ようこそ凡人がいく実力至上主義の教室へ   作:神威 

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第22話 センスと不確定要素の狂騒

 船内から無人島の特別試験を終えるその時を見届けた俺は、シャワーを浴びて、肌にまとわりつく潮風と熱を洗い流した。

 鏡に映る自分の顔は、一週間の過酷な環境を経たわりには、それほど変わっていない。だが、瞳の奥に宿る熱量は、試験前とはどこか異質なものに書き換えられているような、そんな錯覚を覚えた。

 髪を乾かし、清潔な制服に袖を通す。

 清潔な生地が肌に触れる感覚は、文明社会への帰還を象徴しているようで、少しだけ背筋が伸びる思いがした。

 ポケットに手を入れ、掌に伝わる携帯端末の冷たい質感を確かめる。デジタルなデバイス、整えられた空調、そして静寂。それらすべてが、あの島での「泥にまみれた狂騒」が終わりを告げたことを物語っていた。

 

 ふと、一学期の自分の姿を思い出す。

 教室の隅で、ただ静かに周囲の会話を拾い集め、誰が誰と繋がり、誰が誰を疎んでいるのかを脳内のデータベースに書き込んでいた日々のことを。

 

 部屋を出て、長い廊下を歩き出す。

 

 廊下を行き交う生徒たちの声は、先ほどまでの砂浜での喧騒をそのまま持ち込んできたかのように騒がしい。勝利に沸くCクラス、顔を伏せて歩くAクラス、そして納得がいかない様子で議論を戦わせる他クラス。

 彼らが口にしているのは「ポイント」や「リーダー」という単語ばかりだが、俺の耳には、それらはすべて「確定した過去」のノイズとしてしか響かなかった。

 

 船のメインデッキへと続くラウンジに入ると、冷房が効いた贅沢な空間に、場違いなほどの安堵感が充満している。

 ソファに深く沈み込み、自動販売機で購入した冷えたコーヒーのプルタブを引いた。微かな金属音と共に、カフェインの香りが鼻腔をくすぐる。

 

 コーヒーを一口含み、喉を焼くような苦味を飲み下す。

 

 ふと、視線を感じて顔を上げた。

 そこには、一学期の頃から変わらない、けれど少しだけ鋭さを増した瞳でこちらを射抜く男が立っていた。

 

「……随分と優雅なものだな。体調不良という名目で、真っ先に涼しい船内に逃げ込んだ男とは思えない」

 

 龍園翔。Cクラスを恐怖で束ね、勝利のためには手段を選ばない男が、皮肉めいた笑みを浮かべて俺の向かいの席に腰を下ろした。

 

「事実、あの島は暑すぎた。俺のような『凡才』には、最後の点呼を待つ体力すら残っていなかっただけさ」

「ククッ……白々しい。630ポイントという数字を叩き出した張本人が、どの口でそんなことを抜かす」

 

 龍園は足を組み、鋭い視線を俺の顔から離さない。

 彼は最初、自分のリタイア作戦を主軸に試験をコントロールしようとしていた。だが、俺がその策を却下し、代わりのプランを提示したその瞬間から、龍園の関心は「試験の勝利」そのものよりも、目の前にいる「正体不明の同級生」へと傾いていたはずだ。

 

「……正直、600ポイント以上を取ると聞いた時は半信半疑だったがな」

 

 龍園はコーヒーの空き缶を指先で弄びながら、獲物を品定めするような目を向けてくる。

 俺はその眼差しに気圧されることもなく、もう一口コーヒーを飲んだ。

 

「約束通り、結果は出した。不満はないはずだ」

「ああ、お陰で俺たちの懐は潤い、他クラスの連中は揃いも揃って通夜のような顔をしてやがる。最高に愉快な眺めだぜ」

「うわぁ、本当にいい性格してる」

「それは褒め言葉として受け取っておいてやるよ」

 

 俺の皮肉に龍園はそう言って、喉の奥で低く笑った。だが、その笑みはすぐに消え、代わりに底冷えするような真剣な光が宿る。

 

「……だが、おかげでハッキリした。お前はただの頭の切れる生徒じゃねえ。平然と他人の心理を掌握し、戦場を俯瞰して駒を動かす……その目は、かつて俺が叩き潰してきたどのインテリ野郎とも違う」

 

