夏季グループ別特別試験の初日1回目、試験開始時刻の5分前。
俺は石崎、山田と共に『未』グループの話し合いが行われるであろう部屋へと向かっていた。
指定された部屋の前に到着すると、星之宮先生の予告通り、ドアには『未』と書かれたアクリル製のプレートが掲げられている。
すでに廊下の空気は昨日までのバカンスのそれとは一変し、すれ違う生徒たちの間には、見えない刃を突きつけ合うようなピリついた緊張感が漂っていた。
「……なあ、柊。もう俺たちの誰かにメールが来てるかもしれないんだよな」
石崎が喉を鳴らしながら小声で聞いてくる。
学校側からの『優待者選定メール』は、今朝の午前8時にすでに全生徒へ配信されている。つまり、部屋に入るこの瞬間、俺たち3人はすでに「自分が優待者であるか否か」を知った状態で、他のクラスの面々と顔を合わせることになる。
「ああ。焦る必要はない。気楽にいつも通りにしていればいい」
「お、おう。分かってるよ……」
「Yeah. Don't dynamic, be natural」
山田が重低音の効いた声で石崎の肩を叩く。動揺せず自然体でいろ、という彼なりの忠告だ。
俺は『未』グループの部屋のドアノブに手をかけ、躊躇なく押し開けた。
室内に足を踏み入れた瞬間、すでに着席していた生徒たちの視線が一斉に俺たちへと突き刺さった。
部屋の中央には長方形の大きなテーブルが置かれ、それを囲むように椅子が配置されている。室内は冷房が効きすぎているほどに冷えていたが、それ以上に、各クラスの思惑が複雑に絡み合った重苦しい空気が充満していた。
「あ……Cクラスの、石崎くんだ」
真っ先に声を上げて俺たちを見たのは、Bクラスの網倉麻子だった。その隣には同じBクラスの山形ひな、米津春斗、墨田誠の3人が固まって座っている。一昨日の今日だ。無人島特別試験でリーダーを俺に見破られ、Bクラスのポイントを削られる要因となった網倉の瞳には、明らかな警戒と、どこか気圧されたような色が浮かんでいた。
「……フン」
その対面に座るAクラスの陣営からは、戸塚弥彦が露骨に不快そうな鼻鳴らしを響かせた。
彼もまた、前回の試験でAクラスのリーダーに据えられながら、俺によってリーダーを暴かれ、Aクラスを「10ポイント」という破滅的な自滅に追い込んだ張本人だ。その横には石田優介、里中聡、六角百恵の3人が、プライドを傷つけられたエリート特有の、冷徹で刺々しい視線をこちらに向けている。
そしてテーブルの端には、Dクラスの井の頭心、森寧々、そして王美雨の3人が小さくなって座っていた。王美雨はリーダーとしての責務による精神的負担から回復しているようだが、Cクラスの、特に山田アルベルトの巨躯が室内に入ってきたことで、怯えたように肩を震わせている。
「おいおい……なんだよこの空気。お前ら、お通夜でも始めてんのか?」
石崎が虚勢を張るように声を上げ、俺の隣の椅子を引いてどっかりと腰掛けた。山田はその巨体を窮屈そうに折り曲げ、俺の斜め後ろに位置する席に静かに座る。
俺はテーブルに並ぶ全員の顔をゆっくりと見渡した。
誰が微かに視線を泳がせているか。誰の呼吸が浅いか。誰が携帯端末を過剰に気にしているか。
星之宮先生の言う通り、この試験のタイトルは『シンキング(思考)』だが、その本質は『猜疑心と環境掌握』だ。
『ではこれより1回目のグループディスカッションを開始します』
午後1時。壁の時計の針が頂点を指したのと同時に、部屋のスピーカーから無機質なチャイムが鳴り響いた。
夏季グループ別特別試験、第1回目。1時間の話し合いの時間が、静かに幕を開けた。
ディスカッションの開始を告げるアナウンスが響いた後も、室内の沈黙は破られなかった。
誰もが先陣を切るリスクを恐れ、他者の出方を窺っている。
特にAクラスの戸塚弥彦は、テーブルの上で組んだ両手に異様なほど力を込め、俺を射殺さんばかりの視線で見つめ続けていた。無人島での失態を葛城にどう咎められたのかは知らないが、その焦燥と敵意は隠しきれていない。
