無人島試験が終えてからの翌日。未だに他クラスは試験結果に対して少し落ち着きが戻らないまま、客船は本土への帰路をのんびりと進んでいた。
船内の廊下を歩けば、すれ違う他クラスの生徒たちから突き刺さるような視線を感じる。昨日の今日だ、無理もない。Cクラスという、一学期の間はただの「問題児の集まり」と見なされていた存在が、他を圧倒する点数で頂点に立ったのだ。その中心にいたのが龍園ではなく、クラスの隅にいたはずの俺だと知る者はごく一部だが、それでも彼らの困惑と警戒は船内全体に重く立ち込めていた。
「あの」
自販機の前で足を止めると、不意に横から声をかけられた。
振り返ると、そこにはBクラスの一之瀬帆波が立っていた。いつもの明るい笑顔はどこか影を潜め、その瞳には隠しきれない困惑と、純粋な探求心が浮かんでいる。
「Cクラスの柊くんだよね?」
「そうだが、何か俺に用でもあるのか」
「……うん、ちょっとだけお話ししたくて。昨日発表された特別試験の結果なんだけど、Cクラスの630ポイントっていう数字……本当に驚いちゃって」
一之瀬は自販機の横に寄り添うように立ち、俺を真っ直ぐに見つめてきた。その曇りのない瞳には、他クラスへの敵意や憎しみではなく、ただ純粋な「どうして?」という疑問が宿っている。
「Aクラスや私たちのクラスが柊くんの……ううん、Cクラスの用意した偽のリーダー像に引っかかっちゃったってところまでは、クラスのみんなとも話し合ってなんとなく分かったんだ。でも……」
彼女は一度言葉を切り、少しだけ声を潜めた。
「それだけじゃ、あの点数には届かないよね? スポットの占有ポイントも、私たちが把握していた以上のペースで更新されてた。一体、どんな魔法を使ったの?」
魔法、か。
変わった表現だが、その中身は地道な泥泥の追跡とデータ解析の結晶に過ぎない。
「柊くん、今お時間いい?」
そこでまた一人、廊下の角から姿を現したのは、Dクラスの堀北鈴音だった。
相変わらずの毅然とした佇まいだが、その目元には隠しきれない疲労の色と、昨日から続く困惑の影が色濃く滲んでいる。
「堀北さんも……奇遇だね、同じことを聞きに来たのかな?」
一之瀬が少し驚いたように声をかけると、堀北は小さく首を振った。
「奇遇というより、彼がここにいるのを見かけてね。一之瀬さん、あなたに異論がなければ、私もその魔法の種明かしとやらに同席させてもらいたいわ」
「うん、私は構わないよ。Dクラスも今回は2位で、凄く健闘してたもんね。でも、柊くんが良ければ、だけど……」
二人の少女の視線が、同時に俺へと注がれる。
一之瀬の瞳にあるのは純粋な知的好奇心と、クラスを背負うリーダーとしての危機感。対する堀北の瞳にあるのは、前提を根底から覆されたことへの悔しさと、それを解き明かそうとする強い執念だ。
「別に構わない。いくらでも付き合うよ」
俺は自分の分のコーヒーのボタンを押し、そしてフルーツオレとブラックコーヒーのボタンを二回押した。缶が落ちてくる鈍い音が廊下に響く。一本を一之瀬に、もう一本を堀北に差し出すと、二人は意外そうな顔をしながらもそれを受け取った。
「ありがとう、柊くん。じゃあ、あっちのオープンデッキのベンチに移動しよっか」
客船の側面に位置するデッキに出ると、心地よい潮風が三人の間を吹き抜けた。無人島でのじっとりとした熱気とは違い、文明の力で管理された船の旅は実に快適だ。
ベンチに腰を下ろすと、堀北が冷えた缶を両手で包み込んだまま、鋭い口調で切り出してきた。
「単刀直入に聞くわ。柊くん、あなたは一体何をしたの? 今まで龍園くんの影に隠れて、裏で糸を引いていたのはあなたね……いえ、龍園くんすらも、あなたの掌の上で踊っていたのなら、話は別だけど」
「一之瀬さんの言う通り、リーダーの誤答を誘っただけでは説明がつかないわ。私たちのクラスのベースポイントは、最終的にリタイアの減点で大きく削られていた。けれど、Cクラスはほとんど無傷だった。仮に他クラスのリーダーを当てても、あの数字には届かないわ。スポット占有でポイントを得るとしても島中の全スポットの位置を把握していなければ、あんな芸当は不可能よ」
