無人島の特別試験を終えてから3日。あれから何事もなく船内は穏やかな空気に包まれていた。
過酷な1週間を耐え抜いた生徒たちは、まるで重力から解放されたかのように、思い思いのバカンスを謳歌している。デッキで海風を浴びる者、プールではしゃぐ者、あるいは自室で泥のように眠り続ける者。
冷房が効いたラウンジの隅にあるソファに腰掛け、俺とひよりは読書の時間を共有していた。
手元にあるのは、船内のライブラリで見つけた少し古びたミステリー小説。ページをめくる微かな音と、グラスの中で氷が溶ける涼やかな音だけが、俺たちの間に流れる時間を静かに刻んでいる。
ふと視線を感じて顔を上げると、隣に座るひよりが本から目を離し、じっとこちらを見つめていた。その瞳には、いつもの穏やかな好奇心と、どこか深い安堵の色が混ざり合っている。
「……どうした?」
声をかけると、ひよりは悪戯が見つかった子供のように少しだけ肩をすくめ、それから嬉しそうに微笑んだ。
「いえ、こうしてまた美輝くんと、何に追われることもなく本を読めるのが、なんだかとても贅沢に感じられて」
「確かにそうだな。数日前まではこうしてゆっくりと過ごす時間はあまりなかったしな」
ひよりは小さく頷くと、また静かに視線を本へと戻した。彼女の柔らかな髪が、船内の空調に吹かれて微かに揺れる。
「無人島……サバイバルという非日常を経験したからこそ、今のこの何気ない時間が幸せに感じられるのですね」
「そうかもしれないな」
俺は手にしていた本の栞を挟み、軽く閉じた。
窓の外に目を向ければ、どこまでも続く水平線が、午後の強い日差しを浴びてきらきらと輝いている。ここが豪華客船の内部であり、高度育成高等学校という特殊な檻の延長線上であることを一瞬忘れてしまいそうになるほど、その景色は平和そのものだった。
「体調はもう大丈夫ですか」
ひよりは本を膝の上で閉じ、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
ひよりには前日、俺が無人島でしたことを明かしている。
俺が行ったのは一般的な学生どころか、大人であっても通常の社会生活ではまず習得できない専門的な技術の駆使。これらを実行するために身体的、精神的に自身を極限状態に追い込み、それを維持し続けたことへの懸念。ひよりの瞳の奥にあるのは、純粋な好奇心だけでなく、俺という存在の輪郭がどこか遠くへ消えていってしまうのではないかという、かすかな危惧のようにも見えた。
「ああ。疲労もとれたし、睡眠不足も解消された。もうすっかり万全な状態に戻っている」
俺の言葉を聞いて、ひよりは「よかった……」と、胸の奥に溜まっていた熱を吐き出すように小さく息を漏らした。その表情に浮かんだ安堵のグラデーションを見て、俺は自分が思っていた以上に、彼女に心配をかけていたのだと改めて自覚する。
ひよりという少女は、鋭い観察眼と高い直感を持っている。だからこそ、俺が無人島で見せた『技術』の異質さに気づき、それがどのような環境で培われたものなのか、その背景にある異質を本能的に察しているのだろう。だが、彼女はそこに無理に踏み込もうとはしない。ただ、今ここにいる俺の無事を、何よりも尊ぶように見つめてくれている。
「それに、ひよりがそうして隣にいてくれるおかげで、俺も余計なことを考えずに済んでいる」
俺がそう言葉を付け足すと、ひよりは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから初雪が解けるような、いっそ儚げとも言える笑みをこぼした。
「ふふ、美輝くんにそう言っていただけると、本を持ってお隣を陣取った甲斐がありました」
彼女は嬉しさを噛み締めるように、膝の上の文庫本を愛おしそうに両手で包み込む。
「ひよりが陣取った、なんて表現を使うのはなんか珍しい」