「……まずは自己紹介から始めようか。一応、学校側からの指示があったことだろうし」
俺が静かに言葉を発すると、室内の張り詰めた空気がわずかに揺れた。
他クラスの生徒たちが、値踏みするような、あるいは警戒を強めるような視線を俺に集める。無人島特別試験で圧倒的な成果を叩き出し、彼らの戦略を文字通り「粉砕」した張本人が口を開いたのだ。その一言の重みは、彼らにとって無視できるものではなかった。
「そうだね。学校からの指示だし、それが無難だと思うよ」
俺の提案に真っ先に同調したのは、Bクラスの網倉だった。
網倉は引きつりそうな笑みを懸命に整えながら、周囲を促すように言葉を続けた。
「いつまでも黙っていても時間がもったいないし、まずはAクラスから順番に名前だけでも言っていかない?」
彼女の提案は極めて常識的であり、場を膠着状態から動かすための無難な一手だ。
「チッ、勝手に仕切るなよ」
吐き捨てるようにそう言ったのは、やはりAクラスの戸塚弥彦だった。彼は椅子の背もたれに深く体を預け、腕を組んで俺を睨みつける。
「自己紹介なんて時間の無駄だろ。ここにいるメンバーの顔と名前くらい、全員分かっているはずだ。それとも何だ? Cクラスの柊は、俺たちの名前も覚えられないほど頭が悪いのか?」
「おい、戸塚! お前、柊に向かって何言ってやがる!」
石崎が机を叩いて立ち上がろうとしたが、俺はそれを片手で静かに制した。石崎は不満げに顔を歪めたが、俺の視線を受けると、ぐっと言葉を飲み込んで椅子に座り直した。その一連の動作を見たAクラスの面々の目が、微かに細くなる。Cクラスの切り込み隊長であるはずの石崎が、これほど簡単に俺の指示に従うという事実自体が、彼らにとっての新たな脅威の証明に他ならないからだ。
「だが、これは学校側が提示した『初顔合わせの際は自己紹介を忘れないように』という、一種のルール、あるいは推奨事項だ。これに従うか否かという些細な行動すらも、この試験における各クラスのスタンスを測る指標になる。お前がそれを拒絶するというなら、Aクラスは『協調の意思がない』というスタンスだと受け止めるが、それで間違いないか?」
「くっ……!」
戸塚が言葉に詰まり、顔を僅かに紅潮させた。論理的に退路を断たれ、自らの感情的な反発が「Aクラス全体の不利益」として解釈されるリスクを瞬時に理解したのだろう。
「チッ、分かったよ。自己紹介すればいいんだろ――Aクラスの、戸塚弥彦だ。これで満足か?」
吐き捨てるように自分の名前を告げた戸塚に続き、その横に座る石田、里中、六角の3人も、事務的に、しかしこちらへの警戒を隠そうともせずに名乗りを上げた。
彼らAクラスの姿勢は一貫している。前回の無人島試験で柊美輝という「イレギュラー」に完璧に裏をかかれ、クラスポイントを大きく喪失したという事実が、彼らのプライドに深い傷を負わせているのだ。だからこそ、今回は一歩も引くまいと、全身から刺々しい防衛本能を放っている。
「ありがとう。では、次はBクラス、お願いできるか?」
俺の促しに、網倉麻子はホッとしたように小さく息を吐き、隣のメンバーと視線を交わした。
「うん。じゃあ私から。Bクラスの網倉麻子です。こっちが山形ひなさん、墨田誠くん、米津春斗くんだよ。よろしくね」
網倉は努めて明るく振る舞おうとしていたが、その声のトーンには隠しきれない緊張が混じっていた。ただ、俺が思っていたよりも彼女たちの表情にはCクラスに対する、いや俺に対しての敵意そのものがほとんど感じられなかった。
おそらく一之瀬は前日、俺たちが話したことを共有している。一之瀬が「柊美輝は冷徹なだけではなく、綻びを最小限に抑えるために最適解を選ぶ人間だ」とクラスに説いているか、あるいは「柊くんは敵として恐ろしいけれど、決して理不尽な暴力を振るったり卑劣な方法をとる人ではない」と信頼の言葉をかけているのだろう。
網倉の言葉の端々に含まれる微かな温かみが、一之瀬による影響がこのグループにも届いていることを証明していた。
「Cクラスの石崎大地だ。こっちのデカいのが山田アルベルト。で、こっちが柊美輝だ。よく覚えておけよ、特にAクラスの無能さんはな」
