時は8月。
空を焦がすような真夏の日差しは容赦なく肌を焼き、照り返す熱気が視界をわずかに歪ませている。しかし、鼻腔をくすぐる潮の香りを孕んだ風と、規則正しく押し寄せる波の音に耳を傾けていると、不思議と心なしか涼しさを感じることができた。
一学期の期末試験という最初の大きな関門を問題なく突破し、待望の夏休み期間中に突入している現在、俺たち一年生は超豪華客船のデッキに立っている。
学校側からは以前から夏休みには南の島へのバカンスが用意されていると聞かされてはいた。しかし、この一筋縄ではいかない高度育成高等学校が、ただ生徒を遊ばせるためだけにこれほどの待遇を用意するはずがない。何か致命的な裏があるのでは、とどうしても勘ぐってしまうのが性分というものだ。
学校が用意していた豪華旅行のスケジュールは、何せ二週間程に及ぶ。普通の高校の臨海学校や修学旅行と比較しても、いくら何でも長すぎる。
事前に配られた大まかな予定表によれば、最初の一週間は学校が所有する無人島に建てられたペンションやコテージで自然を満喫し、その後の一週間は客船内に戻って優雅に宿泊する予定だと聞いている。
果たして、この二週間のバカンスの皮を被った期間の間に、学校側は何を仕掛けてくるというのか。まあ、いくら俺一人で身構えたところで、始まらないことには手の打ちようがない。噂に違わず、この豪華客船の娯楽設備は驚くほど充実しており、一般社会においてもこれほどの客船に乗る機会は早々訪れないだろう。今はただ、いざという時のために、しっかりと英気を養っておくのが最善の策だ。
「呑気な面してやがるな、おい。……お前もそう思うだろ?」
豪華客船の広大なデッキからは、浮かれた生徒たちの楽しげな叫び声や笑い声が風に乗って聞こえてくる。遠目から見ても完全に観光気分で浮ついている他クラスの面々を眺めていると、背後から低く、聞き覚えのある声がかけられた。
「そうだな」
振り返ることなく答えると、Cクラスを実質的に支配する男、龍園翔が隣へと移動してきた。彼はそのまま白い手すりにもたれ掛かり、気だるげに、しかし蛇のように鋭い視線で俺の顔をじろりと盗み見てくる。かくいう俺は、デッキの手すりに両肘を預けたまま、目線だけをゆっくりと龍園へと移した。
「ハッ! 相変わらず、何が起きてもピクリとも動かねえ澄ましたツラだな。まあ、いいぜ……柊、おまえはこの不自然な状況をどう考えてる?」
どう考えると聞かれても、龍園が求めている返答の方向性は一つしかない。この二週間に及ぶ長期旅行に隠された本質についてだろう。
「……何かしら、クラスポイントが直接変動するようなイベント、あるいは試験が裏で用意されているんじゃないか」
「ほう。そいつは面白いな。で、その根拠はなんだ? まさか、ただの直感だなんて言わねえだろうな?」
「とある上級生のツテから、過去の一年生におけるクラスポイントの推移データを参照させてもらったことがあるんだ。そしてその数字の変動を時系列で分析した結果、どの年度であっても八月だけはポイントが異常な幅で大きく上下している。その事実から逆算すれば、この二週間のどこかで、何かしらの試験が用意されている可能性が極めて高い、と判断しただけだ」
俺が淡々と推考したロジックをそのまま告げると、龍園は口元を歪め、愉快そうに不敵な笑みを浮かべた。
「なるほどな、クククッ……いつの間にそんな面白いネタを仕入れてやがった。相変わらず抜け目のねえ奴だ。それで? その肝心なイベントとやらの具体的な中身までは分かってんのかよ」
「いや、流石にそこまでは把握していない。推測の域を出ないからな」
「……ま、いいさ。その時が来たら、お前にもたっぷりと泥を被って動いてもらうからな。覚悟しとけよ」
龍園はそれだけを言い残すと、自らの足元を弄ぶように軽く手を振り、その場を去っていった。
嵐の前の静けさ、といったところか。俺は深く息を吐き出し、再びどこまでも続く青い海を眺めることにした。
雲一つない青空と、眼前にどこまでも広がる海。太陽の強烈な光を反射してキラキラと輝く水面は息をのむほど美しく、眩しさに思わず目を細めてしまう。はて、こうして何かに追われることもなく、のんびりと海の景色を眺めるなんて、一体いつぶりだろうか。