 龍園は身を乗り出し、机に肘をついた。至近距離で放たれるプレッシャーは、一般の生徒なら目を逸らしたくなるほどに強烈だ。

 

「龍園、お前は一つ勘違いしている」

「あ?」

「俺は心理的な利用はするが、人を駒や道具と思ったり扱ったりしたことは一度もない」

 

 俺の言葉に、龍園の眉がピクリと跳ねた。獲物を見つけた猛獣のような、獰猛で、それでいて純粋な知的好奇心が混ざり合った視線が突き刺さる。

 

「人を駒や道具と思ったことはない……? ククッ、笑わせるな。だったらあのAクラスやBクラスをハメた策は何だ。あれが人間を記号として扱わなきゃできねえ芸当だってことぐらい、俺には分かってるぜ」

 

 龍園は鼻で笑い、挑発するように俺を凝視した。

 だが、俺はあくまで静かに首を振る。これは嘘でも偽善でもない。俺がこれまでの旅の中で、天才たちの背中を追いながら必死に守り通してきた唯一の「センス」に関わる問題だ。

 

「それは心理的、環境的な要素を利用しているのにすぎない」

「……ハッ、笑わせるな。お前が今回、俺を説得して動かしたその手順、クラスメイトたちを適材適所に配置し、無駄なくポイントを回収させたその手腕。それが『駒』として扱っていない証拠だとでも言うつもりか?」

 

「ああ。俺にとって彼らは『駒』じゃない。それぞれが独自の意志を持って動く『不確定要素』だ。俺がやったのは、その意志が一番心地よく、かつ効率的に向かう先を提示しただけに過ぎない。無理やり動かせば、いつか必ず綻びが出る。それが分からないほどお前は愚かではないはずだ、龍園」

 

 一瞬、龍園が言葉を失った。

 「利用する」ことと「道具にする」ことの決定的な違い。それは、相手の存在そのものへの敬意があるかどうかだ。相手を駒だと思った瞬間、その思考は硬直し、予定調和の枠に閉じ込められる。だが、相手を一人の人間として、その複雑さを丸ごと観察すれば、彼らが自ら陥る「陥穐」さえも、生き生きとした過程の一部として享受できる。

 

「……反吐が出るほど贅沢な論理だな。お前は、俺のように力でねじ伏せるよりも、ずっと傲慢なやり方で世界を見てやがる」

 

 龍園は再びソファに深く背を預け、忌々しそうに、けれどどこか満足げに吐き捨てた。

 

「……それで、お前はあの試験で何をしてあのポイントを稼ぎ出した。俺の計画を潰してまで、お前が見ていた『盤面』の正体を教えろ」

 

 俺は窓の外に広がる海に視線を投げた。

 

「初日の二時間、俺が不在だった理由を覚えているか? 俺はあの時間で、島内の主要なスポットをある程度把握し、他クラスが占有できる位置を限定的に絞り込んだ」

 

 龍園は何も言わず、俺の言葉を待っている。

 

「その後の偵察は、専門用語で言えば『能動的列挙』だ。Cクラスとして接触した際の彼らの挙動、微かな表情の変化。それを観察することで、彼らの思考の癖をデータ化した。以降は『受動的列挙』。泥を塗り、自然と一体化し、気配を殺して彼らの動向を追い続けた」

 

 スポットに残された足跡の深さ、占有時間の更新に現れる生徒の顔ぶれ。そこから消去法でリーダーの候補を削ぎ落としていく作業。龍園は呆れたように鼻を鳴らしたが、その瞳には隠しきれない驚愕が宿っていた。

 

「そして六日目、心理的摩耗を利用し俺は仕上げに『ハニーポット戦略』を仕掛けた。あえて特定のスポットを奪い返し、そこに『落とし物』を残したんだ。狙い通り、そこを本来占有していたクラスのリーダーが更新に現れた。俺は彼らが落とし物を見つけるのを確認し、あえて姿を晒して、それを探しに来たリーダーを演じてみせた」

 

 心理的摩耗の利用: 6日目という「疲れがピークで、判断力が鈍る」タイミングを選ぶ。

 偽の「決定打」の提示: あえてスポットを奪い返し、「落とし物を探すリーダー」を演じることで、相手に「自力でリーダーを見つけた」という成功体験(誤認)を与えてしまう。