「なんだと、石崎……!」
「Hey, Ishizaki. Stop.」
山田アルベルトが低く重たい声で石崎の言葉を遮った。その太い腕が石崎の肩を軽く叩くだけで、部屋全体に威圧感が行き渡り、戸塚もそれ以上言葉を続けることができなくなった。
石崎は不満げに首をすくめたが、すぐに口を閉じた。
「……最後はDクラス、お願いできるか?」
俺が視線を向けると、Dクラスの3人は一瞬体を強張らせた。しかし、中央に座る王美雨が、自らを奮い立たせるように小さく拳を握り、こちらをまっすぐに見つめ返してきた。
「Dクラスの、王美雨です。こちらは井の頭心さんと、森寧々さんです。……私たちは、今回の試験で皆さんと不必要な争いをするつもりはありません。お互いに利益を得られる方法があるなら、協力したいと考えています」
王美雨の言葉には、無人島での過酷な経験を経たからこその、確かな芯があった。以前の彼女であれば、Cクラスの威圧感にただ怯えるだけだったかもしれない。だが、あの島で培った経験により彼女は、今こうして自らの意思で交渉の席に立っている。
これで14名全員の顔ぶれとスタンスが揃った。
自己紹介という最初のハードルを越えたところで、室内に再び静寂が戻る。時計の針は1時15分を回ろうとしていた。残り時間は約45分。
「さて、全員の紹介が終わったところで、この試験の進め方に提案のある者はいるか?」
張り詰めた均衡の中、真っ先に動いたのはやはりBクラスだった。
「私たちまずはこの試験の構造について整理するべきだと思う。昨日配られたルールを見る限り、私たちは大きな選択を迫られているよね」
網倉麻子は慎重に言葉を紡ぎ出した。その表情には、一之瀬から受け取ったであろう「対話による共存」の意思が滲んでいる。
「結果1を目指して全員が協力し、最終日に正解を導き出すのか。それとも、結果3や4を狙って、誰かが裏切ってで解答を行うのか……。Bクラスとしては、不必要なペナルティや衝突を避けるために、全員が50万プライベートポイントを得られる『結果1』を目指すのが一番綺麗なんじゃないかって考えてる」
網倉の言葉は、一之瀬率いるBクラスの理想主義をそのまま体現したものだった。誰も傷つかず、全員が富を得る。確かに机上の空論としては最も美しい。
「フン、おめでたい頭をしてるな、Bクラスは」
だが、その理想を容赦なく踏みにじるように、Aクラスの戸塚が冷笑を浮かべた。彼は組んだ腕に力を込め、網倉を、そして俺を交互に睨みつける。
「全員で協力して『結果1』だと? そんなものが成立するのは、全員が一切の嘘をつかず、手の内を完全に明かした場合だけだ。自分が優待者だと名乗り出れば、他クラスのハイエナどもに『結果3』の裏切り者によって食い物にされるリスクを背負うんだからな。そんな状況で、誰が他人の言葉を100%信じられる?」
戸塚の指摘は、感情論による反発ではなく、この試験の欠陥を突いた極めて現実的なものだった。
この『干支試験』における最大の呪縛は、「優待者だと名乗り出ることのリスク」が大きすぎる点にある。もし仮に、誰かが「私が優待者です。みんなで結果1を目指しましょう」と善意で告白したとしても、別のクラスの人間がそれを聞きつけた瞬間、携帯を操作して解答(結果3)を行えば、その解答者のクラスだけがクラスポイント50と大金を得て、優待者のクラスはマイナス50ポイントの奈落に落ちる。
つまり、この試験における「信用」とは、背中を向けた相手がナイフを握っていないと盲信するに等しい、極めて危ういギャンブルなのだ。
「それは……でも、最初から疑い合っていたら、結果2の『誰かが不正解』という最悪の結末を迎えるだけだよ? それよりは、話し合いのルールを決めて、少しずつ信頼関係を築いていくべきだと思う」
「話し合いのルール、か。言葉で言うのは簡単だがな」
戸塚は鼻で笑い、さらに攻撃的な言葉を重ねようとした。しかし、網倉も引かない。一之瀬帆波の背中を見てきた彼女にとって、最初から対話を放棄し、互いを嵌め合うだけの空間に甘んじることは、クラスの理念に反する行為だった。