「そうでしょうか? これでも、美輝くんの隣という特等席を誰かに譲るつもりはありませんでしたから、少しだけ強気になってみたのです」
「それは頼もしいな」
冗談めかして言うと、ひよりは悪戯っぽく、しかしどこか真剣な眼差しをこちらに向けてきた。
普段の彼女は一歩引いたところで全体を眺めているような、超然とした雰囲気を纏っていることが多い。同じクラスの龍園の過激な行動に対しても、独自の視点を持って静観している。そんな彼女が「譲るつもりはなかった」と明確な独占欲を示すのは、確かに新鮮であり、同時にそれだけ俺たちの関係が変化してきていることの証拠でもあった。
「ふふ、驚かれましたか? 私だって、いつでもおとなしく本を読んでいるだけではないのですよ」
そう言って胸を張る彼女の仕草には、年相応の少女らしい愛らしさが詰まっていた。
その姿に俺は思った。
可愛い、と。
胸の内に浮かんだその直感的な感想を、俺は否定することなくそのまま受け入れた。ひよりの新たな一面に対しての新鮮さに、脳裏に刻まれた彼女の笑顔を反芻する。
「……どうかしましたか? そんなにじっと見つめられてしまうと、さすがに少し恥ずかしいのですが」
俺の視線がいつもより長く彼女に留まっていたせいだろう。ひよりは白い頬をほんのりと桜色に染め、照れ隠しのように手元にある文庫本の端を小さく指で弄んだ。
そしてまたその姿に思わず見惚れてしまいそうになるのを、俺は自制心でかろうじて押し留めた。
「いや、なんでもない。ただ、ひよりがそうやって自分の気持ちをはっきりと口にするのが、少し新鮮だっただけだ」
「まあ……そう言われてしまうと、なんだか自分がとても大胆なことをしてしまったような気がしてきますね」
ひよりは染まった頬を隠すように、文庫本を持ち上げて顔の下半分を覆った。本の隙間から覗く彼女の瞳が、気恥ずかしさと、それでも言葉を撤回しないという小さな意思を孕んで、潤んだようにきらめいている。
普段は周囲の混沌から一歩引いた特異点のような位置にいる彼女が、こうして自分の感情の揺らぎを露わにしている。その事実が、この静謐なラウンジの空気と相まって、妙に現実感を失わせるような感覚を俺に抱かせた。
「大胆なことをした、か。俺としては、そういうひよりの姿を見られるのは悪くないと思っているが」
俺の言葉に、ひよりはさらに本の位置を上げ、完全に顔を隠してしまった。上目遣いでこちらを覗いていた瞳すらも見えなくなる。しかし、本の縁から覗く耳の先端が、林檎のように真っ赤に染まっているのがはっきりと見て取れた。
普段、龍園率いるCクラスという荒波の中で、誰に対しても毅然とした、あるいはどこか超然とした態度を崩さない椎名ひよりが、ここまで分かりやすく狼狽している。その希少な光景は、俺の胸の奥にある種の満足感と、それ以上に言葉にし難い独占欲を呼び起こしていた。
静寂が再び俺たちの間に降りてくる。
しかし、それは試験中の張り詰めた沈黙とは根本から異なる、お互いの体温と呼吸の乱れが溶け合うような、濃密で、どこか甘やかな静けさだった。
本の向こう側で、ひよりが小さく深呼吸をする気配が伝わってくる。肺に冷房の効いた空気を送り込み、急激に跳ね上がったであろう鼓動を必死に宥めようとしているのだろう。その健気な抵抗が可笑しくもあり、同時に微笑ましい。
やがて、ひよりはゆっくりと文庫本を下げ、隠していた顔を覗かせた。
まだ頬には赤みが残りがちだったが、その瞳はしっかりと俺を捉えていた。
「……美輝くんは、ずるいです」
少しだけ尖らせた唇から漏れ出たのは、抗議というにはあまりにも甘い、拗ねたような声音だった。
「そうか? 俺はただ、思ったことを素直に口にしただけなんだが」
「そこがずるいのです。普段はあんなに冷静で、時々何を考えているか分からないミステリアスな雰囲気を出すのに……そういう温かい言葉を、不意打ちのように真っ直ぐ伝えてこられるのですから」