 情報の単一性: 足跡を一人分に絞ることで、相手の論理的思考を「これしかありえない」という袋小路に追い込ませる。

 

 人間は、慣れない環境で心理的な負担がかかると、思考が鈍る。特に最終日前日というタイミングなら、目の前に提示された「正解」に飛びつきたくなるものだ。

 

「足跡はあえて一人分しか残さなかった。複数の足跡があれば論理が破綻するからな。……Aクラスも、Bクラスも、俺が用意した『完璧なリーダー像』に最後まで疑いを持たなかった。それだけの話だ」

 

 最後の点呼直前に俺がリーダーを交代し、体調不良を装ってリタイア同然に船へ戻ったのは、彼らに「誤答」という名のチェックメイトを突きつけるための最後の手順に過ぎない。

 

「……ククッ、ハハハハハ! 傑作だ! お前、たった一人で島全体を巨大な実験場に変えてやがったのか」

 

龍園は腹を抱えて笑い出した。その笑い声はラウンジに響き渡り、周囲の生徒たちが何事かとこちらを振り返る。

 

「お前の言う通りだ、柊。人を駒だと思ってりゃ、そんな手間のかかる真似はできねえ。相手が一人の人間で、意志を持った生き物だからこそ、その『習性』を逆手に取って踊らせる……。力で従わせる俺よりも、お前の方がよっぽど質が悪い」

「リーダーはどんな方法で特定した。教えろ、ポイントの内訳もな」

 

 俺は手元のメモ帳を龍園に向けた。そこには、俺が島で計算し尽くした「最終的な収支」が記されている。

 

 スポット占有:340ポイント

 

「……340だと? 20箇所を5日で15回分、さらに20箇所を1日2回分……。お前、一人で島中のスポットをスタンプラリーのように回り続けてたのか」

 

 龍園の目が驚愕に見開かれる。俺は淡々と説明を続けた。

 

「Aクラスのリーダーは戸塚弥彦。Bクラスのリーダーは網倉麻子だ」

「Aクラスは堅実で防衛体制は固く、葛城のような慎重なタイプは、リーダーを露骨な実力者に据えるリスクを避ける。そして今のAクラスは葛城派と坂柳派の派閥争いの真っ只中にある。坂柳派の息がかかっていない、かつ従順で自分を慕ってくれてる生徒は消去法で浮かび上がるのは葛城の側近である戸塚しかいない。一方、Bクラスは一之瀬の『信頼関係』が仇となった。彼女の性格上、クラスメイトを盾にするような真似は好まない。だからこそ、信頼関係が構築されている網倉を据え、一之瀬自身が広告塔として囮になる。網倉を特定するのは、彼女らの会話の距離感を測るだけで十分でありそれらの心理的傾向を、初日の挙動から逆算した」

 

 俺は一度、言葉を切る。

 

「だが、それは憶測にすぎない。決定的な確証を得るために、俺は自然に擬態しスポット占有する更新に現れるその時を観察していた。Bクラスは生徒を壁にすることで視覚的にリーダーを隠していた。だが更新に現れ壁の役割に担う生徒の顔ぶれ、そこから消去法でリーダーの候補を削ぎ落としてスポットから最に近かった足跡を解析し、それが女性の足跡だと判別。あとは網倉の足跡と照らし合わせるだけだ」

 

「Aクラスは葛城と戸塚の二人でスポット占有の更新をしていたことから、足跡の解析の照合にそこまで時間はかからなかった」

 

 静寂が流れる。周囲の喧騒が遠のき、龍園の喉が微かに鳴る音だけが聞こえた。

 

「……足跡の解析だと? 泥にまみれて這いつくばり、地面に残された数ミリの沈み込みを読み取っていたってのか」

 

 龍園の低い声には、もはや隠しきれない戦慄が混じっていた。

 彼が好む暴力や恐怖は、相手を屈服させるための直接的なエネルギーだ。しかし、俺が提示したのは、それとは対極にある執念に近い観測の積み重ねだった。

 

「DクラスもBクラスと同じような守り方をしていた。その結果、王美雨がリーダーであると判明はできたが、最終日の前日に王美雨はリタイアしリーダーが変更されたことからリーダーを指名しなかった」

 

「ククッ……クハハハハハ! 笑えねえ冗談だ」

 