「私たちは本気で言っているよ、戸塚くん。無人島特別試験で、私たちは協力することの大切さを学んだはず。それをここで無駄にしたくないの」
「綺麗事は島に置いてくるべきだったな。ここは冷房の効いた豪華客船の中だが、中身はあの泥まみれの島以上に足の引っ張り合いが推奨されている場所だ。違うか、Cクラスの柊?」
唐突に矛先がこちらへ向けられた。戸塚の瞳には、かつてCクラスに完璧に出し抜かれたことへの屈辱と、それをここで挽回してやろうという歪んだ執念が燃えている。
ここで俺がどう答えるかによって、この部屋のパワーバランスは一気に傾く。Aクラスの他の3人(石田、里中、六角)も、俺の出方を窺うように視線を鋭くした。
「戸塚、お前の言い方は極端だが、指摘している本質自体は間違っていない」
俺が静かに肯定すると、戸塚は一瞬意外そうに目を見開いた。
「この試験において、最も価値が高いのはプライベートポイントではなく『クラスポイント』だ。そして、結果3と結果4の存在は、明らかにそのクラスポイントの強奪を促している。学校側は俺たちに、仲良く50万ポイントを分け合うことなど期待していない」
「な、なら、柊くんも裏切り(結果3)を推奨するってこと……?」
網倉が悲しげに、そして恐怖を孕んだ目で俺を見てくる。Bクラスの山形や米津も、やはりCクラスは敵だと確信したように身構えた。
「いや、そうは言っていない。俺が言いたいのは、ただ一つだ。網倉、お前たちの目指す『結果1』は美しいが、それを実現するためには、それを納得させるだけの説得力が必要なんだ」
「説得力……?」
網倉はすがるような、しかし困惑の混じった瞳で俺の言葉を繰り返した。
「例えば、最終日の2回目の話し合いにおいて、全員が同時に自らの携帯を見せ合い共有することで誰かが途中で出し抜くリスクは極限にまで抑えられる。そのように、ルールを逆手に取った『裏切りを不可能にするシステム』を構築しない限り、どんなに言葉で信頼を訴えても機能はしない、ということだ」
俺が静かにそう告げると、室内の空気が一瞬で凍りついた。そう、昨日の星之宮先生によるルール説明の時に、基本ルールには確かにこう記載されていた。
『試験の解答は試験終了後、午後9時30~午後10時までの間のみ優待者が誰であるかの解答を受け付ける』
この一節が持つ真の意味に、今この瞬間、この部屋にいるどれだけの生徒が気づいているだろうか。
「最終日の、同時提示……?」
網倉がぽつりと呟き、自身の携帯端末へと視線を落とす。彼女の脳内で、バラバラだったパズルのピースが急速に組み合わさっていくのが分かった。一之瀬帆波の側近としてクラスを支えてきた彼女は、決して頭が悪いわけではない。ただ、Bクラス特有の「善意と信頼」というフィルターが、ルールの冷徹な構造を直視することを遮っていたに過ぎない。
「……そう、か。午後9時30分から10時までの間は、もう試験終了後……つまり、誰が優待者であるかを暴いたとしても、その時間帯のみにしか解答は認めらない。試験自体がもう終わっているから……!」
網倉の言葉に、隣に座る山形ひなや墨田誠もハッとしたように顔を上げた。
この『干支試験』における最大の罠。試験が完全に終了した後の提出される解答はその30分間のみにしか認められず、システム上、結果3・4の処理は発生せず全員が正解なら結果1、一人でも間違えれば結果2という、純粋な二者択一へと移行するのだ。
「だから、本当の意味で全員が『結果1』という最大効率のプライベートポイントを獲得したいのであれば、試験期間中の4日間に優待者を特定しようと躍起になる必要はどこにもない」
俺が淡々と告げると、Bクラスの面々は驚きと、どこか救われたような表情を浮かべた。特に網倉は、目の前の霧が一気に晴れたかのように、俺を見る目を輝かせている。
「それなら……! それなら本当に、誰も裏切ることなく、全員が手を取り合ってポイントを手に入れられるってことだよね!? 柊くん、やっぱりあなたって人は――」
