静かにパソコンを閉じた。
読んでいただきありがとうございます。誤字やおかしな点がありましたら感想欄で教えてください。