堀北の指摘は的を射ている。彼女は彼女なりに、敗因を厳しく分析してきたのだろう。
「魔法なんてものは使ってない。種を明かせば、ただの徹底した観測だ。初日の時点で、俺は島内の主要な地形とスポットの配置、そして各クラスが侵入するであろうルートをすべてマッピングした」
「初日のうちに……? でも柊くん、あの広い島を一日で回るなんて、物理的に無理があるんじゃ……」
一之瀬が信じられないといった様子で目を丸くする。
「一人で闇雲に走ればそうだろうな。だが、船が島を一周する時に地形を把握していた。そこから地形の起伏や水源の確保、日陰の有無を計算すれば、人間が『拠点』として選びたがる場所は数箇所に絞られる。あとは、その周辺にあるスポットの動線を逆算すればいい。俺はただ、他のクラスが動き出すよりほんの少し早く、確実に足跡をつけて回っただけさ」
「足跡……」
堀北がその言葉に敏感に反応し、眉をひそめた。
「まさか、あなたが昨日言っていた『完璧なリーダー像』というのは……」
「そうだ。俺はあえて特定のスポットを奪い返し、そこに落とし物と足跡を残した。疲れがピークに達した六日目、自分たちのスポットが奪われたと知れば、相手のリーダーは焦って確認に来る。そして、落ちているそれを見つけた時、人間はこう思うんだ。『Cクラスのリーダーは、これを落とすほど焦っていた。つまり、さっきまでここにいたのはリーダーであり、落し物を探しに来た人物こそがリーダーである』とね」
「……! 自分で見つけた答えだからこそ、疑う余地を持たなかった、ということね……」
堀北が戦慄したように息を呑む。ただ、流石にDクラスに罠を仕掛けるほど時間はなかった。
「人間は、自分が苦労して手に入れた情報ほど、それが偽物である可能性を排除したくなる習性がある。確証バイアスというやつだ。Aクラスの葛城も、Bクラスのお前たちも、俺が演出した『おっちょこちょいなリーダー』という偽の正解に、自ら飛び込んでくれた。だから、最終日の点呼直前に、俺が体調不良を装ってリタイアし、リーダーを山田に変更した時点で、君たちの解答はすべて『誤答』として確定したんだ」
「…各クラスのリーダーは、最初からあなたの視界に入っていたの?」
堀北が、手元で少しぬるくなったブラックコーヒーの缶を強く握りしめながら呟く。その指先は微かに震えていた。
俺は昨日、龍園に話したように各クラスのリーダーを特定したプロセスを淡々と二人に明かした。派閥争いという組織の歪み、そして信頼関係という美徳が生んだ隙と無関係そうな生徒を囮にしようとしたのも。それらを冷徹に突かれたのだと理解した瞬間、一之瀬の顔から血の気が引いていくのが分かった。
「そんな……私たちは、お互いを信じて、みんなを守るために網倉さんをリーダーにしたのに……それが、最初から柊くんに見抜かれていたなんて……」
一之瀬は、まるで自分の存在意義そのものを否定されたかのように、呆然とフルーツオレの缶を見つめている。彼女の「信頼」を否定するつもりはない。ただ、戦場においては、その信頼の形すらも一つの明確なパターン、つまりはデータに過ぎないというだけだ。
「柊くん、あなた、自分がどれだけ恐ろしいことを言っているか分かっているの?」
堀北が鋭い眼差しで俺を射抜く。その瞳には、悔しさを通り越した、未知の深淵に対する警戒心が宿っていた。
「私たちは、クラスポイントを数点、数十点守るために、泥をすすり、汗を流して一週間を必死に生き抜いたわ。それをあなたは、ただ一人で島全体を俯瞰し、まるで将棋やチェスの盤面でも動かすように他クラスを操っていた……あなたのような人間が、どうして今まで無名でいられたのか、それが一番のミステリーだわ」