ひよりは小さく溜息をつき、今度は本当に困ったように眉を八の字に曲げた。
「まあ、それはお互い様だ。俺もひよりに不意を突かれるような言葉をもらうことがあるからな」
「そう、ですか……?」
ひよりは不思議そうに首を傾げ、その仕草に合わせて柔らかな髪が再び肩の上で滑った。
ここで突如として、かすかなバイブレーションの振動が、ソファのクッションを通じて俺の太ももに伝わり、ひよりの膝の上からも同様の短い電子音が響いた。
読書していたこともあり、マナーモードにしていたはずだ。それでも強制的に音がなるということは、重要性の高さが窺える。
俺たちは自然と視線を交わし、それから互いに携帯を取り出した。
それと同時に、船内アナウンスも入る。
『生徒の皆さんにご連絡いたします。先ほど全ての生徒宛に学校から連絡事項を記載したメールを送信いたしました。各自携帯を確認し、その指示に従ってください。また、メールが届いていない場合には、お手数ですがお近くの教員まで申し出てください。非常に重要な内容となっておりますので、確認漏れのないようお願いいたします』
「……今届いたメール、ですね。美輝くん、これは……」
ひよりが画面を見つめたまま、声音を硬くした。先ほどまでの甘やかな空気は瞬時に霧散し、ラウンジ全体の温度が一段下がったかのような錯覚を覚える。
俺もまた、自分の携帯の画面に表示された文字へと視線を落としていた。
『間もなく特別試験を開始いたします。各自指定された部屋に、指定された時間に集合して下さい。10分以上の遅刻をした者にはペナルティを科す場合があります。本日18時40分までに2階202号に集合して下さい。所要時間は20分ほどですので、お手洗いなど済ませた上、携帯をマナーモードか電源をオフにしてお越し下さい』
「特別試験のようだな」
携帯の画面に表示された機械的な文字列を見つめながら、俺は静かに思考を巡らせていた。
無人島という舞台の次の一手。だが、高度育成高等学校という組織の性質を考えれば、この不意打ちに近いタイミングでの揺さぶりこそが、彼らの常套手段であるとも言える。
「ひよりの方はどうだ?」
「……はい。私のほうにも、同じような内容のメールが届いています。ただ、集合場所と時間が少し違いますね。私は、2階の201号室に、20時集合となっています」
ひよりは画面を表示したままの携帯を少しだけ俺の方に傾けて見せてくれた。
画面に並ぶ文字の構成や注意事項の文言は俺のものと完全に一致しているが、彼女の言う通り、指定された階数、部屋番号、そして集合時間だけが異なっている。
俺の集合時間は18時40分。現在の時刻は15時を少し回ったところだ。開始まではまだ3時間以上の猶予があるが、ひよりとの差はおよそ80分。この時間差と部屋の分散が意味するものは何か。
ただ、今それを考えたところで手元にある限られた情報だけでは、正確な答えを導き出すことはできない。
俺は携帯の画面を閉じ、ソファの背もたれに体を預けた。
無人島での激闘からわずか3日。肉体の疲労は抜けたとはいえ、学校側は生徒たちに真の意味での休息を与えるつもりなど毛頭ないらしい。むしろ、バカンスという甘い毒で思考を鈍らせた瞬間を狙って、次なる牙を剥いてきた。
「集合時間まで読書を続けるつもりだが、ひよりはどうする」
「……そうですね。せっかくですから、私もこのまま美輝くんの隣にいさせてください。少し、心を落ち着けたいですし」
「分かった。それじゃあ、続きを読もう」
俺の言葉に、ひよりは小さく微笑んで「はいっ」と答えた。
ひよりは再び文庫本を開き、活字の並ぶ紙面へと視線を落とした。俺も手元のミステリー小説へと視線を戻し、先ほど栞を挟んだページを開いた。
指定された時刻まであと10分ほどのところで、俺は目的地に到着した。
普段このフロアに生徒がいないはずが、数人の生徒が近くの部屋に入っていくのが見えた。おそらく、彼らも俺と同じように、それぞれ異なる部屋や時間を指定されたのだろう。