「おいおい、おめでたいなBクラス。本当に脳みそに花畑でも咲いてるんじゃないか?」
網倉の言葉を傲然と遮ったのは、やはりAクラスの戸塚弥彦だった。彼は机の上に身を乗り出し、網倉を、そして俺を嘲るような視線で睨みつけた。
「柊の言ったことは、あくまで『全員が最初から結果1だけを求めている』という前提条件がなければ成立しない絵空事だ。だが、この学校のシステムを思い出せ。俺たちが喉から手が出るほど欲しいのは、はした金のプライベートポイントなんかじゃない。クラスの序列を決定づける『クラスポイント』だろ!」
戸塚の言葉に、Aクラスの石田や里中、六角も深く頷いた。彼らの目にあるのは、前回の試験で失ったアドバンテージを取り戻さなければならないという、強固な義務感とエリートとしてのプライドだ。
「結果1で得られるクラスポイントは『ゼロ』だ。クラス全員の財布が潤うだけで、Aクラスとしての価値は一歩も前に進まない。だが、結果3を達成すれば、クラスポイントが50も手に入る。無人島で失った分を取り戻す絶好のチャンスを、なぜ他クラスとの仲良しごっこのためにドブに捨てなきゃならないんだ?」
戸塚は鼻で笑い、今度は俺に向かって指を突きつけた。
「それに、柊。お前がさっきからもっともらしい顔で提案している案自体、俺たちに対する卑劣な罠なんじゃないか? 『最終日まで話し合いを停滞させ、全員の警戒を緩めさせたところで、自分たちCクラスだけが裏切り結果3を掻きさらう』――無人島であれだけのことを仕掛けてきたお前らなら、それくらいのことは平気でやりかねないからな!」
その言葉が室内に響き渡った瞬間、Dクラスの井の頭や森が息を呑んだ。
一度植え付けられた強烈な不信感は、どれだけ正論を説こうとも、容易には拭い去れない。無人島特別試験において、俺という存在が他クラスに与えたトラウマは、それほどまでに深かったのだ。
戸塚弥彦の言葉は、この特別試験のルールが内包する「囚人のジレンマ」を極めて正確に表現していた。
どれほど論理的なシステムを提示しようとも、発言者の背後に潜む「実績」が、その言葉を歪んだ形へと変質させてしまう。無人島特別試験でAクラスを、そしてBクラスを完膚なきまでに叩きのめしたという厳然たる事実が、今や俺のすべての言葉を『狡猾な罠』へと反転させるフィルターとして機能していた。
「じゃあ、こうしよう。俺たち3人は試験終了までの間、解答しないと誓おう。石崎、山田。お前たちもそれでいいな」
「え? ああ、柊がそう言うなら、俺は一切余計なことはしねえよ。なぁ、アルベルト?」
「Yeah」
石崎が即座に頷き、山田が低く短い肯定を返す。二人の返答を確認した俺は、視線を再びAクラスの陣営へと戻した。
石崎と山田の迷いのない即答は、彼らにとって想定外だったのだろう。戸塚は突きつけた指を止めたまま、怪訝そうに眉をひそめた。
「……口先だけで何とでも言える。そんな誓いに、何の意味がある?」
「なら、誓約書でも書くか? 俺たちが試験途中に解答を送信した場合、退学処分、あるいはそれに準ずるペナルティを課しても構わないという内容のな。学校がそれを正式な契約として受理するかは別として、各クラスの担任を立ち会わせてサインするくらいの場は設けてもいい」
俺の放ったあまりに具体的な『担保』の提示に、戸塚は息を詰まらせた。
そこまで退路を断つような提案をしてくるということは、本当にCクラスに裏切り(結果3)の意思がないのではないか――エリートとして論理を重んじるAクラスだからこそ、その確度の高さに戸惑いを隠せなくなっている。
「……そ、そこまでするっていうの、柊くん?」
網倉が慄くように呟く。俺の提示したやり方は、Bクラスの目指す『信頼による融和』とは根本から異なる、お互いの首に縄をかけ合うような『絶対的抑止力』による平和の構築だった。
「こうでも言わないとAクラスは納得できないだろう?」
俺が淡々と告げると、室内の空気は完全にCクラスの、いや、俺個人の支配下に置かれた。