「ただ、人より少しだけ、痕跡を読み取る技術と、人が陥りやすい心理の罠を知っていただけさ。それに、何も今回の試験で俺が時間を割いたのは、情報収集と罠の設置だけじゃない」
「え、そうなの?」
一之瀬が、涙を浮かべそうな瞳を瞬かせて俺を見た。
「Cクラスの環境整備にも力を入れていた。生竹を使った熱交換式の露天風呂、防虫効果のある月桃の葉で編んだ目隠し、そして泥を落とすためのスノコ床。あれらを作って、クラスメイトの精神的摩耗を防ぐことが、俺の無人島試験における最優先事項だった」
二人は同時に言葉を失った。
他クラスが生きるか死ぬかの瀬戸際でポイントを削り合っている中、この男は「いかに快適に風呂に入るか」に神経を注ぎ、正確的な情報収集に論理的な罠で他クラスを翻弄させていたのだ。
「……信じられないわ」
堀北が深く、本当に深い溜息をついた。
「贅沢な生活を送っているとは思っていたけれど、まさかそんな理由で、あの短時間に無人島に文明を築いていたなんてね。完敗よ。論理的にも、生存戦略としても、私たちはあなたに遠く及ばなかった」
「……もしかして、一学期最初の小テストで最後の三問を解いた生徒の噂も柊くんなの」
ここで無人島試験で関係ない一学期の話題が飛び出してきたことに、堀北が微かに目を見開いた。一之瀬は、何か巨大なパズルのピースがカチリと嵌まったかのような顔で、俺を凝視している。
「ああ、あの大学入試レベルの難問が出題されたっていう、あの小テストね。……まさか、あれを?」
「……さあな。何のことだ?」
俺はぬるくなったコーヒーを口に含み、視線を海へと戻す。肯定も否定もしない。それが俺のスタンスだ。だが、一之瀬は確信を得たように、少しだけ距離を詰めてきた。
一之瀬は確信を得たように、少しだけ距離を詰めてきた。
「はぐらかしても駄目だよ。あの時、学校中が『誰が解いたんだろう』って大騒ぎになってた。でも、これだけの知略を平然と形にできる柊くんなら、あの問題の意図も、その裏にある学校側の意図も……最初から全部見抜いてたんでしょ?」
その曇りのない瞳が、俺の網膜をじっと射抜く。
一之瀬帆波という少女は、善人でありながらも決して愚かではない。むしろ、その卓越した観察眼と直感は、時に冷徹な論理を超えて真実に肉薄してくる。
「……だとしたら、何のためにそんな真似をしたの?」
今度は堀北が、探るような、どこか焦燥感の混じった声で追及してきた。
「一学期が始まったばかりのあの時期に、自分の実力を隠すように最後の方だけ解く。それは、周囲を油断させるため? それとも、学校側にだけ自分の価値を示すため?」
「考えすぎだ、堀北。俺が解いたかどうかも不確定な上に、もし仮にそうだとしても、動機なんてものは単純なものさ。『そこに問題があったから』、あるいは『退屈しのぎ』。世界はそんな、大層な陰謀論だけで回っちゃいない」
俺が肩をすくめてそう言うと、堀北は不満そうに唇を噛んだ。
だが、隣の一之瀬は、小さく首を横に振った。
「ううん、違うと思うな。柊くんは、そんな理由で動く人じゃないよ。だって、あの過酷な島でクラスのみんなのためにお風呂を作っちゃうような人だもん。……本当はね、凄く優しい人なんだって、私、今の話を聞いて思ったの」
「……優しい、だと?」
堀北が、まるで信じられない怪異でも見るかのように声を裏返した。
「一之瀬さん、目を覚ましなさい。この男は、あなたたちの信頼という美徳すらデータとして扱い、完璧にハメた張本人よ? どこをどう切り取れば、優しいなんて評価が出てくるの?」
「だって、そうだよ」
一之瀬は柔らかく、けれど芯のある笑みを浮かべて、胸の前でフルーツオレの缶を包み込んだ。
「今回の試験、柊くんは一人で島中を回って、私たちの動きを全部把握してた。その気になれば……もっと徹底的に、私たちの心を折るような、冷酷な勝ち方だってできたはず。でも、柊くんがやったのは、環境を整えて、偽の答えを置いて、最後に自分はリタイアして、すっと舞台から降りることだった」
一之瀬の言葉に、潮風がひときわ強く、俺たちの間を通り抜けていく。