202号室の前へと進み、扉を軽くノックするとすぐに返事が返ってきた。女性の、聞き覚えのある明るい声だった。
「はーい、どうぞー」
中から聞こえてきたのは、1年Bクラスの担任である星之宮知恵の声だった。いつも通りの軽薄さを含んだ、どこか緊張感に欠けるトーン。扉を開けて中に入ると、そこは客船の客室をそのまま流用したような、手狭だが小綺麗な一室だった。
中央に置かれたテーブルを挟んで、1年Bクラス担任の星之宮知恵が、いつものようにどこか気だるげな笑みを浮かべて椅子に腰掛けている。その手元には数枚の書類が置かれていた。
「お、きたきた。待ってたよ、柊くん」
星之宮先生は椅子の背もたれに体を預け、ひらひらと片手を振って見せた。その態度には、これから重要な試験の説明を行うといった厳格さは微塵も感じられない。むしろ、お気に入りの生徒を放課後の職員室に呼び出したかのような、気楽な空気を纏っていた。
「座って座って。そんなに警戒しなくても、先生は取って食ったりしないからさ」
促されるまま、俺はテーブルを挟んだ対面の椅子に腰を下ろす。
「失礼します。星之宮先生が担当なんですね」
俺はそう問いかける。Dクラスの茶柱先生でもなく、Aクラスの真嶋先生でもない。他クラスの担任がいるという事実。
「あはは、そんなに硬くならなくてもいーのに。別のクラスの担任だからって、いじわるしたりしないよ? ほら、先生ってば優しいでしょ?」
星之宮先生は机に両肘をつき、手のひらに顎を乗せて上目遣いでこちらを見てくる。その仕草は教師というよりは、男子生徒をからかって楽しむ小悪魔的なそれだった。だが、その爛漫な笑みの奥にある瞳は、こちらの表情の変化を、呼吸を、微細な挙動の一切を逃さまいと観察している。
「あと2人、かな。柊くんを含めて、この部屋には計3人の生徒が集まることになってるんだよねー」
星之宮先生は、トランプでも弄ぶかのように手元の書類を指先でトントンと叩いた。
この部屋に集まるのが3人。そして全員が同じ時間に指定されている。これまでの特別試験の傾向からして、完全にランダムに集められた面々だとは考えにくい。
「あとの2人は、誰なんですか?」
「んー? それはね、入ってきてからのお楽しみ、ってことで! ほら、もうすぐ時間だし、そろそろ来ると思うよ」
星之宮先生はいたずらっぽくウインクをして見せた。その言葉が終わるか終わらないかのタイミングで、部屋の扉が再び小さくノックされる。
「はーい、どうぞー」
星之宮先生の軽い返事と同時に、ゆっくりとドアが開く。
現れたのは、二人の男子生徒でありそのどちらも、俺が知るCクラスのクラスメイトだった。
「……あ、柊。お前もこの部屋だったのか」
入ってきた生徒のうちの一人、石崎が俺の姿を見るなり驚いたように目を見開いた。
「ああ。どうやら俺たち3人がこの部屋に集められたらしいな」
石崎の後ろから、もう一人の男子生徒がのっそりと部屋に足を踏み入れる。同じくCクラスの山田アルベルトだ。その巨躯は、客船の小綺麗な一室に収まると、それだけでかなりの圧迫感を周囲に与える。山田は俺と視線が合うと、小さく片手を挙げて「Hey」とだけ短く挨拶を交わした。
「おいおい、俺とアルベルト、それに柊って……これ、全員Cクラスのメンツじゃねえか」
石崎は戸惑いを隠せない様子で、室内を見回しながら自身の頭をガリガリと掻いた。
確かに彼の言う通り、この部屋に集められたのは俺を含めて全員がCクラスの生徒だ。
「うんうん、揃ったね! じゃあ二人とも、空いてる席に座っちゃって」
星之宮先生が手をポンと叩き、山田と石崎を促す。山田はその巨体を窮屈そうに折り曲げて俺の隣の椅子に腰掛け、石崎は落ち着かない様子でその隣にどっかりと座った。
「それじゃあ、時間ぴったりだし、早速特別試験の説明を始めちゃおっかな」