戸塚は悔しげに奥歯を噛み締め、それ以上反論の言葉を見つけられずにいた。彼がどれだけ叫ぼうとも、俺が提示した「誓約書」という絶対的な抑止力の前には、あらゆる猜疑心が無力化されてしまう。
「だからと言って皆にも同じことを強要するつもりはない。これはあくまで、俺たちCクラスの誠意……いや、俺個人のスタンスの表明に過ぎないからな」
俺がそう言葉を続けると、それまで張り詰めていた室内の圧力が、僅かに緩和されるのを感じた。
「せ、誠意、か……」
戸塚は皮肉げに唇を歪めたが、その声音からは先ほどまでの刺々しい勢いが消え失せていた。
論理で殴り倒し、さらに「自らの首に縄をかける」という異常な担保を平然と差し出して見せる相手に対し、これ以上の感情的な反発は単なる見苦しい足掻きにしかならない。エリートとしてのプライドが、彼にそれ以上の無駄な発言を許さなかった。
「……でも、それなら」
ここで、それまで静かに事態を見守っていたDクラスの王美雨が、恐る恐る、しかし確かな決意を秘めた目で口を開いた。
「柊くんがそこまで言ってくれるなら、私たちはその提案を信じたいです。Dクラスとしても、この試験でこれ以上クラスポイントを失うようなリスクは冒したくありません。もし、本当に最終日のその時間まで全員が何もしないという『約束』が成立するなら……私たちは、喜んでそのルールに従います」
王の言葉に、隣の井の頭と森も深く、何度も頷いた。
無人島特別試験を2位という好成績で終えたDクラスにとって、せっかく獲得したクラスポイントをこの試験で失うわけにはいかない。だからこそ、彼女たちにとって俺の提示した『誰も動けないシステム』は、これ以上ない救いの蜘蛛の糸に見えたのだろう。
「うん! 私たちBクラスも、もちろん賛成だよ! 柊くん、本当にありがとう。あなたがこの部屋にいてくれて、本当によかった……!」
網倉は今度こそ心からの安堵の笑みを浮かべ、胸に手を当てた。
彼女の目には、俺がまるでこの混沌とした部屋に秩序をもたらした救世主のように映っているのかもしれない。
「……勝手に話を進めないでほしい」
なおも諦めきれないように、Aクラスの里中聡が冷ややかな声を挟んできた。
「DクラスとBクラスがそれで満足なら勝手にすればいい。だが、俺たちAクラスはまだその『平和協定』とやらに乗ると決めたわけじゃない。柊、お前がどれだけ殊勝な条件を出してこようと、俺たちがこの期間中に優待者の正体を見破り、確信を得た場合は……躊躇なく解答させてもらう」
里中のその言葉は、Aクラスとしての最後の意地であり、現実的な牽制だった。
戸塚の横で沈黙を保っていた六角も、俺をじっと見据えている。彼らは一之瀬のように「全員での勝利」を最初から信じてはいない。あくまで自分たちが上の序列に立ち続けるための最適解を模索しているのだ。
「ああ、それで構わない。それはお前たちの自由だ」
俺は里中の牽制を、そっけないほど簡単に受け流した。
あまりにもあっさりと主導権を明け渡すような俺の物言いに、里中は逆に毒気を抜かれたように小さく目を見張った。躊躇なく解答する、という言葉は、Aクラスがこの話し合いの枠組みから離脱し、いつでもナイフを突き立てるぞという最大の脅迫だったはずだ。だが、それが俺の網膜を揺らすことすらできていないという事実に、彼は言いようのない不気味さを感じ取ったのだろう。
「……構わない、だと? 俺たちが裏切って『結果3』をかっ拐うかもしれないと言っているんだぞ。それはお前たちCクラスにとっても脅威のはずだ」
「脅威? なぜそれが脅威になる?」
俺はテーブルの上に肘をつき、指先を軽く絡めた。冷房の風が、室内の静寂をいっそう冷ややかに際立たせる。
「お前たちが『確信を得た場合』と言った。つまり、それは裏を返せば、100%の確証が持てない限りは解答できないということだ。もし間違えれば結果4。Aクラスはマイナス50クラスポイントという致命傷を負い、優待者のいるクラスに50ポイントを献上することになる。無人島特別試験で失点したお前たちが、そんなギャンブルにクラスの命運を賭けられるか?」