「誰も傷つけないための『リタイア』。……直接的な対立を避けて、ただシステムの上だけで完璧に勝つ。それって、相手のプライドや、クラスの絆を壊さないための、柊くんなりの『配慮』なんじゃないかな」
静寂が流れる。
一之瀬の突飛とも言える、しかし本質を突いた「解釈」に、堀北は言葉を失い、俺はただぬるくなったコーヒーを喉に流し込んだ。
利用するが、道具にはしない。
それは相手の存在そのもの、一人の人間としての意志への敬意だ。その結果を優しいと表現するあたり、やはり一之瀬帆波という少女は、この箱庭においてあまりに眩しすぎる光なのだろう。
「……買い被りだ。倫理観を無下に踏みにじるより、そのシステムの上で合理的に勝つ方が、結果として最も綻びが少ない。俺が選んだのは優しさではなく、ただの最適解だよ」
俺は自嘲気味にそう言って、空になった缶を軽く振った。
一之瀬は俺の否定を予想していたのか、それ以上は追及せず、「ふふ、やっぱりそう言うよね」と、どこか悪戯っぽく微笑むだけだった。
「それでも、私はあなたのその最適解に救われた部分があるわ」
それまで黙って俺たちのやり取りを聞いていた堀北が、小さく息を吐き出しながら口を開いた。その表情からは、先ほどまでの刺々しい警戒心が少しだけ薄れている。
「もしあなたが、龍園くんのように暴力や恐怖で私たちをねじ伏せにきていたら、私たちのクラスは今頃、立ち直れないほどの致命傷を負っていたはずよ。……不本意だけれど、あなたのその冷徹なまでの合理性が、結果として私たちの敗戦処理を最小限に留めてくれた。それは認めざるを得ないわね」
堀北はブラックコーヒーを一口だけ口に含むと、ふと何かを思い出したように視線を俺に向けた。
「ところで、柊くん。一つだけ確認させて。……あなた、Dクラスのリーダーが『王美雨』だと、本当に最初から気づいていたの?」
「ああ。挙動と足跡の解析、そして消去法から、六日目の時点では確信に変わっていた」
「……そう。本当に、すべてを見透かされていたのね。けれど、あなたは最終日に彼女への指名(ペナルティ)を行わなかった。彼女がリタイアしてリーダーが変更されたから、リスクを嫌って追わなかったと言っていたけれど……本当に、それだけの理由かしら?」
堀北の張り詰めた瞳が、こちらの反応を値踏みするように細められる。
「どういう意味だ?」
「王美雨さんは、クラスの中でも特に繊細で、精神的に脆い生徒よ。もし彼女が、自分の不注意のせいでクラスに多大な損害(ペナルティ)を与えたと知ったら、彼女の学校生活はそこで終わっていたかもしれないわ。あなたは……最初から、その結果を避けたんじゃないの?」
堀北の言葉に、隣の一之瀬が「あ……」と小さく声を漏らした。
二人の少女の視線が、再び俺へと集まる。
無人島試験という極限状態において、リタイアした生徒のその後のケアまで計算に入れる人間など、普通は存在しない。だが、この二人は俺という男の「不気味なまでのバランス感覚」を前にして、そこまでの深読みをせずにはいられないのだろう。
「深読みが過ぎるな、堀北。俺が追わなかったのは、最終日の限られた時間の中で、新リーダーを特定するためのリターンが、外した際のリスクに見合わなかった。ただの費用対効果の計算だ」
「そう。相変わらず、感情の起伏が見えない男ね。……まあ、いいわ。そういうことにしておくわ」
堀北はそれ以上追及することを諦めたように立ち上がり、髪を風に揺らしながら海の向こうを見つめた。
肯定も否定もしない俺の態度を、彼女は彼女なりの「納得」で処理したらしい。張り詰めていた肩の力を少しだけ抜いた堀北の横顔を見ながら、俺は手元の空き缶を指先で弄んだ。
「でも、柊くん」
今度は一之瀬が、ベンチからふわりと腰を浮かせ、俺の目の前で歩みを止めた。彼女の纏う空気は、先ほどまでの沈鬱なものから、いつもの前を向く強さを取り戻している。