星之宮先生はそれまでの弛緩した空気を少しだけ引き締め、俺たち3人の顔を順番に見渡した。
「今回の特別試験では、1年全員を干支になぞられた12のグループに分割して行うことになりまーす。試験の目的はね、シンキング能力を問うことだよ」
「シンキング?」
石崎が眉間に皺を寄せながら、聞き慣れない単語をオウム返しにした。
「そう、シンキング。考える力、ってことね」
星之宮先生は人差し指を自分のこめかみに当てて、くるくると回してみせる。
「社会人に求められる基礎力には大きく分けて3種類あって、それがチームワーク、アクション、シンキング。それで無人島の試験はチームワークと、極限状態で生き抜くためのアクションが試されたでしょ? だから今度は最後のひとつ。皆さんの思考力をじっくりと見せてもらう番ってわけ」
「思考力、ですか……」
石崎はあからさまに嫌そうな顔をして、隣の山田の顔を見上げた。山田は表情を変えないまま、太い腕を組み、ただ静かに星之宮先生の言葉を待っている。
シンキング。社会人基礎力としてのそれは、課題発見力、計画力、そして創造力などを指す。これを学校側がどう試験に落とし込んできたのか。そして何より、この「部屋の構成」がどのような意図を持っているのかが重要だった。
「それでね。ここにいる3人は同じグループとなります。そして別の部屋でも『君たちと同じグループとなる』メンバーが、それぞれ今説明を受けている最中だよ」
ここまでの情報と、目の前の状況から、今回の試験の輪郭が少しずつ見え始めてくる。
わざわざ同じグループのメンバーを、別々の部屋に、おそらくは所属クラスごとに分割して説明を行っている。その意味は明白だ。学校側は、グループ全員が揃った状態での情報共有を意図的に遅らせ、最初の『解釈のズレ』や『クラス内での作戦立案』の余地を与えている。
「つまり、俺たち3人が入るグループには、A、B、Dクラスの生徒もそれぞれ別の部屋で説明を受けている、という認識で合っていますか」
「大正解! 柊くんは頭の回転が早いねー。先生、そういう男の子、嫌いじゃないな」
星之宮先生はトランプをめくるように、手元にある資料から1枚の用紙を取り出し、俺たちの前に差し出した。そこには、グループ名合計14名の名前が記載されており、それはAからDクラスで構成されていた。
A:石田優介 里中聡 戸塚弥彦 六角百恵
B:網倉麻子 墨田誠 山形ひな 米津春斗
C:石崎大地 柊美輝 山田アルベルト
D:井の頭心 森寧々 王美雨
「君たちの配属されるグループは『未』。見ての通り、各クラスから満遍なく集められた、合計14人の混成グループだよ」
星之宮先生が提示した用紙の文字を、俺は網膜に焼き付けるようにじっと見つめた。
Aクラスから4人、Bクラスから4人、Cクラスから3人、Dクラスから3人。計14名。
「おいおい、AとBが4人ずつで、俺たちのCとDは3人しかいねえじゃんか。これって人数的に不利なんじゃねえのか?」
石崎がさっそく不満げな声を上げ、用紙の文字を指差した。
「あはは、そこは今から説明するから、そんなに怒らないでよ石崎くん」
星之宮先生は不満顔の石崎をなだめるように手を振ると、手元の資料を再びトントンと整えた。
「12のグループすべてが均等な人数になるわけじゃないし、クラスごとの人数比率も微妙に違ったりするんだよね。でも、それがそのまま有利不利に直結するわけじゃないから安心、というか……むしろここからが、この試験の本当の『肝』になるんだから」
星之宮先生は悪戯っぽく微笑み、身を乗り出してきた。その仕草で、彼女の纏う香水の甘い香りが、一瞬だけテーブルを挟んでこちら側に漂う。
「この試験の目的は、グループで協力して答えを導き出すこと……なんだけど、学校側からそれぞれのグループのメンバーに、ある『役割』が与えられます。それが、この試験の核となる存在――『優待者』」