時間の感覚が曖昧になりかけたその時、隣に静かに誰かが寄り添ってきた気配を感じた。視線をそちらに向けると、そこには風に髪をなびかせた、ひよりの姿があった。
「ここにいたんですね、美輝くん」
「ああ。ちょっと静かに海の景色を見たくてな。ひよりはどうしたんだ?」
「ふふっ、本当に気持ちが良い風ですね。この綺麗な景色、ずっと見ていたくなります」
「そうだな。遮るものが何もない」
「ところで美輝くん。この後、もしよろしければ一緒に昼食をいかがですか? もちろん、もし石崎くんたちと食べるような先約があれば、そちらを優先してもらって構いませんが……」
ひよりは少しだけ不安そうな表情を浮かべながらこちらを覗き込んできた。
恐らく、俺が普段通り石崎や山田たちに付き合って、騒がしい食堂に連れていかれるのではないかと心配しているのだろう。少し遠慮がちに、指先を小さくもじもじと動かしている。
だが、その心配は無用だ。今日の俺には誰とも約束などない。
「いや、先約はないから大丈夫だ。それじゃあ、せっかくだし一緒に行くとするか」
「はいっ、嬉しいです!」
ひよりの表情がパッと華やかに華やぐ。
国からの潤沢な資金で運営されているこの学校において、生徒は学費や雑費を一切支払う必要がなく、この二週間の旅行についても完全無料という破格の扱いだ。
しかも、今俺たちが乗っている客船は、一流シェフが腕を振るう高級レストランをはじめ、演劇や映画を楽しめる本格的なシアター、広々とした温水プールや高級スパまで完備されており、まさに至れり尽くせりという言葉が相応しい。
普通に考えれば、これはあまりにも破格すぎる待遇だ。もしこの旅行費用を教師陣と一年生一同の人数分で真面目に算出したら、それこそ国家予算レベルの莫大な費用になるはずである。
「いらっしゃいませ。二名様でよろしいでしょうか?」
「はい」
「それでは、静かなお席へご案内いたします。こちらへどうぞ」
店内に足を踏み入れると、従業員の丁寧で行き届いた対応を受け、窓際の景色の良いテーブル席へと案内された。
「本日のメニューでございます」
「ありがとうございます」
「ご注文がお決まりになりましたら、こちらの呼び鈴でお呼びくださいませ」
メニューを受け取って開くと、そこにはまるで高級ホテルさながらの多種多様な料理の写真が美しく掲載されていた。
写真の下にはこだわり抜かれた素材や調理法の説明文が記載されており、活字を追っているだけで胃袋が刺激されて腹が減ってきそうだ。早速、二人で顔を見合わせながらメニューを絞り込んでいく。
「わたしは……こちらの海の幸を使ったトマトパスタにしようと思います。美輝くんは何にしますか?」
「なら、俺はこのグリルチキンのプレートにするか」
「分かりました。それでは、店員さんを呼びましょうね」
ひよりが上品な所作で呼び鈴を鳴らすと、すぐに訓練された従業員が現れてスマートにオーダーを取っていった。それからお互いの読んでいる本の話などの他愛のない雑談を交わしていると、程なくして出来立ての料理が運ばれてきた。
フォークで丁寧にパスタを巻き、おずおずと口に運ぶひよりの表情は、見ていてこちらまで毒気が抜かれるほどに幸せそのものといった感じだった。美味しそうに頬を緩める彼女の様子を眺めていると、俺の口元も自然と綻んでしまう。
「……本当に、美味しいな」
「そうですね。とっても美味しいです。美輝くんと一緒に食べられて、さらに美味しく感じられます」
そんな無自覚に破壊力のある台詞を平然と言ってのける彼女に、内心の動揺を隠しながら食い進める。
食事を終え、大満足の笑みを浮かべるひよりを伴って店を出た。
「ひより、この後は何か予定はあるか? 俺は腹ごなしに客船の中を適当に歩いて回るつもりなんだが、もし時間が空いていれば、一緒に探索しないか」
「はい、特に午後の予定はありません。ぜひ、一緒に回りましょう」
そうして二人で並んで歩き、客船の入り組んだ通路を徘徊し始めてから数分が経過した頃、突如として船内スピーカーから明瞭なアナウンスが流れ響いた。
『生徒の皆様にお知らせします。お時間がありましたら、是非デッキにお集まり下さい。間もなく島が見えて参ります。暫くの間、非常に意義ある景色をご覧頂けるでしょう』
もう少し船内を散策したかったが、どうやら島への到着は間近に迫っているらしい。
「アナウンスがあったな。デッキに行ってみるか」