「私、今回は本当に完敗しちゃったなって思ってる。柊くんの言う通り、私たちの『信頼』には、隙があったのかもしれない。……でもね、私はやっぱり、クラスのみんなを信じて戦うやり方を変えたくはないんだ」
その瞳に宿る光は、挫折を経てもなお、一切の濁りなく輝いていた。
「だから……次は負けないよ? 柊くんがどれだけ高度な計算をして、どれだけ完璧な環境を作っても、それを超えるくらいのみんなの力で、今度は私たちが勝ってみせるから」
宣戦布告。けれどそれは、一之瀬帆波という少女のどこまでも真っ直ぐで、純粋な決意の表れだった。他者を蹴落とすためではなく、自らの信念を証明するための言葉。
「……楽しみにしている」
俺の言葉に、一之瀬は「うん!」と満開の笑顔で頷いた。その眩しさに、隣の堀北が僅かに目を細め、それから俺へと冷徹な視線を戻す。
「一之瀬さんの言う通りね。手の内の一部が見えた以上、次からはこちらも対策を立てるわ……精々、その高い視点から私たちの逆襲を見届けることね」
「ああ。足元を掬われないように、精一杯用心させてもらうさ」
俺の言葉に、堀北は小さく鼻を鳴らし、一之瀬は嬉しそうに目を細めた。
「それじゃあ私はこれで。またね、柊くん。堀北さんも!」
一之瀬はふわりと手を振ると、すっかりいつもの元気を取り戻した足取りで、ラウンジの方へと歩いていった。敗北をただの挫折で終わらせず、次への糧へと変えるその前向きさは、やはり彼女がBクラスの絶対的な太陽である証なのだろう。
デッキに残されたのは、俺と堀北の二人だけになった。
潮風が一段と強く吹き抜け、彼女の黒髪をサラサラと揺らす。堀北は一之瀬が去っていった扉をしばらく見つめていたが、やがて視線を俺へと戻した。
「……改めて須藤くんと兄さんの件でお礼を言わせてちょうだい」
デッキに残された静寂の中、堀北は海を見つめたまま、絞り出すような声でそう言った。
一学期に起きた須藤の暴行事件の直後、俺は堀北に対し、彼を切り捨てるか、それとも背負って共に歩むかの選択を突きつけた。結果として、彼女は須藤の手を取ることを選び、俺は彼女のその意志を尊重して須藤に接触した。
「須藤くんは、停学が明けた後クラスメイト全員に謝罪しまるで別人のように変わったわ……いえ、荒々しさは相変わらずだけれど、自分の感情をコントロールしようと必死に足掻いている。今回の試験でも、文句一つ言わずにクラスの労働力として動き続けてくれたわ。あなたが彼に何を吹き込んだのかは知らないけれど……私一人の力では、絶対にあの短期間で彼をあそこまで変えることはできなかった」
「俺はただきっかけを与えたにすぎない。変わったのは、須藤自身の意志によるものだ」
俺が淡々とそう告げると、堀北は小さく息を呑み、それから観念したように視線を落とした。
「……どこまでも自分の功績にはしないのね。でも、そのきっかけを作ることがどれほど難しいか、私はこの数ヶ月で痛いほど知ったわ。そして……兄さんのことも」
堀北の脳裏に、生徒会長である兄・堀北学の姿が浮かんでいるのだろう。あの暴力事件から数日後、堀北学と堀北鈴音が話し合えるように場所を設け、見守らせてもらった。特に堀北学に対しては「妹とのコミュニケーションをしっかり取れ。自分という依存先から脱却させようにやり方が他にもあるだろ」的なニュアンスを込めたメールを俺は須藤の停学が明けたころ裏で密かに送っていた。
「兄さんは……あの後、私を部屋に呼んでくれたわ。これまでなら、ただ冷たく突き放されるだけだったはずなのに、あの時は『他者を見下すようではいつまで経っても上を目指す資格などない』と、厳しいけれど、私の歩むべき道を指し示してくれるような言葉をくれたの。……兄さんが、私に正面から向き合ってくれたのは、何年ぶりかしらね」
堀北はそこまで一気に語ると、自嘲気味に口元を綻ばせた。
「……あなたが兄さんに裏で何を伝えたのか、私には知る由もないけれど」
堀北は視線を水平線の彼方へと戻し、独り言のようにつぶやいた。