 龍園は椅子の背もたれに頭を預け、天井を仰ぎ見た。その顔には、理不尽な暴力に直面した被害者のような、あるいは未知の化け物を目撃した探検家のような、歪な高揚感が張り付いている。

 

「Dクラスのリーダーが王美雨……。あのアホ面下げた連中の中で、一番害のなさそうな女を据えたか。堀北じゃねえのか」

「堀北は囮だ。彼女は責任感が強く、最前線で戦おうとする。リーダーとして疑わせるには最高の囮だったんだろう。だが、リタイアでリーダーが変更された時点で、その正体を追うリスクがリターンを上回った。だから追わなかった。それだけだ」

 

 龍園はメモ帳を、食い入るように見つめている。

 

Aクラス:10ポイント

(270 - 110[購入] - 50[失敗] - 50[被的中] - 50[BまたはDからの被的中])

Bクラス:90ポイント

(300 - 110[購入] - 50[失敗] - 50[被的中])

 

「物資購入は最小限の80に抑えた。AとBが110使っている間に、俺たちは30浮かせた。さらにリーダー当てで100獲得。直前のリーダー変更による一人分のリタイアでマイナス30。……合計で630だ」

「ククッ……AとBは、お前のハニーポットに引っかかって50失っただけじゃねえ。お前にリーダーを当てられて、さらに50削られたわけか。……文字通り、手も足も出ねえ完敗だな」

 

Dクラス:165ポイント

(300 - 110[購入] - 60[リタイア] + 50[リーダー当て] + 15[スポット])

 

「……柊、お前は最初から、このスコアを叩き出すことが分かって動いてたのか?」

「分かってなきゃ、龍園、お前を説得なんてできないだろ?」

 

 生徒がリタイアする際に何かしら通達のようなものがあるのかと考えていたが、高円寺がリタイアしてもそのような通達がなかった。それもあり、最終日の点呼で体調不良の理由でリタイアしリーダーを山田に変更した。

 

「……罠で誤答を誘い、その裏で足跡から真のリーダーを炙り出す。おまけに自分はリタイアの隙間を縫ってリーダーをすり替え、追撃を許さねえ」

 

 龍園はそう吐き捨てると、手に持っていた空き缶を握りつぶした。乾いた金属音がラウンジの静寂に響く。

 

「高校生の遊びにしては、あまりに手が込みすぎてやがる」

 

 龍園は潰れた缶をテーブルに放り投げた。その視線には、これまでのクラス間抗争で見せてきた支配欲とは異なる、拭い去れない毒を盛られたような苛立ちと、それを上回るほどの強烈な知的好奇心が渦巻いていた。

 

「……なぁ、柊。お前、その力をどこで手に入れた? 洗練された身のこなし、大学レベルの問題を解くほどの学力に頭のキレ、そして他人の足跡を舐めるように観察するその執念と技術……ただの進学校のガキが持ち合わせるもんじゃねえ」

「政府が作り上げた学校とはいえ、所詮は一部の社会の縮図、小さな箱庭すぎない。世界規模で見れば、もっと広大な盤面で、理不尽なまでに洗練された教育や訓練を受けている連中はいくらでもいる。その意味は分かるか、龍園」

 

 確証バイアスを利用した心理トラップ、情報工学的・軍事的な観測技術と擬態技術、痕跡追跡技術など。それらのスキルを駆使する俺からしたら、あの一週間はただの復習にすぎない。

 

「チッじゃあ、あの風呂の意図はなんだ」

「風呂を作ったのはただの娯楽のためだ。それ以外の意図も何もない」

「……は? 冗談だろ」

 

 龍園は毒気を抜かれたように目を見開いた。これまでの超人的な戦略の数々を並べ立てられた直後だ。何か深遠な、例えば「特定の成分を皮膚から吸収させ判断力を奪う」だの「蒸気を利用した視覚的攪乱」だの、そんな病的なまでの意図を期待していたのだろう。

 

「事実だ。あんな過酷な環境で、精神の摩耗を最小限に抑えるには『清潔』と『娯楽』が不可欠だ。クラスメイトの士気を高く維持し、俺の提示する効率的な動きを『自発的に』選ばせるための、ただの環境整備だよ。ま、個人的に俺も風呂に入りたかったのもある」

 

「……ククッ、あきれ果てたぜ。島中を泥にまみれて這いずり回り、リーダーを特定する執念を見せときながら、その裏で優雅に風呂の準備だと? お前という男のバランス感覚は、どこか致命的に壊れてやがる」