「そうですね。どんな島なのか気になります」
案内板に従ってデッキへと向かうと、そこには既にアナウンスを聞きつけた大勢の生徒たちが集まり始めていた。海の地平線の彼方に、薄らと緑が生い茂る目的地――孤島がその姿を現しつつある。生徒たちがその島に気づくと、さらに多くの人数が興奮気味に船内からデッキへと押し寄せてきた。
押し寄せる人の波。このままでは、小柄なひよりが人混みに呑まれて押し潰されてしまう。俺は反射的に、隣にいたひよりの小さな手を引き、人だかりから少し外れた空いている静かなスペースへと彼女を避難させた。
「……ここなら風通しもいいし、人に流される心配もないだろう」
「え、あ……は、はい。ありがとうございます……」
「ああ、どういたしまして」
どこか様子がおかしく、少々頬を朱に染めているひより。そんな彼女を横目で見つつ、俺の視線はデッキの片隅で繰り広げられている不穏な動きへと向けられた。
視線の先では、Aクラスの男子生徒が、Dクラスの生徒たちに対して何かをまくし立てている。ここからでは波の音にかき消されて言葉までは聞き取れないが、相手を見下すような、明らかな挑発行為が行われていることだけは容易に察しがついた。
そのDクラスの集団の中には、あの綾小路清隆や、問題児であるはずの須藤健の姿もあった。しかし、意外なことに、いつもなら真っ先に頭に血を上らせて掴みかかりそうな須藤が、静かに拳を握りしめたまま、Aクラスの相手に噛みつこうとはしなかった。
あの審議の一件と二週間の停学処分を経て、彼は心から反省しているのだろう。もう二度と、自分の衝動的な暴力でクラスに迷惑をかけたくないと強く自制している様子が、その背中から伝わってくる。
あの時、陰ながら須藤に手を貸し、接触したことは決して間違いではなかった。彼の成長を見て、確かな手応えを感じる。
「あの……美輝くん?」
ひよりに少し控えめな声で呼ばれ、我に返った。そして、俺は未だに彼女の柔らかく小さな手をしっかりと握り締めたままであることにようやく気がついた。
冷徹を装ってきた己の胸中に、一瞬にして何とも言い難い熱い羞恥心が込み上げてくる。しかし、それを決して表情には出さないよう、必死に理性で抑え込んだ。
「あ、すまない。考え事をしていて、つい……」
慌てて手を離そうと指の力を緩めた、その瞬間だった。
逆にひよりの方から、俺の手を逃がすまいとするようにギュッと強く握り返されたのだ。
予想だにしなかったひよりの行動に、羞恥心に加え、今度は激しい困惑の感情が脳内を支配する。
「ひより……?」
「ふふっ。美輝くんの手、すごく頼もしくて、温かくて大きいですね」
ひよりは慈しむような魅惑の微笑みを浮かべながら、両手で俺の手を包み込むようにして、にぎにぎと感触を確かめるように掴み込んできた。ポーカーフェイスを維持しようと心臓に鞭を打つが、裏腹に心拍数は確実に跳ね上がっている。
「美輝くんは、何か格闘技の経験があるのですか?」
「……ああ。俺の育ての親みたいな人に、物心がつく前から格闘技や古流の武術を一通り叩き込まれていたからな」
「やっぱり。だから、中指と薬指の付け根あたりの皮が、少し厚くなっているのですね」
「……こういう硬い手は、女の子からすれば可愛げがなくて嫌いか?」
「いいえ、そんなことありません。私は好きですよ。……美輝くんの、この優しい手」
本当に無自覚なのだろうか、この天然読書少女は。
ここまで自分のペースを乱され、心を激しく揺さぶられる相手など、この学校広しと言えども間違いなく目の前の彼女だけだ。完全に手を離すタイミングを見失ってしまった俺は、結局ひよりと手をしっかりと繋いだまま、内心の恥ずかしさを誤魔化すように視線を再び海へと戻し、迫り来る島を見つめた。
島は既に、肉眼でも生い茂る木々のディテールがはっきりと確認できる距離まで近づいている。デッキの生徒たちの興奮と熱気も最高潮に達し、このまま船が桟橋に接岸するのかと思われた。しかし、客船はスピードを落とすことなく、島に設けられた簡易的な桟橋を無視して、その周囲をぐるりと回り始めた。
島を周回する客船の速度を観察しながら、俺はじっとその地形を頭の中に叩き込んでいく。ざっと見て、直径は約1キロメートル。最高標高は200メートル前後といったところか。起伏が激しく、人の立ち入りを拒むような深い原生林に覆われた、そこそこ大きな無人島だ。