その声音には、一学期の頃にまとっていた刺々しい「拒絶」の気配はもうない。ただ、美輝という底の知れない存在に対する、奇妙な親近感と、それに比例するほどの深い怖れが混ざり合っていた。
「私はずっと、兄さんの背中だけを追いかけて、兄さんに認められることだけがすべてだと思って生きてきたわ。でも、今のクラスを率いて、この理不尽な試験を戦う中で、ようやく理解し始めたの。……他者を知ろうとしない人間には、誰もついてこないという、あまりにも当たり前の事実をね」
「……これは俺の友人の話だが」
俺は手元の空き缶を、近くのゴミ箱に向けて正確に放り投げた。乾いた音を立てて缶が収まるのを見届けながら、言葉を続ける。
「そいつはかつてとある人達の背中を盲目的に追いかけ、その存在に追いつくことだけを己の証明にしていた奴がいた」
潮風が、俺の声を水平線の彼方へと連れ去っていく。堀北は動かず、ただ海を見つめたまま、俺の言葉の一言一言を耳の奥へと滑り込ませていた。
「背中を追いかけ、その存在に追いつくことだけを己の証明にしていた……?」
堀北が鸚鵡返しにその言葉を呟き、俺の方へとなだらかな視線を向けた。
一之瀬が去り、劇薬のような緊張感が抜けたデッキには、ただ波の音と、俺たちの間で小さく渦巻く過去の残滓だけが残されている。
「ああ。そいつは『彼ら』が体現する圧倒的な強さや、一切の無駄がない洗練された合理性に魅せられていたんだ。追いつこうと必死に地を這い、彼らと同じ景色を見ることだけが、自分の不完全さを埋める唯一の手段だと信じ込んでいた」
「だが、ある日そいつはそいつの友人に気づかれされた。どれだけ地を這って、どれだけ痕跡を追いかけても、自分が彼らそのものになることはできない。影はどこまで伸びても、光そのものにはなれないようにな、と」
俺の言葉に、堀北は小さく息を呑んだ。その瞳が揺れている。まるで、自分自身が今まで目を背けてきた、あるいは気づかないフリをしてきた最も痛烈な矛盾を、目の前の男に淡々と解剖されているかのような――そんな表情だった。
「光そのものには……なれない」
「ああ。背中を追うということは、常にその人間の後ろを歩くということだ。その人間が歩いたルートをなぞり、その人間が残した正解を模倣する。だが、どれだけ完璧に模倣したところで、それは所詮『二番手』の焼き直しに過ぎない。自分自身の足で歩いていない以上、そこにはそいつ自身のセンスも、意志も存在しないんだ」
「……センスも、意志も、存在しない」
堀北はその言葉を咀嚼するように、何度も小さく唇を動かした。
彼女の手の中で、ブラックコーヒーの缶が小さくピキリと音を立てる。兄という絶対的な太陽の光に目を灼かれ、その影をトレースすることだけを正義としてきた彼女にとって、俺の言葉は、これまでの生き方そのものを根底から揺るがす劇薬に他ならなかった。
「じゃあ……そのあなたの友人は、どうしたの?」
堀北は、縋るような、あるいは答えを恐れるような複雑な瞳で俺を見た。
「簡単さ。追うのをやめて、隣に並ぶか、あるいは全く別の道を開拓することを選んだ。彼らの足跡をなぞる自分を認めつつも、自分の足で一歩を踏み出したんだ。その瞬間から、そいつの旅は模倣から自分だけの物語へと変わった」
俺は一呼吸置き、水平線の彼方を見つめる。
「堀北、お前が目指すべきなのは『堀北学の模倣品』になることじゃない。お前という人間が、これからどんな道を歩むかだ」
潮風が俺の制服の襟を激しく揺らす。
堀北は言葉を失ったように、ただ立ち尽くしていた。その瞳は大きく見開かれ、内面で激しい嵐が吹き荒れているのが手に取るように分かる。
兄の背中を追うなという言葉は、これまでの彼女の人生、彼女の努力、そのすべての否定に聞こえたかもしれない。だが、同時にそれは、彼女が「堀北鈴音」という一人の人間として自立するための、唯一の脱出口でもあった。
「……勝手なことを言わないでちょうだい」