「ゆ、ゆうたいしゃ……?」
石崎がまたしても聞き慣れない単語に眉を寄せた。
「そう。14人のメンバーのうち、学校側からたった1人の生徒だけが『優待者』に指名されます。 そして、分かりやすく理解してもらうために結果を記したプリントを配るね。持ち出しや撮影などは禁止されてるからこの場で確認しておいてね」
星之宮先生は3枚のプリントを、俺、石崎、山田の前にそれぞれ1枚ずつ滑らせてきた。
配られたプリントを受け取り、俺はそこに記載されたテキストへと視線を落とした。
無機質なフォントで印字されたその内容は、この『未』グループ、ひいては今回の特別試験の勝敗を決定づける極めて緻密なルール群だった。
手元のプリントに印字された無機質な文字列を、俺は一文字も聞き漏らさないように、そしてその裏に隠された意図を完全に咀嚼するために、静かに目を走らせた。
【夏季グループ別特別試験説明:ルール概要】
本試験は、提示された4つの結果(成果)のいずれかを目指す思考型試験である。
■ 基本ルール
・試験開始当日午前8時に一斉メールを送られ、『優待者』に選定された者も同時にその事実を伝えられる。
・試験の日程は明日から4日後の午後9時までとする(1日の完全自由日を挟む)。
・1日に2度、グループだけで所定の時間と部屋に集まり1時間の話し合いを行い、自主性に全てを委ねるものとする。
・試験の解答は試験終了後、午後9時30~午後10時までの間のみ優待者が誰であるかの解答を受け付ける。また、解答は1人1回までとし、自分の携帯電話を使用し所定のアドレスに送信すること。しかし、『優待者』は答えを送信する権利はないとする。
・自身が配属された干支グループ以外への解答は全て無効とする。
・試験結果の詳細は最終日の午後11時に全生徒にメールにて伝える。
■ 成果の定義と獲得報酬
・結果1:優待者及び優待者の所属するクラスメイトを除く全員の解答が正解していた場合、グループ全員にそれぞれ50万プライベートポイントを支給し、優待者には更に50万プライベートポイントが支給される。(優待者の所属するクラスメイトも同様にポイントを得る)
・結果2:優待者及び優待者の所属するクラスメイトを除く全員の解答が1人でも不正解があった場合、優待者には50万プライベートポイントを支給する。
中々に考え込まれたルールだが、これだと優待者があまりにも得をしている。
「なぁ、これ……要するに『優待者』を隠し通すか、それとも全員で協力して『優待者』を当てるかってことか?」
石崎がプリントを凝視しながら、やや混乱気味に呟く。
「そうだね、基本的にはそういう解釈で合ってるよ」
星之宮先生は、石崎の言葉に満足そうに頷いた。しかし、その顔には「まだ続きがあるよ」と言いたげな含み笑いが浮かんでいる。
「でもね、この試験はそんなに甘いものじゃないんだなー。実は、今説明した『結果1』と『結果2』は、あくまで試験を『最後まで普通に続けた場合』のパターンに過ぎないの」
「普通に続けた場合……? ってことは、途中で終わらせる方法もあるってことですか?」
石崎が身を乗り出す。俺の隣で腕を組んでいた山田も、サングラスの隙間から覗くわずかにその鋭い眼光を星之宮先生へと向けた。
「そう! よく気づいたね、石崎くん。実はこの試験には、最終日を待たずに『途中でゲームを終わらせる権利』、優待者以外の全員に与えられているんだよねー。それがこれ。はい、プリントをめくってみて」
促されるままにプリントをめくると、そこにはこの特別試験を「思考型」から「心理戦・騙し合い」へと変貌させる、もう二つの選択肢が印字されていた。
■ 成果の定義と獲得報酬(承前)
・結果3:優待者以外の者が、試験終了を待たず学校側に解答しそれが正解の場合、答えた生徒の所属クラスはクラスポイントを50ポイントを得ると同時に、正解者にプライベートポイントを50万ポイント支給する。また、優待者を見抜かれたクラスは逆にマイナス50クラスポイントのペナルティを受ける。及びこの時点でグループの試験は終了となる。なお優待者と同じクラスメイトが正解した場合、解答は無効とし試験は続行となる。