「とても緑が豊かな島ですね」
「ああ、そうだな。あまり人の手が加わっていない、手付かずの自然に見える」
ちらりと隣のひよりの横顔を見れば、彼女は穏やかで少し切なげな表情で島を見つめていた。相変わらず、彼女の手は俺の右手をしっかりと捕らえたままだが。
『これより、当学校が所有する孤島に上陸いたします。生徒たちは30分後、全員ジャージに着替え、所定の鞄と荷物をしっかりと確認した後、携帯を忘れず持ちデッキに集合してください。それ以外の私物は全て部屋に置いてくるようお願いします。また暫くお手洗いに行けない可能性がありますので、きちんと済ませておいてください』
静寂を破るように、再び厳格なトーンのアナウンスが流れた。いよいよバカンスの仮面が剥がされる時が来たようだ。
「じゃあ、一度部屋に戻って着替えるとするか。また後で、デッキでな」
「はい。それでは、また後ほどお会いしましょうね、美輝くん」
ひよりは名残惜しそうにゆっくりと手を離すと、同じ女子クラスメイトたちのいるグループ部屋へと戻るべく、足早に船内へと消えていった。
「……」
俺は一人デッキに残り、さらに五分ほど、怪しげな孤島の地形や海岸線の様子を観察し、いくつかの仮説を脳内で構築してから、着替えるために自室へと向かった。
「ではこれより、Aクラスの生徒から順番に降りてもらう。それから島への携帯の持ち込みは禁止だ。担任の先生に各自提出し、下船するように」
拡声器を持ったAクラスの担任である真嶋先生の、芯の通った厳しい声が響き渡る。指示に従い、生徒たちが順々にと客船の狭い階段を降りて砂浜へと足を踏み出していく。下船の列は、予想以上に滞り、時間がかかっていた。それもそのはず、タラップの先では教師陣が金属探知機や手作業による極めて厳重な手荷物検査を行っており、それがボトルネックとなっているのだ。
「ここまで念入りな荷物検査を行うなんて……ただのキャンプではなく、何かしらの試験が待ち構えているのでしょうか」
「多分そうだろうな。一学期の中間や期末テストの時でさえ、これほど徹底したボディチェックや荷物検査は行われなかったしな」
ジリジリと照りつける太陽の下、立っているだけで背中を汗が伝う不快な感覚を覚える。隣のひよりの額からも、キラリと汗の一滴が滴り落ちていた。
この酷暑のなかでこれほど待たされれば、こまめな水分補給を怠ればあっという間に熱中症で脱落する生徒が出てくるだろう。それほどまでに、この無人島に降り注ぐ夏の日差しは狂暴なまでに熱く、そして重い。
押し寄せる暑さにじっと耐えながら下船の時を待っていると、ようやく俺たちCクラスの順番が巡ってきた。厳重な検査をパスし、ズブズブと足が沈む白い浜辺にようやく両足をつける。
「これよりCクラスの点呼を始める。名前を呼ばれた生徒は速やかに大きな声で返事をするように」
バインダーを片手にした担任の坂上先生による、どこか緊張感を孕んだ点呼が始まった。周囲を見渡せば、すでに上陸を終えた他のクラスも同様に、各担任のもとで点呼と列の整理が行われている。ここまで統制された動きを見せられると、もはや南国のバカンスなどという甘っちょろいものではなく、厳格な林間学校、あるいはそれ以上の何かを予感させた。
やがて全クラスの点呼が完了すると、全体の指揮を執る真嶋先生が、浜辺に突如として設置された白い特設の演台へと登った。
「今日、この場所に無事につけたことを、まずは嬉しく思う。しかしその一方で1名ではあるが、病欠で参加できなかった者がいることは残念でならない」
体調不良による不参加者がいる。それは確かに気の毒なことだ。
だが、それ以上に気にかかるのは、普段から堅物として知られる真嶋先生の表情が、いつも以上に険しいことだった。
そして彼だけでなく、周囲に控える他の担任教師たちの顔にも、遊びの要素は一切見受けられない。さらに少し離れた砂浜の奥では、設営作業用の衣服を身にまとった見知らぬ大人たちが、無骨な特設テントをいくつも組み立てているのが見えた。
一帯を支配する不自然な違和感に、生徒たちの間にざわざわとした困惑と不安の波が広がり始める。
そして、静まり返る砂浜に向けて、真嶋先生の口から、冷酷極まりない決定的な一言が告げられた。
「ではこれより――本年度最初の特別試験を行いたいと思う」