 

 龍園は愉快そうに、そして心底不気味なものを見るような目で俺を睨んだ。

 

「だが、これで分かった。柊、お前は俺がこれまで相手にしてきたルールの中で踊る優等生じゃない。……ルールそのものを利用して、自分だけの遊び場を作る側の人間だ」

 

 龍園は立ち上がり、ポケットに手を突っ込んで出口へと歩き出す。だが、数歩進んだところで足を止め、肩越しに不敵な笑みを投げかけてきた。

 

「今回はお前の策に乗ってやった。約束通り、Cクラスの懐は潤ったからな。だが、勘違いするなよ。お前がどんな洗練された教育や訓練を受けてこようが、ここは実力至上主義の学校だ。次に俺がお前をターゲットに決めた時は……その冷静な盤面ごと、力ずくでひっくり返してやるぜ」

「期待しておく」

「フン……せいぜい、その高い視点から足元を掬われねえよう気をつけるんだな」

 

 龍園の足音が遠ざかり、ラウンジに再び静寂が訪れる。

 俺はぬるくなったコーヒーを飲み干し、窓の外に目を向けた。

 無人島試験での一週間は終わった。だが、この高度育成高等学校という名の小さな実験場での生活は、まだ始まったばかりだ。

 

 ポケットの中で、携帯端末が微かに震える。差出人はひよりからだ。

 

『無人島試験お疲れ様です、美輝くん。体調は大丈夫でしょうか。柊くんがいなければ、私たちはこれほどの結果を残せなかったと思います。

 もし良ければ、この後、一緒に読書をして過ごしませんか?』

 

 画面から伝わってくる彼女の穏やかな温度感に、張り詰めていた神経が少しだけ弛緩する。

 龍園との間に流れていた毒々しい空気とは対照的な、純粋な好意と静寂。

 

『ああ。今はラウンジでコーヒーを飲んでいる。ひよりの方こそ、体調は大丈夫か?』

 

 返信を打って間もなく、既読がついた。

 

『私は大丈夫です。

 では私がラウンジに向かいますね。美輝くんに紹介したい本がありますので読んでいただきたいです』

『ありがとう。楽しみに待ってるよ』

 

 俺は短く返信を送り携帯端末の画面を消すと、再びラウンジの風景が網膜に飛び込んできた。

 先ほどまで龍園が放っていた殺気立った熱量は霧散し、今はただ、空調の低い動作音と、遠くで聞こえる生徒たちの華やいだ声が重なり合っている。

 

 数分と経たず、ラウンジの自動ドアが滑らかに開いた。

 そこに立っていたのは、周囲の喧騒とは隔絶されたような、穏やかな空気を纏った少女。ひよりだ。彼女は胸に一冊の厚い本を抱え、俺の姿を見つけると、春の陽だまりのような微笑みを浮かべた。

 

「お待たせしました、美輝くん」

 

 彼女が対面の席に座ると、潮風の香りに代わって、古い紙のような、落ち着いた図書室の匂いが微かに漂う。

 

「いや、俺も今さっきコーヒーを飲み終えたところだ」

「ふふ、顔色が少し良くなったみたいで安心しました。船に戻った時は、とてもお疲れのようでしたから」

 

 彼女は慈しむように本をテーブルに置いた。その表紙には、使い込まれた跡と、少し難解そうなタイトルが刻まれている。

 龍園翔という劇薬との対話を経て、俺の脳内はまだ戦術や解析の残滓で支配されていた。だが、彼女が本を開き、その物語の一節を語り始めた瞬間、それらの冷徹な数字は意味を失っていく。

 

「この本、美輝くんならきっと気に入ってくれると思ったんです」

 

 ひよりの指先がページを捲る。

 俺は、彼女の隣でその文字を追いながら、ふと思った。

 

 俺に秀でた才能というものはない。

 盤面を支配し、過程を重視しながら結果を出すこと。凡才でありながらもそれは俺が旅してきた培った様々な経験とセンスによる信念。

 けれど、こうして誰かと静かに本を読み、言葉を交わす時間は、おそらく俺がこの箱庭に来なければ得られなかった、計算外の報酬なのだろう。

 

 窓の外、夕闇に溶けゆく海を背に、俺たちは静かに物語の海へと沈んでいった。

 

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