・結果4:優待者以外の者が、試験終了を待たず学校側に解答しそれが不正解の場合、答えた生徒の所属クラスはマイナス50クラスポイントのペナルティを受け、優待者は50万プライベートポイントを得ると同時に優待者の所属クラスは50クラスポイントを得る。及びこの時点でグループの試験は終了となる。なお優待者と同じクラスメイトが不正解した場合、解答は無効とし受け付けない。
プリントの裏面に並ぶ文字を読み終えた瞬間、室内の空気が一段と重くなった。
結果3と結果4。これこそが、この試験をただの話し合いから、一歩間違えればクラスの命運を左右する熾烈な騙し合いへと変貌させる引き金だ。
「……なるほどな。最終日を待たずにフライングで解答できる、か。しかも正解すればクラスポイント50と大金が手に入り、外せばその逆のペナルティを背負う」
俺がそう呟くと、星之宮先生は「そゆこと!」と嬉しそうに指を指してきた。
「この結果3と4があるせいで、のんびり話し合いなんてしてられないんだよねー。だって、もし自分のクラス以外に優待者がいるって確信を持てたら、最終日を待たずにさっさと学校にチクっちゃった方が、自分のクラスだけが頭一つ抜け出せるでしょ? でも、もしそれが罠で、相手の嘘に引っかかって不正解だったら……目も当てられない大損害になっちゃう」
「う、嘘だろ……これ、めちゃくちゃヤバい試験じゃねえか……!」
石崎はプリントを握りしめ、額にじっとりと汗を浮かべていた。
彼の言う通り、これは極めてリスクの高いギャンブルになり得る。クラスポイント50の価値は、この学校においては非常に大きい。無人島試験で必死に稼いだアドバンテージなど、数人の独断やミスであっさりと吹き飛んでしまうほどの数字だ。
「おい、柊、アルベルト……これ、どうすりゃいいんだ? もし俺たちの誰かが『優待者』に選ばれたら、他のクラスの奴らに絶対バレちゃダメってことだよな?」
「Yeah,We must act cautiously. Rash actions can be fatal」
山田が低い声で石崎を宥めるように言った。その視線は、じっと俺の方を向いている。
「軽率な行動で命取りになるから慎重に行動しなければならない、という意味だ」
俺は山田の言葉を翻訳しつつ、石崎の焦りをなだめるように視線を向けた。
「山田の言う通りまずは落ち着け。まだ『優待者』が誰に割り振られるかも決まっていない段階だ。慌ててボロを出すのが一番危ない」
「お、おう……そうだな。柊がそう言ってくれると、なんか少し落ち着くわ……」
石崎は深く息を吐き出し、胸の前に掲げていたプリントをようやくテーブルの上へと戻した。
そんな俺たちのやり取りを、星之宮先生は実におもしろそうに、頬杖をついたまま眺めていた。
「うんうん、いいチームワークだね、Cクラス。柊くんが冷静に手綱を握って、アルベルトくんがドスを利かせて、石崎くんが……えっと、賑やかし?」
「賑やかしって何すか先生! 俺だって真剣に考えてますよ!」
石崎がすかさず噛みつくが、星之宮先生はそれを軽くいなして、手元の書類をパタパタと扇いだ。
「冗談冗談。でもね、みんな。今、柊くんが『まだ優待者が決まっていない』って言ったけど、明日になれば容赦なくグループ内の一人の元に通知が行く。それが自分のクラスの仲間かもしれないし、あるいは他のクラスの子かもしれない」
星之宮先生はそこで一度言葉を切り、少しだけ声を落として、俺たちの顔を覗き込んできた。その瞳に宿る光は、先ほどまでのふざけたものとは明らかに異なっていた。Bクラスの担任として、あるいはこの過酷な学校の仕組みを知る大人としての、冷徹な視線だ。