長い沈黙の後、堀北は絞り出すような声で言った。その声は微かに震えていたが、そこには確かな拒絶ではなく、自分自身の弱さと向き合おうとする苦悩が混ざり合っている。
「私が……兄さんの焼き直しに過ぎないと言うの? 私はただ、あの人に認められるために、あの人が進んだ道を……」
「認められるために同じルートを歩む。それが模倣でなくて何だ?」
俺は冷徹に言葉を重ねた。容赦なく、彼女の心の防壁を削ぎ落としていく。
「お前は須藤の何を変えた? 『他者を知ろうとしない人間には誰もついてこない』。その気づきは、堀北学から与えられたものか? 違うはずだ。お前が不器用ながらも仲間の手を取ろうとしたからこそ得られた、お前だけの経験だ。その時、お前は堀北学の後ろではなく、間違いなく自分の足で歩いていたさ」
「あっ……」
堀北の胸が小さく上下した。
彼女の脳裏に、この一週間、無人島の大自然の中で必死にクラスをまとめようと足掻いていた自分自身の姿がフラッシュバックしたのだろう。
そこに、偉大な生徒会長である兄の影はなかった。いたのは、ただ必死にクラスメイトと向き合おうとしていた、未熟で、けれど懸命な「堀北鈴音」という一人の少女だ。
「……本当に、憎らしい男ね、あなたは」
堀北はふっと視線を落とし、自嘲気味に、けれどどこか憑き物が落ちたような、穏やかな笑みを唇の端に浮かべた。
「人の一番触れられたくない部分を、そうやって平然と抉り出していく。一之瀬さんはあなたを優しいなんて評価していたけれど、あなたはどこまでも勝手で、人の心を弄ぶ悪趣味な男よ」
「なんか急にディスられたんだが」
「……事実を述べたまでよ」
堀北はふいっと顔を背け、再び海へと視線を戻した。しかし、その耳元がわずかに赤く染まっているのを、俺は見逃さなかった。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。それは彼女の中で、一つの回答が出た証拠でもあった。
「あなたの言う通りかもしれないわね。私は今まで、兄さんの『完璧な姿』ばかりを見て、その背景にある兄さんの苦悩や、決断の重みには目を背けていたのかもしれない」
彼女はそう呟くと、手に持っていたブラックコーヒーの缶をゴミ箱へと静かに捨てた。金属音が、穏やかなデッキの空気に吸い込まれていく。
「柊くん、あなたには感謝しているわ。……不本意だけれど」
彼女は振り返り、真っ直ぐに俺の瞳を覗き込んできた。そこには、一学期の頃のような鋭さも、昨日までの混乱もなかった。ただ、一人の生徒として、目の前の「謎」を解き明かそうとする静かな知性が宿っている。
「けれど、勘違いしないで。私が兄さんの焼き直しをやめるとしても、それはあなたに従うことを意味しないわ。私は私自身のやり方で、Aクラスを目指す。……例えそれが、あなたという壁を乗り越えることだとしても」
堀北の決意表明を聞き届けた俺は、静かに頷いた。彼女の瞳には、兄という絶対的な基準から解き放たれ、自分自身の価値を探し始めようとする意志が宿っている。
「まあ、頑張れ」
「……相変わらず、どこまでも上から目線ね。でも、今のあなたには、その傲慢さを支えるだけの実力があることも認めるわ」
堀北はふっと表情を和らげ、そのままデッキの出口へと足を向けた。去り際、彼女は一度だけ足を止め、肩越しにこちらを振り返る。
「柊くん。あなたは自分の正体を、いつまで隠し通すつもり?」
「いや、もう出し惜しみはしないつもりだぞ」
その言葉の意味を理解したのか、堀北は短く息を呑み、それから少しだけ……本当に微かだが、口角を上げた。
「そう……。なら、これからが本当の勝負ね」
堀北はそう言い残すと、確かな足取りでデッキを去っていった。
デッキに残された俺は、手すりに寄りかかり、再び果てしない海原へと視線を移す。
受動的な情報収集は一学期で終わりだ。一学年だけにもとどまらず、他学年や教師、そしてこの学校を運営するシステムそのもの。これからは能動的に盤面を荒らさせてもらおう。