俺の静かな指摘は、里中だけでなく、戸塚、六角、石田の背筋を冷たく凍らせた。
「お前たちが動くのは、完全に優待者の正体を暴き、言い逃れのできない証拠を掴んだ時だけだ。そして、もしお前たちがそこまでの情報にたどり着いたのなら、それは暴かれた側の怠慢であり、お前たちの完全な知略の勝利だ。それを俺が止める理由はない」
俺の言葉は、単なる受け流しではない。
無人島特別試験で失点した彼らにとって、これ以上の減点はAクラスという絶対的な地位の崩壊を意味する。だからこそ、彼らは「100%の確信」がなければ動けない。
「くっ……!」
里中は椅子の肘掛けを強く握り締め、悔しげに視線を落とした。
「……Hey, Time is up.」
斜め後ろから、山田アルベルトが静かに部屋の壁時計を指差した。
長針が12の数字を捉えると同時に、頭上のスピーカーからディカッションの終了を告げる無機質なチャイムが鳴り響く。
『1回目のグループディスカッションを終了します。生徒の皆さんは速やかに退室してください』
アナウンスが流れた瞬間、張り詰めていた室内の圧力が一気に霧散した。
「……行くぞ、みんな」
戸塚が立ち上がり、椅子を荒々しく引いた。その顔は屈辱と焦燥で歪んでいたが、これ以上この部屋に留まることは自らの敗北を色濃くするだけだと理解しているようだった。里中、石田、六角もそれに従い、一切の無駄口を叩くことなく、逃げるように部屋を後にした。
「柊くん、また夜の部でね……! 私たち、絶対にあなたの言葉を信じて、みんなに共有するから!」
網倉は力強くそう言い残すと、山形たちを伴って部屋を出て行った。その表情には、一之瀬帆波の理想をこの手で守り抜くのだという、歪なまでの使命感が燃え盛っていた。
「柊くん、ありがとうございました。私たちも、これで失礼します」
王が深く一礼し、井の頭、森も引き続き一礼して退室していく。
全員が去り、冷房の音だけが響く部屋に取り残された俺たち3人。
石崎が大きく息を吐き出し、まるで緊張の糸が切れたかのようにソファの背もたれに体を預けた。
「はぁーーー……! 心臓が止まるかと思ったぜ。おい柊、お前マジで何なんだよ。あのAクラスの連中が、一言も返せなくなってたじゃねえか。誓約書なんて言葉が出た時は、俺、本当にビビったぞ!」
「Yeah. Excellent negotiation, joker. You completely controlled the room.」
山田がサングラスの奥の目を細め、感嘆したように低い声を漏らす。
「……無人島の時から思ったんだがそのジョーカーというのは恥ずかしいから普通に名前で呼んでくれないか。俺もこれからアルベルトと呼ぶからさ」
俺の至極真っ当な注文に対して、山田は一瞬だけ意外そうに眉を動かした。
だが、すぐにその厳つい顔の端に、彼なりの親愛が混じった笑みを浮かべる。
「……Okay, Yoshiteru. It's a deal.」
「ああ、改めてよろしくなアルベルト。それとこの機に石崎も大地と呼んでいいか」
「え? お、おう……! マジかよ、柊に名前で呼ばれるの、なんか照れくさいな……でもまあ、悪くないぜ! よろしくな、美輝!」
石崎は一瞬面食らったように目を丸くしたが、すぐに嬉しさを隠しきれない様子でニカッと歯を見せて笑った。
無人島試験という経験で、さらにこの緊迫した心理戦の初陣を完璧に制した。その圧倒的な実力を間近で見せつけられた二人の瞳には、俺という存在に対する単なる「恐怖」ではなく、強固な「信服」の念が完全に根付いていた。
「よし、それじゃあ俺たちも一度退室しよう。次のディカッションは夜の8時だ。それまでに各自、部屋に戻って体を休めておいてくれ」
「おう、分かった。夜も美輝の指示通りに動くからよ!」
「See you later, Yoshiteru.」
二人は頼もしい足取りで廊下を進み、それぞれの客室へと戻っていった。