「グループ内での不信感。誰が嘘をついているのかという猜疑心。そして、他の部屋で今頃同じように作戦を練っているであろう、別クラスの仲間たちとの繋がり……この試験のタイトルは『シンキング』だけど、本質はね、『人をどこまで疑い、どこまで利用できるか』だよ」
その言葉は、冷房の効いた室内に静かに染み渡っていった。
「禁止事項なども記載されている通りだから、基本ルールとあわせてしっかり確認しておいてね」
禁止事項には、他人の携帯を盗んだり、脅迫行為で優待者に関する情報を確認することや勝手に他人の携帯で解答する行為は『退学』という最大の処罰が待っている。
また、怪しい行為が発覚した場合、徹底した調査が行われると明言されていたり、脅されて噓をついたケースも同様に退学の可能性が明示されている。
他にも試験終了後は直ちに解散し、一定時間他クラスの生徒同士での話し合いも禁じられており、破れば退学と記されている。
学校側から送られてくるメールの複製、削除、転送、改変などの行為も禁止されており、メールを改竄して悪用されることは認められてない。それはつまり、情報を共有するときに高い信頼性を担保できるという意味でもあった。メールそのものを偽造することは規約上不可能だからだ。
「君たちは明日から、午後1時、午後8時に指示された部屋に集まることになるから、遅れないようにね。当日は部屋の前にそれぞれのグループ名の書かれたプレートがかけられているから、それを目印にして。あ、そうそう、初顔合わせの際は自己紹介を忘れないようにねー」
星之宮先生はそう言って、再びいつもの緊張感のない、ふわふわとした笑顔に戻った。
「それから優待者は学校側が『公平性を持って、厳正に選定』しているからね。優待者の変更は一切受け付けないから、そこは覚悟しておいて…さて、先生からの説明はこれでおしまい! 何か質問はある? なければ、もう解散していいよー」
星之宮先生は手元の書類を綺麗に揃えると、机の上にトンと置いて、解放を告げるように両手を広げた。
「……いえ、特にありません。ありがとうございました」
俺がそう言って立ち上がると、石崎と山田もそれに倣って椅子を引いた。
一礼して部屋を出ると、船内の廊下には冷房の風が静かに流れていた。数分前までいた部屋の、あの星之宮先生が放っていた独特のプレッシャーから解放されたせいか、石崎がわざとらしく大きなため息を漏らす。
「はぁー……緊張した。あの先生、なんかふわふわしてる癖に、時々目が笑ってなくて怖えんだよな。なぁ柊、これからどうする? すぐ龍園さんに報告に行くか?」
「いや、まだ早い。学校側からの公式なメールは明日届くことになっているし、現時点で得られたのはルール概要だけだ。まずは各自で頭を整理して、龍園から招集がかかるのを待つのが懸命だろう。山田も、それでいいか?」
俺の問いかけに、山田は無言で深く一度頷き、「See you」と短く残して、自身の巨体を揺らしながらエレベーターの方向へと歩き出した。
「ま、そうだな。じゃあ俺も部屋に戻るわ。またな、柊」
石崎もどこか嵐の前の静けさを感じ取っているのか、いつものような威勢の良さはなく、少し硬い表情のまま自分の客室へと戻っていった。
一人廊下に取り残された俺は、静かに歩みを進めながら、先ほど網膜に焼き付けた『未』グループの座席表を脳内で反芻していた。
思考力、猜疑心、そして騙し合い。
星之宮先生が告げた言葉の通り、この試験は無人島のような体力勝負ではない。見えない敵の輪郭を、限られた情報と心理描写から炙り出す高度な情報戦だ。
明日になれば、14人のうちの誰か一人に『優待者』の通知が届く。
それがCクラスの誰か、あるいは俺自身であれば「隠し通す」戦いが始まり、他クラスの誰かであれば「暴き立てる」戦いが幕を開ける。どちらに転んでも、平穏なバカンスがこれで完全に終わりを告げたことだけは確かだった。